5-7 蘇る因縁と崩壊の序曲
仮想世界から現実世界への帰還は、例えるなら、夢からの覚醒に似ている。唯一違うのは、夢に出てくるのが夢ではなく、確実にこの都市に存在する、もう一つの世界という点だろう。
仮想世界で得た体験や知識というのは、夢のように儚くはないし、優しくもない。そこで味わった喜びや悲しみは、等しく『経験』となって電脳ユーザーの脳へ蓄積される。
再牙はカプセル状に変形した操縦席の背もたれに背中を預けて、ぼーっと白い天井を見上げ続けた。カプセルの窓越しに映る地下施設の天井には、老朽化のせいか所々亀裂が奔っていた。
三十秒程して、再牙はようやく体を起こした。動きに反応して、カプセルによる防護が解かれる。アームレストの下部に差し込まれていた有線を巻き取り、電脳端末を慎重な手つきで取り外す。
うなじの辺りに僅かな痺れを感じる。その痺れが、現実世界へ戻ってきたのだという実感を、再牙に十全なほどに与えさせた。
実情は全て把握できた。獅子原錠一の実情をだ。彼がなぜ、幻幽都市を訪れたのか。彼はそこで何を見、何を聴き、どんな目に遭ったのか。その全てを知ることが出来た。後は琴美にありのままを報告すれば、仕事は終わる。
「しっかし、まいったな」
操縦席から降りて、肩を軽く鳴らす。再牙の表情は、安心半分、不安半分といった具合だ。安心の源は勿論、琴美の依頼を無事に達成出来た事と、錠一が彼女の事を心から愛していたのが伝わったからである。
不安の源は、錠一の言っていた『組織』とやらの存在にある。彼の話が本当だとするなら、これはもう、自分一人には背負えない問題だと、再牙は痛感していた。
ベヒイモスを人工養殖するなど、正気の沙汰ではない。ましてや、そんな事を実現可能にしてしまうほどの頭脳・茜屋罪九郎という人物の存在も気にかかる。
「話から察するに、覚醒者の科学者か……」
重い溜息。その昔、都市の復興に全力を尽くした類まれなる才気と頭脳を宿した科学者一派・覚醒者。しかしその中には、歪な探究心に突き動かされて道を進んで踏み外す者もいた。恐らく、茜屋とやらも同類なのだろう。
再牙はこめかみを叩き、電脳を起動。表層接触に取り掛かる。超現実仮想空間で錠一から渡されたデータファイルが、疑似視覚信号となって、再牙の脳内に流れてくる。
膨大な量だった。四年近くも情報収集をしていたのだから当然と言えば当然なのだが、今はあいにくと時間が無い。隅から隅まで読み込んで理解するには、再牙が置かれたこの状況は、あまりにも不適格だった。
「仕方ないな」
電脳の処理速度を向上。続いて高頻度の用語と。前後する文節のみを取捨選択し、データを再構築。要点だけを抑えた状態に圧縮されたデータは、元データの三分の一程までに要約された。
意識を集中させて、疑似視覚信号で映し出された内容に目を通していく再牙。耳に下の事のない用語が殆どだが、その中でも、特に目立つキーワードがあった。
Xivalver――この単語が、やたらと登場してくる。
「し、しば……しばる……しばるば、シバルバー? なんだこれ? 『組織』の名称……って訳でもなさそうだな」
Xivalver。
その意味深な単語の前後には、『復活』や『災禍』といったものを始めとして、神智学を彷彿とさせる単語が必ず続いていた。
錠一の言う『組織』とやらが計画している、都市壊滅計画に関わる要素であることは間違いないだろう。しかし具体的に、『Xivalver』なる単語が何を意味しているのかまでは分からない。ただ、猛烈に嫌な予感だけが、悪寒の如く再牙の背筋を駆け抜けた。
言いようのない不安感に切迫されて更に読み進めると、人造生命体のデータまで出てきた。ご丁寧な事に、顔写真まで添付されている。
先ほどの錠一との会話に出てきた『アハル』なる人造生命体の写真もあった。金髪にそばかす顔の少年だ。狐の様に細い両眼から、自意識の高さが伺える。
人工養殖されたベヒイモスの画像まである。それ以外にも、『組織』が本拠地にしている土地周辺の詳細なデータや、茜屋とかいう科学者の経歴までも、余す所なく書き込まれていた。錠一の執念深さを、如実に物語る内容だった。
データを読み進めていく内に、段々と『組織』のバックボーンが見えてきた。錠一の調べによると、『組織』の構成員の大部分は在野の科学者・技術者であり、その殆どが、過去に非道徳的な研究を行っているのが明るみになり、学術界を追放、あるいは指名手配された者達であるという。
なるほど、確かに良く見てみると、構成メンバーを纏めたリストの中には、ニュース番組でも何度か報道されたマッドサイエンティスト達の姿がある。
データの中で、錠一は次のような考察をしている。この『組織』は恐らく、都市の人々、ひいては都市の在り方そのものに強い恨みを持つ者達が寄り集まって結成された、秘密結社的存在なのではないかと。
再牙もまた、錠一と同じ考えを抱いていた。錠一の推測には、横やりを入れる余地がないように思える。
だが、その一方で妙だとも思っていた。
どこか、腑に落ちない所がある。
過去にも、都市への逆恨みからテロリズム行為を働いた科学者や技術者は、それなりに存在した。その多くが、自爆テロによる文字通りの命をかけた行為に留まっている。近年で最も世間を賑わせた事件でも、細菌兵器を街中へ散布しようとして、未遂に終わった程度の事件だ。
それがどうだ。今回は『ベヒイモスの養殖』などという、前代未聞クラスのテロを企てているという。やりすぎは否めない。正確には、彼らが抱く都市への恨みと、都市破壊計画の中身が、釣り合わない様に見えた。
しかし――再牙のその疑問は、彼自身、思ってもいなかった形で解消されることになる。
「…………」
最後のページ。
一枚の画像が表示されているのが、再牙の目に飛び込んできた。
「な……」
画像には、女の全身像が映し出されていた。
艶やかな女だった。整った小顔の鼻下は薄紫色のヴェールで覆われている。引き締まった浅黒い上半身を覆っているのは、宝飾品で彩られたブラジャー風のトップスだ。
脚はカモシカの様に細くしなやかで、余計な脂肪の一切がそぎ落とされている。下半身を覆うのは、蒼一色のフリルスカート。整った形の臍は丸見えで、何とも言えぬフェティッシュさを醸し出している。
そして――顔の右頬に刻まれた、紫色の龍の刺青――
画像の向こう側から妖しげなオーラを醸し出している。
「…………」
再牙は、視界に写る女の画像から、意識を逸らす事が出来なかった。逸らしてはいけなかった。見えない杭で全身を打ち抜かれたかのように、その場から動けず、溜息すらも漏らせず、ただただ、じっとして女の顔を見続けることしかできない。
忘れるはずがない。忘れられる訳がない。女の頬にまざまざと刻まれた、その紫色をした龍の刺青が鍵となり、あの日の記憶が再牙の脳裏の奥から、透かし絵の如く浮かび上がってきた。
五年間、共に戦い、同じ釜の飯を食い、時に反発し合い、決して心の底から笑顔を見せる事のなかった、あの五年間の日々が、走馬灯の如く再牙の頭の中を駆け巡る。
手ひどい裏切りに遭い、ちりぢりになった九人の仲間。生きているのか死んでいるのかさえ分からず、再牙は今日まで生きていた。
火門涼子と出会って以降、無意識のうちに心の奥底に封じてきた黒歴史。それが今、なんとも不思議なタイミングで、再牙の目の前に立ちはだかる。
過去に置いて来た苦痛。思い出したくはなかった。しかしながら、逃げる事は許さないとばかりに、過去が、今まさに再牙の首元を締めようとしてきている。
戦士は、過去の呪縛から逃れない。
『正義ですって? ふざけないでよ! アヴァロ、あなた狂ってるわ。どうしてこれを、この惨状を見て、自分のやっている事が正義だなんて言えるのよ!』
『あたし達がやっている事は、これまであたし達が殺してきた犯罪者がやって来た事と、何も変わらないわ!』
――不意に、あの日の記憶が。
まだ己が『アヴァロ』と呼ばれていた頃の、血と力に溺れていた時の出来事が蘇る。
「何故だ」
無意識の問いかけ。
「何故だ、バジュラ」
愕然として呟く。が、直ぐに頭を振る。
分かってしまったのだ。再牙には、分かってしまった。
『組織』とやらが、何故これほどの大規模な都市壊滅作戦を決行しようとしているのか。その理由が、分かってしまったのだ。
彼女には、それをやるだけの十分な『資格』がある。あれほどまでに人を殺すのを拒んでいた彼女が、一転して都市を陥落せんと憎悪に燃えている。そこへ至るまでの道程は、再牙にも痛いほど理解できた。理解出来てしまった。
もしかしたら、自分も――再牙は思った。
自分も、あの雨の夜に火門涼子と出会わなかったら、きっと、彼女と同じことをしただろう。否定は出来なかった。
自分は、幸いにも火門涼子と、そしてエリーチカと出会い、人生を変えることが出来た。だが、彼女には出会いの縁が無かったのだろう。
あの日、天柩の戦士が味わった惨劇以来、ずっとずっと、彼女は恨みを溜め込んできたに違いない。蒼天機関と、都市の人々と、そして幻幽都市そのものへの恨みを。
視線を動かす。画像の下に、一言だけメッセージがあった。それを目にして、またもや再牙の胸に衝撃が奔った。
『秘密結社・ダルヴァザの頭目。性別は女性。本名は不明。コードネームは御台所。嘗て、天柩の戦士こと、蒼天機関の特殊殲滅部隊《髑髏十字》に所属していた疑い有り』
それは、決定的な一文だった。錠一の推測は的を射ていた。再牙は震える手でこめかみを押し、表層接触を終了させた。静寂が、まるで汚泥のように再牙の周囲を取り囲む。
既に、他人事ではなくなっていた。まだ心の整理がついていない。そこへ鳴り響く、無機質な電話の着信音。再牙はハッとして、オルガンチノのポケットから時代遅れの携帯電話を取り出した。
画面を見る。エリーチカからだ。
「もしもし?」
極めて平静を装い、出る。
返事が無い。
「おい、どうした?」
『……牙……大変……す。すぐ……くださ……い』
ノイズ交じりの音声に混じって、銃撃と思しき轟音が鳴っているのが分かる。
冷や汗が、再牙の額から溢れ出た。
「お、おい!」
嫌な予感は、ますますその濃度を強めている。
『……今……千代田……緊急……発信して……すぐに……』
「どうした! エリーチカ! 何があったッ!?」
『…………』
「おいッ!」
返事が無い。そして、一方的に電話は切られた。回線が混雑しているのか、それとも、移動体通信基地局に、何か異常があったのか。
『君の言う通り、まだ終わっちゃいない』
今になって蘇る、獅子原錠一の意味深な言葉。
彼は言っていた。『組織』こと、『秘密結社ダルヴァザ』は、まだ存続している。都市壊滅計画を実行へ移そうと、今もなお都市の地下で蠢いていると。
「……くそッ!」
迷っている暇などなかった。
再牙は直ちに能力を発動。瞳が青く光り輝き、《征裁怒号の獣牙》の効果で膂力が極限まで向上。両足に力を込めて床を蹴り飛び、崩れかけの天井に拳をぶつけて、思い切り突き破る。
不気味に光る満月が目に入る。冷たい夜風を肌に感じつつ、再牙は、エリーチカが最後に残した科白から、彼女らの居場所を推測する。
「千代田……千代田区か。となると、やっぱり行先はあの射撃訓練場……いや、もしかしたら避難用のシェルター……」
地上へ再び舞い戻った再牙の目が捉えるのは、危険区域への侵入者発見の警報を鳴らす蒼天機関の警報装置でもなく、ましてや、木立の影で負のオーラを放っている死魂霊でもなかった。
エリーチカ、そして琴美の安否。
もう一つは、過去の仲間――バジュラの敵愾心に満ちた瞳の色だった。




