4-5 サイバネティクスの聖地にて
練馬区の商店街を抜けた二人は電車を乗り継ぎ、秋葉原の新電気街へと足を運んだ。特に、何か重要な目的があって訪れた訳ではない。捜索屋からの連絡を待っている間、特にこれといってやることもなかった。さりとて、このまま別れるのもしのびない。
先に口を開いたのは琴美の方だった。一度でいいから、秋葉原に行ってみたい。少女はそう口にした。田舎育ちの彼女にとって、秋葉原は都会を代表する街だった。大禍災以前も以後も、その認識は変わっていない。
分かったと、再牙はそれだけを口にした。
依頼人の頼みを却下する理由は、彼には無かった。
2040年の秋葉原は、サイバネ技術とサイバーガジェットの聖地として知られている。連日連夜、その筋のマニア達でごった返していた。人体の一部を機械化した輩や、道を歩くアンドロイドの数も、練馬区とは比較にならない程多かった。
最先端科学の代名詞的存在でもある、ピュグマリオン・コーポレーションの本社が置かれているからなのか。秋葉原の街は、日進月歩で開発され続ける新型アンドロイドのデモンストレーション・イベントで盛り上がっていた。その他にも、人体の機械化技術や、バイオケミカルの治験キャンペーン、超現実仮想空間関連の娯楽が、街全体に熱意と活気を注いでいた。
現に、電脳喫茶に夜通しで入り浸り、電脳端末をこめかみに挿し込んで仮想の世界に没入しては、VRMMOに励む若者集団の何と多い事か。無限の宇宙の如く広がる仮想の世界では、誰もがヒーローになれるチャンスがあった。幻幽都市二十三区の中で、秋葉原におけるネット中毒者の数が群を抜いているのも、頷ける話だ。
「凄い。映画の世界みたい……」
駅から続く大通り。琴美は細い首をあちらこちらに伸ばして、小さく感嘆の声を漏らした。店の看板という看板にペイントされた文字は、一部が色褪せて読めない所もあった。そうでなくとも、一体何を意味しているのか分からない漢字の羅列は、琴美の目に新鮮さとある種の暴力を伴って飛び込んできた。
次世代素子の超薄型ソフトガラスだけではない。電子タトゥーもバリエーション豊かに取り揃えられている。
他にも、電素眼鏡、電脳端末、人工皮膚、生体癒着油、型落ちした機能片……軒先に並んだ最先端部品の数々。それらをラックの中でごちゃ混ぜにして、軒下で叩き売りする店主達の売り文句に買い言葉。練馬区の露店や市場に匹敵、いや、それ以上の喧騒っぷりである。彼らの言葉には、聞き慣れない言語が混じっていた。イントネーションも独特で、日本語とは大分異なっていた。
「日本語じゃないのが混じってますね」
「中国語だ。東南アジア圏の言語も混じってる。このあたりは、大禍災直後の混迷期に乗じて、多数の密入国者が潜伏したことで有名だからな。以来、ずーっと居座っているんだ。今じゃ、秋葉の七割は外国人で占められているって有様だよ」
「密入国ってそれ、犯罪じゃないですか! 機関の人達は取り締まらないんですか?」
「数が多すぎて無理なんだろう。それに、秋葉原には並々ならぬ活気がある。ここで生まれるサイバネ技術が、都市経済基盤の一端を支えていると言ってもいい。都市の金脈を自ら潰すなんて真似、奴らにしてみれば御免被るって感じなんだろうなぁ」
再牙の話を耳にしながら、琴美はふと、ある店の前で足を止めた。
「どうした?」
「これ……なんですか?」
琴美が指差した先には、電子製品を取り扱う店があった。狭い軒先に、赤いラベルが貼られた缶詰が山のように積まれている。再牙は缶詰を見ると、さして興味もなさそうな声で言った。
「ナノカンだな」
「ナノカン?」
「ナノマシンが詰められている缶詰の事だ」
そう言われて、琴美は試しに缶詰を一つ手に取ってみた。空気でも詰められているんじゃないかと思うくらい、軽かった。重さというのが殆ど無かった。
「そういえば、君のお父さんもナノマシンの研究をしていたんだったな」
四日前、琴美が依頼を持ちかけてきた際に口にしていた内容を思い出しながら、再牙が尋ねた。琴美は、尚も興味深そうにナノカンを眺めながら、答えた。
「はい。でも、こうやって実用化するまでには至りませんでしたけど……そもそも、ナノマシンって何に使うものなんですか?」
「何だ知らないのか。てっきり親がそういう事を研究してるから、君も知っているもんだとばかり思っていたんだが」
「父は、あまり私にそういった話をしてくれなかったもので。それに、私もそんなに興味は無かったですし……」
「ふむ」
さて、何から説明したら良いものか。再牙は道行く人々の邪魔にならないよう、店の中に入って話を始めた。その後ろに、ナノカンを片手に琴美が続いた。
「ナノマシンっていうのはその名の通り、ナノサイズで出来た分子機械にして超微小のモジュールの事だ。この街のナノマシンはモジュールの特性の違いから、『生物式』と『機械式』の二種類に分けられているのさ。で、生物式ナノマシンの集合体を生密駆動塊、機械式ナノマシンの集合体を製密駆動塊と呼び分けている。専門家の中には、製密駆動塊のことをNEMSと呼ぶ奴もいるな。ここまでは大丈夫か?」
「はい、なんとか……ですけど」
「うむ。じゃあます、機械式ナノマシンの説明からいこうか」
再牙はショーケースに並べられた品々へ適当に目線を配り、話を続けた。
「練馬の商店街を歩いている時に、機械製の義肢を装着している奴が何人かいたのに気づいていたか?」
「ええ。あのゴテゴテした、黒光りしている腕や足の事ですよね」
「あれは、事故や障害で失くした体の一部に、製密駆動塊をいくつも搭載する事で造り出された高性能の義肢だ。俗に言う、サイボーグ化の一種だよ。見た目が気に入らなかったら、人工皮膚を被せて本物の腕そっくりに見せる事だって可能でね。護身を兼ねて、構成する分子機械に命令系統を付与し、本人の意のままに武装形態をとらせる事だって出来る。銃や刀。そういった武器にな。つまり製造駆動塊ってのは、護身の役割を担う義肢の部品って訳だ」
「銃……あ、そういえば」
「どうした?」
「機関員の中に、そんな人がいたのを思い出したんです。こう、腕を振って機関銃に変えて……女の子でした。覚せい剤を売られそうになった所を、その人が助けてくれたんです」
「それって、君が伊原に襲われた時の話か?」
「ええ」
「……もしかしてその女の子っていうのは、癖っ毛が強い金髪で、眠たそうな目つきをしていなかったか?」
再牙が口にした特徴がまさにその通りだったので、琴美は思わず柏手を打っていた。
「そうですそうです! もしかして、お知り合いなんですか?」
「知り合い……ねぇ。商売敵と言った方が正しいかな。と言っても、向こうが一方的に俺を敵視しているだけなんだけど。その女の子と一緒に、角刈りの無骨な野郎もいただろう?」
「あー……そういえば、いましたね」
「アイツが特にしつこく絡んできてさ。仕事中に偶然出くわしては、かれこれ二十回近く横槍を入れられたよ。伊原の一件も、奴らが動いているって分かっていたから、先回りして伊原に接触したんだ」
苦笑混じりに、再牙が言った。その先回りのおかげで、琴美はこうして再牙と知りあう事が出来た。人と人の出会いと言うのは、なかなか巧妙に出来ているものだ。
「最初は何事かと思ったんですけど、なるほど、あの女の子の腕にはそういうからくりがあったんですね」
「機関員の中には、自分の手足を進んで機械製義肢に挿げ替えている奴も多いからな。それほど珍しい話じゃない」
手足を進んで挿げ替える?
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
聞き捨てならない発言を耳にして、琴美が一際大きな声を上げた。店の中にいた数人の客が振り返り、射るような視線を二人へ向ける。
だがしかし、ここはサイバネの街・秋葉原。電子と電脳と機械が織りなすサイバー・リリックが、たかが一人のか弱い少女の驚嘆に、耳を傾ける訳がない。店内に満ちるミュージックが、スコールのように騒音を撒き散らす。音圧に当てられた客たちは我に返ると、再びショーケースへ視線を戻した。
周囲が落ち着きを取り戻したところで、再牙が怪訝な表情を湛え、琴美の耳元で囁いた。
「どうした。そんな大声出して」
「そりゃ大声の一つや二つ出しますよ。だって、自分の腕や足を切断してまで、機械製義肢を欲しがる人がいるなんて。そんなの、どう考えたって普通じゃありません」
「《外界》から来た人には、そういう考えの人が多いな。大方、親から貰った大切な体を傷つける事に強い抵抗感を感じるんだろう。君も、そういう口か?」
再牙の質問に、琴美は黙って頷いた。再牙は難しい顔をして、銀髪を掻いた。
「そういう意見を否定するつもりはない。俺は全く普通の事だと思うが、人には色々な考え方があるからな。でもな、機械製義肢を装着するっていう事は、耳にピアスを開けるのとは訳が違うんだ。そうやって自分の体を武装しなきゃ、突発的な犯罪から己の身を守れない。そう考える人が多いんだ」
再牙の発言は、幻幽都市の世界では非常に常識的なものだった。
「蒼天機関は有能なジェネレーターを多数抱えているが、そういう奴らの中にだって、自らをサイボーグ化しているものが少なくない。そうでもしなけりゃ、街の平和を維持出来ない」
全身の至る所をサイボーグ化し、製密駆動塊を悪用する犯罪者の中には、ときたま、超常の力を宿したジェネレーターも混じっていた。
ジェネレーターとサイボーグ。天然と人工の力が織りなす二重螺旋の血生臭い暴威を如何なく振るう手合いは、蒼天機関が相手取る犯罪者の中でも、最も厄介で手強い存在だった。
そんな彼らに対し、機関員達が同じような武装を纏って立ち向かうのは、至極当然の事であった。でなければ、奴らの毒牙にかかり、真っ先にやられてしまうのは自分達の方だ。力には、力を以て当たらなければならない。
眼には眼を。歯には歯を。ジェネレーターにはジェネレーターで。サイバネ武装にはサイバネ武装で対抗するのが、この都市の文化だった。
「……私には、やっぱり分かりません」
琴美にしてみれば、その文化は酷く野蛮で、理解し難いものに思えてならなかった。根っこの部分の価値観が、まるで違うとも感じた。街の平和を守る為に自らの肉体を切り捨ててまで、武装化機能を施したナノマシンの義肢を装着する。とても、心の底から納得できる話ではない。
腕や足を切り落とし、その先に得体の知れない機械を取り付ける。その様を自分の事のように想像し、思わず小さな体を身震いさせた。
だが、郷に入れば郷に従えという言葉があることを、琴美は良く知っている。きっと、職務故に選ばざるを得ない手段なのだろう。そう自らに言い聞かせ、上辺だけ納得する事は出来た。
それでも、一般人が護身の一環で機械製義肢を進んで選択するというのは、全く以て意味が分からなかった。障害や事故で体の機能を失ったが為に義肢に頼るのなら、まだ話は分かる。
健康体である体を捨ててまで、一般人がその身をサイボーグ化する事に、重要な意味があるのだろうか。護身など、拳銃一丁で十分なのではないか。琴美は悶々とした思いを抱えて、そう再牙に尋ねた。
すると彼は、
「拳銃だけじゃ安心出来ないから、機械製義肢や機能片が売れるんだよ」
実に簡素な言葉を返した。事実、再牙の発言は的を射ている。琴美の考えは、幻幽都市で滞在する者としては大変に甘すぎる。しかし、それは何も、琴美の危機管理能力が低い事に全ての原因がある訳ではない。練馬区や『昼間の』秋葉原など、比較的治安の良い地域でしか都市の内情を見聞していないから、そんな事を言えてしまうのだ。
「それにしても、君は優しい奴だな」
不意に、再牙がそんな事を言うものだから、琴美は思わず「え?」と聞き返してしまった。穏やかな笑みを浮かべて、再牙が言う。
「お世辞で言ってるんじゃないぞ。本当にそう思ってる。なんというか……君のような考え方をしている子がもっと増えれば、この街も、ここまで歪に進化する事は無かったんだろうな」
「おだてたって、何も出ませんよ」
琴美は苦笑いを交えて、慌てて顔の前で手を振った。誉められる事に慣れていないのか、困惑が見て取れる。その反応が面白くて、再牙が笑った。
「だから、おだてて無いって。そこまでこの街の事について考えてくれてるなんて、一都民としては嬉しいよ」
「ですから、おだてても何も出ませんて」
「だから、おだてていないってば」
二人は、一頻り小さく笑い合った。琴美は、己の胸の内で燻ぶっていた火がみるみるうちに鎮火するのを感じた。出会ってそれほど日が経っていないが、こうやって話していると何故かとても安心した。父と母を喪い、親戚にも見捨てられた少女にとって今頼れる存在は、この疵面の男だけなのだ。
「お客さん、それ買う? 安くしとくよ」
二人の会話に、店の中国人オーナーが割って入った。女性である。先ほどまでショーケースの掃除をしていたのだろう。オーナーは手にもったはたきをヒラヒラさせながら、褐色に包まれた顔に皺を作り、店内に流れる騒音に負けないくらいの声を張り上げた。
「お客さん、聞いてる? 買う? それ。ナノカン安いよ。まけとくよ」
中国人オーナーは、琴美が手に持っているナノカンを指さして片言且つ早口で捲し立てた。
「あ、あの……」
「それ売れ筋。一番ヤバいね。使ったらもうビンビン。元気出るよ。体良くなるよ」
「ええと……」
琴美が困り顔で、再牙を見上げた。助け船を出さない訳にはいかない。
「君が手にしているそれは、生理薬品系統のナノカンだ。材料には生密駆動塊が使われている。医薬品や滋養強壮剤にサプリメントといった、バイタルメンテナンスや健康管理の分野で用いられている代物だ」
店のショーケースに並べられた缶詰を指さして、再牙が言った。缶詰には赤、青、黄色など、様々なカラーのラベルが貼られている。人体への効能具合で色分けしているのだ。
一番強い効能……例えば、常時覚醒を一週間連続で持続させたり、一回の性交で一リットルの射精を促すといった代物には、赤いラベルが貼られていた。
赤。つまり、最も効能が強い生密駆動塊が詰められている事を意味している。服用後に襲ってくる肉体疲労感が半端ない事もあって、精力回復剤との併用が必須とされている。
琴美は、軒先でなんとなく手にしたナノカンのラベルに目を通した。赤いラベルに黒字で『滋養強壮剤! 効果抜群間違いな!』と印字されている。ミスプリントだ。多分『間違いなし!』と言いたいのだろう。
試しにもう一度、缶を軽く振ってみる。やはり内容物の重さは全く感じられない。本当に中身があるのかどうか、疑わしい程に。
「それいいよ。凄くいいよ。使うときは一度に全部。これ大事。ケチっちゃだめ。女は度胸。何事も挑戦大事よ」
「で、でも、ナノマシンって何だか怖そうだし……体に悪いんじゃないですか?」
「何言ってる。あんたアホか。それ、エネルギードリンク。缶詰だけど、中は液体よ。飲めば元気すっきり。ベッドの上でも大活躍ね」
「はぁ」
言っている事の意味は良く分からないが、この店イチオシの商品なのだろう。購入を渋る面倒くさい客を相手にしてもなお、オーナーは諦める様子を見せない。
「絶対お勧め。絶対買って。お願い。買ってくれないと、あたし、ここで死ぬ」
先ほどまで見せていた押しの姿勢を引っ込め、今度はすごく悲しそうに目じりを下げて、哀願口調になった。商売人魂ここに極まる。琴美は変幻自在に表情を変える中国人のオーナーを前に、少々引いてしまっていた。目線をあちこちに泳がせ、なんと切り出すべきか迷っている。
「あ、あの、ええと、ど、どうしよう……」
「買ってみたらどうだ?」
再牙が、ニッと笑みを浮かべて購入を勧めた。
「土産品として持ち帰ることは出来ないが、この街で使う分には問題ない」
「うーん……」
「大丈夫だって。ただの滋養強壮剤だ。《外界》で売っているのと、そう変わらないよ」
「……じゃあ、買おう、かな」
ぎこちない笑みを浮かべる琴美。その反応を見て、オーナーは両手を叩いて飛び上がった。
「わお! 貴方優しい! スゴク良い子! きっと良い事あるよ! ありがと、ありがとね」
「それで、いくらですか?」
「二万円」
「高っか」
値段の高さに不服を感じた再牙が、店主に問い質す。
「おいおい、あんた正気か? 生理薬品のナノカンで諭吉を二枚使うとかありえねぇよ。ここいらの相場じゃ、せいぜい千円が関の山だろう?」
すると、オーナーは途端に不機嫌な顔になり、再牙に食ってかかった。
「何言ってる。あんたアホか。うちの店、これが普通。これが常識。余所の事情知らない。うち、余所よりスゴイ。品質最高。だから二万円」
「構成単位は? 製密駆動塊じゃないんだ。まさか五万とか八万とか言うつもりじゃねーよな」
「一万構成単位」
耳を疑った。一万の構成単位。赤ラベルのナノカンに使用される生密駆動塊としては、ごく普通の値だ。明らかに値段と釣り合っていない。思わずのけぞりそうになりながらも、再牙は不服な表情を浮かべて詰め寄る。
「アホはどっちだよ! そんなぼったくり商売やってたら、機関の抜き打ち監査に引っ掛かるぞ」
「大丈夫。金握らせる。すると、あいつら何時も黙る」
ぐっと、親指を立ててオーナーがウィンク。年増のおばさんがそんなことをやっても、気味が悪いだけだ。一部のマニアには受けそうだが。
再牙がわざとらしく、頭を抱えて溜息を吐いた。
「とにかく話にならん。二百円にまけろ」
「おっほー。あなたヒドイ男! 二百円じゃ、家族養えない。せめて一万円」
やった。釣れたぞ。
再牙は心中でほくそ笑んだ。
「駄目だな。九千円」
「むぅ。じゃあ八千円」
「まだだ、七千八百円」
「ノンノン。六千……」
再牙とオーナーの二人が、代わる代わる値段を吹っかけていく。片方は値段を釣り上げ、もう片方は釣り下げる。秋葉原の中古店でささやかに繰り広げられる、マネーのシーソー・ゲーム。琴美は両者のやりとりを心配そうに、只黙って眺めていた。
「五百八十円」
それが、マネー・シーソーゲームの均衡が保たれた金額だった。再牙はオルガンチノからガマ口財布を取り出すと、五百円玉を一枚、五十円玉を一枚、十円玉を三枚、きっちり支払った。
「毎度あり。またきてね」
売れてくれたらそれで良しとばかりに、オーナーは店を後にする二人を見送った。
「あ、お金、払いますよ」
慌てて琴美が財布を取り出そうとするが、それを片手で制する再牙。黙って首を横に振る。
「駄目ですよ。五百円ちょっとぐらい、自分で払います」
「気にするな」
「でも……」
「いいから。さ、街を案内してあげるよ」
陽気に笑って、再牙が先頭を歩く。琴美は黙って、彼の後を追った。筋肉質な大きな背中に、不思議とほのかな温かみを感じた。
△▼△▼△▼△▼
再牙に案内される形で、琴美は秋葉原の空気感を楽しんだ。
歩きながら、再牙は琴美に色々な事を教えた。例えば、秋葉原には手癖の悪い奴が多いから引ったくりにはいつも以上に注意しなければいけないといった事。人工皮膚を移植せずに機械製義肢を剥き出しにしている奴は、違法施術を受けたチンピラの類が多いから気をつけろ。そういった事を色々だ。
琴美は素直に再牙の忠告を受け入れた。ショルダーバッグを肩に斜め掛けして厚手の上着を羽織る。義肢を剥き出しにしている人には、出来るだけ視線を合わせないように努めた。
二人は偶然目に入ったゲームセンターで一頻り遊び倒した。琴美は、煌く電子世界がもたらす摩訶不思議な技術の数々に、目を輝かせるばかりだった。見たことも体験した事もない電子遊具の数々が、父親の事で思い悩んでいる少女に、僅かばかりの安息をもたらした。
琴美が秋葉原の魅力にとりつかれている一方で、時折、再牙は周辺へ耳目をそばだてていた。何か気になる事でもあるのだろうか。しかし、遊ぶ手を止めて琴美が尋ねても、彼は素っ気ない態度を取るだけだった。
街を一通り巡った所で、二人は電気街からやや離れた所までやってきた。目に付いた小さな公園のベンチに並んで腰掛け、休憩を取る。電子と機械が支配する秋葉原にあって、その公園だけが、時の移ろいに取り残されていた。ノスタルジックじみた哀愁を漂わせる、古ぼけた遊具の数々。群がる子供は一人もいない。
公園には、少女と万屋の二人しかいなかった。
耳元で、微かに聞こえる街のざわめきを感じつつ、再牙は唐突に切りだした。
「君のお父さんについてなんだが」
買ったばかりのアイスキャンディーの袋を開けようとしていた琴美の手が、不意に止まった。何か分かったんですか。そう、目で訴えて来た。
再牙は、しかし琴美の方へは視線を向けず、遊具のあちらこちらに止まっている七色に光る合成野鳩を見つめて言った。
「ネットで調べた所、お父さんは君と同じく、滞在と言う名目でこの街に来た事が判明した。だが住所はおろか、亡くなるまでの間、どの地域で生活していたのかさえ分からなかったよ。お父さんの居住履歴と勤務履歴は、三年間ずっと空白のままだったんだ」
何を言わんとしているのか説明せずとも、琴美には自ずと理解出来た。理解出来たと同時に、彼女の小さな胸が僅かに膨らんだ。俄かに色めき立つ心を必死に落ち着かせようとしているのか。ゆっくりとした動作で、小鼻から息を吐く。
「繰り返し聞く様で悪いが、お父さんは家を出て行く時、何か君に言伝を残したりしなかったのか?」
「いえ……特に何も」
「そうか」
冷静を装い、思考を巡らせる。愛娘を一人置いて、こんな街までやってくるのだ。理由の一つくらい話しておいてもよかろう。それとも、娘には話しにくい、何か後ろめたい思いを錠一氏は抱えていたのだろうか。
ベンチの背に体を預け、横目で琴美の様子を伺う。彼女の小さな頭は、再牙の肩よりやや低めの位置にあった。時折吹き付ける微風が、俯き加減の少女の栗色髪を撫でていく。
改めて、華奢な体つきをしていると思う。年頃の割に子供っぽい体格とも言えた。激流に飲み込まれたら、あっさりと攫われてしまいそうな程、ほっそりとした印象がある。
ろくな死に方をしていない。
再牙は錠一氏の末路に関して、そんな事を考えつつあった。幻幽都市での住所不定。それが結果的に意味する所の重要性と、もたらされる非劇性は、再牙なりに良く分かっているつもりだ。
公園は、依然として静寂の中にあった。何羽かの合成野鳩が、思い立ったかのように空の彼方へ飛んで行った。
激流が少女を襲う気配は、今のところ無い。だが、いずれやってくる。その時になって、この少女は果たして、無情にも突き付けられた現実を受け止める事が出来るだろうか。下手な形で真相が明らかになった時、心が折れやしないだろうか。間違い無く、折れるに違いない。
だったら一つ、ここで慣れさせてやるのもいい。激流とはいかないまでも、ちょっとした冷水を浴びさせてやるくらいの事は出来る。それも、ある種の優しさなんじゃないのか。
『女の子には優しくしなさいよ』
先代の言葉が脳裏を過るまでも無かった。再牙は思いつくままに言った。
「浮浪者の行きつく先は、たかが知れている。一番ありふれているのは麻薬に溺れて、深刻な中毒症状の末に狂死するケースだ」
琴美の表情が、一層硬くなった。
しかし、構わず続ける。
「色々種類はあるが、中でも初心者が一番手をつけやすいのが、音響麻薬だ」
「なんですか、それ」
「電子麻薬の一種で、麻薬効果を持つ音楽の事だ。ネットを使えば誰でも自由にダウンロード可能で、注射の必要も無い。流し聞きするだけで効果抜群で、精神的依存性は従来の麻薬よりも数十倍上を行く。そのお手軽さと中毒症状の恐ろしさから、幻幽都市でも最上位に位置する薬物だ」
中毒症状の具体的内容については、あえて口にしなかった。琴美が聞いてこなかったからというのもある。無論、聞かれても抽象的な言い回しで誤魔化すつもりでいた。長期的服用の果てに、脳みそがポタージュ・スープの様にドロドロに溶解してしまうなどとは、口が裂けても言えなかった。冷水を浴びせるにしては、余りにも与える衝撃の威力が高すぎると判断したからだ。
「その音響麻薬っていうのは、誰でも簡単に買える物なんですか?」
目を合わせずに問いかける。再牙は、黙って頷いた。
「無論だ。試しに、夜の秋葉原の裏路地をぐるりと回ってみろ。ものの十分で、そういう店に行きつく。純度はたかが知れているけどな」
「……証拠を見せてください。父がホームレスになったっていう証拠を」
「無い。これはあくまで俺の推測にすぎない。だが考えても見ろ。王都大学の教員という立派な肩書きがあるなら、働き口は直ぐに見つかるはずだ。衣食住に困る必要なんて無い。それが、家も持たず定職にもつかず、三年間ずっと住所不定というのは、これはもうどう考えてもおかしい。ホームレスになったと考えるのが普通だ」
「でも、それなら機関の人達が黙って見過ごす筈がありません。父も滞在目的でこの街に来たなら、私と同じものを身に付けているに違いないんですから」
彼女の右手。ちょうど薬指の第二関節辺りに視線を落とす。銀の指輪は、公園に降り注ぐ穏やかな陽光を浴びて、鈍い光沢を輝かせている。アルファ17から貰った個人端末機を、琴美は言いつけ通りにずっと嵌めていたのだ。
「これを嵌めていれば、居場所なんか直ぐに分かるって聞きました。もし父が職も見つからず路頭に迷っていたら、心配した機関の方々が父の下に駆けつける筈です」
琴美の言い分は一見筋が通っている様に思える。だが、再牙の反応は冷ややかだ。
「君はどうやら、勘違いをしているようだな」
「どういう意味ですか」
「その指輪型端末機は、機関側が定めている危険区域や、重要機密施設に無許可で侵入したときにのみ、意味がある。身に付けた本人がホームレスになろうが、麻薬中毒患者になろうが、機関は関知しない。街中で犯罪に巻き込まれたとしてもだ」
愕然とした。練馬区で伊原誠一に絡まれた際に機関員が助けに割って入って来たのは、ただの偶然に過ぎなかったのだ。
「そんな……」
「そんなじゃない。それが、この街の掟なんだよ。宣誓文にサインをしただろう? あそこに書かれていた内容を忘れたのか」
琴美は頭を振った。アルファ17が手渡してきた、一枚の紙。記述されていた内容の全てを覚えているわけではない。だが、要所要所は頭の隅に残っている。
自発的な行動の末に本人がどのような目に遭ったとしても、機関は一切の責任を負わない。大体、そんな内容であったろうか。文章を構成する文字の順序は把握できても、中学を卒業したての琴美には、文の裏に隠された真意を推し量る術が無かった。
「それに」再牙は言う。「その指輪は外そうと思えば外せる。だが外したからといって、機関が注意勧告をしてくるわけでもない。ああ、外したの。勝手にすれば。そんな具合だ」
「でもドラム缶さん、そんな事一言も言っていませんでしたよ」
「ドラム缶って……ああ、アルファ17の事か。当然だ。言う訳無いだろ」どうにも会話にずれを感じる。「得てして世の中とは言うのはそういうものだ。社会とはとどのつまり、重要な事、肝心なことは一切教えてくれない」
琴美は押し黙った。可憐な顔に、強張りが張りついている。再牙の遠慮無い推測に反感を覚えているのか。それとも自分の父親がホームレスになったという事実を想像し、悲嘆に暮れているのか。あるいはそのどちらでも無く、別の事を考えているのか。慮る万屋だったが、感情までは読めなかった。
「もし、火門さんの言っている事が、仮に本当だとしたら」
本当に、父親がこの街でホームレスとして生活していたなら。
小さな唇から、声が漏れた。
「私、やっぱり父を許せません」
その一言は、鋭利な刃と化して、少女自身の深層意識を突き刺した。アイスキャンディーの袋を破こうとする手に、自然と力が入った。再牙はその様子を、傍らで見守っていた。彼の視線は袋を引き裂こうとしている少女の指ではなく、何故か、少女の顔へ向けられていた。




