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アナザポリス・オリジナル-怪力乱神幻瞑録-  作者: 浦切三語
第四幕 幻幽都市の人々
28/78

4-6 ジーン・グラッセル、そして彼女の想い出

 深刻な会話をしていても、本人の意識とは関係なしに腹は減る。


 先に腹の虫が鳴ったのは、琴美の方だった。恥ずかしさから顔を赤らめ、お腹が空きました。そう正直に告白した。俺もだと、再牙が笑って言った。時刻を確認すると、既に一時近くを指していた。どうやら思った以上に、秋葉散策に時間を費やしたらしい。


「案内するよ。美味い店を知ってるんだ」


 ベンチから腰を上げ、二人は公園を出た。アイスキャンディーは結局口にする事なく、袋ごと公園のごみ箱に捨てた。


 秋葉原の表通りは益々混雑の様相を呈している。二人は人通りの多い場所を避けるかのように、徹底して裏道を歩き続けた。

 

 目に付く店の半分がシャッターを閉じ、客を寄せつけないでいる。その殆どが、夜間営業を主体とする、猥雑な看板を掲げた店だった。残り半分は、こじんまりとした、機械義肢や電脳構築のパーツ屋が主だった。


 その中でたった一軒、食堂があった。看板には白いペンキで、気品さを思わせる達筆で『カエルの飯処』と書かれている。入口には『ただいま営業中』の木札が、ひっそりとぶら下がっていた。商売繁盛という言葉からは、遠く離れた店構えだった。


 カエルを使った料理屋か。店の名前から琴美はそう予想した。嫌な気はしなかった。寧ろ、好奇心の方が勝った。


 幻幽都市ならではの料理。一度でいいから口にしなければ、勿体無い様な気がした。それに聞くところでは、カエルの肉は鶏肉に味が似ていると言うから、結構美味しいかもしれない。


 カウベルを鳴らし、再牙がドアを開ける。後に、琴美が続いた。


 店内には、小気味良いジャズ・ミュージックが流れていた。シックで落ち着きのある珪藻土の壁に、バランス良く配置された木製のテーブルが良く映えている。L字型のカウンターには、雑誌と調味類関係が疎らに置かれていた。


 昼時にもかかわらず、客は一人もいない。それどころか、カウンター越しから覗く厨房にも、人影らしきものは見当たらなかった。


 それなのに、何故か寸胴鍋が火に掛けられ、グツグツと煮え立っている。鼻腔を仄かにくすぐる芳醇な香りを感じながら、琴美は店内を隈なく見渡した。


「誰も、いらっしゃらないんですかね」


「何言ってる。ちゃんと店主がいるじゃないか」


「何処にですか」


「あそこ」


 再牙の指差した先。L字型カウンターの隅に視線を向けると、一匹のカエルが調味料置き場の影から顔を覗かせていた。


 トノサマガエルを一回り大きくさせたサイズのそれは、丸い眼球をあちこちへ忙しなく動かしていた。肌は薄緑色の粘膜に覆われ、背中には流線形のマーブル模様が浮かんでいた。模様は、明滅と流動を規則正しく交互に繰り返していた。


 粘液に覆われた皮膚は、天然のものではないように見えた。正確に言えば、本来あった皮膚に、何らかの説明不可能な科学的変化が付与されたような……そんな色合いをしている。琴美の知っているカエルの特徴ではなかった。だが、その姿形はまごう事無く、カエルそのものだ。


 客の存在に気がついたのか。カエルは、ぬらつく四肢をぺたぺたと動かし、おもむろに玄関口の方を向いた。薄い粘膜で保護されたその瞳が、じっと何かを見据えている。思わず琴美は噴き出した。


「やだ、可愛い。このお店のマスコットですかね」


「マスコットなもんかよ」


 どこからか、やけに渋い声が聴こえてきた。


 俺じゃないぞ。こちらを振り向いてきた琴美に、再牙は目でそう訴えた。


 その時である。突如、カエルがカウンターを蹴り、放物線を描いて石造りの床に着地した。カエルは、一切の曇りない濡れた眼で琴美を見つめ、そして歩いた。四本あしではなく、それが当然の動きだとでも主張するかのように、堂々と二本足でカエルが歩いた。


 琴美は、今日一番の驚き顔を見せた。馬鹿みたいに口を開けて茫然としている。目の前で起きている現象を、直ぐには飲み込めなかったのが容易に想像出来た。眉間に難しそうに皺を寄せて、戸惑いの色を浮かべている。


 カエルは肩をすくめて溜息をついた。右手の吸盤で、その滑る頭部をユラユラと掻く。口をへの字に曲げて、困り顔を浮かべているようだ。仕草の一つ一つが両生類のそれとは著しくかけ離れていた。まるで、人間を彷彿とさせる動きだった。


「何もそんなに驚く事ないだろぉ。たかだか一匹のカエルが二本足で歩いて、喋っているだけなんだからさぁ」


 渋くてしゃがれた声色。流暢に日本語を操る謎めいたカエルの言い草は、しかし目の前の少女には通じなかった。都市では当たり前な光景でも、その風土に慣れ切っていない琴美の瞳には、全てが驚天動地の現象として知覚されていた。琴美は依然として、玄関口に佇んで一歩も動こうとはしない。雷に打たれたように硬直している。


 しかし、かと思いきや、


「すごい! すごいすごいすごーーーーーい!」


 嬉々とした感情を爆発させると、その場でぴょんぴょん跳ね出した。まるで、生まれて初めて親にテレビゲームを買って貰った子供のように、弾んだ声を上げる。余りの反応に意表を突かれて、再牙が驚きと共にやや仰け反った。


「凄い! 凄いですよ! 火門さん見て下さい! カエルが喋ってますよ!」


 琴美は一片の迷いも見せず、床に立っているカエルを右手で素早く掴み取った。恐ろしく素早い動作であった。


「お、おい、落ちつくんだ小娘!」


 予想外の行動だった為、カエルは逃げ出す事もままならず、初対面の客に良い様にいじられる始末。琴美は己の好奇心のなすがままに、筋肉の詰まった足を引っ張り、水掻きを摘み、粘膜に覆われた背中を掻き、口を無理矢理開けて中を見て叫んだ。


「どういう仕掛けですか!? もしかして電池式!? どうやって喋ってるんだろ!?」


「おい、ちょっと!」


 興奮冷めやらないままに、琴美はカエルが逃げ出さないように両手で包み込むように握り締めながら、無遠慮にも体中を弄り始めた。そのたびに、カエルが奇妙なうめき声を漏らし、それがますます琴美の好奇心を刺激した。


 年頃の少女なら両生類に苦手意識を持っている筈。そんな再牙の予想は悉く裏切られた。飯を食うついでに、幻幽都市に未だ慣れていない少女に、ちょっとした驚きを与えてやろう。そんな彼の悪戯心が裏目に出る形になった。


「ちょい待ち! 君、いくらなんでもやりすぎだ。もう離してやりな」


 再牙は、テンションが上がりっぱなしの琴美の手から、カエルを掻っ攫った。ああ、と残念そうな声を上げる少女を尻目に、大丈夫か。そうカエルに声をかけた。


 カエルは再牙の掌の上で荒く息を吐くと目を細めた。不満げに口元を歪ませて、ぺっ、と粘着性のある唾を再牙に向かって吐き出す。小さな涎塊が宙を飛び、黄色のコートに沁みを作った。


「何しやがんだよお前!」


「それはこっちの台詞だ! なんでぇ、久々に顔を出しに来たかと思ったら、とんだおてんば娘を連れてきやがってこんちくしょう! 嫌がらせか? え?」


「俺に八つ当たりするな。筋違いだろうが」


「煩い! 小娘一人の手綱も握れないようじゃあ、一人前の男とは言えんぞ!」


「なんでそういう話になるかな……」

 

 呆れ返る再牙。その隣では、我を忘れてはしゃいでしまったことを恥じている琴美が、本当に申し訳なさそうな顔を浮かべていた。熱は既に冷めており、自分の行動を心から後悔している様子だ。


「ごめんない! 本当にごめんなさい! 喋るカエルなんて、初めて見たから……」


「お嬢さん、何言ってんだい。カエルに限らず動物が喋るなんて、この幻幽都市じゃあ見慣れた光景――」


 そこで、はたと気付いたのか。カエルは左手を顎に当てて考えた。ぬちゃりと、微かな粘膜同士が擦れる音がした。人語を操るカエルは、その大きな瞳でしげしげと少女を眺めた。


「もしかしてアンタ、《外界》から来たのか」


「はい。四日ほど前に」


「ふーん」


 カエルは再牙の手から勢い良く跳ぶと、近くのテーブルへ移った。ぺた、ぺた。滑る足音と共に、テーブルの木目に沁みが浮き上がる。カエルは、まじまじと興味深そうに少女を眺めた。


 地味な女だ。最初にそう感じた。次に、だが悪くない、そう思った。良く見れば、中々に可愛らしい顔をしている。胸の発達具合もちょうど良い。わずかに痒みの残る背中を水かきで掻きながら、そんな下世話な事を考えた。


「娘さん、さっき俺の事をマスコットと言ったね?」


 渋みをより一層増して言った。このご時世にダンディズムでも気取っているつもりなのだろうか。


「まぁ、そう思いたくなる気持ちもわかる。こんなダミ声でも、俺様の見た目はベリー・キュートだからな。女にも親切だし、お伽噺に登場してくるカエルなんかよりも、ずっとイケてる存在だと自負している。お嬢さんが勘違いするのも、無理ない」


 臆面も無く言ってのけた。琴美は取りあえず、黙って頷いた。再牙は呆れた様子で、次にカエルが何を口走るのかを見守っているようだ。


 カエルは、僅かに先が膨らんだ右手の指先で天井を指さし、高らかに宣言した。


「だが、すまないね。期待を裏切って悪いが、俺はこの店のマスコットじゃない。ましてや、電池式で動く人形でもない。れっきとした、生きたカエル。そしてこの店のオーナー。名前はジーンだ。従業員は他にいない。とりあえず、こんなところだ。飯を食いに来たんだろう? はやく席に着くんだ」





△▼△▼△▼△▼





 午前三時。ベッドに横たわっていたジーン・グラッセルは、己の体に強い衝撃波が襲い来るのを感じた。そうして次に目覚めた時、彼の体は一匹の小さなカエルへと変貌していた。四源の一つ、『偽獣』の具象化に見舞われたのだ。


 以来、彼は人間としてのアイデンティティーを喪失した。分からない。家族はいるのか。子供はいるのか。それとも独り身だったのか。分からない。


 唯一残っている記憶は、自身の名前。ジーン・グラッセル。たったそれだけ。他はどうやっても思い出せなかった。思い出そうとすると、激しい頭痛と吐き気に見舞われた。それらの痛みに耐えて己の神経細胞に訴えかけても、やはり、記憶は戻らなかった。


 大禍災(デザストル)は、ジーンから名前以外の全てを奪い去っていた。暖かい思い出も、冷たい思い出も、またそのどちらにも分類されない思い出の、全てを。


 自分はジーン・グラッセルという人間だった。その事だけは間違いない。自らの名前だけは分かると言うその中途半端な状況が、ますます彼の心を締め付けた。自分ははたして、どんな人間であったのか。それを知らなければならないという、ある種脅迫観念めいた衝動に、絡め取られていた。自身の過去、その全てを調べ上げようとした。


 だが叶わなかった。カエルの体というのは、人間のそれと比較すると格段に不便であった。視点は常に地面に並行で、カエル故に天敵も多かった。二足歩行は努力の末に会得した。味覚も、何故か人間と同じだった。感情を表現することも可能だった。しかしそれでも、むやみに街中を歩くこと自体が、危険を伴っていた。


 やがて、生物が自然淘汰を乗り越える為に環境の変化に適応するが如く、彼は考えを改める事にした。


 大禍災(デザストル)を生き残った事自体、運が良かった。ジーンは何時の日からか、そう考えるように努めた。自身を襲った理不尽な不運に、そうやって折り合いをつけるように心がけた。


 過去はもう思い出さないし、探りもしない。そうしてむりやり納得させた。そうでもしなければ、幻幽都市を生き抜く事など、到底望めそうに無かった。


 人もカエルも、生きていく為には夢が必要不可欠だ。カエルになってから七年が過ぎた頃、彼は無意識のうちに夢を抱くようになった。


 店を持ちたい。自分の料理を皆に振舞ってやりたい。そう願った。


 なんでそんな夢を持つようになったのか、不思議と彼自身にも分からなかった。多分、人間だった頃に料理人でもやっていたのだろう。その名残が、彼を突き動かしたのかもしれない。だからといって、今更過去の自分を掘り起こそうなどと言う気は、更々無かった。


 幻幽都市に凄腕の万屋がいる。そんな噂話を耳にしたのも、その頃だった。彼は四日かけて、住処だった秋葉原から練馬区へ歩いて向かった。二〇二七年、初夏の事である。


 夢を叶えてもらう為の孤独な歩みは、こうして始まった。車は勿論使えない。電車も乗車することを許されなかった。ジーンに見られる人体の突発的生態変化は、何も彼だけに起こった出来事ではない。一般的にこれらの現象は異形化(メタライズ)と形容されていた。


 異形化(メタライズ)した人間は、等しく未生物という呼称を与えられ、蒼天機関(ガルディアン)の監視対象リストに上げられた。蝸人(かじん)も、その一つである。彼らは自我を持ちながらも、基本的人権の範疇を逸脱した生物である。そんな彼らに、駅の職員がICカードを発行してくれる訳がない。


 当時の世相は、ようやく治安回復の兆しが垣間見えてきたのに取って代わるかの様に、異生物の排除運動一色に染められていた。今では都市新法も幾分か改正されている。人間に対して害の無い未生物にはそれ相応の権利保障が約束されていた。時代が変われば、人の価値観も変わり、追従して法律も変わる。当然の流れだ。


『火門涼子よ、よろしくカエルさん』


 練馬の安アパートの一室で、女はそう名乗った。火門、つまりは再牙の先代に当たる女性。目が覚めるほど麗しい女だった。思えば、ジーンがカエルの癖にやたらと人間の女の好みに口を出すようになったのは、彼女の影響が大きかったのかもしれない。


『店を持ちたいんだ』単刀直入に切り出した。


『良いわねそれ。どこに構えるつもり?』涼子は二つ返事で了承した。


『秋葉原がいい』ジーンはそう口にした。


『ナノマシンと生体癒着油(バイユイル)にまみれたあの街で? 正気?』


『そういう街だからだこそやりがいがある。機械仕掛けの人間達に、ナチュラルな食材の旨さを教えてやりたいんだ』酔狂の欠片も無かった。ジーンの熱意は本物だった。


 涼子は、力強く己の胸を叩いた。


 まぁ任せなさい。笑窪を刻んで、快活に笑った。


 その笑窪の形を、ジーンは今でもはっきりと覚えていた。


 そうして、彼は店を持つ事が出来た。途中、性根の腐った地上げ屋共――無論、全身をサイボーグ化している――がちょっかいを出してきた。


 俺達にミカジメ料も支払わずに、勝手に開店とは笑わせる。そう脅迫してきた。彼らは数の暴力を以て、ジーンの店開きを邪魔しにかかった。


 しかしながら、問題は全く無かった。

 一人残らず、(ことごと)く涼子の拳の前に沈んでいったからだ。


 細身ながら、女万屋である火門涼子が繰り出す武術の妙技は、達人級を超えていた。一体何処でそんな技を身につけたのか、ジーンには皆目見当もつかなかった。問い質しても、涼子はにこにこ笑うだけで、答えてはくれなかった。


 涼子が発する威圧に気圧されたのか。気づいた時には、店周辺から地上げ屋達の姿は忽然と消え去っていた。


 こうして、ジーンは料理人兼カエルとして、本当の意味での第二人生(セカンド・ライフ)。そのスタートを切る事が出来た。


「最初は結構繁盛していたんだぜ? 一番儲かっていた時なんかは、人間の従業員を六人も抱えていたし。敷地だって、この倍近くはあった。だがよ、流行なんてのは所詮、一過性のものだ。みんな、物珍しさで来ていたんだ。今ではこの有様だ。客は良くて日に十人。冷やかし目的で来る輩もいる。この街の奴らときたら、生身の肉体より、ヴァーチャルで他人と強さ(スコア)を競う方が大事らしい。まぁそれでも、客が最後の一人になるまで、俺は腕を振るい続けるだけだけどな」


 ジーンは昔話を語りながら、寸胴鍋の中身を木のヘラで器用に掻き回し続ける。人参、ジャガイモ、ソーセージ。《外界》でも見た事のある食材に混じって、時折、珍妙な形の黄色い肉片が混じっていた。かき混ぜるたびに鍋から飛沫が飛んでは、小さなエプロンに沁みを刻んだ。


 カエルが料理をする。ジーンと出会わなければそのファンタジック過ぎる画面を、琴美の脳はどう頑張っても正しく構築することは出来なかったろう。


 鍋の前に設置された一メートル程度の脚立。その頂きでたたらを踏み、カエルは全身から汗を滲ませる。ぐらぐら煮立つ寸胴鍋の中身を、具材が焦げ付かないように必死で必死で掻き混ぜる。


 真向かいのカウンターに座る琴美は、カエルの小さな小さな背中を凝視し続けた。調理に勤しむその姿は大変に危うく見えるが、しかし目を逸らしてはならない。そう強く感じた。


 書斎で仕事に励む父の背中。幼心に焼き付いた風景を、琴美はカエルの背中に見出していた。ジーンの体は、両手の平に収まるほどのサイズでありながら、その気迫と真剣さは、この店を覆い尽くさんばかりに、堂々としていた。


「ようし、良い具合だ」


 お玉を器用に扱い、味をチェックする。スープ作りに一通りの目途がついたのか。ジーンは脚立の側面をぺたぺた這って、コンロの火力をとろ火に変更する。


 そうすると、次は休む間もなく後ろ脚を使って跳ね続け、五秒と掛らずシンクへ移動した。


 キッチンの電源を押す。シンクの上面が開口し、超活性抗体で殺菌消毒済みのスチール性まな板がせり上がって来た。


 まな板の表面には、肉眼では見えないミクロサイズの孔が、均等に百か所程度空けられている。ジーンは横っ跳びを繰り返し、シンクの端に移動した。網駕籠から、色とりどりのパプリカを数個、レタスを一個、トマトを三個、小さな両手で順番に掴み取る。


 それら野菜の一つ一つを、玉ころがしでもするかのように運び、まな板の上に固定する。見ると、まな板の側面には小さなスイッチが数か所設置されていた。ジーンは慣れた手つきで、その中の一つを押した。


 キュインと、蚊の鳴き声に近い電子音が鳴る。不可視の電磁カッターが孔から噴出。瞬きもしないうちに、それぞれの野菜が、これから作る料理に適した形へ鮮やかに素早く寸断されていく。


「電界制御機構が内蔵された全自動式厨房システム。メンテナンス費は掛かるし型式は古いが、立派な俺の相棒だ。必要な食材を揃えれば、これ一つでフランス料理のフルコースが素人でも作れちまう。信じられるかい? 前菜、スープ、魚料理、肉料理、ソルベ、ロースト肉、野菜料理、デザート、食後のコーヒー。それが全部だ」


 まるで、優秀な成績を修める自慢の息子娘を紹介するような口ぶりだった。


 厨房が再び変形する。今度はまな板の両脇に位置する部分から、強化樹脂性の手が伸びて来た。樹脂の手はやけにリアルな作りをしていて、まるでそれ自身に意識があるかのように――実際は、複雑高度なプログラミングの賜物である――調理動作を機敏無く発揮し出した。


 樹脂の手は刻まれた野菜達を両手で一欠片も余すことなく掬い上げると、既にオート発火装置で弱火に掛けられているフライパンへ移し替えた。。


 野菜達の投入を底面に備えられた圧力式センサーで感じ取ると、フライパンがひとりでに舞いだした。右に、左に、前に、後ろに。野菜を一かけらも溢すことなく、タイミング良く円回転もした。


「本当に助かっているよこいつには。最初は機械なんかに頼るものかって強がっていたんだが、所詮カエルだ。やり始めの頃は、卵焼き一枚を作るのに一時間以上かかっちまった。そんな俺を見て、こいつの師匠が提案してきたのさ」


 膨れた右指の先で、ジーンは再牙を指差した。


「その時は、俺はまだ涼子先生には出会ってなかったから。でも知らなかったよ。なるほどな。そういう経緯があったわけか」


 流石に全ての調理を機械に任せるのは気が引けたのだろう。スープを作る時のみは、ジーン自らその腕を振るった。食材の調達も、わざわざ隣区の市場まで足を運び、一つ一つ選び抜くという拘りぶりであった。


 再牙はカウンターに両手をつき、左端から右端までスペースを余す所無く占拠する厨房を見渡し、感嘆にも似た声を上げた。


「それにしたって、凄いぜこのシステムは。一世代前の型式とはいえ、今でも百万以上はするぞ。よく買えたな」


「アイツが金を出してくれたんだ」


「へぇ、そうだったのか」


「アイツには、本当に世話になった。この店の看板も、アイツが書いてくれたんだ」


 アイツ。つまりは火門涼子の事を指していた。眉根をピクリと上げる再牙。反応からして初耳だったのだろうという事は、琴美にも容易に想像がついた。


「店を出して半月後だった。アイツがふらりとこの店にやって来てさ、目の前に札束の山をいきなり差し出してきて一言、使いなさいよ、だぜ? 俺ぁ何が何だか分からなくなっちまってさ。こんな万屋が幻幽都市にいること自体、信じられなかった。まさか、あそこまでお人好しだったとは思わなかったよ」


「そんな大金、どうやって用意したんだろうな」


「俺も聞いたさ。でも彼女はケラケラ笑うだけで、答えてはくれなかった」


「だろうな。あの人はいつもそうだった。そういう人だった」


 火門涼子は奇特な女性だった。少なくとも、再牙とジーンはそういう印象を感じていた。女でありながら万屋を営んでいたとか、そんな表面的な部分を抜きにしても。


 彼女は、自分が必要と感じること以外の言葉はなるべく口にしなかった。己の業績をひけらかすこともなかった。望めば簡単に手に入るであろう地位や名誉や名声を、自ら蹴り倒していくような、そんな女だった。


「その後も、月に最低一回は俺の飯を食いに来てくれて、必ず美味いって言ってくれた。アイツは、本当に良い女だったよ。正直、俺が人間の男だったら、会うなり真っ先に告白しちまっただろうなぁ」


 野菜が炒め終るのを待ちながら、ジーンは懐かしさに身を浸らせた。しゃがれたその声には、哀愁と憧憬の色が滲んでいた。


 手元の水入りグラスの淵をなぞり、再牙が囁くような呆れ声を出した。


「告白……か。やっぱり、お前もそうなのか」


「お前もって事は、やっぱり他にもいたのか?」


「無論。彼女がどういう人なのかを良く知らない奴に限って、みんなそういう事を口にした。そんな奴ら適当にあしらえばいいのに、先生はそうしなかった」


「きっぱりと、しかし男のプライドを傷つけぬよう懇切丁寧に断ったんだろう?」


「しかも、わざわざ手紙を出してな」


「まさか手書きで?」


「ああ」


「はぁ、そりゃなんとも……天然記念物ものだな」


 再牙はグラスの淵をなぞる手を止め、黙って頷いた。


「それが男の恋心を無残に散らす時もあれば、逆に燃え上がらせる事もあった」


「燃え上がる……ねぇ。ま、彼女にストーカー行為をする事自体、自殺もんだろうけど」


「本当に、包み込むような優しさを持った人だった。この街では異質な程に。俺みたいな野良犬にも、何の迷いも無く手を差し伸べてくれてさぁ」


「……本当に」


 人生、何があるか分かったもんじゃねぇな。


 ジーンは、その一言をぐっと胸の内に押し留めた。再牙に対して、口にすべき内容ではないと判断したからだ。


 万屋とカエル。奇妙な組み合わせだが、二人の間には一人の女性の幻影が確かに横たわっていた。火門涼子という女の幻影が。


 琴美もまた、男達の会話を媒介して、その幻影を朧げながら視認していた。女の自分でも惚れ惚れするような女性だったに違いない。会ったことも無い女性に対し、そんな想像を巡らした。


 二人の会話に、部外者である琴美は割って入れない。いや、入るべきではないと感じた。誰にだって秘密がある。他人には容易に触れてほしくない秘密が。そこへ遠慮なく土足で踏み入る事など、琴美には出来なかった。琴美自身もまた、秘密を抱えているのだから。


 横目で窺う。再牙がコップに入った水を口に運んでいる。二度と戻れぬ懐かしさに想いを馳せ、記憶の底に刻まれた哀しみに心を浸らせて。


 しかしながら再牙の瞳は、黄金よりも煌びやかな存在を前にしているかのように、眩しく輝いているように見えた。


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