表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アナザポリス・オリジナル-怪力乱神幻瞑録-  作者: 浦切三語
第三幕 五千万の仮想世界と殺戮遊戯の宿命
19/78

3-6 神眼潰しの殺戮者

「(舐めやがって。ぶっ殺してやる)」


 沸々と、怒りが煮え滾る。豹馬はギリギリと奥歯を噛み締めた。右手に持ったギターケースのグリップ部分を、捻るようにして強く握り込む。


 ケースの内部で、何かが出来上がる感覚があった。銃の構造がロケットランチャーからマシンガンへと変化した。相手の力量から、瞬間火力に優れるマシンガンで対応した方が、得策であると判断したのだ。


 狙いを定めて、豹馬はありったけの力で壁を駆け、グリップを軽く握り込んだ。ギターケースの先端部分から、弾丸が乱射される。ケース内部の弾帯が、次々と消費されていく。マズルフラッシュが洪水のように溢れ出し、小気味良い発射音が闇に溶けた。


 スメルトも、負けじと応じた。巨大な殻の内部から展開させた重機関砲がわななきを上げる。砲撃にかかる衝撃を支える両腕に、増々の力が込められ、腕のあちこちに浮かび上がる太い血管が収縮する。腕の眼球が、僅かに盛り上がった。眼球は窮屈そうに瞬いていて、それがどこか可笑しく、不気味極まりなかった。


 通路を挟んだ凄まじい銃撃戦だった。闇夜に閃光が満ちる。弾丸が弾丸にぶち当たる。


 やがて、静寂がやってきた。弾切れだ。両者ともほぼ同じタイミングであった。


「ちっ!」


 豹馬はギターケースをあらぬ方向へ投げ捨てた。壁を勢い良く蹴り、空中へ飛翔。左手の指と機械製義手の右指が、爪獣類ベヒイモスのそれへと変化している。大きく湾曲した鋼鉄の爪で、敵の殻を断ち割ろうとする。


 スメルトは、ガトリング砲を殻から露出させたまま、両腕で壁を押し蹴って横へ飛び、すんでのところで、豹馬の一撃を凌いだ。


 攻撃が外れたとみるやいなや、豹馬は迅速に次の手を打った。麒獣類ベヒイモスの力を再度両足に宿すと、ブーツ越しに足指で鉄柱の壁面を掴み、両膝と腹筋に力を込めた。そうして、ありえない体勢を維持したまま、左の掌を壁につけて腰を捻る。


 豹馬の右足が、鞭のようにしなった。だがしかし、クリーンヒットには至らず。大気を切り裂いて放たれた回転蹴りは、スメルトの右人差し指の先端部分を掠っただけに終わった。


 豹馬の追撃は止まない。今度は回転蹴りの勢いを殺さず、流れるように左足で、再びの回転蹴りを見舞う。だが、結果はさっきよりも悪かった。豹馬の左足は、虚しく空を薙ぐのみであった。


 それもこれも、敵の身軽さによるものだ。スメルトは、見た目の奇怪さからは想像もつかないほど素早かった。持久戦に入れば、豹馬の不利は明白。


 状況が、徐々にスメルトに有利な方向へ傾いている。にも関わらず、スメルトは豹馬の怒涛の攻撃をやり過ごすと、重機関砲を殻へ仕舞い、攻撃の手を止めた。


 何を企んでいる――訝しむ豹馬の胸中をあざ笑うかのように、スメルトは、筋肉質な腕の脚(・・・)を縦に回転させて、あろうことか鉄柱の壁面を疾走しはじめた。廃れた建物の屋上を跳んで、また跳んで、みるみるうちにその体が小さくなっていく。


 それは、突然の逃走行為だった。


「待てッ!」


 絶対に逃がすものか。


 豹馬も負けじと、鉄柱から近場の建造物の屋上へ飛び移り、撤退へ転じたスメルトの後を必死になって追いかける。深追い。だが、それで良いと彼は判断した。命拾いしたまま逃げ出すという選択肢は、彼の頭には無かった。


 襲撃者の身元が分からないままでは、寝付きが悪い。それに、いつまた襲われるとも限らない。今、この場で、あの気味悪い蝸人を始末しなければならない。


 朽ちた建造物の屋上から屋上へ、駆けて跳ね、闇夜に包まれた鉄柱の花園を舞台に追跡劇が始まった。

先を走るスメルトの脚力は、豹馬の予想を遥かに超えていた。一流のサイボーグ・アスリートなんぞ、比較にならない程の速度で逃げていく。


 しかし、駄目だ。追いつけない。


 豹馬は、どうしようもないもどかしさを覚えた。


魔獣憑き(アニマ)》の能力は、一度に一か所へしか反映出来ない。闇夜に溶け込もうとするスメルトを捉えるため、能力は今、豹馬自身の両目に使用している。両足に能力を反映させるには、この夜目を犠牲にするしかない。だがそうすれば、闇夜に乗じた襲撃者を見失う事になる。今のままでも同じことだ。あの足の速さには、生身では到底追いつけまい。


「(ARCL(アークル)を搭載しておくべきだったな……)」


 ARデバイスの暗視スコープ機能なら、暗闇の中でも相手を見失わずにむ。一抹の後悔が豹馬の脳裏を過った。だが、今更そんなことを言っていられるか。構わず、彼はスメルトの背中を追って屋上を駆け続けた時だった。


 不意に、足を誰かに掴まれたような、奇妙な感覚が彼を襲った。


 豹馬ははっとして、視線を己の左足首へやった。


 戦慄が走った。錯覚ではなかった。がっしりと、右足首を何者かに掴まれていた。屋上の床から伸びた手は、紫のオーラに包まれていた。やけに細く、青白く、有機的。そして、どこか無機質な感じを思わせる、不気味な手だった。


 それは、ただの手ではなかった。


「あ、あ、あぁぁぁッ!?」


 豹馬の喉奥から反射的に発せられたのは、絹を裂くような叫び声だった。


 豹馬の足首を掴んでいるものの正体。それは、人間の骨だった。青白く光る、右手の骨だった。


 骨を包み込んでいた紫色のオーラが、突如として膨らんで爆ぜた。爆発は小規模。しかし、的確なダメージを与えるのには十分だった。


 爆風に押されて、豹馬は床を転げ回った。猛烈な痛みが、彼を蝕んだ。仰向けに投げ出される。豹馬は、吹き飛ばされた自身の右足に視線を注いだ。黒ずんだ皮膚が剥がれている。黄色い脂肪が焼け、骨の一部が露出していた。


「(これも、あの蝸人の能力なのか……!?)」


 豹馬は、激痛に顔を歪ませた。ねばつく汗をかいて、スメルトが去った方向を見やる。視線の先には誰もいなかった。広がっているのは、行く手を阻むかの如く広がる、闇に生える鉄柱の林。ただ、それだけだった。


「痛いでしょ」


 声に反応して、豹馬は振り返った。一人の少女が突っ立っていた。少女の頭には、ネコミミが生えていた。ゴスロリ衣装に身を包み、可憐な死の匂いを撒き散らしていた。少女のほっそりとした右手には、金色のタクトが握られていた。


「爆発自体は大した事ないんだけど、神経を麻痺させる効果があるからね。もう、まともに歩くことすらできない筈だよ」


 慌てて右足に力を込めようとする。が、上手くいかない。少女の発言に嘘はなかった。爆発時に、霧状の神経毒が散布されたのだ。襲撃者は、あの蝸人だけではなかったのだ。


 口惜しそうに、豹馬は唇を噛んだ。他の気配にまで注意を向ける事が出来なかったのは自分のミスだ。それだけに、余計に悔しさがこみ上げてくる。右足を襲い続ける激痛に、思わず失神しかけるも、堪える。今の彼は、意地と根性だけで気力を繋いでいる状態だった。


「何が目的だッ! 何故俺を襲うッ!?」


「分からないわ」


「分からない、だと!?」


私たち(・・・)は、ただ言われた事をやっているだけ。これは、来るべき日に備えた実戦なんだって、私たちの雇い主は言ってた。あなたみたいな悪事に手を染めている人は死んでも誰も困らないから、だから殺していいんだって」


「過激思想に染まった狂信者か、貴様らは。自分たちのやっていることが、正義だとでも?」


「正義……」


 少女は眉根を寄せ、難しそうな表情を浮かべた。


「そういった抽象的な話については、良く分からない」


「質問を変えよう……誰に雇われた。誰に俺を殺すように命じられたッ!」


「言えないし、言う気もないよ。貴方は、ここで死ぬんだから」


 少女は、謡うようにタクトを振るい上げた。

 それが合図だった。


 ゆらりと、少女の周囲に十体程の骸骨が出現した。闇が産み落とした、地獄の亡者たちだ。亡者は紫色のオーラに包まれ、カタカタと小刻みに顎を揺らしていた。意思を奪われた、死を纏いし亡者の人形だ。皆一様に猫背気味になって、赤い灯が宿った双眸で、じっと、豹馬の様子を伺っている。


 幻幽都市広しと言えども、このような超常現象を瞬時に発動できる人種など、限られている。豹馬は少女の正体に、すぐに気が付いた。


「ジェネレーター……か」


 こくりと、少女が頷いた。馬鹿に正直な態度だった。


「私の能力はね、土地に根ざした能力なの。昔々にその土地で亡くなった人たちの魂をあの世から呼び寄せて、物質として固定させる。標的に触れた途端、毒ガスをばら撒きつつ爆発するのが特徴。物質としての形は、私がイメージしやすいように骸骨の姿を取らせているだけ」


 少女は傍らに立つ骸骨の一つへ視線を投げかけ、言葉を続けた。


「骸骨一体一体を包んでいるこの紫色のオーラは、この世に固定しきれなかった魂の残渣なんだよ。多分、もっと上手くやればオーラ量を減らせるんだろうけどね」


「随分とお喋りなんだな」


 皮肉交じりの笑みを零す。精一杯の抵抗であることを見透かしたのか、少女は余裕たっぷりの態度で言った。


「自慢している訳じゃないの。自分の能力を喋ったのは、貴方に勝つ自信があるからなんだよ。さぁ、もう終わりにしよう?」


 少女がタクトを振り上げる。


 骸骨の群れは両腕をだらりと下げたまま、胸を突き出すような形で、豹馬へ向けて走り出した。眼前に扇状の陣形をとって迫りくる、十の骸骨。その瞳は虚ろにして、だが確かに、豹馬の存在をこの世から抹消せんとする気迫があった。幽鬼を彷彿とさせる進撃だった。


 恐怖で顔を引き攣らせながらも、豹馬は生きることを諦めてはいなかった。迷っている場合じゃない。夜目を捨てる決意をするのに、時間はかからなかった。地面に倒れたまま、ベヒイモスの力を両目から両腕へと反映させる。


 豹馬の両腕があっという間に変化を遂げた。肉が盛り上がり、そこから新たに骨と神経が、そして羽毛までもが生えた。霧翼類ベヒイモスの『翼』の能力を反映させて、腕を大翼へと形態変化させたのだ。


 ばさりと翼を振るえば、突風が巻き起こる。風圧に押されて、骸骨の進撃が僅かに止まった。その僅かな隙を逃さぬ豹馬ではなかった。


 好機とばかりに、懸命に翼を羽ばたかせた。闇の中で旋風が巻き起こり、豹馬の足元に風の防壁が生まれた。


 額に汗を滲ませ、豹馬は懸命に抗った。ボロ雑巾と化した右足の痛みなんて、もはやどうでもよかった。気力の勝負だった。精神力の闘いだった。顔が自然と苦悶に歪んだ。必死に必死に、何度も何度も翼をはためかせる。

 

 ついに、豹馬の両足は、地面から離れた。


 息を切らせて、眼下を見る。距離にして十数メートル下の屋上。行き場を無くした十体の骸骨が、赤い瞳を爛々と輝かせて豹馬を見上げていた。彼らはただの骨だ。骨のバケモノだ。表情なんてない。そう思い込んだ。思い込んだが、しかし豹馬は背筋が凍った。骸骨の双眸に、どうしても恨みの念を見てしまう。憎き相手に報復しようとする、あの独特の殺気を感じる。


 全身が粟立つ。獲物を道連れにせんとする骸の集団。そして、それを操る年端もいかぬ少女。普通じゃない。この殺し屋集団は、普通じゃないんだ。今まで出会ってきたどんな相手よりも、手強く、そして恐ろしい。その事に今更気づいた自分の愚かしさが、豹馬には呪わしかった。


「(逃げなくては。一刻も早くここから……国立市から逃げなくてはッ!)」


 ミキサーにかけられた果物のように、ぐるぐると頭の中が回転する。

 恐怖と焦り、そして『最悪の予兆』が、ひたひたと迫り来る。


 骸骨の攻撃はここまでは届かない。そう思いたかったが、確信することは出来なかった。理由は、少女が実に冷めた目つきで、こちらをじっと見据えていたからだ。その瞳をいつまでも眺め続けていられるほどの余裕は、今の豹馬にはなかった。


 その時、豹馬は不意に思い出した。


 先ほどの少女の台詞。


 私たちは、只言われた事をやっているだけ。


 少女はあの時、確かにそう口にした。





 私たち(・・・)





 全身の汗腺から、嫌な汗がどっと沸いた。


「(まさか、まだ他にも仲間が――ッ!?)」


 翼にありったけの力を込めると、豹馬は急いで駅の方へ舵を切った。鉄柱の林をアクロバットに旋回。夜風を切り裂いて飛び駆ける。その形相には、恐怖が張り付いていた。


「(どこだ……ど、どこにいる……ッ!)」


 油断なんか絶対に出来ない。歯をガチガチ鳴らして、視線をあちこちにやる。だが、敵と思しき人物の姿は勿論のこと、気配すら感じない。私たち・・・という台詞が、具体的に何人を指しているのか把握できない。それが一層の恐怖を煽った。目の前に広がる暗闇が、何だか先ほどよりも一層の深みを増しているように思える。そう考えただけで、恐怖心が胸中で増大していく。


 懸命に逃げ続けた。豹馬はいつの間にか駅の付近まで来ていた。具体的には駅前の団地付近までだ。既に時刻は夜中の一時を回っている。ポツポツと、団地から明かりが漏れているのが目に入った。団地の明かりを見た途端、豹馬は暗闇の世界から解放された事を自覚した。乾いた唇から、安堵のため息が漏れた。





 ――彼の視界の左端で、何かが光った。





 何だろうか。そう意識するよりも先に、胸にたまらない熱さを感じた。何かが、薄手の防弾ジャケットに包まれた豹馬の左胸を貫いたのだ。それは、一条のレーザー光線だった。


 口から大量の血を吐いて、豹馬は空中でバランスを崩し、訳が分からないまま地面へ急降下していくしかなかった。全身に力を入れて体勢を立て直そうとするも、無駄だった。穿たれた右胸から、ぴゅっと鮮血が飛び散り、口の中に不快極まる鉄の味を感じた。


 どしゃりと音を立てて、豹馬は固い地面へ仰向けに激突した。全身に移植した衝散性筋繊維(スラッシュ・マッスル)のお蔭で激突時の衝撃は緩和されたが、それでも、体勢を整えるのには時間が必要だった。何より、左胸を貫いた一撃が堪えている。


 荒い息をついて周囲に目線をやる。運よく(・・・)団地の真ん前に落下したようだ。音を聞いて目が覚めたのか、マンションの部屋の電気がいくつか灯った。中には、窓を開けて外の様子を伺っている者もいた。


 重症だ。放っておけば死ぬだろう。それほどの傷だった。それでも、豹馬は何がおかしいのか、にやりと口角を上げて笑みを浮かべた。震える手でジャケットのポケットに忍ばせておいた治癒膚板(ポーション)を三つ取り出すと、胸の傷口と毒に侵された右足へ塗りたくった。


「……ったク、アニキの言った通りになっちまったカ」


 何の前触れもなく、坊主頭の巨漢が建物の影から姿を現した。月夜に照らされた男の姿を見て、豹馬は思わず息を呑んだ。


「強敵だと思ってたのにヨォ、興ざめだゼ。ナァ? 責任とってくれるよナァ? 俺の『ヨッシャー! 強敵と全力でぶつかり合えるぞ!』ってな感じの期待を裏切った責任をヨォ?」


 身長二メートルはあるかと思われる程の頑丈そうな体躯。顔の正面に、赤い十字架模様の電子タトゥーを移植していた。腕の立つ雰囲気を醸し出している男の上半身は裸だった。全身が筋肉の鎧に覆われていた。胸板に浮かび上がる汗の珠が、月光を浴びてぬらぬらと照り輝いていた。


 キリキックの出で立ちは、まさに金剛仁王像を彷彿とさせた。だが金剛仁王像とは異なり、その両手は衆生を導く為にあるのではない。自らの強さを証明し続ける為の戦闘武装としての役割以外、何も無かった。


「ジェネレーターとサイボーグのハイブリッドだって聞いてたから期待してたんだガ、やれやレ、どうやら買い被りが過ぎたみてぇダ」


 左手に装着したギロチン型機械製義手《キングクラブ》の両刃に毒液を循環させ、右手に装着したチェーンソー型機械製義手《ジェイソンG5》のスイッチを入れながら、キリキックは酷く残念そうに笑った。


「……へっ」


 高速回転するチェーンソーの耳障りな音を聞きながら、豹馬は不敵に笑った。


「何がおかしいんダ?」


「お前、国立市このまちの人間じゃないな?」


「だったラ、何だって言うんだヨ」


「はっ! 貴様、どうせ勝った気でいるんだろうが、残念だったな。この街の『ルール』を知らないのなら、スクラップになるのは俺じゃない。貴様の、そのご自慢の物騒な機械製義手の方さ」


 そこで言葉を区切ると、豹馬は大量の息を吸い込み、




「助けてくれぇぇぇぇぇええッ! ここに人殺しがいるぞぉぉぉぉぉぉおおッ! よそ者の殺し屋だぁぁぁぁぁああッ!」




 叫び。必死の叫び。命の叫び。


 上空に浮かぶ墨汁色の雲という雲に、穴が開きそうな程の大音響で、誰にとは言わず大声で助けを乞うた。ひとしきり叫んだ後、荒い息をつきながら、豹馬はキリキックに向かって得意げに喋り出した。


「幻幽都市には、都市全土に共通する都市新法と呼ばれる法律以外に、『もう一つの』法律がある。各区、各市町村が独自に設けた『ルール』が、その『もう一つのルール』だ。その街で暮らしていくのに欠かせない、絶対のルール。国立市における『ルール』は唯一つだけ。『よそ者が国立市で狼藉を働いた場合、全市民は互いに協力し合い、これを撃退すべし』。それが、国立市のルールだ……俺は、生まれも育ちも国立市。つまり貴様は……いや、貴様らは俺だけを相手にしていたつもりかもしれないが、それは国立市の全住民を相手に戦うって事を意味しているんだよッ!」


 言い終えた所で、俄かに団地周辺が騒めきを増した。殆どの部屋に明かりが灯され、寝静まっていた住民が窓を開け、外の様子を伺っている。


「(やった! 俺の勝ちだッ!)」


 背後を振り返り、団地に向かってまた声を張り上げる。


「助けてくれッ! 襲われているんだッ! 相手はよそ者だぞッ! 国立市の奴らを無差別に襲うつもりだッ!」


 最後の台詞は、急遽でっちあげたものだ。事実無根に等しい。構うものかと豹馬は思った。自分の命がかかっているのだ。利用できるものは、なんでも利用しなければならない。


 団地の住人のうち、およそ三十人近くが窓から身を乗り出し、豹馬とキリキックの方を見た。中には懐中電灯を持ち出し、詳細に二人の様子を把握しようとする者も現れた。


 豹馬は、はやる気持ちのままに、更に声を張り上げて救済を欲した。何人かの住人と目があった。良かった。これで助かる。後は危険を察知した住人が、何とかしてこの巨漢の男を仕留めてくれる筈だ。そう思った。


 団地の住人は、特に何の動きも見せなかった。怪訝そうに豹馬の顔を見て、どこか、もどかしそうな態度を取っている。団地の階下を降りて現場へ駆けつける者は、一人としていなかった。


「おい何やってんだッ! 早く助けろッ! よそ者の殺し屋に襲われてるって言ってるだろッ! 国立市の『ルール』を忘れたのかッ!」


 苛立ち交じりに声を上げる豹馬。彼が言っている内容は、実際正しい。国立市の『ルール』に基づいて考えるなら、この場合、真っ先にキリキックを排除しなければならないはずなのだ。


 暴れている相手の力量が、自分より上か下かといった事は関係ない。とにかく、よそ者の狼藉は決して許してはならない。それが、国立市の住民同士が作り上げた掟なのだ。


 にも拘らず、団地の住人達の動きは芳しくなかった。彼らは揃いも揃って、困ったような、怯えたような、どこか無関心な様子で窓際に立ち尽くすのに終始していた。


 そして豹馬の決死の叫びも虚しく、事件を目撃した約三十人の住人達は、複雑そうな表情を浮かべたまま、自室へ戻った。無情にも、部屋の明かりが次々と消されていく。闇が再臨し、孤立無援となった豹馬を包み込んだ。


「そんな……なんで……」


 豹馬は愕然とした。有り得ない。例え襲われているのが悪事に手を染め続けてきた万屋であろうとも、市の『ルール』は絶対のはずだ。彼らに、この巨漢の男を襲わない理由がない。


「…………一九六三年の三月、アメリカのニューヨーク州ブルックリンで、一つの殺人事件があったのを知っているカ?」


 静寂に包まれた闇を切り裂くように、キリキックは突如、そんな意味不明な話をし出した。つい今しがた、目の前で信じられない光景を目にしたせいで頭が混乱していたのか、豹馬は、「は?」と間抜けな声を出した。呆然と無意識のままに、巨漢の話に耳を傾けた。


「被害者の名ハ、キティ・ジェノヴェーゼ。当時、二十九歳の女性ダ。彼女は仕事帰りの午前三時、自宅アパートの駐車場に車を停めた所ヲ、突然、見知らぬ男に襲われタ。男の名はウィンストン・モーズリー。男ダ。過去に強姦事件を起こしたことのある、凶暴な男だっタ」


 キリキックは、わざとらしく言葉を区切った。そして、また口を動かす。


「モーズリーは前々からジェノヴェーゼを狙っていたんダ。駐車場の影に潜ミ、彼女が車から出てきた所を狙ったのサ。モーズリーは隠し持っていたナイフを使っテ、彼女の体をあちこち刺しまくっタ。陰惨な事件ダ。それでモ、ジェノヴェーゼは全身から血を流しながラ、アパート周辺で叫び声を上げ続ケ、必死になって助けを乞うタ。けれども結局、自宅アパートの入口付近で息絶えタ。彼女がモーズリーに襲われてから死ぬまでの間、実に三十分近くが経過していタ」


「……」


「これだけ聞くト、只の良くある通り魔殺人に過ぎねェ。幻幽都市まではいかなくとモ、ブルックリンは結構治安の悪い場所だって聞くしナ。上辺だけ話せばどうってことなイ、普通の殺人事件ダ」


「……」


「ただ一点、妙な事があっタ。ジェノヴェーゼが男に刺されて息絶えるまでの、およそ三十分もの間……死にかけの彼女の姿を、同じアパートの住人が何人も見かけていタ。その数、実に三十八人」


「……」


「その三十八人のうチ、警察に通報した者は『一人も』いなかっタ。彼女が大声を出して助けを求めている姿ヲ、大勢の人間が見ていたにも関わらズ。誰一人として彼女を助けるどころカ、警察にさえ通報しなかっタ……今のお前さんが置かれた状況ト、全く同じサ」


「何が……言いたい……」


「鈍い奴だなァ。傍観者効果って奴サ」


「傍観者……効果……!?」


「ジェノヴェーゼがアパートの住民から見捨てられたのモ、その傍観者効果が原因だっタ。そして俺の能力……ジェネレーターとしての能力ハ、その傍観者効果を何百倍、何千倍にも膨れ上がらせるというもノ。集団の精神に干渉シ、観測に呪文をかけル。認識錯誤という呪文をナ」


 豹馬は、ただた息を呑むことしかできなかった。恐怖心を隠そうともしなくなった獲物を前に、キリキックは愉快そうに舌なめずりをし、続けた。


「俺が一度この能力を発動させれバ、衆人環境の真っ只中でテロを起こしても、誰も被害者を助けなイ。それどころか、テロが発生したという事実さえ知覚出来なくなル。当然、ニュースサイトに事件が掲載される事はないイ、俺がやったという『事実』さエ、人々は知らないままに殺戮は終わル。お前さんを追い始めた時から、既にこの能力を発動していたんダ。いくら助けを呼んだとしてモ、もう決しテ、誰もお前さんを助けなイ」


 キリキックは薄ら笑いを浮かべ、右腕の《ジェイソンG5》を操作した。荷電粒子を纏った無数の細かな刃が高速回転を始め、チェーンソー全体が、焼け付くかのような電流を帯び始めた。


「冥土の土産に教えてやるヨ。俺の能力名は《神眼潰しの殺戮者(ジェノヴェーゼ)》。俺が起こす犯罪には、たとえ神だろうと気づかなイ」


 荷電粒子を纏った刃が無情にも、豹馬目掛けて振り下ろされた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ