5-2 隠し通路
WBCカンパニーの敷地面積は一万五千平方メートル。製造工場と研究所を併設した製薬会社に良く見られる、一般的な敷地面積と言って良かった。
社屋と研究棟含めて六棟の建物のうち、稼働を続けている施設は当然の事ながら一つもない。それどころか、建築物としての外観を辛うじて保っている物ですら、たった二棟しなかった。大部分の施設が、先の《陸波》により、塵へ還った為だ。
再牙は念のために、手に取った瘴気濃度計の目盛を確認した。針が最大値を振り切っている。数か月前に蒼天機関が僧正クラスの僧坊をここに集結させ、大規模な六波羅散華爆撃を敢行した事は記憶に新しいが、死魂霊の根絶には至らなかったことを、ありありと物語っている。
敷地への入り口。鉄製の朽ちた正門前には『KEEP OUT』 の文字が印字された、黄色と黒のテープが張り巡らされていた。その頼りなさげなテープの群れが、跡地への不法侵入の要を担っているわけではなかった。
敷地内のそこら中に立てられた鉄柱に、しっかりと括りつけられた小型の熱源探査機。そこから常時放たれている幾条もの電磁波が、監視の役目を任されている。投光口から発射した電磁波を物体に当て、物体の持つ運動量と位置を、同時に且つ正確に計測し、その記録内容を呪工兵装突撃部隊・立川支部のデータベースへ、逐一送信するこのシステムも、それなりの準備をしていれば突破はできる。
再牙はオルガンチノのポケットに手を突っ込み、量子筒を取り出した。表面がメタリックブルーの輝きに満ちて、平たい筒の形状をしたそれは、幻幽都市の闇市でも滅多にお目にかかれない代物だった。
素早い動作で量子筒をオルガンチノの襟に装着させ、筒の側面にある起動スイッチを押す。瞬間、襟元に装着した量子筒が展開して量子の薄膜を展開。再牙の全身を、すっぽりと包み込んだ。
これで探索の目は誤魔化しが効くようになったが、量子膜を張った状態での活動には限界がある。限界継続時間を超えれば、量子間を繋ぐ結合が崩壊してしまう。
焦燥と冷静さのせめぎ合いの中、ふと、隣接する林の陰から、例えようもない異様な気配を感じた。何十何百という、悪意に満ちた視線の塊。振り向けば、赤黒い霧状の不定形物質が木々の向こう側で蠢き、強烈な存在感を辺りへ放射しているのが目に入った。
WBCカンパニー跡地全体を取り囲むようにして、死魂霊の軍勢が、木々の枝々や幹にねっとりと絡みついてうねっている。再牙は足を止めて暫く様子を伺ったが、迫ってくる気配はない。首にぶら下げているタリスマンの効力によって、手を出したくとも出せないのだ。
しかしながら、安心するのは禁物だ。迫ってくる気配は無くとも、退散する様子もない。隙あらば、再牙の健康な肉体と魂を限界まで食い荒らすつもりでいるのだろう。喰らい、支配し、凌辱してやろうという、濃密な邪気に溢れているのが分かる。
だからと言って、足を止めている場合ではない。とりあえず片っ端から探索しようと、まずは五階建ての一棟へ向かう。割れた窓ガラスから室内へ、上手く体を滑らせて潜入。周囲には、泥と土で汚れたガラスやコンクリート片が散らばっていた。
外から冷たい風が流れ込み、土埃が舞う。灰色の壁にはよく分からない染みがこびりつき、寿命を終えて干からびた妖触樹の蔦が這っていた。室内は水を打った様に静かだった。既に日が傾きかけている事もあってか、建物内は薄暗く、それが周囲の不気味さを強調していた。
廊下に出て、部屋から部屋へと移動して物色する。先の折れた注射針や、空のアルミ製溶媒タンク、試薬瓶と思しき茶褐色の破片……ガラクタは数多く見つかったが、獅子原錠一が立ち寄った痕跡らしきものは、どこにも見当たらない。
更に奥へと進む。
火災の影響をもろに受け、耐熱温度を超える高温に長時間晒され続けた結果だろう。通路の壁という壁の表面が、溶けて固まり合った結果、歪みを形成していた。
偶然の成せる業か、あるいはこの地に棲む死魂霊の怨瑳が具体化したものなのか。それとも、何者かの意思がそうさせたのか。
ここには社会へ表沙汰に出来ない、重要な事実が隠されていたのではないか。その事実の影で、多くの人々が助けを求める事も出来ずに、亡くなっていったのではなかろうか。
壁の歪み。
それが奇しくも、苦痛にのたうつ人の顔に見えた時。
再牙はごく自然に、そんな事を考えていた。
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「(まずいな……)」
基礎だけを残して消し飛んだ社屋。四つん這いになって、ひび割れたコンクリート製の床を舐めるように注意深く観察しながら、再牙は焦る心を必死で落ち着かせていた。
己の身体に量子膜を展開させてから十五分。その十五分の間に、茜色の太陽は山々の影に隠れ、夜の帳が輝く星々を伴い、幻幽都市の空を覆っていた。
膜を維持できる時間は、残り五分。状況は芳しくなく、切羽詰まっていた。既に五棟分の探索を終えて、残す所はこの基礎だけとなった社屋のみ。錠一氏の足跡に関する手掛かりは、未だに一つも掴めていない。
火災事故に見舞われた際に蒼天機関の検閲が入った事や、陸波の衝撃波を受けて研究棟が崩れた事実。そんなことは知っていたが、万分の一の可能性にかけてここまで足を運んできたのだ。手ぶらで帰るのは、彼自身のプライドが許さない。
腕時計に目を通す。タイムリミットまで、あと四分を切った。
心臓が、脈拍を打つ回数を徐々に上げていく。
今この場で量子膜を解除する気は無かった。解除したらしたで、熱源探査機の電磁波が、実体化した己の存在を捉える。そんな事にでもなったら、データが異常なスペクトル数値を示し、訝しんだ立川支部の連中がここに駆けつけて来るに違いない。
一旦敷地の外に出て量子膜を解く事も考えた。このにっちもさっちもいかない状況では、それが一番正しい選択のように思えた。改めて準備を整えて仕切り直しに持ち込むのも、悪くないかもしれない。普通なら、そう考えるのが自然だ。
しかし厄介な事に、量子筒は一度その機能を停止させると、二度と使えないという、一発限りの代物だった。代わりを探そうにも予備がない。闇市場に出回るのを待っていたら、手に入るのが何時になるのかさえ分からない。
量子筒をに頼らずとも、熱源探査機のレーダー網を突破する手段はある。しかし、それには入念な準備が必要だった。少なくとも、今この場でこなせてしまうような、即興なものではない。
別の手段を可能とするのに、準備には最低十日かかる。再侵入しようとする頃には、琴美の滞在期限はとっくに切れてしまっている。
つまり――再牙は今、何としても、どんな手を使っても、錠一氏が幻幽都市で一体何をしていたのか。それに繋がる物的証拠を、今この場で見つけなければならない。可及的に、速やかに。
『諦めちゃだめだよ。もっと注意深く、周りを観察してごらんよ』
窮地を前にして、再牙は不敵に笑った。何時だってそうだった。いつも苦境に陥った時、奮い立たせてくれるのは、恩師の言葉だった。
『周りを良く見て。必ずどこかに綻びがある。その綻びを崩す手段は何時だって、君の掌の中にある』
再牙は軽く深呼吸し、もう一度床という床に視線を這わせた。眼を皿にし、顎を地面にぴったりとつけて、暗がりの中に辛うじて浮かぶコンクリートのざらついた表層を、隅々まで観察する。
今度は場所を変えて、耳を押し当てる。か細い振動音が、鼓膜を震えさせるのが分かった。更に聴覚を研ぎ澄ませて床下の気配を探ると――――微かだが、風の鳴る音がした。試しに、床を思いっきり叩いてみる。音が違う。周囲の床と比べても、ここだけ打音が僅かに高い。
「(もしかして、通路か!? 地下に部屋が!?)」
だが、そうだとしたら何故? いや、今はそんな事を考えている場合ではない。どうやってこの床を破壊するか。今思考すべきはそこだ。
マクシミリアンに込められている炸裂式祈祷弾は、あくまで死魂霊対策の弾薬。なら、やはり能力を使うしかない。その為には、量子筒を解除して量子膜を解かなくてはいけない。膜越しでは能力を発動できない。全てのジェネレーターがそうだった。
しかし、あっちを立てればこっちが立たない。量子膜を解除すれば、熱源探査機の電磁波に引っかかってしまう。何か、自分の姿を完全に隠してくれる、そう、壁になるような物があれば話は別なのだが。
「……あるじゃねぇか」
不敵な笑みを浮かべたその直後だ。再牙は首に下げたタリスマンに手を掛けると、何を思ったか、突然それを引き千切った。瑠璃色に光るその宝玉を廃墟の彼方へ、勢い良く遠投。タリスマンは天高く飛んで、廃墟の向こうへと消えていった。
脳裏に黎明の如く降りてきた閃きに、全てを賭ける。その覚悟の現れ。一歩間違えれば死へと繋がる作戦。成功させる自信はあった。根拠は無い。だが、自信なんてものは根拠が無いくらいが丁度良い。
敷地の空気が、濃密な陰の存在の支配される。ざわり、と、木立という木立の影が蠢いた。
「(――やるか)」
襟に手を伸ばし、量子筒のスイッチを切った。瞬間、全身に突き刺さるのは猛烈な死の匂いと、殺気の乱舞が押し迫る。あっという間に林の影から、尋常ならざる殺戮の濃度を纏う死魂霊の大軍勢が押し寄せてきた。
それらは見事な半球状のドームを形成して、再牙の全てを根こそぎ奪い去らんと襲いかかってきた。まるで、地獄の亡者もかくやと思わんばかりの大叫喚を交えて。
だが、暴虐に満ちた赤黒のドームが急速に狭まるよりも早く、全ての量子膜が量子筒へ吸い込まれる。
タイミングを見計らって、再牙は能力を発動した。蒼い光が双眸に宿る。全身の細胞が急激に活性化を促し、脚部の筋繊維が膨張するのを実感しつつ、凄まじい勢いと共に、再牙はコンクリート製の床を力強く蹴り壊した。
「(やった)」
舞い上がる破片と粉塵に視界を奪われつつも、すかさず、オルガンチノのポケットから予備のタリスマンを取り出して装着する。それまで周囲に漂う殺気立った気配が、まるで何事も無かったかのように霧散した。
実に危機管理に長けた素早い奴らだ。だが、今回はその素早さに感謝せざるを得ない。量子筒のスイッチを切った段階で、彼らは再牙を一瞬で『取り囲むように展開』した。再牙の存在は、死魂霊の群れを防壁にしたおかげで、熱源探査機には引っ掛かっていない。
「(休憩がてら、灰煙草でも吸いたい気分だが……)」
そんな時間は無い。首に二個目のタリスマンを括りつけながら、再牙は周囲を見渡した。どうやら床下には部屋ではなく、通路が広がっていたようだ。
地下通路に光は無く、深海の様に暗かった。長い間留まっていたら方向感覚と平衡感覚に異常を来してしまうかもしれない。そう思えてしまうほどの暗黒空間が広がっていた。
何処へ繋がっているかも分からない細長い通路。外壁は剥き出しのコンクリートで出来ている。手を触れると、血管まで凍りついてしまいそうな、冷えた感覚が伝わってきた。
通路の先から、どんよりとした空気が流れ込んできているのも感じた。再牙は思わず、何とも形容しがたい寒気を全身に覚えた。通路に舞う埃臭い匂いが鼻孔を刺激する。くしゃみが出そうになるが、何とか堪えた。
危機的状況は脱したものの、まだ仕事は終わってはいない。取りあえず、ここがどこへ繋がっているのか、明らかにする必要がある。おもむろに、オルガンチノのポケットから、軍用ライトを取り出し、左手に持ち替えて点灯。青色の鋭い光が、湿り気を帯びたコンクリートの外壁を照らした。
再牙は依然として瞳を蒼く輝かせたまま、次の行動に移った。意識を一点へ集中させ、嗅覚と触覚の鋭さを上げる。鋭敏化された肌が、通路に満ちる空気の存在を感じ取り、空気を介して壁の厚さと密度を完璧に把握した。思っていたよりも、かなり広大な地下施設が広がっている事を、直感で悟る。
合成野犬と同等のクラスにまで嗅覚を向上させ、軽く一嗅ぎ。地下通路全体に蔓延る匂い。そこから得られる膨大な情報量を、再牙の脳は何の障害も起こさず、迅速に正確に処理する。
思わず、再牙は顔をしかめた。血の匂いがしたからだ。それも一か所だけではない。通路の辻毎に、まごうこと無き血の匂いが充満している。大分時間が経過しているのか、新鮮な血液に特有の酸っぱい匂いは感じない。
再牙は触覚と嗅覚の強度を高レヴェルに維持したまま、他の三つの感覚は人間レヴェルに押しとどめて、地下通路の散策を始めた。硬い地面を踏み締める機能性スニーカーの靴音が、冷えた空気を震わせる。
再牙は、空いた右手でマクシミリアンをホルスターから引き抜き、八連発のシリンダーをスイングアウト。手早くスピードローターを使って、炸裂式祈祷弾から非殺傷性の神経麻痺弾へ装填弾薬を変更する。
死魂霊の気配は無い。だが、何か得体の知れない存在が、この地下通路のどこかにいるのを、再牙は触覚で感じ取っていた。破壊力の高い爆殻弾は使えない。衝撃で通路が塞がれてしまう危険性を考慮しての事だ
壁に背を当てて半身を保ちながら、再牙は慎重に歩を進めた。右へ、左へ。そうして通路のあちこちを探っていると巨大な扉が視界に飛び込んできた。
扉は鉄製で赤錆だらけだったが、それでも、嫌というくらいの頑強さを見せつけている。鍵穴は無い。扉の横へ軍用ライトの光を向ける。
そこには、ICカードの差込口が備え付けられた、小型配電盤が設置されていた。近づいて確認する。配電盤の表面に、大量の錆がこびり付いている。焦げも確認できた。稼働していないのは明らかだ。動力源はおそらく、地上から供給される電力に違いない。
見るからに重そうな扉である。ドアノブに軽く手を掛けるが、びくともしない。
扉の中央に、何やらプレートらしきものが溶接されているのを見つけた。ライトで照らし、埃を取り払って刻印された厳めしい文字を確認する。
「(大日本帝國関東軍……防疫給水部本部……特殊細菌兵器研究実験場。731部隊の旧実験施設か)」
悠久の時の中に忘れ去られた過去の遺物。疑念が渦を巻いて止まらない。いち製薬会社であったに過ぎないWBCカンパニーが、なぜ旧日本軍が放棄した実験場を所有しているのだ。
脳裏に、先ほど嗅いだ血の匂いがまざまざと甦った。
再牙の顔面に刻まれた疵痕の上を、一筋の冷や汗が伝った。
「(入るか)」
再牙は軍用ライトとマクシミリアンを仕舞い込んだ。能力を発動したままの状態で、大きくテイクバック。ガントレットを装着している右拳にありったけの力を込める。その状態から腰を捻り、流れるように重心を右足から左足へ移動。澱んだ冷気を切り裂いて、鉄の扉を思いっきりぶん殴った。
旧式カノン砲の威力を軽く上回る、破拳の一撃。生身の攻撃でありながら、さながら砲火であった。扉は完璧に破砕され、破片の一部が部屋の奥へと吹っ飛んでいく。千切れた蝶番の欠片が、再牙の足元に転がった。
再牙は破壊した扉から室内に入り、慎重に中の様子を窺おうとした。しかしその途端、鼻を衝く血の匂いが一層密度を増して、脳を強く揺さぶってきた。慌てて、全ての五感強度を通常時のレヴェルまで押し下げてしまうほどに。
只ならぬ場だ。死魂霊に勝るとも劣らない死の匂いが、部屋全体に焦げ付いているかのようだ。怨嗟と慟哭の残渣も感覚できる。悪意の掃き溜めと言って良かった。
「……こりゃまた随分と、いい趣味をした部屋だこと」
暗がりの中に浮かぶ異様な光景を前にして、再牙は皮肉たっぷりに呟いた。




