5-1 危険区域への侵入
「どうして私を連れて行ってくれないんですか」
黒革のソファーに浅く腰かけ、詰問する。普段の琴美からは想像できないほど、強い口調だった。機嫌が悪いのは明らかだ。しかしそれは、広い部屋に所狭しと並べられた家具家電の数々に窮屈さを覚えているからではない。
依頼人が質問しているというのに、再牙は答える素振りすら見せないでいる。頑丈な作りの木椅子に腰掛けて作業台へ向かい、真剣な表情で拳銃のパーツを一つ一つ分解するのに没頭していた。
部屋にいるのは二人だけだ。エリーチカはまだ、メンテナンス先から帰って来ていなかった。
「ちょっと、聞いているんですか。黙っていないで、何か言って下さいよ」
「聞いているよ」
フランネルのパッチをクリーニング・ロッドに巻きつけながら、再牙が食い気味に答える。
「何度も言わせないでくれ。駄目なものは駄目だ。WBCカンパニー跡地へは、俺一人で行く」
「理由を話して下さい。私、納得するまでここを動きませんから」
「理由なら、さっき話しただろうが」
「たったあれだけの説明で、私を納得させたつもりなんですか。子供だからって、馬鹿にしないでください」
昼食を終えて、ジーン・グラッセルの店を出た二人は、その足で練馬区へ戻った。だが琴美は、蒼天機関に手配されたアパートへ戻る事はせず、こうして再牙の家に転がり込んでいる。
帰り道で再牙から捜索屋の報告を又聞きしていなければ、彼女がここまで強情さを発揮することもなかったろう。
再牙が首を縦に振るまで、ここから立ち去るつもりは無い。家に上がり込みさえすれば、後は力押しでどうとでもなる――琴美は当初、そんな事を考えていた。
向こうがこちらの要求を吞んでくれるという確信はあった。今朝だって、無理を言って同行をお願いしたら聞いてくれたのだから。
だが、琴美の思惑とは裏腹に、再牙はとことん頑なだった。
電車の中釣り広告で何度かその社名を見た事はあると、再牙は言った。過度なメディア露出を抑えて堅実に利益を上げ続けた結果、都内優良企業の一つとして都市新聞に掲載された事もあった。
WBCカンパニーが火災事故に見舞われたのは、まさにそんな最中の出来事だった。今から四年前の、雪が降りしきる真冬の時期の話だ。
出火原因は不明。現場検証から放火の線が疑われたが、犯人は逮捕されずに今に至る。これが直接的なきっかけとなり、カンパニーは解体に追い込まれ、そのまま危険区域へ指定された。どこからか沸いた死魂霊の群体が、研究所の敷地内に住み着いたからだ。
話を耳にした瞬間、電流にも似た衝撃が、少女の華奢な全身を駆け抜けた。火災事故が発生した四年前の冬といえば、父が殺された時期と一致する。偶然とは思えない。胸に渦巻いた小さな疑念は、既に確信の域に到達している。
深い濃霧に包まれていた父の足跡。その一端を垣間見た気がした。闇の中に垂れ下がる糸の端切れ。手放すわけにはいかなかった。他の誰かに、それを掴んで欲しくないとさえ思った。
琴美は己の指に嵌めた指輪型端末機を外すようなアクションを見せて、尚も再牙に食って掛かった。
「危険区域がどうたらこうたらおっしゃいますけど、別にこの指輪を外していけば問題ないじゃないですか。私、これを外せる勇気だったら、いくらでも持ち合わせています」
「勇気が有るか無いかの話じゃない」
バレル内部にこびり付いたカーボンの滓を拭き取りながら、再牙は諭すような口調で言った。
「大体、あそこが何故、危険区域に指定されているか分からないくせに、よくそんな事が言えるな」
「知ってますよ。どうせ大地の異形化だとか、時空間の捻じれがわんさか起こる場所なんでしょ。知っていますとも」
言葉を途切れさせたら負けたような気がして、早口で捲し立てる。熱を上げてしつこく食らいついてくる琴美とは対照的に、再牙の反応は至って冷静だった。
「異形化、時空間の捻じれ……全部あのドラム缶野郎の受け売りじゃないか」
琴美は、自身の胸の中心に、細い針を通されたような感覚を覚えたが、直ぐに、的外れなことは何も口にしていない筈だという、妙な自信が湧き起こった。
「何か私、間違った事言ってますか!?」
「正直言って、大地の異形化も時空間の捻じれも、それ相応の装備を整えていけば恐くない。だが、WBCカンパニー跡地は別格だ。あそこは死魂霊の巣窟だからな」
また分からない言葉が出てきた。琴美はうんざりした。何時もなら興味津々に尋ねるだろうが、今はそんな気持ちにはなれない。そんな彼女の辟易とした態度を見越して、あえて再牙は話を続けた。
「死魂霊っていうのは、有り体に言えば幽霊の事だ」
「私、幽霊なんて信じませんけど」
「君が信じる信じないは勝手だ。実際、《外界》には本気で幽霊の存在を信じている人は少ないと聞いている」
再牙は拳銃の手入れを一時中断し、真剣な表情で琴美を見つめた。これから話すことに、嘘偽りは一つもないのだと、無言で宣言するかのように。
「だが、幻幽都市には間違いなくいる。科学的に証明された幽霊が。それが死魂霊だ。死の今際に強い怨念と憎しみをこの世に遺し、やがて形を伴って具現化した存在。魂が腐り果てた結果、生という概念に強い執着を示す奴らに、人間が不用意に近寄ればどうなるか、君に分かるか」
琴美は黙って、静かに被りを振った。
「肉体をとことん食い荒らされ、魂の髄まで暗黒に染まる。そうして襲われた人も死魂霊へ堕ちて、人間を襲うようになる。死んでも尚、負の感情に魂を蹂躙され続ける事になるんだ。そんな奴らが、あの土地には三百体以上いると言われてるんだぞ」
「三百……」
多いのか、少ないのか。再牙の口調から察するに、恐らく前者だろう。しかし、これまで幽霊の存在を信じてこなかった琴美には、数字そのものより、その背後に存在する暴威に恐怖心を抱く必要があった。
やっぱり、素直になれない。これまで見聞きしてきたどんな話よりも、現実離れし過ぎていたせいだ。オカルトの領域を出ていないとさえ感じる。目先の目的に強い執着を持つ今の彼女には、未知の異形へ向けるだけの警戒心と想像力が、大変に欠如していた。だからこそ連れて行ってほしいと、悪あがきのように食らいつくのだ。
「何か、方法があるんじゃないですか。その死魂霊を遠ざける方法が。あるんでしょう? この街の技術力を使えばいくらでも……」
「あるにはある。死魂霊除けのタリスマンさえあれば、奴らを寄せ付けない事は可能だ」
「ちょっと、それを最初に言って下さいよ。なんだ、あるんじゃないですか」
「一応断っておくが、『処女』が身につけても効果はないぞ」
「え……」
何を言われたのか、直ぐには理解が追いつかなかった。あれだけ怒り混じりの調子で言葉を吐きだしていた琴美の唇が、硬く閉じられる。
処女。
なぜこの男は、少女の麗しい花弁が未だ散らされていない事を知っているのだろうか。再牙の無遠慮な物言いからは、優しさやデリカシーといったものは少しも感じられなかった。
己の性事情と、得体の知れぬタリスマンとやらの効能を結びつけて語られた事に、琴美の心は、激しい動揺と戸惑いに揺さぶられた。例えようのないむかつきも覚えた。自然と、眉間が険しくなる。
それなのに、彼女の口から怒りの声は上がらなかった。確かに憤りを感じているはずなのに、それと同じくらいの羞恥心が胸に去来したからだ。こういう時にそんな感情が生まれるなんて、琴美は知らなかった。
「その反応、やっぱり処女か」
沈黙を破ったのは、特にこれといった感情も込めずに放たれた確信の台詞。その言葉の鏃は真っ直ぐに、寸分の狂いも無く琴美の心を深々と突き刺した。
「カマをかけた事は悪いと思っている」
だがしかしと、万屋は依頼人と目を合わせる事なく続けた。
「別に嘘はついていない。死魂霊は穢れた概念や存在を好む一方で、場を清浄化させる概念を嫌う傾向がある。タリスマンの原料に使われているのは幻幽都市に住む大僧正達の魂片だ。身に着けた者を聖なる概念で包み込む力を持つそれは、『清らかな魂』を宿す処女が身につけると、装着者とタリスマンの力がぶつかり合って効果を打ち消してしまう。あるにはある、と俺が口にしたのはこれが理由だ。結局のところ、処女の君が身に着けても意味のない事に変わりはない」
「矛盾してますよ、それ。処女が清らかな存在だって言うなら、私が生身で行ったって、死魂霊には狙われないでしょう? 問題ないじゃないですか」
「処女というのは肉体ではなく、魂が清浄であるからこそ処女なんだよ。だから、襲われた際に魂が堕落して死魂霊になる可能性は無くとも、肉体はまず間違いなく奴らに食い潰されちまう。そこにパソコンがある。俺の言葉が嘘だと思うなら、調べてみると良い」
「……」
琴美は黙って、再牙の顔をじっと見続けた。暗に、彼が何を言いたいのか理解した。
再牙の顔の疵。大きく肉を抉られた刀疵。今は恐怖よりも、それが乗り越えるべき障害の様に思えた。ふと気づけば、先ほどまで心に燻ぶっていた怒りと羞恥心が、収まるべきところへ収まっていた。
そうしてまた、少女の心に新たな感情が生まれる。己の身を顧みない、無謀で哀しき感情が。おもむろに、ライトブルーのジャケットをフローリングの床へ脱ぎ捨てて、琴美ははっきり言い放った。
「だったら、今すぐ私を犯して下さい」
言葉の端々に、恐ろしいほどの冷たさが纏わりついていた。声は震えてはいなかった。気がトチ狂った訳ではない。少女の感情は。その表層は極寒の冷気の如く凍えながらも、内部には熱い情動がめまぐるしく駆け巡っていた。
こうなったら、やれるところまでやってしまおうと考えた。後戻りは、今更出来るはずもない。
処女喪失を切望する琴美の声を耳にした途端、作業を続けていた再牙も流石に手を止めざるを得なかった。驚き混じりに琴美の方を振り返った。
馬鹿な事を言うんじゃない――そう怒鳴られると琴美は予感した。
しかし、琴美の予想とは裏腹に、再牙は何も言ってこなかった。発言を撤回するよう求める事もしなかった。ただじっと、見つめ続ける。何を考えているのか分からない、その黒い瞳で。
「私が処女を失えば、タリスマンの効果が発揮される。そうしたら、死魂霊とやらに狙われる心配もないはずですよね。私も一緒に行けますよね。WBCカンパニー跡地に。だったら、今すぐこの場で、私を犯して下さい。殺人以外だったら、再牙さん、何でもやるって仰っていましたし。出来ますよね? お願いします。この前の依頼金とは別に、お金はちゃんと払いますから。依頼します。私の処女を奪って下さい」
たまらず、琴美が口を開いた。その声は蚊の鳴く様に小さかったが、震えてはいなかった。
「あ、愛撫とか前戯とか、そんなの良いですから。ひと思いにやっちゃって下さい。早くしないと、エリーチカさんが帰ってきちゃいますから。その前に、早く……」
再牙は何も答えない。答えない代わりに、静かに腰を上げた。ソファーに座ったままの琴美へ向かって近づき、そして……
「あぅ……」
琴美の、細くしなやかな手首を右手で強く握った。研究者だった父親とは異なり、再牙の手は太く無骨で逞しく、そして、とても熱かった。
再牙の顔が近付く。こうして間近でみると、只でさえ酷い刀疵が余計に痛々しく映った。琴美は、自然な成り行きに身を任せる事にした。
彼に促される形で、その場に静かに横たわる。ソファーの軋む音が、やけに誇張されて聞こえた。ロングスカートが皺にならないか心配になる。直ぐに、どうでもいい事だと気付く。
再牙の手が、少女のへこんだ腹を軽く撫でた。腫れ物にでも触れるかのような、優しい手つきだった。反射的に、ぎゅっと目を閉じる。
ここに来て今更湧きあがってきた恐怖と不安と後悔を、必死になって胸の奥に閉じ込めようと、琴美はもがく。未知なる体験。恐怖心の浮力を、必死に心の力で押しとどめる。意識しないうちに、温い汗が全身に浮かんだ。
水色の清潔感あるくるぶしソックスに包まれた少女の足に、緊張が走る。腹から臍、臍から腰へ。再牙の太い五指がゆっくりと、少女の下腹部、その中心点へ迫っていく。
――――そこで急に再牙の手が方向を変えた。
「拳銃」
およそ、今から性交に及ぶ男女の間で交わすには似つかわしくない、何とも物騒な言葉が、再牙の口からはっきりと出た。琴美は思わず瞼を開け、訳が分からないまま顔を上げる。
再牙の右手に、自動拳銃が握られていた。紛れもなく琴美の拳銃だった。驚いて、腰につけていたホルスターに手をあてがう。いつの間にか抜き取られていたのだ。再牙は慣れた手つきでマガジンを取り出して中身を確認すると、大げさに肩を竦めた。
「なんだ、空じゃないか。ちゃんと弾薬は買っておけよ。というか、弾も買わずに危険区域へ行こうとしていたのか?」
「あ……えっと……」
「全く、命知らずにも程があるぞ。もうちょっと身の振り方ってものを考えるべきだ」
呆れ顔に笑みを含ませて、再牙は無謀を働こうとした依頼人を、軽く諌めた。そうして、マガジンを入れ直し、拳銃をホルスターに戻す。何事も無かったかのように作業台へ。ソファーには、茫然とした様子の琴美がだけが残された。
「君の覚悟は、確かに受け取った」
所々が煤けている使い古しのウェスに油を馴染ませながら、言い放った。
「気持ちがはやるのも、しょうがない。お父さんがこの街で何を為そうとしていたのか、それがやっと分かりそうなんだからな。ただ悪いが、やっぱり君は連れて行けない。クライアントを危険な目に遭わせるなんて事は、万屋としてのプライドが許さない」
琴美は、首を縦にも横にも振らなかった。
「……出かける前に一つ、君に質問がある」
なんでしょうか。脱ぎ捨てたジャケットに袖を通しながら、琴美は再びソファーへ浅く腰かけた。
「君は、お父さんの事をどう思っているんだ?」
質問の内容が抽象的過ぎて、琴美は返答に困った。再牙の意図を測りかねた少女は、答える代わりに、首を小さく傾げた。
少女の反応が無いのを見るやいなや、再牙は作業を続ける手を止めた。椅子に腰かけたまま、琴美の方へやや前かがみになって向き直り、琴美と視線を合わせた。
「万屋の仕事をする上で一番重要なのは、依頼人との正しい信頼関係の構築だ。俺は、そう考えている。たまに、嘘の依頼内容を申し込んでくる奴がいるが、そういう奴からの依頼は全て断るようにしている。俺に嘘をついている時点で、その依頼人が信頼に値しないからだ。その点で言えば、君は、俺の目に適ったという事になるな。君が話してくれた依頼内容に嘘は見当たらない。お父さんの殺害、それに関係する諸々の事情についても、全く矛盾が無いと判断した。ただ一つ、君は重大な『嘘』をついている…………俺に対してではなく、君が、君自身の心に対して」
最後の台詞を聞いた途端、琴美は、羽織っているジャケットがやけに重くなるのを感じた。勿論そんなのは錯覚だ。鉛のように重くのしかかるのは、彼女自身の心の奥底にある、秘めた『想い』に他ならない。
これまでの人生でまだ誰にも、一度たりとて明らかにした事はない秘密。その存在に気付きながらも、敢えて目を逸らし続けてきた。臭い物に蓋でもするかのように。
「何を、言っているんですか」
そうして今。この瞬間もまた、惚け続ける。己の心に嘘をつく。そうでもしなければ、自分の大事な部分が、音を立てて瓦解しそうな気がした。
「今日の秋葉原での事……正直、俺は何と反応すべきか迷ったよ」
「え?」
「覚えているだろ。公園のベンチで休憩した時の事を」
「それが何か……?」
「あの時、君は俺が立てた仮説――お父さんが麻薬中毒者になってしまったのではないかと話を聞いて、もしそれが本当の事なら、『私、やっぱり父を許せません』と、こう言ったんだ」
「あ……」
「俺はずっと、その一言が気になっていた。『やっぱり』……その一言がね」
「……」
見えない杭で全身を固定されたかのように、琴美の反応が鈍くなった。
構わず、再牙は続けた。彼女の真意を、彼女の深層意識から掘り起こさんと。
「この言葉の意味を、俺なりに考えてみた。やっぱり許せない、という事は、以前に何か、父親に関して許せない出来事があったのだろう。或いは、許そうとしたが許せない……そういう葛藤の表れとも取れる。いずれにせよ君は、父親に対して愛情以外の、何か別の感情を宿している。そして、その感情に真剣に向き合っていない。違うか?」
「だからどうだって言うんですか。依頼内容と、何も関係ないじゃないですか」
声が震えているのにも気づかず、琴美は気丈な振りをして反論した。
再牙が、静かに頷く。
「確かに、依頼とは関係ない話かもしれない」
「だったら――」
「でも、これを明らかにしないと、君は一生自分の心から逃げる事になるんじゃないのか」
「知った風な口を利かないでください!」
「俺は、ただ依頼を成功させて、めでたしめでたし、というのは好ましい事とは思わない。可能なら、依頼を成功させた上で、依頼人がそれまでの人生に決着をつけて、前を歩いて行けるよう、背中を押してやりたいと思っている。だが、今の君が相手では、俺も背中を押してやれない。自分の心と真に向き合おうとしていない、今の君相手では――」
「余計なお節介ですよ! あ、貴方に、私の、な、何が分かるっていうんですか!」
思わず、立ち上がっていた。普段大声で叫び慣れていないせいだろう。言葉の端々が詰まるが、それでも怒りは十分に込められていた。琴美が初めて見せる怒相に、流石の再牙も一瞬面食らったのか、押し黙る。
静まり返る部屋。震える声に怒気を滲ませ、琴美は頑として、湧きあがってくる深層意識の闇から逃れるようと、あらゆる手を尽くした。言い訳という名の、あらゆる手を。
「大体、そんな事を言った覚えはありません! やっぱり許せないなんて、そんな意味の分からない台詞、私は口にしていません!」
「俺は確かにこの耳で聞いたぞ。覚えていないのか」
「……ええ……全く!」
「ならそれは、君が無意識で口にした台詞という訳だ。自らの情動の赴くままに発した言葉だな。詰まる所、意識の遥か奥から自然と零れてきた、真実の欠片。人は、それを指して何と言うか分かるか?」
少しの間を置いて、再牙ははっきりと口にした。
「『本音』と言うんだ」
「なッ――――!」
「それにな」
再牙は作業台の上から銃器パーツを一つずつ手にとると、ゆっくりと迷う事無く、丁寧に組み立てていく。
「やっぱり許せないという台詞以上に、俺にはもっと気がかりな事があった」
「……まだ、何か?」
「表情だよ。『やっぱり許せない』って口にした時の君の表情が、台詞と噛み合っていなかった。あの時、君は笑っていた。俺の物騒な、冷水をぶっかけるような推測を受けてな。俺は正直、言い過ぎたかなとも思ったんだよ。父親を悪し様に言う真似はしないで欲しいと、そう言われるかと思った。でも、違ったんだ。君は抗議の声を上げる代わりに、笑みを浮かべていたんだ。確かに。なぁ」
「……」
「あの時、君は何を考えていたんだ?」
「……」
再牙の口調は穏やかだった。責め立てるような態度ではない。頼むから話してくれないか。そう促しているように琴美には聞こえた。
誰かに打ち明ければ気持ちが楽になるとでも思っているに違いない。親しい友人も居らず、早くから両親と死に別れた琴美にとって、それは無理な相談だった。
「ただいま帰りました」
メンテナンスから帰ってきたエリーチカ・チカチーロの声が、重苦しくもぎこちない空気の漂う部屋に木霊した。
「あ、獅子原さん。いらしていたのですか」
リビングに姿を見せたエリーチカは、琴美が初めて出会った時と同じ服装をしていた。琴美はぎこちない作り笑顔を浮かべ、どうもお邪魔してます、と挨拶する。
「何か、再牙に御用でしたか」
「いえ、用って程の事じゃ……」
視線の端で再牙を捉える。彼はエリーチカの姿を確認した途端、凄まじい速さで銃器を組み上げていた。
十秒も経たないうちに馬鹿でかいハンドガンが出来上がった。再牙はハンドガンを腰のホルスターに差しこみつつ、何の気なしにエリーチカへ一言投げかけた。
「エリーチカ。悪いが、これから仕事に行ってくる。留守は任せたぞ」
「どこへ出掛けるつもりですか」
相棒の声を背中で受け止めた再牙は、クローゼットの中身を物色しつつ返事を寄越した。
「WBCカンパニー跡地だ」
「危険区域じゃないですか。なんでまた、あんなところに」
「捜索屋の奴から連絡があったんだよ。錠一氏……この子の父親が亡くなる一週間前に、そこへ立ち寄っている事が分かったんだ。何か手掛かりが掴めるかもしれない」
「私も同行した方がよろしいでしょうか」
「ああ……いや、そうだな」
ちらりと琴美の方へ視線を向け、再牙は努めて明るい調子で口にした。
「エリーチカ。良ければでいいんだが、その子を射撃訓練場に連れて行ってやってくれ。まだ弾を買ってないんだとさ。マガジンが空のままで、街を歩かせる訳にはいかないだろう? ついでに試し撃ちでもさせてやってくれ。こっちは、俺一人でやっておくから」
△▼△▼△▼△▼
日は段々と陰りを帯びてきている。夕刻の太陽は気まぐれだ。虚弱な昏さを湛えたかと思いきや一転、燃えるような明るさを迸らせる。それに合わせて、薄汚れたコンクリートの地面に、断続的な縞模様が刻まれた。
遠くで合成野犬のものと思しき悪霊めいた遠吠えが木霊するのを耳にした。遅れて、建設放棄されたピラミッド型アーコロジー《アルティマカフラ》の骨組みに止まっていた怪鳥の群れが、奇鳴を発して勢いよく夕闇の彼方へ飛び立つ姿が、改札をくぐった再牙の目に入った。
既に定時を回っているが、立川駅の改札を通るサラリーマンは一人もいない。いや、改札どころの話ではない。街を歩いている人はもちろん、住んでいる者すら殆どいない。二年前から、ずっとこんな調子だ。余所の市や町からの移住者はほぼおらず、市は常に瀕死の状態に晒されている。
二年前に立川市を襲った超自然現象。直径百メートル、重量およそ一トンの円盤型飛行鉱石物体の墜落。俗に《陸波》と呼称される破壊現象のせいであることは、誰が見ても明らかだった。
圧死した人々の遺骸。豪快に破壊された家屋。それらを整理しても、街に活気が戻ってくることはなかった。襤褸と化した家屋の主が、人間から有害獣へ取って変わっただけだ。
そんな状況もあって、ここに居を構える蒼天機関立川支部が抱えている主な業務内容と言ったら、市外へ流出せんとする有害獣の駆除と捕縛。並びに、WBCカンパニー跡地周辺の定期警邏ぐらいのものだった。
「WBCカンパニーか……」
再牙の予想、あくまで仮説の一つに過ぎないが、居住区を失った錠一氏は路頭に迷った末に麻薬に手を出したのではないか。当初はそのように考えていた。
だが、WBCカンパニー跡地へ彼が立ち寄ったという捜索屋の話から察するに、彼が麻薬中毒患者になった可能性は薄い。そう、考えを改めざるを得ない。只の麻薬患者が容易に侵入出来るほど、危険区域のセキュリティは甘くは無いのだ。
改札を出た再牙は、何処からともなく吹きすさぶ秋風をオルガンチノでしのぎつつ、迷うことなく目的の場所へ向かって歩を進める。極力足音を立てない、腰の重心を落とした歩き方だった。意識的にやっているのではない。過去の訓練で嫌という程覚えさせられた、その名残である。
遠くから、悪意に満ち満ちた喧騒が聞こえる。犯罪シンジケート同士の抗争だろう。銃声や砲撃らしき爆音が、ここまで届いてくる。立川支部がすぐ目の前にあるというのに、彼らには関係無いらしい。抗争に介入してきたら、邪魔をするなとばかりに、叩き殺すつもりでいるに違いない。
歩いている途中で、不意に強烈な、甘ったるい香りが鼻先に纏わりついた。ふと、裏路地に視線をやる。襤褸を纏った老年の男性が、壁に背を預けていた。
確認するまでも無く、老人は死んでいた。顎が引きちぎれるのではないかと思うくらいに口を大きく開いて。乾いた白目の表面には小虫が群がり、溶け落ちた喉肉の奥には、黒く焼けた頸骨が見え隠れしている。
黒い骨。考えるまでもない。麻薬の過剰摂取で、骨の細胞が壊死している。甘い芳香は、体内で消化し切れなかった麻薬成分が揮発したものと見て違いなかった。老人の頭に触れれば、きっとゴムボールのように柔らかくなっているはずだ。
気を取り直して正面を向くと、今度はまた別のモノが目に付いた。
砂埃の舞う大通りの先に、人影が一つ。左の眼窩、耳、臍、股間から、太く短い青墨色の触手をびっしりと生やした全裸の女が、千鳥足でこちらに近づいてくる。加えて、両手を股間へ突っ込んで。
再牙は焦る事無く、しかし迅速にオルガンチノのポケットからナイロン製の袋を手に取った。口紐を緩め、金鎖に繋がれた死霊除けのタリスマンを一つ取り出すと、手早く首へ括りつける。
一歩一歩進む度、全裸の女も再牙の方へゆっくりと近づいてくる。足の運び方が心もとない。触手のうねる左眼は無論の事、光の損なわれた右瞳は白濁に濁り、視力があるのかどうかも怪しかった。
枯れ木を思わせる女の両手は、股間から生えた触手の群れを掻き分け、その奥――即ち子宮へと伸ばされていた。
無残の一言に尽きた。赤茶色の髪は毛先が朽ち、肌には所々に腫れ物が出来ている。一見若い女のようにも見えるが、水分の抜けきった肌は死の床に臥せった老婆のそれに等しい。
「お゛……お゛……お゛ぉ……」
すれ違いざまに、女の擦れた低い呻き声を聞いた。それが独り言だったのか、あるいは救いを請うた願いの破片が漏れ出でたものなか。再牙の知る所ではなかった。
只一つ明らかなのは、女が何らかの事情で死魂霊に憑依され、凄絶たる凌辱と精神汚染を長々と甘受した結果、今まさに肉体が朽ち果て、魂が堕落の岸壁に立たされているという事のみである。
女の体から生えた青墨色の触手が、その何よりの証拠だった。あれは、死魂霊の放つ瘴気が短時間の間に熟成され、具象化したものに他ならない。
こうなってしまっては、女をいま一度、真人間へ戻すことは不可能だった。例え腕利きの僧坊の力を借りたとしても、死魂霊の侵入を体内へ許し、滅魂汚染度が臨界点に差し迫っている状況では、もう後戻りは出来ない。
遅かれ早かれ、彼女もまた、死霊の軍勢を構成する一個体と成り果ててしまう。今の再牙に出来る事は、限られていた。せめて、魂が永劫の凌辱に囚われる事のないように、最良にして最善の処置を下さなければならない。
腰のホルスターに手を伸ばす。あれは既に人間ではない。ただの化け物だ。放っておけば周囲に危害をばら撒く。決断して実行に移す。何の躊躇も無く、大型リボルバーハンドガン・マクシミリアンのグリップを握りしめる。
銃把を硬く握り締め、振り向きざまに撃鉄を起こし、力を込めてトリガーを引く。ハンドガンとは思えぬほどの凄まじい轟音と共に、極太の空薬莢が排出。八十ミリの銃口から吹き出す爆炎が大気を焼き、大口径用炸裂式祈祷弾が、死魂霊に乗っ取られた女の体を背中から貫通せしめた。
女は断末魔を上げる事も無く、内側から激しく爆裂した。木端微塵に砕かれた肉片が、水音を立てて辺りへ散らばる。返り血が着かぬよう、上手く避ける再牙。視線を地面へ移すと、黒々とした血から紫色の煙がたなびいていた。弾頭に超高密度で圧縮封入された、百余人から成る僧枷が唱えし真言が抱える霊的エネルギーの残渣である。人の視覚領域でもはっきり目視可能ということは、それだけ弾頭の信仰強度が高いことを窺わせた。
再牙は、暫く煙が空の彼方へ吸い込まれる様を黙って眺めていた。やがてそんな事をしている暇などない事に気がつくと、銃口から硝煙たなびくマクシミリアンを手早くホルダーに収め、やや早歩きでその場を離れた。




