5-4 今、語られる真実
再牙は、ひどく混乱していた。
目の前の男性――白衣を着た長身の男の情報体。それが、獅子原琴美の父親、獅子原錠一であるという事実に直面しながらも、素直に受け入れる事が出来ないでいる。
獅子原錠一は今から四年前の冬に、この都市で亡くなった。何者かに殺されてだ。それは間違いない。それなのにどうして、情報体としてこの仮想世界に存在しているのだろう。
もしかして、なんらかの情報錯誤が原因で発生した幻覚だろうか。そう考えた再牙は念の為、リンクツールから相手の個人情報を確認しようとした。
仮に情報錯誤が原因でこのような事態に陥っているというのなら、個人情報に記されているその人個人の名前や性別を始めとした項目の全てに、認識不可能な情報傷の痕が残されているはずだからだ。
だが、確かめる事は叶わなかった。
個人情報へアクセスしようとした途端、再牙の脳内にけたたましい警報音が鳴り響いた。精神の奥底に直に響いてくる、強烈な不快感と息苦しさを覚える程の圧迫感。こめかみに鈍痛も感じる。それはまるで、ハンマーの木柄で後頭部を強く圧迫される感覚に近い痛みだった。
「(この特徴的な鈍痛は……攻性防壁を張っているのか? それも、かなり頑丈なヤツを)」
再牙は眉間に皺を寄せつつも、咄嗟にリンクツールを引っ込めた。すると、脳内にあれだけ響いていた警報音は止み、元通りとなる。
まさか、攻性防壁を張っているとは思わなかった。再牙が予想外の出来事にどう反応して良いものか迷っていると、獅子原錠一が白衣のポケットに手を突っこんだまま、訝しげに尋ねてきた。
【君は、組織の者……のようには見えないな。探し物かね? それとも、私に何か用があってここに来たのか?】
組織――それが何を意味している言葉なのかは分からないが、再牙はそこを敢えて突っ込まなかった。
聞きたい情報をスムーズに引き出す為には、相手の言質を取らない方が有効な場合もある。ここは、慎重に言葉を選ばなくてはならない。情報収集を円滑に進める上で、会話術は万屋が身につけるべき技能の一つであった。
再牙は、念のためにもう一度確認を取ることにした。
「しつこいようですが、獅子原錠一さんで間違いありませんか?」
質問を受けても尚、男は黙って再牙の黒い瞳を見つめ続けるだけだった。こちらの胆の内を探ろうとする、特徴的な視線を向けている。顔に険しさは無いが、再牙の出方を窺っている。警戒心の籠った態度だった。
再牙は多少焦ったが、気持ちを落ち着かせ、詫びを入れた。
「……これは、失礼しました。先に名乗らせて頂きます。私、火門再牙と言う者です。万屋をやっております」
【万屋?】
訝しむ男を前に、再牙は己の個人情報を転送しようとした。しかし、それも弾かれてしまった。どうやら個人情報のみならず、あらゆる外部からの情報接触をシャットアウトするように、攻性防壁が組まれているらしい。
仕方なく、再牙は個人情報をフィールド公開させた。青い半透明のウィンドウが両者の間に展開される。
ウィンドウには白字で、再牙の顔写真と経歴が記載されていた。全て適当にでっちあげた経歴だが、何も問題はなかった。
一通り目を通すと、錠一氏と思しき男は俯き加減になり、乾いた笑いを漏らした。諦めと後悔が滲み出ている笑いだった。
【そうか……組織の奴らめ。どういう方法を使ったか知らないが、私がここにいる事を突き止めたんだな】
「え?」
【全く、自分達で直接手を下せば良いものを……万屋に依頼するとは、実に臆病な事だ。茜屋らしいやり方だと言えば、そこまでだが】
「あ、あの」
【まぁいいさ。もう私に出来る事は何もない。大人しく、ここで君に殺されるとしよう。もっとも、既に生身は三途の川を渡った後だから、この場合、削除される、という表現の方が正しいのかな】
「…………あの、何を勘違いしているのか分かりませんが、私は別に、あなたを殺す為にここに来たんじゃないんですけど……?」
会話の噛み合わなさがもどかしい。再牙が若干の戸惑いを見せるのとは対照的に、獅子原錠一と思しき男は眉根を寄せて、苛立ちを露わにした。
【じゃあ何かね。もしかして、書き換えた情報を復元して欲しいとか? はっきり言って無理だよ。一度書き換えたコードは、二度と手がつけられないようになっているからね】
「……仰っている言葉の意味が分からないのですが……」
【惚けたって無駄だ。さっさと用件を口にしてくれたまえよ】
再牙が対応に苦慮していると、男は訝しげな様子で問いかけてきた。
【君……まさか本当に、組織とは何も関係が無いのかい?】
「先ほどから仰っている『組織』というのが何を指している言葉なのか分かりませんが、少なくとも、貴方を殺しに来たんじゃありませんよ」
【じゃあ一体、何の用なんだ】
てっきり殺されるものとばかり思っていたからか。男の全身から、不意に緊張が抜けた。再牙は、男が若干ではあるが警戒心を解いた事を感じ取ると、自身の脳内からここ数日間の出来事を映像データとして抽出し、フィールド公開させた。
ウィンドウに現れた動画データを見た男の目つきが一変した。クリーンな映像の中では、琴美が笑顔を浮かべていた。秋葉原を散策した時の映像が、再牙の視点で再生されているのだ。
音声はオフにしてある。だが、少女の声が聞き取れなくとも、男は本能的に理解した。家を出て以来、一度も顔を会わせる事無く終わってしまったが、情報体となった今でも忘れる事なんか出来なかった。すっかり成長して大きくなったが、それでも、目元には若干の幼さが残っている。
親が、子供の顔を忘れる筈が無い。
【こ、琴美……ッ!? 琴美なのかッ!?】
絞り出すような声だった。喜びと悲しみと愛おしさと、そして自責の念。あらゆる感情が津波の様に押し寄せ、男の胸を激しく締め付けた。男は、自分でも意識しないうちに、自然と嗚咽を漏らすに至った。
【琴美……】
膝を折り、地面に両手をついて泣き腫す男を見下ろしながら、再牙は冷静な面持ちでいた。感傷に浸っている場合ではない。
この男は獅子原錠一だ。それに間違いは無い。肉体が既に消滅しているに、どういう訳か情報体だけでこの場に留まり続けている。
その理由については分からないが、今は一旦置いておこう。それ以外の謎が余りにも多すぎる。全てを、彼から聞き出す必要がある。
「錠一さん、落ち着いて聞いてください。貴方の娘さんは今、この街にいます」
【なんだって……!?】
再牙の冷静さを伴った一言を受けて、錠一氏が驚き混じりに顔を上げた。目元が赤く滲んでいる。嗚咽を必死に抑え込んで、力強い様子で尋ねた。
【どうして娘が。いや、それより……なんで君が、娘のことを知っているんだ? 君は一体……何者なんだ?】
「私は娘さんに頼まれて、貴方の足跡を追っていたんです。大切な家族を残してまで、貴方が幻幽都市を訪れた理由を知りたいと。貴方がこの街で何を為し、そして何故死んだのか。それを明らかにして欲しいと、娘さんから頼まれたんです」
【……】
「教えていただけませんか。貴方は何故……あのような事をしたのですか?」
【あのような事?】
立ち上がった錠一から視線を逸らすことなく、再牙はウィンドウを閉じた。毅然とした態度を崩さず、錠一氏を睨みつける。
「WBCカンパニーの地下施設で、貴方の手帳を見つけました。写真が挟まっていた血濡れの手帳をね。あの血は、実験室で腹を裂かれた少年や少女達のものですよね?」
【……】
「答えて下さい。あれは、貴方がやったことなのですか?」
【……私がやったとも言えるし、あるいは、そうでないとも言える……】
曖昧な返事だった。だが、何かを誤魔化している素振りではない。あの惨状と自分との関わり合いを言い表すのに、これ以上ない回答だった。彼の言葉は正しく、彼の身に起こった出来事を正確に表していたのだ。
錠一は視線を己の足元へ落として仮想の大地を眺めていたが、やがて、ゆっくりとした動作で面を上げた。目元の赤みは既に消え失せ、代わりに、強い意志が双眸の中にあった。
【琴美に、伝えて欲しい。私が一体この街でどういった目に遭い、そして、何故死んだのかを】
「お願いします」
【だが、それについて話す前に一つ、君に聞きたいことがある】
「何でしょうか?
【琴美は、娘は私について、何か言っていなかったかね?】
真剣な様子でそう尋ねてくる錠一を前にして、再牙は一瞬、言葉に詰まった。彼が言っているのは、仕事や地位といった、経歴に纏わる内容について琴美が何か口にしていたかと、そういう事を聞いているのではないと分かった。
感情の部分。きっと錠一は、娘が自分に対して、どういう想いを抱えて今日まで生きてきたのか、それを知りたがっている。いや、薄々は、勘づいているのかもしれない。琴美が父親へ向けている、愛情以外の何かについて。それを確認したいと思うのは、きっと彼が、真に娘の事を慈しんでいるからに違いない。
この人は今、一人の父親としてこの場に立っている。再牙は慎重に言葉を選び、告げた。
「琴美さんは、貴方を大切に想っています。そうでなければ、こんな魔界めいた街に年若い女の子がたった一人で足を踏み入れられるはずがない。ただ……」
【ただ、何かね? 遠慮せずに口にしてくれて構わんよ】
「これは私の、あくまで推測に過ぎませんが……娘さんは貴方に、何か、怒りに似た感情を抱いていると思うんです。考えすぎだと言えば、そこまでなのですが」
【いや、君の考えは、恐らく当たっているよ】
自嘲的な笑みを浮かべて、錠一は想いを吐露した。
【親の心子知らず。子供を持つ親にとっては、便利な言葉だ。私もそうだった。娘を心配させまいとして、あの子と正面から向かい合ってこなかった。今思えば、自信が無かったのだろうな。良き父親であろうとしたが、私の行動は全て裏目に出てしまったようだ】
「と、仰いますと?」
【最初から話そう。私は、妻を救うために、あの家を捨てたんだ】
錠一は、遠くを見つめるように目を細め、淡々と語り始めた。自らの身に起こった、全ての出来事について。
【妻は元々体が弱くてね。琴美を産む事が出来たのも、医者に言わせれば奇跡的な事だったらしい。遠出するのにも一苦労で、家族旅行もたったの一回しか行けなかった。だがそんな状況でも、私達は家族三人、幸せに暮らしていたんだ。あの日、妻が重い疾患に罹っている事が判明した、あの日までは……】
「疾患……」
【悪性リンパ腫だよ。医者の話では『血液の癌』とも形容される、不治の病なんだそうだ。現代医療を用いても完全に治癒することは不可能で、症状の進行を遅らせる投薬治療しか出来ないと告げられた。私は、到底現実を受け入れられなかった。ネットを使って、何とか妻の病気を治せる医者はいないかと必死になって探したが、結局、成果のないまま月日が流れた。そんなある日、とある『噂』を耳にしたんだ。真偽の程は半分半分だったが、それでも行動しない訳にはいかなかった。その『噂』が本当なら、妻を救える。そう確信した私は、この街に――幻幽都市に乗り込んだのだ】
母親はもともと病弱で、錠一が亡くなった後、ますます体調を崩していったんです――琴美がそう話をしていた事を、再牙は思い出した。具体的な病名を上げていなかったのは、単に覚えていなかったのか。いや、そうではあるまい。きっと、娘に心配を掛けさせまいと、母親が自らの病気を偽っていたに違いない。
いずれにせよ、結末は既に分かり切っている。
錠一氏は殺された。
そして母親もまた、病に倒れて亡くなった。
最後に琴美が残され、天涯孤独の身になった。
そしてもう一つ、再牙には思う所があった。錠一の言っている『噂』の正体が何であるのか、大凡の見当がついたのだ。
血液の癌――悪性リンパ腫を完全に治癒する唯一の方法が幻幽都市にあるとするならば、それはきっと、『人工血液』の事を指しているのだろう。
幻幽都市の最先端な技術力。その起こりは、医療分野だった。ナノテクノロジーや義肢開発技術、サイボーグ手術だって、元はと言えば医療技術が発展して誕生した産物なのだ。そして、細胞複製技術を基盤に開発された人工血液も、根っこの部分は同じく医療分野だ。
人工血液が有効なのは、なにも悪性リンパ腫だけではない。白血病や多発性骨髄腫に苦しむ患者達に珍重され、数多くの患者を救い出してきた。人工血液は、さしずめ、古代人が珍重する神酒が如くか。
人工血液の開発は、たった三つの重要遺伝因子を取り込むことで実在化を成し遂げた。この医学史上最高レベルの発見はその重要性ゆえに、幻幽都市内でもトップシークレットの一つとして扱われている。
もし仮に人工血液の製造方法が《外界》に流出すれば、大手製薬会社同士の愚かな利益争奪戦の材料に利用されかねないからだ。
今のところ、情報統制能力において、幻幽都市の右に出る国や組織は存在しない。あのバチカン市国でさえもだ。
しかしながら、《外界》の世界に住むのが人ならば、この街に住むのも、また人なのである。例え幻幽都市であろうと、人の口に戸を立てられない。
恐らく、どこからか『人工血液の開発に成功した』という情報の一部が《外界》へ漏れ、それを聞いた錠一は藁にも縋る思いでこの街に来たのだろう。再牙が己の仮説を告げると、彼は【その通りだ】と、静かに答えた。
【大学の同僚は皆、私の事を愚か者だとなじったよ。そんな根も葉もない噂を追い求めて、あの伏魔殿に乗り込むのかとね。だが所詮、外野は外野だ。妻の病気が発覚して以来、私がどんな思いで毎日を過ごしていたかなんて、私以外に分かる訳がない。何としても妻を救いたい。例え鬼になっても。その一心だった。私は、人工血液の開発者に関する情報を現地で集め、コンタクトを図った】
「家を出る際、琴美さんに全てを話さなかったのは、余計な心配をかけさせたくなかったからですか」
【親の問題に子供を巻き込む訳にはいかないからね。だが……】
一転して睫毛を伏せ、錠一は唇を噛みしめた。
【今にして思えば、それは間違いだった。琴美にも、ちゃんと伝えるべきだったんだ。妻の病気について。そして私が何故、家を出ていくのかについても……あの子がまだ未熟だからと侮っていた。あの子に……本当に、申し訳ない事をした。親としての義務を、何一つ、果たしてやれなかった】
話している最中、白衣のポケットに突っ込まれている錠一の手が、僅かに膨らんだ。爪が食い込むほど拳を握りしめているのが分かった。
再牙は何と答えるべきか迷った。娘を想う父親の心情。子を大切に想う親の気持ち。きっとそれは、この幻幽都市にあって燦然と輝く太陽の如き光に満ち溢れているに違いない。
眩しすぎて目が眩みそうになる。親の顔も分からず、まして子供なんかいない再牙に、娘を持つ父親の胸懐を正しく慮る事は叶わなかった。家族の絆。家族の温かさ。どれも、自分とは無縁のものだ。
だが、これだけは、はっきりと理解出来た。
錠一は琴美を、心の底から大切に想っている。それは嘗て、再牙が火門涼子へ向けていた愛情に近いものがあった。
この人を守りたい。この人の力になってやりたいという、昇華された自己犠牲の精神。その精神を間違いなく、錠一も宿しているのではないかと感じ取った。
先ほどの地下施設で発見した、血生臭い惨劇の後が再牙の脳裏を過った。しかし、どう頭を絞っても、あの凄惨な光景と錠一の人柄が結び付かない。あんなおぞましい事をする為に、わざわざ幻幽都市を訪れたとは、どう考えても無理がある。
更に情報を引き出そうと、再牙は先を促すように口にした。
「それで、会えたのですか? 人工血液の開発者に」
【ああ、会えたよ】
再牙の質問を受け、錠一の表情が一転して苦いものになる。
【開発者の名は、茜屋罪九郎。元々は《外界》で名の通った科学者だったらしいが、より良い研究環境を求めてこの街にやってきたと語っていた。私は彼に会って、早々に助力を乞うた。妻の命を助けるために協力してほしいとね。彼は二つ返事で了解してくれた。その時は、なんと懐の深い男だろう。これで妻を助けられる。そう楽観的に考えていた。その時はね】
「…………」
【奴は人工血液を造るのに妻の体細胞が必要だと言ってきた。その辺は、私も抜かりなかった。家を出る前にあらかじめ、知り合いの科学者に頼んで妻の細胞片を取り出して冷凍保存してもらい、それを持ち込んでいたのさ。妻の体細胞を差し出すと、奴は可笑しなことを言ってきた。『君の奥さんの命を助けてやる代わりに、自分の実験に協力してほしい』と。正直な所、人工血液を分けてもらったら、一刻も早く都市の外へ帰りたかったんだ。でも彼の口車に乗せられて、三年間という期限付きで彼の助手を務める事になってしまった……つくづく、愚かだったと思うよ。あそこで無理にでも断るべきだった。妻の命が助かる目途がついて安心した事で、あの時の私は心が緩んでいたのだろうな】
「……付け入る隙を、与えてしまった……」
【まさにその通りだ。助手になる事を了承した私は、奴が所属している組織のアジトに連れて行かれた。そのアジトの一つが、WBCカンパニーという訳だ】
「それは、つまり――」
再牙は顎に手をやり、頭の中で情報のピースを嵌めていく。
「WBCカンパニーの正体は、錠一さん、貴方が先ほどから仰っている『組織』とやらのダミー会社だったという訳ですか。で、助手として雇われた貴方は、WBCカンパニー地下の施設で、あのような実験を強制的にやらされていたと?」
【強制的ではない。こちらが知らず知らずのうちに、携わってしまっていたんだ。人工血液に勝るとも劣らない画期的な研究……茜屋はそれに取り組んでいると言った。君の様な非凡な科学者の力を借りなければ、この実験は成功しない、とも言ってきた。この技術が完成さえすれば、多くの人の命が助かると、そうも口にしていた。そうして、彼の説得を聞いているうちに、私の研究者魂に火がついた……多分、功名心もあったのだろう。幻幽都市で何か一つ大きな仕事をして、自分のキャリアに繋げればと……そんな、愚か過ぎる事を考えてしまっていた。本当に、人間として最低の男さ、私は】
「その研究と言うのは、ナノテクノロジーに関する研究ですよね?」
【ほお、良く知ってるね。娘から聞いたのかい?】
「はい」
【そうか……ああ、そうだ。その通り。それが専門だったからね】
「それも恐らく、超高再生に関する研究だ。違いますか?」
【なっ……】
それは、僅かな可能性から導き出した仮説に過ぎなかった。しかし、どうやら図星だったらしい。硬直した様子の錠一を他所に、再牙は構わず続けた。
「外傷による肉体損傷時に、細胞修復機能と細胞活性力を付与させた生密駆動塊を稼働させることで、極めて短時間の内に損傷箇所を修復させる研究……擬似的な『不死』を可能にする技術。超高再生とは確か、そういう代物でしたね」
【どうして、その事を?】
錠一は驚き混じりの声を上げた。再牙は、先ほどの地下施設で見た機材類の話をし出した。
「あの地下施設で、それに使われるであろう装置をいくつも見かけました。遺伝情報出力装置《SGC-5P》と、ナノ細胞改編機器《NC-300》です。この二つは、ボトムアップ方式のナノテクノロジーに使われる機材として有名です。被検体の細胞片から抽出した遺伝子情報を十三のブロックにパターン化し、触媒分子に担持させる。そして、別途製造した生物式ナノマシンと組み合わせる事で、自己再生プログラムを宿す事が可能とされています」
【ああ……確かに、その通りだ】
「従来の考えでは、生物式ナノマシンは医療用素材として利用されるのが殆どで、義肢としての運用は畑違いとされてきました。それは、機械式ナノマシンの仕事であると。でも、あの機材を使って改良された生物式ナノマシンになら、それが出来る。加えて、自己再生プログラムを内蔵した生密駆動塊は、優れた義肢として運用できるだけでなく、装着者の知覚情報を飛び越えた挙動を可能にするとも言われています。超高再生の実現化に至るプロセスの一つですね」
【……】
「また更に言うなら、超高再生はミクロスケールでは挙動が観測されていますが、マクロスケール、つまり生密駆動塊に集積させた段階では未だに観測されていない。そこが、多くの研究者の頭を悩ませているネックだと、聞いた事があります」
【随分と、まぁ……知っているね】
錠一の感嘆を耳にしても、再牙は得意げに鼻を鳴らす事も無く、ただ事実を淡々と告げるに終始した。
「止して下さい。只の付け焼刃の知識です。それよりも、解せない事があります」
【何だね?】
「私が地下施設で見かけたこれらの機材は、今年になって販売が開始された機器のはず。それがどうして、四年も前に焼け落ちた施設にあるのか。それが分からない」
【茜屋だ。奴が、あれらの機材を一人で造り上げた】
「……一人で、ですか?」
俄かに信じられない事実を前にして、再牙はうろたえそうになった。あれだけの精密で複雑な機械を、いくら幻幽都市の科学技術者とはいえ、易々と造れるはずがない。常を逸した技能であることは、言うまでもない。
この都市で、素の状態のナノマシンを売り捌いている業者など、闇市場でも滅多にいない。その理由は簡単だ。需要と供給が成り立たない。売れないのだ。木綿豆腐より胡麻豆腐の方が美味いに決まっている。それと同じ理屈に過ぎない。
製密駆動塊には、セラミック刃や機関銃、レーザー兵器などの武装機能オプションを付与するのが、半ば常識となっている。生密駆動塊なら、医薬品や生理用品に加工、成形して流通させるのが一般的である事くらい、今日び小学生だって知っている。
科学技術は過去の踏襲と未来への蓄積を繰り返す度、それらに詳しくない人々の欲望を熱く燃やし、衝き奔らせてきた。ナノテクノロジーによる不老不死の研究に多額の予算が注ぎ込まれたのは、自然な流れだった。次世代のナノマシンこそが、新たなる流通の要となる。そういった雰囲気は都市のあちらこちらで感じ取れた。
しかし、道のりは思った以上に険しかった。『不老不死』の実現は、都市随一の分子工学者、細胞学者、ナノエンジニア、その他諸々の学者達の頭を、散々に悩ませた。
四源を忘れるなかれ。『工量』の根源へ至らんとする科学者らの努力は、初期の頃は一向に報わる気配がなかった。
超高再生を搭載したナノマシンを造る事自体につまずいたのではない。その前段階。つまりは、そういった自己再生、自己治癒機構を持つナノマシンを『如何様な方法論で』造るべきか。それが最重要課題だった。
ガラスの加工に冶具が必須なのと同じだ。ナノテクノロジーの根幹が分子工学で成り立っている以上、それは逃れられない理だった。
不老不死の片一方。つまり『不老』については問題が無かった。人体の成長速度や新陳代謝の活性に障害が出ない程度に、テロメアを制御すればよい。基礎研究は既に終えてある。五年ほど前から、蒼天機関お抱えの科学者達が、パイロット・スケールでの実験に取り掛かっている。
計画の進捗具合は、今のところ順調な出だしらしい。以前に表層接触で得た情報によると、そのような事が書かれていた。
しかしなががら、『不死』の実現化を目指す場合、そこには込み入った課題が君臨している。
『不死』を実現化させる場合には、不老化とは異なる理論構築をせねばならなかった。遺伝子情報のパターン化に際しては、ヒトゲノム解析法に数理モデル構築論とチューリング・テクを応用すれば事足りた。
しかし、厳選した遺伝子情報を如何にして生物式ナノマシンに埋め込み、超高再生を発現させるか――そこが関門だった。
課題はそれ一つに止まらない。先の過程で生み出された生物式ナノマシンを生密駆動塊へ組み上げた際に、『不死』の特性をどのように半永久的に持続させるべきなのか。それについても具体策を見出すことが出来ていない。
そう。目的よりも手段の獲得に困難を極めたのだ。
そんな最中、基礎理論構築、及びそれに基づいた機材開発の提言が為されてから六年目の今年。蒼天機関主導の下、開発チームはようやっと『不死』実現という目的を達成するための道具を完成させた。それがあの、再牙が地下施設で見つけ出し機材の数々だった。
科学雑誌の広告で発売を知った在野の科学者達は、嬉々として叫び、こぞって機材メーカーへ電話を掛けたに違いない。
だが、彼らは知らないのだ。
今まさに伝票を切って購入せんとしているその機材が、少なくとも四年も前に、茜屋罪九郎という人物の手によって造られた事を。一つの脳と十の指を駆使する事で、機材の開発を可能とした、凄腕の科学技術者がいることを。
天才、というありふれた言葉を口にするのは、再牙の好みではない。だが、その漢字二文字の表現は正鵠を射ていた。
茜屋罪九郎なる人物はまさに、天才と呼ぶに相応しいだけの頭脳を有している――それが分かってしまったからこそ、再牙は言いようのない恐ろしさを感じた。
「しかし、まぁ……とんでもない事をやってのける科学者がいるものですね」
【奴の閃きとナノデザインの機能性には、正直、私も舌を巻いた。特に、バイオ工学の知識、先見性、加えて会得している技術には、目を見張る物があった……そうだ。君の言う通り、あの地下施設では超高再生の実現と、それに平行して『もう一つ』の研究が進められていた】
「もう一つの研究……?」
【あの地下施設で発見した……少年少女達の惨たらしい死体の殆どは、その『もう一つ』の研究によって吐き出された絞りカスだ。知りたいかい? 茜屋を始めとした『組織』の連中が、何をしていたのかを】
知りたくない。とは、口が裂けても言えなかった。
知らなければならない。何があの地下施設で行われていたのか、その全貌を。そして、獅子原錠一がどのような形で関わっていたのかを。
再牙は、真っ直ぐに錠一を見据えて、口にした。
「是非」
【そうか、なら話そう。奴らのもう一つの研究とは――『ベヒイモスの完全養殖』だ】
「な……何!?」
予想していた答えを遥かに上回る、驚愕の事実。再牙の疵面を、仮想の冷や汗が伝った。
大禍災以前は奥多摩地方と呼ばれ、現在は危険区域の特級ランクに指定されている魔の大地――デッドフロンティア。
ベヒイモスとは、そのデッドフロンティアに全生命体の王者の如く君臨する、邪悪極まりない怪物達の総称である。
奴らは大禍災が原因で、本来なら無害な家畜達の遺伝子に変異が起こったが為に誕生したものとされており、そのあまりの凶暴性と得体の知れなさから有害獣以上の脅威とされている。
その為、ベヒイモスの活動条件や生理現象には謎が多く、現在に至っても碌な調査が為されていない。その全容は、未だに不明な部分が大半を占めていた。
ベヒイモスには、特筆すべき『奇妙な』習性がある。それは、あの大災害が起こった日――即ち一月一日の真夜中に、必ず人里へ降りてきては人々を襲うというものであった。
普段はデッドフロンティアの奥地で悠然と暮らしているにも関わらず、どうした訳か奇妙なことに、奴らは必ず『一月一日』に人里へ降りてくるのだ。動物にしては、ありえない習性である。
《外界》の人々がコタツに潜り込んでおせちを食べている間、街では生死を賭けて、魔獣達との必死の攻防戦が繰り広げられているという訳だ。新年の到来を告げる祝いの花火は、この街では奴らとの開戦の合図を告げる信号弾でしかない。
街の人々――無論、再牙も含めて皆がその身を以て理解している。ベヒイモスの、余りある恐ろしさを。
田畑を焼き荒し、超高層ビルを薙ぎ倒し、逃げ惑う人々へ瓦礫の豪雨を降り注がせる悪しき獣の群れ。深い森の彼方から迫り来る破壊的進軍の前では、老人も幼児も、みな等しく無く犠牲になった。
ベヒイモスに立ち向かう主戦力は、当然の事ながら蒼天機関に所属する全機関員である。その一方で、力を持たぬ一般人達は機関の用意した非常用地下シェルターに逃れるか、そうでないものは一矢報いようと、己の無力さを自覚しながらも自らを鼓舞して立ち上がった。
普段は悪の姦計を企む卑しき悪党達も、この時ばかりは犯罪を起こそうとはせず、寧ろ市民と協力してベヒイモスの進軍を食い止めようと躍起になるくらいだ。巨大な未知の脅威の前では、人間の善悪など些細なものに過ぎなかった。
そのベヒイモスを、こんな街のど真ん中で人工養殖させる――およそ常人の発想ではない。もし実現していたとするなら、瞬く間に、この都市は地獄の業火に焼かれてしまっていたに違いない。
驚きから言葉を紡げずにいると、錠一が真剣な口調で軽い台詞を吐いた。
【鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしているな。いや、ショットガン……と言った方が良さそうだ】
「当然です。流石の俺でも、そんな事実を告げられたら参っちまいますよ。その茜屋が所属していた『組織』っていうのは、ベヒイモスを養殖して、一体何を企んでいたんです?」
【分かり切った事を聞くね。当然、この街を徹底的に破壊しようとしていたのさ。ベヒイモスを操ってな】
テロリズム――それも、とんでもない生物兵器を使ったテロ。有りえないと再牙は被りを振った。これまで彼が見聞きして体験してきたテロ行為なんぞ、比較にならないくらいの規模だった。
だが、そこまで考えて、一つ疑問が湧いた。
操るだと?
あの怪物達を?
「まるで現実的な話じゃないですね。ベヒイモスは未だ生態が解明されていない生物だ。そんな奴らをテロの道具に利用すれば、自分達も巻き込まれると、考えなかったんでしょうか」
【無論、考えたさ。だから奴らはベヒイモスの養殖だけでなく、その制御方法の研究にも取り組んでいた。増殖させた怪物達を、自分達の意のままに操ろうとしていたんだ。それを成し遂げるために、あいつらは――――】
ぎゅっと唇を噛み、拳を握りしめる。全身をわなわなと震えさせ、錠一は振り絞るように叫んだ。
【戸籍謄本を持てないストリート・チルドレンを拉致して、その細胞を研究に使っていたんだ! 子供達の細胞を、どこからか集めてきたベヒイモスの幼体に投与し、人間の掌の上で踊るように設計した、人工のベヒイモスを造り上げようとしていたんだ。人間の細胞を使えば、十分に取扱が可能だと考えたのだろう。オカルトじみた、狂った思想だよ】
「ストリート・チルドレン……」
ふと、秋葉原でちゃちな尾行をしていた、マキシム・海流と名乗る少年の事を再牙は思い出した。
幼少期の頃から親に捨てられたり、あるいは、何らかの事情で悪の道に堕ちざるを得なかった子供達。なるほど、確かに奴らの一人二人、いや、十人、二十人、それ以上がいなくなっても、機関はまるで関知しないだろう。寧ろ、迷惑な存在がいなくなって、仕事の手間が省けるというものだ。
――そんな風には、割り切れなかった。
「なんて外道な……ッ!」
再牙の心に野火が灯り、猛烈な苛立ちが彼を包んだ。悪が悪を吞み喰らい、巨悪へと成り変る。人間の底知れぬ欲望と悪意の一端を垣間見たようで、何とも言えない澱みが心に溜まっていく。
仮想とはいえ、情報体に入力される情動は、現実と比べても何ら遜色ない。いや……拡張された意識のみでこの場に居る事を考えたら、ある意味、現実よりもストレートに感じてしまう。肉体という鎧を失くした今、良い感情も悪い感情も、一切希釈されずに魂の奥底へ流れ込んで来てしまいそうだった。
瞳に怒りの炎を滾らせる再牙を前にして、錠一が哀しそうに眉根を下げた。
【その外道に、私は約三年もの間、力を貸してしまったんだ。奴の吐いた嘘を信じてしまっていた。妻の命を救ってやるなんて、そんなのはデタラメだったんだ! 人の命を救うために取り組んでいた研究は、その実、人の命を蔑にするような研究だったという訳さ】
錠一は言葉を区切り、仮想の空の彼方を眺めて呟いた。
【今でも忘れらない。茜屋罪九郎の、あの悪意の込められた笑顔を……私は、永遠に忘れる事はないだろう】




