3-3 黒きジャグワールの執念
投稿予定を1日過ぎてしまいました。申し訳ございません。間が空いてしまいましたが、引き続きお楽しみ頂けると幸いです。
「な、なんて奴だ。実にクレイジーじゃないか。これだけの敵を前にして、未だに抵抗を続けられるとは。少々、甘く見積もっていたかもしれないな」
監視ウィンドウの向こう側で繰り広げられている光景から、アナザ・スカイフォールは一瞬たりとも目が離せないでいた。真船司狼が量子戦闘機を自在に操り、華麗な銃捌きで致死性電子蜂の猛攻を凌ぎ切っている様を見て、敵ながら唸り声を上げそうになる。
司狼に冠された《人喰い電狼》という通り名は、電脳ユーザーの間では大変知られた名だ。それは、人畜無害な電脳ユーザー達にとっては憧れの部分が強く、アナザのような犯罪者達にとっては、畏れと敵愾心を駆り立てる響きがあった。
錠前破壊を仕掛けた時点で、彼と出くわす予感はなんとなくあった。だが、アナザは臆さなかった。むしろ、胸の中に湧いて来たのは闘争心だった。
あの勇猛果敢と名高き《人喰い電狼》を、この俺が葬り去る。もしもそんな事をやってのけた日には、茜屋罪九郎だって、自分に一目置くようになるだろう。そうすれば、兄弟間のヒエラルキーで最底辺にある自分の現状を、覆す事が出来るかもしれない。
今になって分かった事がある。自分はとんでもない勘違いをしていた。量子的ゆらぎの効果を持たせたオリジナルの致死性電子蜂を投入すれば、殺すのは容易かろうと考えていたが、甘かった。
まさか、ここまでレベルの高い情報戦技の持ち主だとは思わなかった。懇親会で噂されていた以上の猛者である。真船司狼を脳死させるのは、存外に骨が折れる。無論、殺すのを諦めた訳ではない。それでも、思ったよりも時間が掛かりそうだと、アナザは踏んだ。
しかしながらである。《人喰い電狼》以上に、アナザの視線をある意味で虜にする者がいた。司狼の傍らで、偽想領域を破壊せんと、赤透明ウインドウへコード群を超高速で打ち込む美女。電脳の女神。不知火澪である。
「あ、あれが電子の女神サマかぁ。は、初めて見たけど、ふひひ、す、凄く俺好みだ。最高だ。ああ、あのおっぱいのデカさたるや、ガシッと揉みしだいたら有機飴蟲みたいに柔らかいんだろうなぁ……!」
アナザの双眸に、昏い情欲の炎がメラメラと灯り出した。あの女を、どんな手を使ってでも自分の物にしたいと思った。一目惚れした女へ向ける征服欲を糧としたアナザの両手が、凄まじき勢いで赤紫色ウィンドウを叩く。致死性電子蜂の群れを統率する制御コードを、迅速に打ち込んでいく。
「《人喰い電狼》、ここが貴様の墓場と知れ。あんたを殺して、俺が電子の女神を飼い慣らしてやる。新しいご主人様になってやる。子宮が壊れるまで孕ませてやる。今は、まだ序の口だ。俺の仕掛けたトラップの恐ろしさ、今こそ思い知らせてやるぅッ!」
己の背後に陣取る、黒き立方体の存在を意識しつつ、アナザはスマートグラスの縁を押し上げ、不敵に微笑んだ。
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「(……妙だな)」
量子削侵銃の二丁射撃を終えた司狼は、拭いきれない違和感に襲われていた。致死性電子蜂の動きに、変化が見られたからだ。それまで怒涛の勢いで毒針を発射していたのが嘘だったかのように、今は鳴りを潜めている。Aハルコネンと一定の距離を保ちつつ、追跡のみに終始しているのが、不気味だった。
何かを仕掛けてくる予兆はあった。だが、それが何なのか、司狼は思い至らずにいる。念の為に、Aハルコネンのミサイルポットに量子攻性ミサイルを再装填。銃把を握る手が汗を掻いていた。
『敵さんの様子が妙だ』
『ええ。何か、奥の手を隠している可能性が高いですね。念の為に探りを入れてみます』
『おい、無理はするな。索敵にのみ集中すれば……』
『問題ありません。今の私なら、どんなことでもやってのけるだけの力があります』
鬼の様なスピードでコードを叩き込みながら、澪が平然とした様子で応えてくる。倍速有線端子を接続した今の彼女は、通常時の倍近いだけの超高速演算能力を獲得している。索敵をしつつ、ウイルスの一挙手一投足に意識を向けるだけの余力は、充分にある。
澪がこれほどまでの積極性を見せているのは、優れた量子兵装のおかげではない。精神的な面に依るところが大きかった。優れた装備や力、それ自体に意味は無い。それらを十全に発揮出来るだけの度胸がなければ、どうしようもない。つい数刻前に司狼の激励を受けた澪には、その度胸があった。やってやるぞという覚悟が、煮えたぎっていた。
勝算があるわけではない。しかし、踏ん張らねばいけない。でなければ、大切な人を死なせてしまう。それだけは、決してさせない。させるわけにはいかない。
黄透明ウインドウへ視線を向けていた澪が、警告を発した。
『三佐! 前方に、木星を模したと思しき量子構造物を確認! 距離、およそ五キロ! 緊急回避して下さい!』
『ラジャー!……むっ!?』
Aハルコネンを右へ旋回させようとしたところで、司狼の眉間に皺が寄った。追跡に終始していた致死性電子蜂の群れに、動きがあった。示し合わせたかのように一斉に放射状に広がり、司狼達を取り囲んだのだ。まるで、底引き網漁に使われる網のように。上下左右どこにも逃げ場ができないように。
さしもの量子戦闘機も、こうなってしまっては打つ手が無い。ミサイルを発射して突破口を開くことも考えたが、量子的ゆらぎを持つ敵を前にしては効果が薄いだろう。完全に行動を制限されたと言って良かった。軌道の大幅な変更も、封じられた。
こうなったら、木星の量子構造物に向かって、一直線に飛び続けざるを得ない。
敵の鮮やかな陣形展開にちょっとした驚きを覚えながらも、司狼は敵の狙いについて予測した。直感で脳裡に浮いてきたのは、トラップの存在だった。木星の衛星付近に設置されている三十数個のトラップだ。あれが設置された空間へ、自分たちを誘い込もうとする算段なのだろう。だとすれば、先ほどから一向に攻撃を仕掛けてこなかった理由にも辻褄が合う。
司狼は、更に思考を巡らせた。恐らく敵は、Aハルコネンの性能に業を煮やしたに違い無い。だから、致死性電子蜂の力で止めを刺すことを諦め、トラップで自分達を一網打尽にするよう、作戦を変更したのだ。
そこまで予測して、それでも司狼は動揺を見せない。既に量子菌を木星付近のトラップに向けてばら撒いていたからだ。使用した量子菌は軍用規格のものだった。巷で売られているものよりも、ずっと強力な破壊プログラムが組み込まれていた。戦闘が始まってから、既に十五分が経過している。もうすでに、量子菌はトラップをあらかた喰い尽くしいる頃だろう。そう、決めてかかっていた。だから、危機的状況に自分たちが陥っているのにも、気がつかなかった。
「なッ!?」
司狼の目が珍しく、驚愕の声と共に大きく見開かれた。およそ五百メートル程先の空間に、悠然とたたずむソレを見た。超巨大且つ、白と茶色のマーブル模様が特徴的な惑星が、眼前で自転。その惑星を包むようにして、一匹の長大過ぎる褐色の蛇が巻き付いていた。
遠目からでも確認できる。それは、一匹の蛇としてそこにあるのではなかった。三十数匹の蛇の群れが、寄り集まって形成していたのだ。現実離れした、巨大な大蛇であった。
北欧神話に登場する、世界樹を支える神話級クリーチャーを彷彿とさせる巨大蛇の双眸が、Aハルコネンの姿を捉えた。チロチロと舌を伸ばしながら鎌首をもたげ、待ってましたとばかりに莫大な息吹を吹きかける。凄まじき風の大砲だった。強大な風圧を正面からまともに食らった。あまりの衝撃に、Aハルコネンの機体バランスが一瞬にして崩れかける。しかし、司狼は脳内コマンドでこれを制御。直ちに体勢を立て直す。
『これは……』
冷や汗が止まらない。司狼はゴクリと唾を飲み込んだ。視界の中に『それ』を確かにみとめたのだ。巨大蛇の突風じみた呼気に混じって吐き出されたそれを。量子菌の残骸と思しき物体を。
「(やられたっていうのか!? 最新ヴァージョンの量子菌が! まさか澪の憶測通り、相手はリッチ級の錠前破りだとでも!? いや、そんな事よりも――)」
今は敵の素性を探るよりも、状況を打破するのが先決だ。でも、どうしろというのだ。眼前には最新の量子菌を踏みにじった凶悪な破壊プログラムの塊。周囲には、数を大きく倍増させた、致死性電子蜂の群れ。どう考えても、進むべき道は塞がれている。
「(前門の虎、後門の狼か……)」
致死性電子蜂が、一斉に照準を定めた。羽音が一層けたたましく鳴り響いた。腹部に穿たれた射出口から毒針の先端を露出させて、ロックオン。猛烈な死の気配が、Aハルコネンに乗る若き電脳兵士に忍び寄る。
だが、この絶望的な状況を覆すカードを、司狼は自身も気づかぬ内に獲得していた。逆転の女神という名のカードを。
「おイタはそこまでよ」
不知火澪が、素早い動作でホルダーから量子削浸銃を引き抜いた。戦闘で得られた情報を元に、鎮圧コマンドを脳内で瞬間生成。銃身内部のデバイスへ転送と同時に、放銃した。
平べったい銃口から、幾百条もの青白い光線が次々に放射された。光線が、幾何学的且つ鮮やかな軌跡を描いて標的へ着弾。致死性電子蜂の群れが金色に輝く粒子となり、霧散していく。
呆気にとられた様子で立ち尽くす司狼を意に介する事もなく、澪のターンは続いていく。間を置かずに脳内コマンドを生成して、今度はAハルコネンに転送。攻性量子ミサイルが、全弾発射された。ミサイルは、致死性電子蜂を超える数まで増殖すると、数秒で敵を駆逐した。
散らばるコードの残骸。仮想の空間に沸く、大小入り混じった茜色の爆炎と、爆圧と轟音。空爆じみた光景に包まれて、司狼の視線は自然と澪へ注がれていた。
「澪、お前まさか」
驚きのあまり、念話を飛ばすのも忘れて司狼が叫ぶ。澪は、散華していくコードの残骸を背に上官へ向き直ると、黙って頷いた。その目は依然として油断ならない雰囲気があった。どこか誇らしげな風にも見えた。
「バースト、ですよ三佐。ぎりぎりでしたが、間に合いました」
「……致死性電子蜂の行動制御コードを、全て視覚化出来たのか」
「勿論です。これで向こうの攻撃は完全に無力化されました」
「出来るんだったら最初からやっておけ。肝が冷えるぜ、全く」
「ご心配おかけして、申し訳ございません。少々、取り乱してしまいましたが、でも、もう大丈夫です」
普段通りの凛とした声でそう言うと、澪は再度、量子削侵銃を構えた。その銃口を、今度は量子菌を食らいつくした惑星級の巨大な大蛇へと向ける。
「例え強力なプログラムを保有していたとしても、構造が分かってしまえば分解するのは容易いんですよ。お分かりかしら。かくれんぼ中の錠前破りさん」
澪は、依然として偽想領域の向こう側に隠れ潜んでいる敵を、不敵な笑みを浮かべて挑発した。
己よりも遥かにちっぽけで華奢な存在に反撃されたことで、巨大蛇が明らかな憤怒を見せた。褐色の鱗が、アメジスト色に輝く。鎌首をゆっくりと、もたげ始める。
鈍く邪悪に輝く金色の虹彩が、微かに震えている。興奮状態に陥っているのは明白だ。巨大蛇が、口を開ける。毒液滴る大牙が見える。だが結局、威勢を張るのはそこまでだった。
突如として、巨大蛇の体が歪に膨んだ。その内側が爆発と共に捲れて、爆煙が激しく大気を鳴動させた。轟音が、断続的に偽想領域内に響き渡る。量子の肉片が周囲へ拡散する。爆圧による慣性力により、肉片が引き戻される。そして、再度拡散して消滅していく。
後には、塵ひとつ残らなかった。
閃光する火花に当てられて、逆転の女神が眩しさに目を細めた。彼女の握る量子削侵銃の銃口からは、青白い煙がたなびいていた。
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凡そ、人のものとは思えぬ程の金切声が仮想の部屋に響いた。声の主は、アナザである。気が触れたかのようにヘッドバンキングを繰り返し、血が滲むほど唇を噛み締めていた。獣のように鼻息を荒ぶらせるその姿は、見る人が見れば、狂人そのものとして映るはずだ。
だが、こんな奇声を発していても、アナザの思考は正常だった。彼独特の奇癖だ。気持ちを落ち着けるために、ワザとふざけた調子で大声を上げているのだ。いつもならこの調子でパニックを乗り切ってきたのだが、しかし今回ばかりは様相が異なる。気分は落ち着くどころか、逆に昂りを増していくだけだった。
「くそ……クソッ! 畜生めッ!」
何もかもが想定外だった。まさか、背後に浮かぶ黒き立方体の力を借りているというのにこのザマとは。大蛇を模して構成した破壊プログラムは、芸術嗜好の強いアナザ渾身の傑作だった。それが、同じウィザード級の電脳兵士が相手とは言え呆気なく無残に散らされた。加えて、致死性電子蜂の行動制御コードまで看過されてしまったのだから、痛手も痛手である。
「畜生! あの女……電脳の女神! 糞ッ! 糞がッ! 対立素数を使った強制介入で、行動制御コードを可視化しただとッ!? 聞いちゃいないぞ、そんな高等技術を持っているなんてッ! 糞ッ! 糞がッ!」
額から脂汗を滲ませ、肩で息をつくアナザ。彼の全身の至る部分には、澪と同様に倍力有線端子が接続されていた。だが、澪が装着しているそれとは規格を異にする代物だ。民間仕様の多機能端子だった。茜屋罪九郎が、今回の仕事をよこす際に餞別として与えたものだった。あまり動作は芳しくない。十分に使いこなせていない感覚がある。システムの末端に潜入する際に酷使したのが原因なのか、それとも元々の仕様なのかはわからない。
しかしながら、もし後者の可能性があったとしても、アナザは取り立てて気にしなかった。罪九郎が、ワザと性能の低い倍力有線端子を与えてきたとしても、今更どうこう言うつもりはない。元々、奴がそういう性格の持ち主であるという事は、最初から分かっていた。
今回の任務も、罪九郎が裏でコソコソと動いているに違いないと、アナザは何となく勘付いていた。もしかしたら、奴の本当の狙いは別にあるのかもしれない。システムへのハッキング行為はその狙いのお膳立てに過ぎないのではないか。あり得る話だけに、疑念を振り払う事が出来ない。
だが、直ぐに些細な事だと気持ちを切り替える。そんなのは、本当に些細な事だ。
奴の真の狙いがなんであろうと、構わない。自分に手伝いを断る権利など、最初から無きに等しいからだ。どのみち、親の命令には逆らえないように身体が調整されているんだから。初めから、選択肢は一つしか用意されていなかったと思う事にした。そうしなければ、やっていけない。
罪九郎の狙いは分からない。でも、唯一はっきりしている事がある。ここでもし自分が失敗を犯せば、あの男は平気で俺を切り捨ててくる。それだけは、間違いない。
「畜生ッ! 畜生ッ!」
短い四肢が、怒りと恐怖で震えた。アナザは親指の爪を執拗に噛み始めた。電脳端末が、それを自傷行為と認識した為か、爪は噛み切れないし血も流れない。それでも噛まずにはいられない。
「こ、こうなったら……!」
惜しい気もする。だが、ここまでコケにされてまで、あの女を手にしたいとは思わない。気持ちを切り替えるべきだ。あの女は、どうやっても殺さねばなるまい。もう澪に対する征服欲はない。新たに湧き上がってきた感情は、どす黒い殺意の感情だ。如何にして相手を虐殺してやろうかという破滅的思考。ただそれだけが、彼の全身をジャガーの駿足が如く駆け巡った。
唐突に、アナザの脳裏を六人の兄弟の顔が過った。どうしてあんな奴らの顔をここにきて思い出したのか、彼自身にも分からなかった。だが確かに、彼は不意にこのタイミングで、同じ釜の飯を食ってきた、仕事仲間であり兄弟でもある六人の面子を思い出してしまっていた。
すなわち、キリキック・ビュー、アハル・ダンヒル、チャミア・バレンシア、スメルト・A・フィッチ、パック・ルブタニア。
そして、マヤ――マヤ・ツォルキンの六人を。
特に鮮明に浮かんだのが、マヤだった。人造殺人集団こと殺戮遊戯を構成する、《黒きジャグワール》となぞらえられし七人兄弟の長兄。マヤは事実、アナザや他の兄弟と造られた時期は同じでありながら、しかし長兄としての資質を十分に備えていた。兄弟間で除け者にされがちだったアナザを構ってくれたのは、今思い返せば彼だけだった。
「(だが、どうだかな。心の中では、俺の事をバカにしていたのかもしれない)」
懐疑心を募らせながら、アナザはほかの兄弟の事も思い出していた。そして、すぐにやめた。奴らの事など考えたくもなかった。特に、四男坊のアハル・ダンヒルの事を思い出すと虫唾が走る。
奴は何かにつけ、アナザの情報戦技を『実益に見合わない、上辺だけの小賢しい技』と評しては、せせら笑ってきた。あの顔。あの人を小馬鹿にしきった醜悪な顔が、ほんの少しでも頭の片隅に浮かんだだけで、胸のムカツキが止まらなかった。
もし仮に、俺がこの場で死んだら、アハルはどういう反応を見せるだろうか。あの小さな肩を軽快にいからせて、何故俺が死んだのかという事の考察を、一々懇切丁寧に他の兄弟へ喋るのだろうか。あの、人を見下す独特の態度は、俺が死んでも治らないのだろうか。
考えれば考えるほど、アナザのこめかみに、太い青筋が浮かび上がった。苛立ちを表すかのように奥歯をガチガチと鳴らす。シャツをじっとりと濡らす汗の感触が、実に不快であった。
「(死んでなるものか。こんなところで、死んでなるものか! 俺には『コイツ』があるんだ! 今の俺が本気を出せば……見ていろよ電脳の女神。それに人喰いの電脳兵士め、味あわせてやるッ! 俺をこけにした罰だッ! 超圧縮の重力場に押しつぶされて、死ぬがいいッ!」
曖昧な根拠の下に生まれた、耐え難い孤独感と不安感。それを払いのけるようにしてアナザが汗まみれの右手を振った。
新たに、一枚のウインドウが展開した。それは暗黒の彼方を思わせる、漆黒のウインドウだった。その暗闇の窓に五秒とかからず、五千桁のコードを打ち込んで実行。
アナザの背後で、黒い立方体が低い唸り声を上げた。
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澪が機転を効かしてくれたおかげで、窮地を脱することは出来た。
しかしながら、司狼にはわからない事がある。
澪はバースト……高次元における多量コードの同時集中改竄によって、致死性電子蜂の行動制御コードを無力化したと言っていた。だがあれだけの数だ。一度に全て改竄するのも凄すぎるが、一体どのような方法で、全コードを視覚化したというのか。
『三佐は、違法素数の存在は知っていますでしょう?』
『勿論だ』
『あの致死性電子蜂のプログラムコードには、違法素数が一部使われていたんです』
『へぇ……そういうからくりか。良くわかったな』
『だって、明らかにおかしいじゃありませんか。量子的ゆらぎを持つ致死性電子蜂なんて、聞いたことがありません。それで試しに、三佐の戦闘データログを軍用クラウドから引き抜いて、バックグランドで演算処理したんです。ビンゴでしたよ。ここが偽想領域だという事実に気付くほんの少し前の段階で、ログの中に違法素数由来のプログラムが混じっている痕跡を見つけたんです。それで、もしかしたらと思いまして』
『即座に対となる違法素数……対立素数を創り出してぶつけ、違法プログラムを破壊したという訳だな。素撃数算は、お前の十八番だものな』
『付け加えるなら、対立素数には攻撃した際に標的のコードを解析し、可視化させる効果があるものを選び取りました』
超現実仮想空間における情報戦争、情報戦技の根幹を支えているのは、詰まる所が『数字』である。仮想世界そのものを構成しているヌメロン・コードも、紐解いていけば数字の塊だ。それを、プログラムという扱い易い形に変換したものに過ぎない。
数字の中でもとりわけ、異質な存在感を放っているのが『素数』だった。
司狼は以前、同じ部隊の人間から、妙な話を聞いた。電脳ユーザーの中には、何らかの内的・外的要因によって自らの精神が興奮状態にあると自己診断した場合、精神の均衡を保つ目的で、『1から順番に素数を数えていく』という特殊癖を持つ者がいるらしい。
電脳ユーザーでない人間が聞いたら笑うところだろう。司狼は笑えなかった。あながち、おかしな癖ではないと思った。そこには、敬虔深い僧侶が仏に帰依する為に経典を唱えるのに類似した、尋常ならざる奥深さがあると感じた。素数は数理世界における神であり、幻幽都市の科学技術力を以てしても、素数の謎を全て解き明かす事は、依然として出来ないでいるからだ。
素数の持つ力は偉大だ。四源に照らし合わせて考えれば、それは『工量』を構成する概念の最上位を占めるに値するだけの神秘性を宿している。そうして事実、情報戦技において最も会得が難しく、それでいて最も脅威とされるのは、全て素数に起源を持つ技ばかりであった。
いける。対立素数、あるいはそれに準じる膨大な桁の素数を駆使すれば、勝算は十分にあると司狼はみた。致死性電子蜂のプログラムに違法素数が応用されていたとなれば、同一の錠前破りが生成した偽想領域にも、同様の仕掛けが施されていると考えた。
それは澪も同じだった。彼女は先ほどから頭の中で組み立てた違法素数を元に、新たな破壊プログラムを十も二十も生成していた。それらを怒涛の荒波が如く偽想領域に向けて叩き付けた。すると、狙い通り効果があった。完全破壊とはいかぬまでも、空間の壁に傷をつけるぐらいの事は出来た。
しかしながら――思わぬところでとんでもない壁にぶち当たるのが、人生というものだ。
『三佐!』
部下の悲痛な叫びは、何の前触れもなく突然に、司狼の鼓膜を激しく揺さぶった。只ならぬ事態を察知した司狼は、それまで胸中にあった妙な安堵感を捨て去り、怒鳴り声に近い声色で応えた。
『どうした!? 新手のウイルスか!?』
『偽想領域が圧縮を始めました! 空間が狭まっているんです!』
すかさず、軍用アプリから視界共有を選択して起動。司狼は、己の視界と澪の視界を共有させ、黄透明ウインドウに視線を向けた。座標の中心に置かれた紅点が自分たちの現在位置であるのを確認。次に、座標全体へと目を向ける。
澪の言葉通り、Aハルコネン目がけて周囲の空間が圧縮を始めている。サイドウインドウに表示された重力曲線率が異常すぎる値を示しているのに気が付いた時、司狼は「しまったッ!」と、反射的に叫んでいた。
即座にコマンドを実行。だが、Aハルコネンは反応しない。そんな事は無いだろうと思いつつ、燃料メーターに目を向けた。緑色のランプが光っており、電子文字で『92%』と表示されいるのを確認した。
視界が激しくぶれた。気が付いた時には、もう手遅れだった。極度の重力異常により、Aハルコネンの内燃機関が見えない力で超圧縮され、爆発炎上。つんざく轟音と爆風に当てられる形で、司狼と澪の両名は骨が折れるかと思わんばかりの万力を全身に浴びつつ、勢い良く吹き飛んだ。
攻撃。それも、これまで以上に明確な殺意を持った攻撃。態勢を立て直そうと、空中に放り出された司狼は四肢の筋肉を操作して、着地を試みようとする。
が、出来ない。正確には、体が下へ落下していかない。重力の作用形式に深刻な、それも恐らくは意図的なエラーが発生して、重力の影響が極度に働く箇所とそうでない箇所とに分離されてしまっているのだ。
いま、司狼を包んでいる場は無重力に近い状態にあった。足をもがいても体が不自然に回転するだけで、地面は遠のく一方。かと思いきや、今度は打って変わって莫大な重力が真下に発生。一切の加減無きスピードで地面――星屑が広がる夜空を模した地面へ、全身を強く打ち付ける。
ウインドウが自動で開き、軍用アプリから甲高い警告音が鳴り響いた。十二層に展開していた攻性防壁のうち、七枚が破壊された。口の中に広がる鉄の味を十分に感じながら、司狼は息を吸い込む。耐え難い激痛が彼の気道を圧迫し、そうして吐血。黒くドロリとしたそれを見てもなお、彼の頭の中にあったのは、澪の安否だった。だが、曇る眼で周囲を確認しても、澪の姿はどこにもなかった。さっきの爆風で自分とは正反対の方向へ飛ばされたのか。
薄れゆく意識の中で司狼は考えた。敵は間違いなく、この偽想領域ごと自分たちを殺すつもりでいる。そうだ。何故気づかなかった。偽想領域はヌメロン・コードを一時的に改竄して創り出された、現実感を伴う幻術だ。この空間に囚われた時点で、既に敗北は決まっていたのではなかったか。
何かが接近してくる予感を感じて、司狼は顔を上げようとした。だが、動かない。無理もない。さっきの重力偏重による一撃は、実に一千メートルの高さから高速で落下したのと同等の破壊力を備えていたのだ。こうして意識があるのが不思議だ。
仕方なく、なんとか眼球だけを動かして、その気配とやらに目を向けた。
「……は」
変な笑いが込み上げてきた。大小十七個の隕石が、自分へ目掛けて飛んできている。隕石は高速移動に伴う摩擦で赤熱し、それはまるで、炉から取り出したばかりの玉鋼を思わせた。
逃げようと一応もがいてみるが、やっぱり体は動かない。多分、足が折れている。いや、折れていたらまだましだ。千切れている可能性だってある。量子削侵銃を構えようとするが、そもそも腕はさっきの爆風をまともに受けたせいでひしゃげている。
彼に残された策は一つもなかった。やがて迫りくる隕石に体が押し潰される事を、彼は黙って受け入れる事にした。それは恐らく、彼の家族が崩壊した『あの日』から彼自身の中に芽生えていた、控えめな自殺願望の為なのか。
だが、そんなことは既に無意味なものとなってしまった。
司狼自身が思慮を巡らせようと意識した時点で既に、その思考を司る筈の頭部は無残にも、隕石の直撃を受けて吹き飛ばされてしまった。




