3-5 双頭にして、異形者
大禍災は、東京都の全てを奪った。奪い尽くして、全く別の形に作り変えた。街は幻幽都市として蘇り、都市の陰には大きな爪痕が刻まれた。新中央線の国立駅。その周辺地域にも、人々の心に深く根付く爪痕が存在した。
駅改札口を出て正面。歩いて十数分程したところにあった、かつての一橋大学・国立キャンパスがそれだった。大禍災がもたらした超高温度の爆炎で建物全体が焼け溶け、奇怪なモニュメントと化してしまっていた。
今では、地元住民から『鉄柱園』と揶揄されている始末だ。穴ぼこだらけのコンクリート壁に囲まれた敷地内。熱で溶解した数多の鉄骨が、密林地帯に生え繁る蔦の如く張り巡らされている。哀愁と奇矯が漂っていた。その昔、其処に日本を代表する有名大学があったとは思えないぐらいの、暗い変わり様だった。
真船司狼と不知火澪が『ファームベルト・オンライン』の緊急案件に出くわした、その日の深夜の事だ。鉄柱園を華麗に駆け飛ぶ、四つの影があった。
四つの影は、暗黒色の雲間から除く青白い月光に照らされ、浮かび上がっていた。三つは人間の影をしていた。残り一つの影は、実に面妖な陰影を鉄柱の側面に刻んでいた。どう角度を変えて見ても、それは人間の影に見えなかった。
三つの影が鉄柱から鉄柱へ、軽やかに飛んでは駆けて疾走している。一方で面妖な影の主は、蜘蛛か蜥蜴のように、鉄柱の側面を両腕らしきものを使って這うように移動していた。奇想天外な移動方法だ。にもかかわらず、奇怪な影の主は、ひた走る他の三つの影に、全く遅れをとっていなかった。
四つの影は、視線を敷地内のあちらこちらへ投じていた。狩りの時間を楽しんでいるのだ。彼らの限りある命を代価に始まった、愉快なキリング・ゲーム。止められる者は誰もいない。ただ、無意味な殺戮が巻き起こる予感だけがあった。
〈ちくしょウ。中々素早っこい奴だナ。アニキ、どうすル?〉
頭部に埋め込んだ通信型の機能片で電子の言葉を唱えながら、人型をした影の一つが困ったような、それでいてどこか愉しげな表情を浮かべた。月明かりの下で露わになった影の主は、禿げ上がった筋肉ダルマだ。上半身は裸だった。下には軍用の防刃レザーパンツを装備しているが、本当はそんな物など必要ないくらい、男の体は鋼のように頑強に出来ていた。男はビックリするほどの巨漢であったが、肥満ではない。全てが鍛え上げられた筋肉の塊だった。顔面には、血色の逆十字をした電子タトゥーが彫られていた。一歳の頃、生みの親にねだって掘ってもらったものだ。
〈いつも通りだ。スメルトが仕掛けて、チャミアが追い込みをかける。そして、袋小路になったところを俺が殺る〉
『アニキ』と呼ばれた影の一つが、これまた電子の声で応答した。集団の先頭を疾走するその男は、全身を黒々としたフード付きのカソックコートで防護していた。体の大きさでは坊主男に負けるが、それを補って余りあるほどの闘気が、男の全身から匂い立っていた。強者のプライドを黒い鎧で包んだ男。どんな刃で挑みかかっても、決して疵痕を残せないような、極まった出で立ちだ。フードを深く被っているせいで容貌の全容は窺い知れないが、その奥で輝く瞳は、何時だって必死に生を謳歌していることを、如実に物語っていた。
〈なんでぇ。また俺の出番はなしかヨ〉
坊主の大男が、軽く舌打ちをした。最後にとっておいた好物を横取りされたような、どこか子供っぽい感情が込められていた。
〈……という手筈だったが、今回は、キリキック、お前がやれ〉
苦笑交じりに、フード男が言う。
〈ナニ?〉
〈どうした、不満か?〉
天空に輝く月光が、フード男の口元を照らした。唇は真一文字に閉じられていた。感情は伺えない。彼の電子音声には、有無を言わせぬ巌の様な重みがあった。常に殺し合いの渦中に身を置き続け、死線を幾度と無く掻い潜ってきた事への自信を覗かせていた。
〈国立市の『ルール』を鑑みた場合、俺よりもお前の方が後始末には向いている。キリキック、今回はお前が殺れ〉
〈……ヘへ〉
キリキックと呼ばれた坊主の男は、愉快そうに笑みを零した。その黒々とした太い両腕から、俄かに耳障りな電子機械音が鳴り響いた。両腕に仕込まれた虐殺のギミックが、喜びのあまり咽び泣いているのだ。
〈キリ兄。あんまり突っ走らないでね。チャミアを置いて、勝手にどっか行っちゃったらやだよ〉
三つの人影のうち、最も後ろを走る影の一つが、怯えにも似た声で窘めた。暗闇のせいで背格好は判然としない。声の音域から察するに、おそらく年の頃は十歳かそこらであろう。しかも、声色の柔らかさから、少女であると予想がつく。
キリキックが、からかうような口調で言った。
この、ささやかな一時を心行くまで楽しむかの様に。
〈相変わらず心配性だなァ。たかが万屋如きに遅れをとる訳がねぇだろうガ。大体だぜ、チャミア、そういうお前こそ下手を打つなヨ。この前の時みたいになったら、流石に目も当てられねぇからナ〉
〈解ってる。てか、あの時の話はしないでよ。あたし、まだ引き摺ってるんだから〉
少女は感情が出やすいタイプなのだろうか。あからさまに不機嫌な電子音声で反論すると、頭のてっぺんから生えた二対のネコミミをしょんぼりさせ、口をへの字に結んでしまった。
何とも不思議な、そして奇怪な光景である。深夜、近隣住民の大半が寝静まった時分に、なぜ年端もいかぬ少女が、坊主頭の巨漢や人ならざる怪人に混じり、今や滅多な事では人の寄り付かぬ廃墟となった鉄柱園の上を走っているのか。そもそも、この四人は一体何者で、何の目的があってこの場にいるのであろうか。一切の事情を知らぬ者が目にすれば、夢か幻かと目をこするに違いない。
三つの人の影と一つの異形の影は、尚も地獄の底に突き立つ鉄剣の先端を走り続ける。遥か遠くの山奥から聞こえる怪鳥の叫鳴も、今の彼らにしてみれば応援歌以外の何物でもなかった。
影は一寸も立ち止まる事なく、冷たく吹きすさぶ夜風を切り裂いて疾走を続ける。その足音は嫌に静かで、一切のためらいがなかった。夜闇の中へ静かに溶け込むその様は、これからこの地で巻き起こる、血生臭い闘争の幕開けを感じさせるのに、十分過ぎた。
眼下を見下ろし続けていたフード男の瞳孔が、きゅっと広がる。角膜を覆うように搭載されたARCLの暗視スコープ倍率を最大値にまで上げ、自分たちの真下を走る『何か』の後姿を補足する。
〈距離にして、凡そ二百メートルか〉
獲物との距離を即座に弾き出す。眼下に捉えた『何か』を視界に収めたまま、強く右の奥歯を噛み締めた。ARCLに標準搭載された、共眼効果のスイッチを入れたのだ。共眼効果。彼ら殺戮遊戯のメンバー……《黒きジャグワール》の兄妹達が互いに協力して仕事に当たる際、必ず使用するギミックのうちの一つ。互い互いの視覚情報を共有する事で、死角の発生を最小限に減らすのだ。
もう一つは、頭に埋め込んだ通新型の機能片。ハッキング対策は、当然ばっちりである。彼らはこれらの装備により、声で確認し合わなくとも、高度のチームプレイを可能としていた。無言で四方より迫る暗殺の手から、逃れる術など存在しない。目をつけられたら、文字通り最期の時を覚悟しなければならない。
網膜が結んだ像が電気信号に変換され、フード男――マヤ・ツォルキンを除いた三人の視界に映像が投射された。映像を目にした各々の反応は様々だった。坊主頭の大男――キリキック・ビューは狂喜乱舞したそうに双眸を光らせ、ネコミミを生やしたゴスロリ幼女――チャミア・バレンシアは緊張した面持ちを湛え、異形の影の主――スメルト・A・フィッチは声にならない声を上げた。
先手を打ったのは、スメルトであった。共眼効果で視界に届けられた映像を確認するやいなや、動作が一層機敏になった。スルスルと鉄柱から地面へ下る。恐ろしく太い両腕をコンクリートの地面にべったりとつけて、這うようにして標的の後を追った。不気味な体勢には似つかわしくないほどの、驚異的な素早さであった。
〈スメルトのヤツ、もう動きやがったカ〉
〈やれると踏んだんだろう。アイツらしい。いつもの事だ〉
〈勝手な奴だゼ。アニキの命令がまだだってのにヨ。それにサ、アニキもアニキだヨ〉
〈何の話だ〉
〈アニキ。三年間も一緒にいて今更言うのもおかしな話だけどよ、俺たちは家族で、それでいて仕事仲間なんダ。仕事をやる以上、スメルトみてーに勝手な行動をされるのハ、正直言って虫が好かねェ〉
〈つまり、俺にどうしろと?〉
〈もっとビシッとアイツに言ってやってくれヨ。『俺が命令を出すまでは決して動くな』ぐらいの事はよォ、言ってもいいんじゃねぇのカ? アニキは優し過ぎるんだよナァ〉
優しいと褒められて、悪い気のする者などいない。それが、血を分けた弟から贈られた言葉なら、なおさらの事だ。しかし、フード男はその嬉しい気持ちを無理やり押し止めた。
〈スメルトには並外れた直感力がある。アイツが動いたという事は、そういう事なんだろう。動物の感ってのに近いのかもしれない〉
〈ほー、直感力ねェ〉
〈なんだキリキック。珍しく、兄弟に嫉妬か?〉
〈はァ? 嫉妬? 冗談じゃねぇよアニキ。タダでさえ強いこの俺が、スメルトの直感力まで手にしたら、チートじゃねぇカ。ソんなんじゃ、強敵と戦っても面白くねェ。鬼に核ミサイルを持たせるようなモンだゼ〉
〈強敵、か〉
マヤは暗視スコープ機能を持続させたまま、ARCLを常態モードへ切り替えた。薄青い視界に映るいくつものタップアイコンのうち一つを選択。出撃前に表層接触でダウンロードしておいた標的の情報を呼び出した。そこに記されている内容を、脳裡で唱える。
〈標的の名は香住豹馬。年は今年で二十七。男。右利き。八月二十一日生まれ。十六歳の時に呪工兵装突撃部隊の阿難陀大隊に入隊。当時は神童と謳われたほどの実力者だったらしいが、粗野な性格が祟ってチームワークを乱す要因となることが多々あったそうだ。三年間の勤務の後に、本部にある別の部署・未踏開拓局へ左遷される――〉
〈ブリーフィングの時も思ったけどヨ、アニキ、その未踏開拓局ってのは一体何なんだヨ。あれか? 独身の狼男が傷を舐め合う為のサークルか何かなのカ?〉
〈デッドフロンティアでの実地調査を主任務とする部署らしい。生存率は、五体満足で帰還してきたら奇跡的とも言われるくらい、散々たる有様という話だ〉
〈うへェ。それって、死刑宣告を受けたも同然じゃねぇカ〉
〈茜屋から聞いた話だぞ? どこまで信憑性があるかは甚だ疑問だ〉
〈いや、何だか本当にありそうな雰囲気を、ビシバシ感じるぜェ?〉
わざとらしく、キリキックは身震いしてみせた。
マヤは変わらず、今夜狩る獲物の経歴を読み上げ続ける。
〈未踏開拓局に配属されたのち、二十一歳の時に、デッドフロンティアの奥地で重傷を負う。その際にジェネレーターとして能力が覚醒。右腕と左足を失った状態で帰還した後、蒼天機関を辞職。以後、行方を晦ませる。その後、万屋として活動していたところをたまたま発見し――〉
〈今、俺たちに付け狙われているという訳ダ。強盗殺人という名目の下で、たまたまナ〉
キリキックが、またもや笑みを零した。彼は任務の時、標的の経歴に茶々を入れて笑う癖があった。いつもそうだった。標的を殺した時、自分たちの手で命を消し去ったという事実を、より深く実感出来るからそうしている。
マヤや、キリキックを始めとした彼ら――殺戮遊戯に課せられた任務。それは、幻幽都市にごまんといる万屋の中でも、特に悪名高い者たちを選りすぐり、これを始末するというものだった。
義侠心からの行動ではない。全ては殺戮遊戯の生みの親である、茜屋罪九郎の策略である。彼曰く『来るべきその日』へ向けての訓練だ。実戦を積ませるという目的の為に、わざわざこんな任務を与えているのである。
悪名高い万屋は、都市にとって決して心地良いものではない。強盗殺人と見せかけて殺してしまえば、蒼天機関はろくな調査をしない。せいぜいが、電子雑誌の隅に掲載される程度だ。死体は護法霊柩車に乗せられて死体安置所に送り込まれて検死の後、病院や企業に送られて心霊工学の研究材料にされる。それが常だった。死後の方が人々の役に立つというのだから、皮肉な話だ。
殺戮遊戯がこれまで殺してきた万屋の数は、延べ二百人を超えている。実戦を行う日時は、いつも綿密に計算されていた。襲撃の祭には、決して証拠が残らぬ様に、徹底した工作が為されてきた。彼らの名前や存在は、未だ公の下に晒されてはいなかった。
〈人生って、良く分からねぇなァ。蒼天機関に就職できた時点で勝ち組だったはずなのニ、なんでまタ、万屋なんていう業の深い商売に身をやつしたのかねェ〉
〈さぁな。それよりもだ、キリキック。俺にはどう考えても、この香住という男が、お前の言うところの『強敵』には思えないんだが〉
〈そうかァ? 仮にもジェネレーターだゼ? それに、茜屋の情報じゃあ、右腕と左腕は機械製義手に挿げ替えてるって話じゃねぇか。最高にイカしてるナ。ワクワクするのが普通だろォ?〉
〈ねぇ、そんな事よりもさ〉
緊張した面持ちで最後尾を走っていたチャミアが、二人の会話に割って入ってきた。もう数えきれないほどの『万屋殺し』をやっているというのに、この幼女に余裕というのは全く感じられなかった。
〈あたしは、どのタイミングで出ていけばいいの?〉
〈…………チャミア〉
〈なぁに? マヤ兄ちゃん〉
〈緊張で顔が引き攣ってるぞ〉
〈……あたしの顔、その位置からじゃ見えないのに、分かるんだ〉
バツの悪そうな問いかけに、マヤは分かって当然だとでも言いたそうな口ぶりで、淡々と答えた。
〈声が若干震えていたからな。自分に自信がない奴独特の声色だ。全く、しょうがない奴だなお前は〉
〈ご、ごめんなさい〉
図星だった。駆ける速度はそのままに、チャミアが軽く顔を伏せた。だが、マヤには何もかもお見通しらしい。妹が自信を無くしかけている事を察知した彼は、柔らかな口調で諭し始めた。
〈何をそんなに恐れる必要がある〉
〈だって……〉
〈前回の任務の事を、気に病んでいるのか?〉
〈……〉
〈チャミア、失敗を反省するのは良いが、引き摺るのはよせ。いつも通りやればいいだけだ。心配するな。飛び出すタイミングは、俺が指示を下す。心配するな。必ず上手くいく〉
その背中を押す一言を受けて、チャミアの暗く沈んだ心は、多少ではあるが晴れたらしい。何時ものように控えめな笑顔を浮かべ、〈わかった〉と、努めて明るく電子の声を飛ばした。気持ちを切り替えようと、息を大きく吸って、吐いた。
愛らしい妹の息遣いを直ぐ背中に感じながら、マヤは眼下に視線を送った。雲間から除く月光の光量が、一段と強くなる。今度は、はっきりと見えた。背中に巨大なギターケースを背負った標的の直ぐ後ろに、弟の、異形な影が迫っているのが。
鉄柱を走るマヤのスピードが、更に上がった。一刻も無駄にはできないのだと言いたげな足取りだった。
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一体、自分の身に何が起こっているというのか。
眼前にうねり、そびえ立つ鉄柱という鉄柱の隙間を走り抜けながら、香住豹馬は、ここ数日間の事を思い出していた。
恨まれる覚えは、あるにはある。これまで法外な値段で、色々な悪事に手を染めてきた。ヤクザの片棒を担いで、夜逃げを目論んだ家族をコンクリートを入れた樽の中に放り込んだ。健康そうな女学生を拉致って、臓器売買の元締めへ売っぱらったこともある。
それもこれも今時の万屋がやる仕事にしては、至って普通の事ばかりだ。市井の人々から恨まれようが、そんなこと、彼には関係なかった。
人間の感情というのは、割り切れないものだ。恨みを募らせた数多くの都民から命を狙われ続ける度に、そう思った。その度に返り討ちにしてきた。確か、一昨日もそんな事があった。人間牧場に売られた妹の仇だなんだのと言って襲い掛かってきた男子高校生がいた。十秒とかからず組み伏せた。たっぷりと時間をかけて犯し、肉片へ還してやった。
思い出せ、自分を恨んでいる者の事を。豹馬は走りながら、頭の中で指を折りはじめた。ダメだ。数えようにも多すぎて、何が何だか分からなくなる。
これまでの人生、色々なことがあった。数え切れぬ程の報復を、豹馬は受けてきた。報復に臨まんとする者には、全て共通点が存在した。それを、豹馬は経験で知っていた。多くの犯罪者と向き合ってきた機関員としての経歴と、金に意地汚い万屋としての経験値から、それを学んだ。
報復を成し遂げようとする者からは、常に独特の殺意を感じるのだ。憎々しげな視線を隠そうともせず、憎悪に満ちた剥き出しの殺気をあからさまに浴びせてくるのだ。相手が大人だろうが子供だろうが、その一点だけは共通していた。
しかし、どうしたことだろう。
今、己の背後に迫ってきている者からは、それが感じ取れなかった。あるのは純粋な殺意のみである。禍々しいことに変わりはない。しかし、そこには憎しみや恨みといった、暗く陰鬱とした感情がなかった。もっと鋭く、心臓を直接抉ってくる様な冷たさを感じる。
――殺し屋、か。
そうだと仮定しても、解せない。殺し屋だとして、何故自分を狙うのか。豹馬には皆目見当がつかなかった。
毛皮のブーツで硬いコンクリートの地面を蹴り続ける。
豹馬はふと、背後を見やった。
獣牙の如く闇夜に浮かぶ下弦の月。妖光が雲間から漏れる。遠くの路地から迫り来る襲撃者の姿を照らし出すには、物足りない光だ。濃い黒が、複雑な陰影が、鉄柱園の一帯を飲み込んでいた。
豹馬が襲撃者の存在に気付いたのは、ほんの十分前の事である。否、正確には、存在ではなく『気配』というべきか。とにもかくにも、背筋が凍る気配を瞬間的に感じ取った。豹馬は、一目散にここ、鉄柱園目がけて駆け込んだ。
日和った訳ではない。真面目にやり合うのが面倒くさかったから、という訳でもない。とにかく、何か例えようのない程に強烈な予感を感じた。『最悪の予兆』と呼んでもいい直感だ。だから、逃走という手段を選んだ。
逃げようともがけばもがくほど、襲撃者の気配は濃密さを増していった。このままでは、埒が空かない。『最悪の予兆』は依然として感じるが、こちとら一端の万屋である。殺し屋だかなんだか知らないが、悪事に手を染めているのは彼も同じ。同じ、闇の世界で生きるもの同士。
殺すか、殺されるかの世界。
――どうする?
一瞬の逡巡の後、豹馬は潔く背後を振り返った。
金の為ならどんなに卑しい泥仕事でも平気でやる身分にまで落ちた。だが、十代後半で機関の本部に召集されただけの実力は、決して見せかけのものではない。やると決めた豹馬の行動は実に機敏で、的確だった。
背負っていた銀灰色のギターケース型対人ミサイルランチャ《KeeNO》を――熱感知センサジャミングシステムが搭載された最新式の重火力砲を構える。太い銃口で闇の彼方を見据えた。
豹馬の砲撃姿勢は、どこか儀式的な構えだった。右肩にロケットランチャーを担ぐ。曲げた右足で八十キロ近い体重を支える。ピンと限界まで伸ばした左足でバランスをとる。どこか道化じみてさえ見える姿。
されども、見かけに騙されてはいけない。エル・マリアッチ式砲撃術。蒼天機関は大隊所属の機関員にのみ伝授される事が許された、上位戦闘技術の一つである。
ぶるりと、豹馬が首筋を震わせた。それは一瞬の、されども唐突な『変化』であった。豹馬の猛禽類を思わせる鋭い瞳が光った途端、ごつごつとした岩肌のような彼の顔皮に、墨汁よりも黒めいた色で、複雑な紋様が浮かび上がった。
獣憑き。ジェネレーターたる香住豹馬の能力《魔獣憑き》とは、端的に言えばそれである。
霧翼類ベヒイモスに分類される《ヴェルチルノ》の視力は、人間のそれを軽く上回る程に高性能だ。その真価は、夜の世界で最大限の効力を発揮する。暗黒に囚われた空間でも、池の表面に投げ入れられた小石が生ずる波紋の形状を、正確に視認出来るだけの正確さを持つ。
デッドフロンティアに棲息する魔獣の力。その片鱗を両眼に反映させると、豹馬は素早く周囲を探った。視線の左端に何かの気配を捉えた。鉄柱園で二番目に高い鉄柱の根元付近だ。そこだけが、影が折り重なっているかのように、厚みがある。
漆黒の厚みが、ゆっくりとブレた。
豹馬の決断は早かった。ギターケースのヘッド部分を、やや下方へ修正。グリップを強く握りこんだ。カチリ、という音がした。途端、ヘッド部分が火を噴いた。白煙と共に一発のミサイルが時速五百キロの勢いで発射された。
凄まじい爆音が、辺りを襲った。衝撃を受けて、自重を支えきれなくなった鉄柱が粉々に砕け散った。黒い破片が、豹馬の足元へばら撒かれた。
「(しくったか……)」
舌打ち。だが、襲撃者は依然として、豹馬の視界の内にある。ミサイルが命中する寸前に上方へ高く跳ね上がり、避けたのが見えた。
伸びきった左足を、三十度程前へ。右足首に力を溜め、続いてヘッド部分を上方へ掲げる。能力を維持したまま、今度は二回、グリップを硬く握り込む。
怒涛の勢いで発射された二発のミサイルは、まるで打ち上げ花火の様に、明確な殺意を込めて、空中に跳んだ襲撃者へぶち当たった。爆炎。熱風。周囲が真昼の如く煌めくも、僅か数舜の後に元の暗闇を取り戻す様は、夢か幻。
「(やった、か――?)」
手ごたえはあった。しかし警戒は解かない。
依然として、ギターケースを右肩に抱えたまま、豹馬は後ろへ飛び退った。
ほぼ同時に、先ほど空中で撃墜した筈のそれが、目の前にドスンと落ちてきた。
「なんだ……ヤドカリの、殻?」
豹馬が思わず口にした通り、それはヤドカリの殻に似ていた。
だが、遥かに大きい。直径が二メートル近くもある。
殻は、それ全体が不自然な明滅を繰り返し続けている。
接触不良を起こしたネオンサインを彷彿とさせた。
僅かな静寂の後、殻に変化が生じた。
殻の入口は楕円形を模していた。
そこから、何かが滑るように這い出てきた。
銀色の粘液に覆われた、人間の右腕だ。指がちゃんと五本ついている。
どう見ても、人間の腕だ。
「――!?」
なんだ、こいつは。
豹馬の驚愕を他所に、右腕が完全に姿を現した。
続いて、窮屈そうに左腕が這い出てきた。
両方とも、成人男性の倍近くはある長さと、電柱を思わせる太さがあった。
豹馬は我が目を疑った。
彼は見てしまった。
夜目が効き過ぎたのが、思わぬ形で仇になった。
蛇のように鎌首をもたげた両腕のそこら中に、眼球が埋め込まれていた。
虚無的な光を宿した眼球だった。
一つ一つが、まるで意思を備えているかのように、瞬きを繰り返した。
無数の黒目がキョロキョロと、あてもなく周囲を見回している。
「ひ……ッ!」
唐突に、殻の中から呻き声がした。
豹馬は思わず、尻もちをつきそうになった。
声の主は間違いなく、目の前にいる怪物から発せられたものだった。
見ると、両腕に仕込まれていたのは眼球だけではなかった。掌には、人間の口まであった。厚ぼったい唇がひび割れている。唾液に塗れた舌を、蛇のようにチロチロと覗かせていた。
豹馬は、ただただ、固まるしかなかった。今、自分が目にしているそれの姿を、正確に認識しようとするが、本能がそれを拒もうとした。それほどの強烈な印象を、目の前の怪物に覚えた。まるでそれは、人間の器官を宿した、双頭の蝸牛のように見えた。
「(蝸牛……そ、そうかこいつが、未生物……蝸人か)」
豹馬は昔、同僚の機関員から聞いた話を思い出していた。二十年前の大禍災の折に発見された、『異形化した人間』の話だ。
人だった頃の形を全て無くしても尚、それは、人としての意識を保ち続ける。文字通りの怪物。それらの多くが、蝸牛を彷彿とさせる姿形をしたものであった。ゆえに蝸人と呼ばれるようになった。たしか、そんな話だった。
「ウゥゥ……ア、ウ、ウ、ウゥゥゥゥ……」
腕を鳴らして、威嚇らしき体勢を取る未生物。
名は、スメルト・A・フィッチ。
殺戮遊戯の『初撃』を司る存在。
豹馬は難しい顔をして、再度、エル・マリアッチ砲撃術の体勢を取った。グリップを握りこみ、一発を放つ。ロケットランチャーから放たれたミサイルは、まっすぐ、スメルトの二股に分かれた腕の付け根へと突進していく。
間一髪のところで、スメルトはこれを避けた。人間が逆立ちをするように、両腕を地面に対して垂直に立てると、筋肉のばねを効かせて、そのまま空中へ飛び上がった。高く、高く。
あっ、と豹馬が叫んだときには、既に遅かった。スメルトがさっきいた場所よりも十メートル程離れた場所に、ミサイルが着弾。爆音が豹馬の耳をつんざいた。
揺らめく炎のカーテンの向こう側。一本の鉄柱の中ほどにあたる壁面部に、スメルトが張り付いていた。瞳が、愉しげに目じりを下げている。
腕に生えた無数の瞳から、涙が一斉に零れ出していた。涙。スメルトの体液だ。それは、適度な粘性と保湿性を獲得していた。鉄柱のような曲面のある構造物へへばりつく為に、必要な術であった。
「この野郎……!」
コケにされた気分を覚えて、豹馬は思わず声を荒げた。精細を欠いた動きは、そのまま動作の緩慢に繋がる事を、このときの彼は失念していた。右足に十分な体重を乗せずにロケットランチャーを構えたことで、僅かに体がふらつく。
その瞬間を待っていたかのように、スメルトが反撃へ転じた。殻の頂点から中ほどまでが鬼神の如きスピードで左右に割れ、一丁の重機関砲が姿を現した。
スメルトは再度、目じりを下げた。笑っているのだ。なぜか? 豹馬の唖然とした表情を無数の視界の一片に収めたからだ。奇形以外に例えようのないこの肉体に、まさかこのような仕掛けがあるとは、流石に豹馬も考えつかなかった。
豹馬は、完全に相手の力量を見誤っていた。スメルトはただの蝸人ではない。悪辣なる科学者・茜屋罪九郎の手で、あえて蝸人としてデザインされた人造生命体である。その力を推し量る術を、豹馬は持ち合わせていなかった。
スメルトが、両手で柱を思い切り掴んで溜めを作り、十連装ガトリング砲が爆音を立てて火を噴いた。超力関取が土俵入りの際に撒く塩の如く、時速数百キロで一斉にばらまかれる弾丸という弾丸が、豹馬目がけて襲い掛かる。
「くそっ!」
苛立ちを募らせつつも、豹馬はその場を起用に転がり、起き上がり、立ち、駆けた。追いすがるかの如く降りかかる弾丸の雨が、コンクリートの地面を抉っていく。
迫りくる死の気配を感じ取り、豹馬は別のベヒイモスの力を自身の肉体へ憑依させた。
刹那、一発の弾丸が彼の腰に当たって弾かれた。
甲獣類ベヒイモスの、堅牢な肉体を投影したのが功を奏した。
背後から襲い掛かる弾丸の群れをギリギリの所で躱しつつ、弾き返しつつ、豹馬は鉄柱園を駆け続けた。只逃げているだけではない。反撃の狼煙を上げる機会を、伺っているのだ。
「(しめた!)」
視界の左側、たまたま目に入った反対側の壁へ向かって方向転換。ボロボロのコンクリート壁へ向かって駆けだした。豹馬の顔には、また別の紋様が浮かんでいた。麒獣類ベヒイモスの蹴力を憑依。五十階立てのビルの壁面を楽に駆け上がれるだけの悪魔じみた脚力で、一気に駆け登る。
そうして豹馬とスメルトは、一本道の通路を境にして互いに向き合う形に相成った。




