1-2 洗礼の機能片(フラグメント)
練馬駅の改札口を出た所で、琴美は手元のスマートフォンに視線を落とした。データ送信されてきたアパート周辺の地図を確認し、周囲に視線を配る。脇に抱えたガイドブックの重さに気を取られつつも、覚束ない足取りで駅口から西方面へ向かって歩き出した。旅行用ケースバッグとショルダーバッグは、あのアルファ17なる守衛に預けてある。引ったくり被害を防止する為だ。後でアパートの方へ届ける手はずになっている。
道中には、様々な人達がいた。右腕が欠けたサラリーマン風の若者。有害獣の細胞を元に品種改良された、小型の三ツ首犬を連れ歩く金持ち風の老貴婦人。耳から一度に五匹の大蛇を出してみせ、疎らな観客を沸かせる路上道奇師。ふらつく足取りで、道傍へ盛大に吐瀉物を撒き散らす重篤薬物患者。自作のゴシップ記事をばら撒いて日銭を稼ぐ猥雑記者小僧の小さな身体からは、古い油のような悪臭がした。
道徳も糞もない。あらゆる雑念と欲望がごちゃ混ぜになっている。大禍災後の練馬区では毎日の様に繰り広げられている日常風景。それでも、来訪者たる琴美の目に、それは非日常的な絵として強く焼き付いた。
しかしながら、職業不定者が溢れているとはいえ、練馬区をはじめとする都市の東部は西部地域と比べれは格段に治安が良かった。人の住める環境に恵まれていると言っても過言ではない。幻幽都市の西部に棲む異形の怪物・ベヒイモスがいないことが、大きく影響していた。
アパートを探して歩いていると、駅から少し離れた大通りに辿り着いた。周囲には数多の露店が立ち並んでいる。蒼天機関から運営許可証を与えられた露店商人らが、天幕の下で思い思いの品々を地べたに広げては、道行く人々に向かって売り文句買い文句を捲し立てていた。その様子を、物珍しそうに観察していた時だった。
「お嬢さん、お嬢さん。ちょっと、そこのお嬢さん」
赤レンガ作りの簡易アパートの壁に、体を預けて座っている一人の露店商人がいた。にやけ顔で、琴美に視線を送り、あまつさえ手招きまでしていた。
虫食いの痕が目立つ深緑色のセーター。口周りと顎にびっしりと生えた無精ひげ。脂ぎった白髪交じりの黒髪。琴美を呼びつけた露店商人の出で立ちは、なんともみすぼらしくて無様だった。まともな生活を送っている者の姿でないのは一目瞭然だ。
こういった手合いに出会った場合、街に住み慣れた人間なら即座に顔を背けて無視を決め込むのが通例である。だが琴美は、迂闊にも露店商人の下へ近づいてしまった。物珍しかったのだろう。少女の好奇心は警戒心より勝っていた。
道行く人々が『あーあ、あの女の子、カモにされちまったな』とでも言いたげな、憐憫と嘲笑を込めた視線を琴美に送っている。当然の事ながら琴美は、自分がそんな目で周囲から見られている事に気付きやしない。
『カモ』を招き寄せた露店商人は、にぃぃと、顔相を崩した。真っ黄色に汚れた前歯が、上唇の隙間から顔を覗かせた。
「あんた、《外界》から来た人だろ?」
「守衛さんも言っていたんですけど、その《外界》って言うのは何なんです?」
「その反応だと思った通りだね。幻幽都市以外の土地の事を、あたしらは《外界》と呼んでいるのさ。どうにも歩き方が素人臭かったから、直ぐに分かったよ」
「はぁ。まぁ、確かに。そうですね」
「観光で来たのかい?」
「いえ、ちょっと人を探しに」
「そうかいそうかい。まぁ、ここでこうして出会ったのも何かの縁だ。急ぎじゃないなら、ちょっとアタシの露店を覗いていきなよ」
琴美は商人に言われるがまま、店の軒下に陳列されたありったけの品物に目を通した。何をモティーフに作成されたのか、一目では分からない代物ばかりだった。餓鬼を模した木彫りの彫像に、禍々しい気配を放つ珠玉。三つの顔と三十七本の腕からなる西洋風のブロンズ彫像。思春期を迎えた少女の気を引く割には、ラインナップが珍妙すぎる。
「最近のオススメはこれなんだがねぇ」
商人は懐からペンケースサイズの箱を取り出すと、勿体つけるようにして中身を見せつけてきた。箱の中には、葉巻に似た嗜好品が収められていた。両端が綺麗に切り揃えてある。長さは、おおよそ五センチメートル程といったところだろうか。
「なんですか? これ」
「こいつぁ『カラフル』と言ってね。幻幽都市にしか自生しない特別な樹木の木片を細かく刻んで天日干してから、紙で巻いたものさ。煙草と良く似た嗜好品だよ。君には特別に、こいつを一本あげよう。あ、お金はいいよ。なぁに、気にする事は無い。アタシとあんたの出会いの記念と思ってくれればいいさ」
「あのう。私まだ十五歳なので、煙草はちょっと……」
「十五歳なら吸えるさ。ここの法律じゃそういう決まりになっているんだよ」
ああそうか、と納得する。
幻幽都市は日本の領土にありながら、日本国憲法の範疇外にある特殊な街だ。この都市には独自に制定された都市新法と呼ばれる法律がある。それに基づけば、十五歳以上なら煙草を吸っても良い事になっている。これは、琴美のような《外界》からの訪問者に対しても適用された。
しかしながらである。法律で許されているからと言って、煙草を吸う事に対する抵抗感が消えたわけではない。どうしようかと躊躇していると、ひときわ愛想の良い表情で、商人が口にした。
「お嬢さん、一つ良い話を。実はね、この『カラフル』ってーのは、煙草と違って大した害は無いのさ。それどころか、吸えばたちまち極楽浄土。嫌な事なんて全て忘れて、愉しい気持ちで一杯になれる」
「ほほう。そいつは良い。是非私に一つ、譲ってくれないかな――――露店商人さん」
何者かが二人の会話に割って入った。思わずびっくりして、琴美は背後を振り返った。角刈りがよく似合う、頑強そうな体躯の長身男性が立っていた。男は険しい眼付で、露店商人を睨みつけていた。
その男の傍らには、金色の癖毛を右手で弄る低身長の少女がいた。外見でのみ判断すれば、琴美と同年代ぐらいの少女だ。小鼻の周りに、若干のそばかすがある。今さっき目が覚めたばかりなのかと思うほど、眠そうな表情が印象的だった。瞳は半開きで、やる気の欠片も見えやしない。
彼らの服装は全く一緒だった。白を基調とし、裾の部分に銀色の刺繍が施された厚手のジャケット。肩には『無限』の象徴たるウロボロスと『慈悲』を司る白鷺を組み合わせた、黒色の肩章が装飾されていた。下は、厚手の白いパンツスーツ。靴は腰に回したベルトと同じく、茶褐色の機能性スニーカーを履いている。
角刈りの男は、超硬性セラミック・ブレードが納められた長鞘を背負っていた。刀身は切刃造の直刀である。外見は太刀様式の軍刀に酷似していた。一方の金髪癖毛少女は、長刀を背負う代わりに、脇差に似た短刀を腰の辺りに差している。セラミック製の小刀。超硬性アイクチ・ダガーである。
幻幽都市の平和と安全を、悪しき犯罪者から守護する蒼天機関。その傘下の中で、特に知名度の高い実働部隊が、呪工兵装突撃部隊であった。二人が身に纏っている装束は、呪工兵装突撃部隊の警邏態勢時における標準正装であった。
勿論、都市にやってきたばかりの琴美が、そんな事を知っているはずがない。この男女が、呪工兵装突撃部隊が抱えている支部の一つである練馬支部に駐在する、それなりの地位についている機関員である事も含めて。
男は一歩足を踏み出すと、ドスの効いた声で、商人を牽制した。
「やっと見つけたぞ、伊原誠一」
「あ、あんたらはっ!?」
顔に覚えがあるのだろうか。伊原と呼ばれた露店商人の顔から卑しい笑みはすっかり消え失せ、代わりに、獲物に追い詰められた小動物のような怯えた表情が浮かんだ。
角刈りの男が、厳しい口調で伊原に詰め寄る。
「伊原よ。さっきこの子に手渡そうとしていたのは『カラフル』だな? 我々の目を盗んで行方を晦ましたかと思いきや、こんな人気の多い所で、許可もとらずに露店を開いていたとはな。灯台下暗しとは良く言ったものだ」
「機関の犬め……」
「あのう…………貴方達は一体」
不穏な空気に晒され、状況が全く飲み込めていない琴美。そんな彼女に、眠たそうな眼をした癖毛の少女が、これまた眠たそうな抑揚の乏しい声で事情を説明する。
「ウチらは呪工兵装突撃部隊の練馬支部に所属する機関員ですわー。ほら、ここにちゃんとバッジをつけているじゃないすかー」
指差した先。彼女の襟には、金色の菱形バッジが縫い止められている。少女は一つ、男性は二つ。おそらくは階級の違いを現すものなのだろう。そうだとしたら、この少女は傍らに立つ男性の部下と言う事か。
「にしても君ぃ、パネェっすねぇー。超パネェっすわー。まんまとそのクソヤローに騙される所でしたねぇー」
「は、はい?」
年頃の女子には似つかわしくない、実にくだけた口調だった。琴美は何と返して良いのか分からなかった。後に、角刈りの男性が続いた。神妙な、それでいて諭すような口調で言った。
「その男が君に勧めていた『カラフル』っていうのはな、覚醒剤だ」
「か、かくせいざい!? そんな! 嘘ですよね!?」
「本当さ。《外界》では出回っていない、且つ《外界》で蔓延している物よりも、ずっと中毒性が高くて危険な代物でね。この男は、『カラフル』の有名な売人という訳だ」
「ホントー、良い度胸っすねー。マジパネェっすねー。テメーみたいな小悪党は、さっさと豚小屋にブチ込まれて、ブヒブヒ鳴いているのがお似合いっすねー」
少女は侮蔑の言葉を吐きながら、実に機敏な動作で右腕を振るった。瞬間、琴美の目の前で、俄かに信じられない出来事が起こった。
癖毛少女が右腕を振るった途端、その細い腕に僅かな切れ目が刻まれた。次いで、切れ目に沿う形で、重々しい機械音と共に複雑怪奇極まる変形が始まった。一秒と経たず、少女の肘から下が、機関銃の銃身部へ成り変わった。
少女の右腕は、単なる肉の塊ではなかった。ボトムアップ型の自己組織化により、修復能力と改編能力を発現させた機械式ナノマシンの集合体。即ち、製密駆動塊と呼称されるナノパーツで、少女の右腕は再構成されていた。
驚きから言葉を失くした琴美の肩に、角刈り男の手が優しく触れた。
「大丈夫だ。心配ない。この街じゃ腕の一本二本、義手に挿げ替えているのは珍しくも何ともない」
「は、はぁ」
「ま、見ててくれ」
癖毛の少女は依然として、眠たそうな表情と態度を崩さない。だが、無慈悲にも構えられた変型機関銃の銃口は、伊原の顔面を捉えて離れようとはしない。
「余計な動きはしねー事ですねー。あんたがジェネレーターじゃない無能力者である事くらい、とっくに調べがついてますからねー。無能力者のあんたの行動なんて―、この右腕で簡単に制御出来ちまいますからー」
「大人しく縄につけ。法廷を待たせるなよ。それとも、今すぐに首をちょん切って、貴様のケツ穴に突っ込んでやろうか? ええ? どっちだ、おい。好きな方を選べよ」
恫喝しながら伊原ににじり寄る、二人の機関員。伊原は戦々恐々とした面持ちで後ずさり、壁を背にした状態にまで追い詰められた。だが、裏社会を渡ってきた彼の方が、ずる賢さでは上をいっていた。伊原は、怯えの表情から一転、邪悪で不敵な笑みを浮かべて、叫んだ。
「どっちもお断りだッ!」
言い終えるやいなや、伊原の姿が三人の視界から消えた。忽然と、唐突に。まるで、神隠しにでも遭ったかのように。
「なにっ!?」
予想外の出来事に、角刈り男はうろたえた。一方で、癖毛の少女は迅速に周囲を確認。あちこちへ視線を動かし、そして捉えた。
窮鼠猫を噛む。追い詰められていた筈の伊原は、機関員の間をものの見事にすり抜け、少し離れた通りに悠然と立ち尽くしていた。粗野な笑みを浮かべる伊原の左肩には、少女――獅子原琴美が、しっかりと抱えられていた。あっという間の出来事だった。
「な……え……?」
人質に取られた琴美はと言えば、自分の身に何が起こったのか把握できず、目を白黒させている。道を行く人々が、一体何事かと騒ぎ始めるのに、そう時間は掛からなかった。眉をひそめる者。小さく悲鳴を上げる者。おもむろにポケットからスマートフォンを取り出して動画撮影を始める者、様々な反応を見せる周囲の人々を尻目に、伊原は勝ち誇るかのような笑みを浮かべ、卑屈に笑った。
「妙な動きをするなよ機関の糞犬共が。大人しくしねぇと、この女の首を焼き切るぜぇ?」
伊原の手にはいつの間にか、高電磁ナイフが握られていた。太陽光を反射して眩しく光る切先を琴美の首筋に当てがい、じりじりと後ずさりする。つい先ほどまで袋の鼠だったのが嘘であるかのように、彼と機関員との距離は、既に五十メートルも離れていた。
「貴様、どうやって……!」
「へへ、秘密はこれよぉ」
口を開ける伊原。黄ばんだ歯が並んでいる。
その中に一つだけ、翡翠色に輝く人工歯があった。
「なるほど、機能片か……」
角刈りの男が、憎らしげに呟いた。
「ご明察。こういう事も想定して、あらかじめ仕込んでおいた甲斐があったぜぇ」
「小賢しい真似を! 力無き女性を人質にとるとは卑怯なッ!」
「褒め言葉、有難く受け取っとくぜ」
「それじゃあ、あばよ」と言い残し、伊原は人質を肩に担いだまま、再び奥歯を噛みしめて機能片を発動。足元に小さなつむじ風を残し、その場から跡形も無く消え去った。肉眼では追いつけない程の遁走術であった。
角刈りの男が苦い表情のまま、両拳を思い切り叩き合わせた。乾いた音が鳴る。表情から、悔しさが滲み出ていた。心配ないと声をかけておきながら、このザマだ。自分で自分が嫌になる。
「奴め、機能片移植手術を受けていたとはな。やってくれるじゃないか」
「小悪党に小細工とはお似合いですねー。あれ、加速型の機能片でしょう? 追い付けますかね、あたし達―」
「弱気になるなよ七鞍。直ぐに居場所を炙りだしてやる」
部下を叱咤すると、『村雨パイセン』と呼ばれた角刈りの男は、右手の中指と親指の腹を擦り合わせ、乾いた響きを鳴らした。その軽快な動作に呼応するかの如く、なんとしたことか。突如として空からぽつぽつと、幾条かの雨粒が降り出し始めたではないか。
小雨は十秒も経過しないうちに、コンクリートの大地をけたたましく打ち鳴らす土砂降りの豪雨へと変貌した。今の今まで雲一つ無い快晴だったのにも関わらず、見れば太陽はぶ厚い叢雲に覆われ、露天通り一帯から陽光が喪われていた。先ほどまで道を歩いていた人々は突然の豪雨に見舞われた事で少々のパニックに陥り、足早に露店街から去り始めた。
混乱の最中、豪雨を発生させた当の本人――練馬支部連絡長・村雨了一はじっと眼を瞑り、その場に留まり続ける。すれ違う人々の多くはそんな彼の様子を不思議に思いながらも、濡れた己の衣服を乾かすために近場の店へと逃げ込んだ。
瞑想の如く息を整えて目を瞑る村雨の脳内には、いま、半径五キロ圏内にいる人間達の動きが映像情報となり、濁流の如く流れ込んできている。彼の意志ひとつで降り出した雨粒の一つ一つが、空間を精緻にモニタリングし、標的の居場所を捜索しているのである。
《無情雨宿》。それが、歪に変貌した街の力場から授かった能力の名称。人間である彼を、能力行使存在たらしめている、不可思議な力。
「見つけたぞ。ここから北東地点へおよそ五百メートル。旧東大通りの、十字路から数えて三番目の脇道に入った所だ」
常人なら、その情報量の多さに負けて脳機能障害を起こすはずだが、村雨は普段通りに静かに目を開け、なんでもない風に結果を口にした。
ちゃっかり軒下に避難して雨を凌いでいた七鞍が、感心した声を上げた。
「たった数秒でそれだけ移動できるなんて、流石は加速型ですねー。人質にされた女の子は無事ですかねー。あの子、観光客か何かでしょー? どうも見た目からして都民とは思えませんから、心配ですねー」
「依然、連れ回されているようだな。だが殺してはいないようだ。伝播強壮剤を使うぞ」
《無情雨宿》を発動させたまま、村雨は懐から乳白色のカプセルをニ粒取り出し、一つを七鞍へ手渡した。両者ともにそれを飲み込み、一気に伊原が逃げた方角へ駆け出した。
疾く。そう念じるだけで良かった。思考力が電気信号へ変換されて肉体へと伝わり、脚力強化。効果時間は一分。もたもたしていられない。二人は常人が追いつけぬほどの猛烈なスピードで地を蹴り、疾走する。
「はぁーあー。一週間後には立川支部に異動だっていうのにー。こんなんじゃ先行き不安ですねー」
「愚痴を言う暇があったら足を動かせ」
「はーい。あ、でもでも村雨パイセン。伝播強壮剤使ってるとはいえ、ウチらの足で追い付けますかねー? ぶっちゃけ、向こうの機能片の方が性能高いと思うんですけどー」
「大丈夫だ。ああいう小悪党が使う代物は、その多くが違法な闇ルートで取引されたもの。廃スペック過ぎて、多用すれば使い物にならなくなるはずだ。じきに、こちらが追いつく」
「さっすがー。あたしより五年も長く機関に勤めてるだけの事はありますねー」
「六年だ」
そんな他愛ないやりとりを交わしつつ、二人の機関員は降雨を切り裂くかのように、練馬区の街中を駆け続けた。




