3-4 不自然な決着
「やった……はは……やった! やったぞ俺は!」
炸裂する隕石群。アナザは心の底から安堵した。無意識のうちに笑みが零れる。肩の力を抜く。自然と顔がにやつく。豚の前足の様に肥え太った短い両腕を顔の横まで挙げて、自信たっぷりにガッツポーズを決めた。
確かに奴らは凄腕の電脳兵士だ。しかし、四方八方から超高速で襲いくる隕石群に押し潰されたら、生きていられるはずがない。大金星だ。都市に名高い二人の兵を一度に葬り去ってやったのだから。箔がつくどころの話ではない。これできっと、アハルや他の兄弟達、それに自分を上手い事利用したつもりでいる茜屋も、俺の偉大さを嫌でも理解するだろう。
「は、はは。あひゃひゃひゃッ!」
ガラスにも似た曇り一つない透明色の壁という壁に、幾何学的紋様が浮かび上がっては消え、浮かび上がっては消えていく。近未来的装飾模様の施された広大な仮想空間の只中で、アナザの狂喜乱舞は止まらない。例えがたい程の充足感が、彼の心を満たしに満たしていた。
「ひゃひゃひゃひゃッ!」
溢れ出る笑い声を噛み殺す事もままならない。歓喜に震える指先を操作して、アナザは全てのウインドウを収束して戦闘を終了。何とはなしに、操作席を後ろに向けて回転させた。
透明な壁に囲まれた仮想空間の中心に坐するかの如く、漆黒の立方体が、ゆっくりと自転と上下浮遊を繰り返して佇んでいる。アナザはそれを満足そうに見つめると、口元を緩ませた。
ウィザード級の敵を屠り去る事が出来たのも、この漆黒の立方体があったからこそだ。それは自尊心の高いアナザでも認めざるを得ない事実。しかし、ここまで辿り着けたのは、他ならぬ自分の力があってこそだ。
「ひゃひゃひゃひゃッ――ゴホッ――ゴッ、ひゃ、ひゃひゃッ!」
それにしても驚きだ。咳き込みつつ、溢れる笑い声を抑えようともせずに、アナザは黒い立方体から視線を逸らさない。彼の瞳は、驚きと畏怖に彩られていた。
まさか、ここまで成果を上げられるとは。なるほど道理で、蒼天機関が高性能の攻性防壁を敷くだけの事はある。末端でもこれだけの演算処理能力を得ることが出来たのだ。ということは、中枢には一体どれほどの力が渦巻いているのだろうか。
「ヒャヒャヒャヒャッ!」
しかし――それにしても笑い過ぎだぞ。
鳩尾の辺りを抑えて、アナザは自分で自分に突っ込んだ。名高いウィザード級電脳兵士を始末して喜ぶのは分かる。が、少々自惚れすぎではないか。
目じりに湿り気を覚える。指先で拭ってみると、僅かだが濡れていた。ほらみろ、喜びすぎて、涙まで流してしまっているじゃないか。それに、さっきから口の端から涎が零れているぞ。これではまるで『発作』に襲われた様じゃないか。
そう、『発作』に襲われた様じゃないか。
「――! ゴッ! ゴホッ! ゴホッゴホッ! ヒャヒャ――ゴホッゴホッ! コ、コヒュー、コヒュー! ハ――ゴホッゴホッゴホッゴホッゴホッ!」
奇妙で不快な咳音が、気管支の奥からせり上がってくる。止めることはできない。止めようと思う事すら出来ない。息が苦しい。どうした。どうしたというんだ。
「(な、なんだ!? 笑いと咳が、と、止まら――!?)」
痛い。痛すぎる。
苦しい。誰か。どうにかしてくれ。
喉元を執拗にくすぐられているかのような、奇妙な感覚。
鳩尾の中心に、細かな針が無数に突き刺さっているのかのような激痛。
鋭い痛みが全身の末端神経へ広がるのに、時間はかからなかった。
苦しさの余り、息も絶え絶えに操作席から崩れ落ちた。
酸をぶっかけられた芋虫の様に、体を丸めて痙攣を続ける。
「随分と、無様な姿だな」
ハッとして、アナザは顔を上げた。
殺したはずの司狼と澪が、こちらを見下ろしている。
彼らの手には量子削侵銃が握られていた。
二人は冷ややかな目線をアナザに送りつつ、背後にある黒い立方体の存在を気にしている素振りだった。その表情には、幾ばくかの緊張の色が見てとれた。
「なッ――何故生きているッ!?」
発作による痛みも忘れて、アナザは唯々、驚くことしか許されなかった。
殺したはずだ。
確かに殺したはずなのだ。
なのに、何故生きているッ!?
尽きる事の無い疑問が、汚泥の如くアナザの心の内からせり上がってくる。
馬鹿な。生きている筈がない。
隕石に圧し潰されたのだから。生きている筈がないのだ。
どういうことだ。おかしい。見間違いじゃない。
確かにこの目で見たのだ。
奴らが死ぬところを、俺はこの目で確かに見たんだッ!
「視覚欺瞞だ」
アナザの心を見透かしたかのように、司狼が静かに口を開いた。
「俺たちがばら撒いた量子菌を、貴様の設置した大蛇型のトラップが喰らった時点で、あんたの敗北は決定していた。あの量子菌は最新モデルでな。トラップの中に取り込まれると行動制御コードに紛れ混み、強力な視覚欺瞞と遅効性の『笑い薬』としての特性を発揮する」
「笑い薬……だとッ!? 馬鹿な、そんなふざけた能力が――」
「中々に効くだろ。ついさっきまで、笑い過ぎの余り発作に襲われていた筈だ。今はこちら側で制御しているのもあって、大分楽になっているだろうがな」
言われてようやく、アナザは気づいた。胸を得体のしれぬ何かにくすぐられているようなこそばゆい感覚は依然としてあるものの、全身襲っていた激痛は消えている。人は、笑い続けるとあそこまで苦しい気分に晒されるのかという事を考えるよりも、アナザの心を最初に占めたのは――耐え難い屈辱感であった。
「貴様がまんまと罠に嵌ってくれたおかげで、こちらしても随分とやりやすかった。貴様が幻術の世界に囚われ、ありもしない電子蜂の全滅に苛立ち、その場にはいない筈の俺たちに殺意を向けている間、俺たちは十分な時間と策を練って、偽想領域を破壊して突破することが出来た……さて、次は俺たちがあんたに質問する番だ」
司狼は一通り言い終えると、右手をサッと上げた。
後ろで控えていた澪が合図を受け取り、ウインドウを展開した。
量子菌の行動制御コードに改変を加える。
アナザの全身に広がっていた痛みが、ひいていく。
笑い薬の効能が、澪の打ち込んだ解呪コードによって完全に除去されたのだ。
そして今度は、薬がもたらした痛みよりもずっと激しい痛みが、アナザを襲った。
司狼がアナザの腹に渾身のローキックを見舞ったのだ。
予想だにしない一撃だった。
くぐもった声を上げて、アナザはもんどりうって転がった。
かけていたスマートグラスがあらぬ方向へ吹き飛んだ。
「楽になったからって、動くなよ」
撃鉄を起こし、司狼はアナザを目線で射抜いた。ゆっくりと量子削侵銃の銃口を向ける。司狼の瞳には、一切の慈悲が感じられなかった。容赦のない眼光だった。蒼天機関に属する一兵士として、この男を捨て置くわけにはいかない。犯罪者に手加減は必要ない。情状酌量の余地もない。決然たる思いが、司狼の全身から立ち上っていた。
アナザは『ファームベルト・オンライン』を荒らしただけでなく、都市が秘匿する重要機密の一端へ触れた。その為に、ヴェーダ・システムを傷つけた。だが、別にどうという事はない。たとえ全回路、全階層が破壊されたとしても、システムは自己修復機能を働かせて傷を治癒する。そういう構造になっている。枯れた葉の一枚一枚に生気が漲り、力強く復活を遂げる。半永久的不死の存在。
しかし、それとこれとは話が別だ。アナザがシステムに錠前破壊を仕掛けたという事実は変わらない。罪の十字架を、今すぐに背負わせるべきだった。
「笑い薬の効能レベルを最低値にまで下げたのは、何も苦しんでいる貴様を憐んだからじゃない。貴様に、どうしても聞かねばならないことがあったからだ――貴様、どうやってこの場所まで来た」
「…………」
「なかなか聞き応えのある反応だな。もう一度聞くぞ。どうやってこの仮想空間まで忍び込んだ」
「…………」
二回質問を受けてもなお、アナザは決して口を割ろうとはしない。司狼の手に握られた量子削侵銃の細長い銃口を、憎悪の籠った眼差しで睨み続けている。
勝負に勝ったつもりが、それは儚い幻だった。実際には完全な敗北を喫していたのだ。悔しさとやるせなさを募らせて、思い切り下唇を噛む。
事態が好転する気配は全くない。物音一つ起こらない清閑とした仮想空間のど真ん中で、アナザは鈍痛に苛まれた腹部の痛みを和らげるかのように、冷たい透明色の床に這いつくばるしかなかった。床に幾何学的文様が鮮やかな蛍光色を伴って浮かび上がるたびに、僅かな熱の放出を全身で感じた。
憎き敵の顔を見上げて罵声を飛ばすぐらいの事をしなければ、怒りは収まりそうにもなかった。それが、今置かれたこの状況を鑑みるに最適な解であると、彼自身そう思った。だから、そうした。司狼をきつく睨み付けたかと思いきや、アナザは吐き捨てるように目一杯に叫び声を上げた。
「教える義理が一体どこにあるってんだッ! 機関の犬畜生がッ! 今すぐに喉元を噛み千切って合成野犬の餌にしてやるからなッ!」
息を荒げて唾を飛ばし、汗まみれの巨体を震えさせながら、吠え面をかく。それが、今のアナザに出来る精一杯の抵抗であった。
効果は薄かった。《人喰い電狼》にとって、アナザの恫喝は蚊ほどの威力もなかったのだ。呆れた調子で赤髪を掻く。
「どうやら、只の肥満体じゃないようだな。この状況で、そんな口がきけるとは、大した胆力だ。いや、それもそうか。それほどの胆力がなければ、わざわざ『この』仮想空間に侵入しようとは、思わないだろうしな」
「貴方が偽想領域内で電子蜂達を操っていると判明した時、正直、解せませんでした」
司狼の傍らにいた澪が、丁寧且つ落ち着いた口調で言った。穏やかな口調とは裏腹に、その表情は大変険しい。彼女もまた司狼と同じく、量子削侵銃の銃口をアナザに向けていた。
「仮想空間に潜みながら、ヌメロン・コードの一部改竄によって構築された偽想領域に介入する。それは、ウィザード級ならば誰しもが宿している能力です。しかしそうは言っても、限度というものがあります。偽想領域に介入しながら、同時にあれだけ多くの電子蜂に行動制御コードを飛ばす……いくらウィザード級でも無理があります。それは例えれば、バランスを取るのも難しい小舟に乗った一人の鵜飼いが、数百匹単位の鵜を遠く離れた水の上で一匹一匹正確に操作し、水面に浮かぶ魚たちを一匹残らず捕獲するのに等しい。どう考えても、有り得ない。でも、この仮想空間に行きついたことで、この黒い立方体の存在を確認した時点で、ようやくわかりました――あなたは、ヴェーダ・システムに介入していたんですね。だから、それが可能だった」
図星である。
アナザの仏頂面に僅かな綻びが生まれた。汗の滲む眉間に、ほんの少しだけ皺が寄る。油断していれば見逃しかねない些細な反応を、しかし澪も司狼も見逃さなかった。
はやる気持ちを抑えるかのように、澪は己の傍でぷかぷか浮かんで回転し続けている漆黒の立方体に近づいた。アナザの驚異的なクラッキング能力の核となっていたヴェーダ・システムの最末端部分を、優しく撫でつける。
「この黒い立方体こそが、貴方の力の源泉だった。貴方がどういう方法を使ったかは分かりません。ただ、確実に分かっていることがあります。貴方はヴェーダ・システムの《根》に対して錠前破壊を実行し、演算領域から溢れ出る余剰な処理能力を獲得した。だからあのような、ウィザード級を超えるリッチ級の力に、一時的に覚醒するに至った。違いますか?」
「……違うな」
「嘘。そうでなければ、説明のしようがない」
「知らねぇな。そんな与太話に付き合ってられるか。デカパイのヤリマンお嬢さん、あんた、妄想癖が過ぎるんじゃないのか」
あからさまな侮蔑の言葉を受け、澪は己の顔が熱を持つのが分かった。無意識のうちに、量子削侵銃の銃把を握る手に力が籠る。だが、この程度の挑発に簡単に反応するようでは、この仕事は務まらない。落ち着こうと感情を宥めようとしたところで、突如、耳元で轟音が鳴り響いた。
「あっ……!」
目を瞬かせる。アナザは絶叫した。足首から鮮血を流し、バタバタとのたうち回る。声こそ何とか我慢して噛み殺しているが、破壊プログラムの込められた弾丸を食らったのだ。筆舌に尽くし難い痛みには違いない。
「おい、知ってるか? 女性機関員への『過度なセクハラ発言』は、例え相手が一般人であろうと、見つけ次第、警告なしの発砲が許可されているんだぜ。それが例え、仮想の世界だろうとな」
言いながら、司狼は銃の引き金に人差し指をかけて、拳銃を一回転させた。銃口からたなびく青白い煙を振り払う。また、呆れるような口調で言った。
「それにしてもだ。まさか攻性防壁も張らずに錠前破壊を行っていたとはな。てっきり銃弾を弾き返すものばかりだと思っていたが、貴様、本当にウィザード級錠前破りなのか?」
「舐めるな。俺を誰だと思って――」
「舐めているのはどっちだよ。えぇ? 末端領域とはいえ、ヴェーダ・システムの《根》に介入して悪事を働くなんつう舐めた態度を取っていたのは、どこのどいつだ」
「ぐっ……!」
「それに貴様、さっきから何度も聞いているが、どうやってこの場所に忍び込んだ。ここがヴェーダ・システムを構築する四つのシステム系統のうちの一つ、呪法階層の一端だと知って潜入したのか!?」
ヴェーダ・システム。蒼天機関の本部庁舎の地下に存在する、三元理論式非ノイマン型の量子演算機構。幾万もの超高性能量子中央処理装置を内包したそれは、知性を宿し、現実世界と仮想世界、両方のインフラストラクチャーシステムの一切を統括する、巨大な精密機構である。
全世界の量子コンピュータを結集させても、決して追いつけないほどの演算処理機能を宿しているから当然というべきか。ヴェーダ・システムの内部構造は、複雑さを極めている。だがそれは、ミクロの視点で語った場合での話。マクロに捉えれば、それは全高百メートルにも及ぶ、樹木型の知性構造体として捉える事が出来た。
即ち《幹》と《根》である。《幹》は普遍階層、永詠階層、祭礼階層、呪法階層の四つのシステム系統に分類され、それらの下層には《根》と呼ばれる膨大な演算領域が存在する仕組みになっている。
ヴェーダ・システムはその特性上、《幹》や《根》をはじめとしたシステム基盤構築に関する一切の理論体系が、最重要機密事項とされている。攻性防壁一つにしたって、一般社会には流通していない特級グレードのプログラムが組まれているのが、良い証拠だ。
以上を鑑みれば、仮想世界側のシステム制御空間に機関の許可無く介入するのは、例えウィザード級の錠前破りであっても不可能なはずだ。そんな禁忌の業が何故、こんなみっともない小太りの電脳オタクに成し得る事が出来たのか。司狼は純粋に不思議に思った。
少なくとも、単独では実行不可能と見て良い。協力者がいるのは間違いない。それも恐らく、機関のセキュリティ事情に詳しい何者かの。あるいは覚醒者のような、類い稀な才能を持つ技術者の入れ知恵が必要なはずだ。
「貴様、単独でここまでの事をやったのか?」
「ああ」
「……それも嘘だな」
「…………」
「言え、協力者を。そして吐け、その目的を」
「――――!?」
その時、司狼は知らなかった。
自身が何気なく発したその一言が、終わりを告げることに。
アナザの電脳に仕込まれた『ソレ』を発動させる、トリガーになろうとは。
「あ……あ、ア、ァ……」
アナザの喉奥から、掠れ声が漏れた。
四肢が小刻みに震え始める。
熱い。目の奥がチカチカ光る。
視界が極彩色を帯びて歪み始めた。
何が起こったか判然としない。
得体の知れぬ『何か』の手によって、頭の中身が造り変えられていく。
不気味で不快な感覚だった。
決して抗えない。抗ってはならない。
混濁した意識に包まれて、アナザの自我が変質を遂げた。
「,oijiuhyugtfッッッ!」
「なんだ!?」
異変を感じ取り、思わず司狼はその場から飛び退いた。
澪はというと、何時でも不測の事態に対処出来るように、ウインドウを展開していた。
アナザの豹変っぷりは異常の一言に尽きた。口の端から粘っこくて白い涎を垂らし、両目は完全に白目を剥いて、意思の疎通すらままならない。だが、アナザを襲った怪現象に、二人は見覚えがあった。こういう症状に、過去幾度となく遭遇してきた。
「これは、電脳支配かッ!? 三尉、急いで周辺の探索を開始しろ!」
「既に実行中です。ですがこの仮想空間には、私と三佐、それに、このウィザード級錠前破りしか存在していません!」
「また位置欺瞞かッ! ったく、引きこもりも大概にしろって話だな!」
「いえ、位置欺瞞の痕跡はありません。現実世界からの電脳支配の可能性があります!」
澪が手元のウインドウから視線を外し、決意を込めた瞳で上官を見た。司狼は決して鈍感なタイプではない。直ぐに、この熱くなりがちな女兵士が何を考えているか、検討がついた。
「三佐、ここは私の潜深術で――」
「ダメだッ! 電脳支配されたヤツの深層意識に潜り込むなんて、お前、一体何を考えている!」
「ですが、このままでは犯人を取り逃がしてしまいますッ!」
「これは上官命令だッ! ここに来る前の話を忘れたのかッ!」
その時、澪は見た。司狼の逆立てた赤髪が、ゆらりと天を衝くかのように、何かを纏っているのを。怒りのオーラだ。司狼は明確に怒りを覚えていた。命令を聞かない澪への苛立ちからなのか。あるいは、自分の命を蔑ろにしようとする彼女の性分に対して怒りを抱いているのか分からない。
澪にしてみれば、分からなくてよかった。大事なのは己の命ではない。自分の手持ちのカードで、今この状況下で何が出来るのかを考え、選び、実行に移す事だけを考えれば良い。そう判断していた。
「すみません、三佐……私、行きます」
毅然とした態度でそう言うや否や、澪は目の前で苦しそうに呻き、それこそパニックホラー映画に出来る小汚いゾンビのような出で立ちのアナザの全身を、じっと捉えた。途端に、澪の美しい白髪が不可視の力場に煽られて、激しくなびく。何時の間にか、潜深術実行の為の前準備である結印を終えていたらしい。
澪はその場から、アナザへ向かって一直線に駆けだした。右手は既に、腰のベルトに装着した軍用アプリの一つ――有線端子へと伸ばされている。
そうして三歩程駆けだした所で、むんずと左手を力強く掴まれ、勢いよく引き戻された。当然、掴んだ主は司狼である。しかし、彼が澪を止めたのは彼女の無鉄砲さを諫める為ではなかった。
アナザの体に、明らかな異変が生じているのに気が付いたのだ。いや、正確には異変が発生する、ほんの刹那の一瞬を捉えたと言った方が正しい。何か良からぬ事態が発生するのを直感的に感じ取ったのだ。
澪が、はっとした様子で足を止めた時、既にその異変は始まっていた。アナザの只でさえ醜い肥満体が、更に一回り大きく膨れ上がっている。風船に空気を注入したかの様に、たっぷりとした腹が、見るのも躊躇われる程大きく膨らみ、そして、爆発の後に轟音が弾けた。
「うおッ!?」
アナザを中心に起こったその大爆発は、仮想空間の一角を粉微塵に破壊する程の威力であった。方々に、明るい色の火の粉と黒煙に包まれた肉片の滓が無造作に散らばる。その肉片達は、空中に浮かぶ黒い立方体へと降りかかり、そしてゆっくりと溶け込んでいった。
濁流の如く迫る爆圧から辛くも逃れた澪と司狼は、しかし爆発の余波を受け、床に叩きつけられる。
「三佐ッ! お怪我は!?」
起き上がり様にそう尋ねる澪。司狼はゆっくりとした足取りで立ち上がり、首を傾げるしかなかった。
「心配ない。それよりも、ヴェーダ・システムは――」
全身に痺れを感じつつ、急いで黒い立方体へと視線を移す。物理的ダメージは皆無の様だ。確認して、ホッと一息をつく。
澪は司狼の隣を横切ると、爆発のあった場所、即ち、先ほどまでアナザが立っていた場所へ足を運んだ。
「うっ……」
余りの惨状と鼻をつくキツイ焦げ跡の匂いをうっかり嗅いでしまい、澪は顔をしかめた。アナザの遺体は、もう遺体とは呼べぬ程、原型を留めていなかった。どこが腕でどこが足でどこが顔だったのか分からぬ程、襤褸肉同士が混じり合ってしまっている。黒々とした血は一瞬で炸裂した爆炎に飲み込まれたせいか、煤に似た痕を透明色の床に刻んでいる。
超現実仮想空間内における電脳ユーザーの活動体は、電脳端末が転写したユーザーの意識を元に構築されている。それが、情報体と呼ばれる『仮初の肉体』だ。
しかし、仮初とは言っても、肉体と意識の連動性を断ち切るまでには至らない。仮想世界で怪我をすれば現実世界でも怪我をするし、仮想世界での『死』は、現実世界での『死』を意味する。
こうなってしまったら、もうどうしようもない。このウィザード級錠前破りの正体を掴めぬまま、事態は収束してしまうだろう。身元不明のまま犯人が死亡してしまっては、その動機を明らかにするのは困難を極める。
「澪、そこに何かあるぞ」
何時の間にか澪の隣に立っていた司狼が、アナザの遺体を指差して言った。もう、さっきの潜深術の件で抱いた部下への怒りは収まっていた。今はそれよりも、目の間にあるこの事態をなんとかせねばと、思っているのだろう。
指摘を受けて、澪が司狼の指差した場所を見た。床に映し出される幾何学文様の発光を明かり替わりに掴んだそれは、パーツ類の欠片であった。元々の形状は正方形だったものが、爆発のせいで一部かけてしまっている。
薄さは一ミリもない。大きさは一センチメートルちょっと。位置的に見て、アナザの電脳部に仕込まれていたものと見て良い。手触りからして、カーボンとシリコン素材が使われている。あの爆発を受けて何とか形を留めている所から、オーガ合金を数パーセント含有しているとも推測できる。
何れにせよ、澪が初めて目にしたパーツだった。
「これは一体……」
「自動遠隔チップだ」
「なんです?」
「外部から発せられた特定条件の信号を受け取ると、自動的に電脳のアクセス権を簒奪し、あらかじめチップにプログラムされていた通りの動きをするっていう代物だ」
「それでは……」
「ああ、相手の電脳に直接コードを飛ばしてマリオネット化させる電脳支配とは、ちょっと意味合いが異なる」
「外部から発せられた特定条件……まさか、三佐が協力者の存在と、錠前破壊の目的を聞き出そうとした時に、発動したと?」
「そう考えるのが妥当だ。あの質問をした直後から、コイツの様子がおかしくなったんだから」
「もしその通りなら、今回の事件は単独犯ではなく、複数犯の可能性が高いですね。口封じに殺されたと見るしかありません」
「もっと言うなら、組織的犯行と言った方が正しい……末端の末端とはいえ、ヴェーダ・システムのセキュリティを突破したんだ。何かしらの高性能なアプリを使っていなきゃ、こうはいかない」
「……でも、被疑者は死亡してしまいましたし、他に何も、分からなくなってしまいましたね」
目元を伏せ、か細く答える部下の姿を見て、司狼は何とも言えない気持ちになった。分からないのは今回の事件だけではない。お前の心もそうなのだと、そう、言いたくなった。




