3-1 ウィザード級電脳兵士
『電脳兵士ともなると、流石にオフの日ぐらいは外で丸一日過ごしたくなるものなんだろう? 没入しっぱなしじゃあ、意識が疲れちまうもんな』
呪工兵装突撃部隊の須菩提大隊に所属する機関員なら、誰しも一度は訊かれたことのある問いだ。
蒼天機関傘下の呪工兵装突撃部隊・須菩提大隊に属する機関員は、俗に電脳兵士とも呼ばれている。抱えている仕事は当然、電脳絡みだ。ゆえに彼らの仕事場は、決まって超現実仮想空間だ。それを考えれば、たまの休日くらいは現実世界で過ごしたいと思うのが普通だろう。
事実、その通りであった。休日になったら遊園地や映画館へ出掛ける。バイクでツーリングを楽しむ。電脳兵士の多くはそうやって、たまの休日を満喫する。
しかしながら、須菩提大隊第三中隊中隊長の三佐・真船司狼は別だ。彼の場合、それはまるで当て嵌まらなかった。
重度のネット中毒者だから、というわけでは無い。ただ、現実世界で自分に合う趣味が見つかっていないだけだ。仕事のある日は当然、オフの日も含めて仮想の世界に入り浸る。そんな電脳兵士は、彼ぐらいのものだ。
仮想の世界。それが、幻幽都市におけるインターネットの世界。この都市でコンピュータ・ネットワークと言えば、それは超現実仮想空間の事を指している。幻幽都市のネットワークは全感覚的に認識出来るのが当たり前で、昔と比べて一般的なものとなっていた。
司狼が初めて電脳化手術を受けたのが、七年前の十七歳の時だった。元々無趣味だった彼は、電脳化手術を契機として色々な仮想娯楽に手を染めた。その中で特に心を掴まれたのが、没入式のVRゲームであった。
彼が最初に手を出したVRゲームは、西洋ファンタジーをモチーフとした多人数参加式のロールプレイングゲームだった。レベルを上げる。スキルを取得する。クラスチェンジを成し遂げる。他のプレイヤーと共にレイド戦に挑む。そんな、ごくありふれたVRMMOだった。
二ヶ月程プレイして、やめた。システム面が脆弱だったという訳ではない。ギルドメンバーと折り合いが悪くなったわけでもない。彼はたったの二ヶ月で、そのゲームが供給出来る全ての要素を遊び尽くしてしまった。要するに、飽きたのである。
真船司狼。彼はリアルマネーにモノを言わせた重課金ユーザーでは決してない。彼のように、先天的に電脳に対して常軌を逸した適応能力を見せる電脳ユーザーは決して多くは無いが、確かに存在する。
これらの電脳ユーザーは『電子的サヴァン症候群患者』と呼ばれている。だが、通常のサヴァン症候群と比べて発達障害や知的障害が見られない事から、この病名は適切ではないとの意見が大勢を占めていた。
ともかくである。この体質のおかげで、彼はVRMMOにおいて無敵にも近い能力を発揮していた。どのフィールドで、どんな種類のMOBをどれだけ狩れば、どの程度の経験値が得られるか。どういったスキルツリーを組めば、どのような場面でどういった立ち回りが、どのくらいの効率の良さで出来るのか……
チュートリアルに片足を突っ込んだだけで、それらの事が全て感覚することが出来た。二十四歳という若さで中隊長を任されているのも、ひとえに、この生まれ持っての体質に依るところが大きかった。
しかしなながら、この体質ゆえに、彼はVRMMOを心行くまで愉しめてはいなかった。ゲームの醍吾味を知る前に、レベルもスキルもクラスチェンジもレイド戦も、とんでもないスピードで終えてしまうのだから。
仮に、物語世界に没入する前に、登場人物達の立ち回りが全部分かってしまう小説が存在するとして、愉しめる者など皆無だ。それと全く同じなのだ。
VRFPSにも手を出した。あれは一番愉しめなかった。心が休まらなかった。銃のトリガーに指を掛けている最中、仕事の事を思い出して仕方が無かった。仮想世界での戦争は、任務の時だけで腹一杯だった。
やがて、司狼は自然と悟るようになった。きっと、自分はVRMMOを心の底から愉しむこともなく、人生を終えるのだろうと。彼にとって、VRMMOは娯楽とは程遠い存在になりかけていた。
そんな思いを胸に抱いた矢先の事である。
牧場経営型VRMMOである『ファームベルト・オンライン』と出会ったのは。
気休めに始めたゲームだった。それなのに、開始してから数ヵ月が経過した今になっても、不思議と愉しめてしまっている。
仮想の牧場を経営し、家畜の飼育を基本目的とした、シンプル極まるゲーム。それでも、良く作り込まれている。乳牛を飼育して工場を購入すれば、乳製品を製造する事も可能だ。飼育している鶏の卵を使った料理を他ユーザーに振る舞えば、その出来栄えによって評価ポイントがつく。ポイントをゲーム内のマネーに換金して、土地の購入や牛舎のリフォームをする。やれることは多かった。
当然の事ながら、司狼にはそれらの事をするのに――つまり、評価ポイントを稼ぐのにどういった味付けの料理をすれば良いのかという事や、どういった種類の動物達を飼育すれば、どのくらいの期間でどのような収穫があるとか、収穫物を加工して販売した場合、どの程度の収入が入るのか。そういった事が手に取るように分かった。
それにも関わらず、彼がこのゲームから離れる様子は、今のところない。いや、きっとサービスが終了するまで、離れる事はないだろう。
その要因は一体なんなのか。何が自分をここまで引き付けているのか。司狼は時折、その事について深く考える事があった。そうして導き出した結論が、『命の育み』だった。
『ファームベルト・オンライン』は自然の理を忠実に再現していた。餌を与えなければ動物達は死ぬ。繁殖力を考えて番を組んでやらなければ、飼育は失敗してしまう。台風や干ばつ、寒冷だってやってくる。時期を見越して備えをしなければ、全てを失う。そのリアルなシビアさが良かった。仮想の世界とはいえ、動物達の成長を日々見守り、彼らから与えられる恩恵にあやかって生きる。それが大変に気に入っていた。
人は、何の気になしに毎日を生きているように見えて、その実、自然によって生かされている。それを実感した途端、司狼の心は言いようのない充足感に満たされた。例え難いほどに、心に安らぎを覚えた。
彼が今までやってきたVRMMOにも、サービスの一環としてペットを育成する類のものはあった。だが、自然の理に従うという理念からは大きく外れていた。ただ単に『戦闘で役立つペット』を育成すると言う『作業』に重きを置いたものが殆どだった。
このゲームにはそれがない。自分は今、この雄大なる自然に囲まれて命を育んでいる。そういった認識を得た司狼にしてみれば、今までのVRMMOが、全て堅苦しい作業に思えて仕方なかった。
彼はますます『ファームベルト・オンライン』にのめり込んでいった。動物達に囲まれて、豊かな自然の中で汗水を垂らして開墾に勤しむ。悪くない。仮想の世界とはいえ、そこには確かに自然があった。
このゲームの良い所は、それだけではない。初心者、中級者、上級者間の溝がなるべく深くならないように。また、廃課金ユーザーだけが良い目を見る事が無いように、運営側からは最大限の配慮が為されていた。
システムのプロテクト面も非常にレベルが高く、処理不良や回線落ちとは無縁の代物だった。実際、サービスを開始した二年前から現在に至るまで、一度もそういった目には遭っていない。堅牢な攻性防壁を積んでいるのは、誰の目にも明らかだった。
それ故であろう。
『ファームベルト・オンライン』の開発元であるエイチクラフト社から錠前破壊の被害報告を受けた時、司狼は大変なショックに襲われた。
運営会社の話によれば、仮想ゲームサーバー内に登録されている何種類かの動物達が、錠前破壊の発生時に死んでしまったらしい。原因は、ヌメロン・コードの破壊に伴って発生した情報圧迫のせいと断定して間違いない。
超現実仮想空間は、ローカル・エリア・ネットワークを超高度に発展させた、仮想空間と呼ばれるネットワーク領域が幾つも複雑に組み合わさって形成されている。現実の世界が、多数の国や地域から構成されているのと同じ理屈だ。
二〇四〇年現在、広大な超現実仮想空間を構築する仮想空間の数は、五千万にも上っていた。その数は留まる所を知らず、今も尚、新しいアカウントを獲得して増え続けている。
超現実仮想空間の構築理論は複雑極まる。しかし、その核心部分は実にはっきりとしていた。ヌメロン・コードと呼ばれる情報コードがそれだ。それは家屋で例える所の大黒柱であり、家を家たらしめている『全て』であった。
数多の攻性防壁を掻い潜ってのヌメロン・コードへの錠前破壊行為。そんな超高等技術の芸当が出来る奴は限られている。悪質な、それでいてウィザード級の錠前破りによる仕業と見て、間違いなかった。
ヌメロン・コードへの錠前破壊は、仮想の世界に深刻な綻びをもたらす。穿たれた綻びから出所不明の電子蜂が大量に流れ込んでくる可能性が考えられる。もしそうなれば、運営側に打つ手はない。早急な対応が求められた。
ゲームとはいえ、こんなに長閑な牧草地帯に害を与えるとは到底許せない。然るべき罰が必要だと、司狼は強く感じていた。
「だから俺は、今大変に怒り心頭な訳だ。不知火、お前ならこの気持ち、分かってくれるだろ?」
仮想の畦道を歩きながら、司狼は隣を歩く部下を見やった。彼の部下――不知火澪が、軽く頷いて同意を示す。
「分かりますとも、三佐。貴方がここ最近、このゲームにどれだけ熱中していたかは、私にも手に取るように分かります。何せ、休憩時間ともなると、いつもこのゲームの話ばかりでしたから」
「お前もやってみろ。きっと嵌ると思うぞ」
「それはまた、いずれ……あ、あのう、それよりも、三佐」
麗しい声に若干の戸惑いの色を含ませて、澪が何か言いたそうにしている。司狼は目線を向けることなく、からかった。
「どうした。まさか、ウィザード級錠前破りを前にして緊張しているのか? 大丈夫さ。お前だってウィザード級の電脳兵士だろうに。それに万が一の事があったら、上官の俺が身を呈して守ってやるから、安心しろ」
「……そういう気遣いを、もっと別の所へ向けて欲しかったです」
意味深な台詞を耳にして、司狼は立ち止まる。視線を、腐れ縁の部下へ向けた。
「どうしたんだよ一体」
「どうもこうしたもありません。何で私にこのような格好をさせたのか、その理由をお伺いしているだけです」
頬を軽く膨らませて意見するも、司狼はピンと来なかった。不思議そうに顎に手をやり、澪の衣装を繁々と眺めた。
「そんなにおかしいか?」
「おかしいですよ! 三佐は思わないんですか?」
「全く」
「なんでですか!」
「いいじゃないか別に。良く似合っていると思うぞ」
「……あの、ふざけていらっしゃるのですか?」
敬語は崩さず、澪は目を皿にして抗議した。彼女が不満に思うのも当然の事であろう。派手に露出した服よりも、この『格好』は精神的に恥ずかしかった。ファッションにとりわけ気を使う彼女にしてみれば、尚更の事であった。
センスの欠片も感じさせないプリーツのモンペ。頭には日避け笠を被っている。顔全体は、虫避けの白い網布で覆われていた。どう見ても、畑作業の衣装である。少なくとも、年若い女が好むような格好でない。
「もう少し、マシな衣装をご用意頂けると思ってました」
「マシとか言うな。一応それ、先月のイベントで俺が当てた抽選品なんだぞ。めちゃくちゃレアで、交換不可なオンリー・ワンの逸品さ」
「服の希少価値うんぬんの話をしているのではなく――」
「大体な」
司狼は嘆息気味に言った。
「お前はもうちょっと、自分が周囲からどういう扱いをされているのか、良く自覚すべきだ。お前ほどの有名人が普段の格好で仮想を出歩いていたら、嫌でも人目につくだろうが。その格好は、いわば変装だよ」
彼の言う通りだ。電潜戦士こと不知火澪と言えば、若干十六歳で蒼天機関に入局して以来、仮想世界における数々の犯罪者を検挙してきた名うての電脳兵士である。その人気は、電脳ユーザー間のみに限られていない。幻幽都市に住む誰もが、彼女の活躍振りを耳にしている。その美貌さから、《電脳の女神》と持て囃す者もいるくらいだ。
彼女は、ウィザード級電脳兵士としての腕もさることながら、その風貌も魅力的であった。品の良い良家のお嬢様を彷彿とさせる佇まいと、均整の取れたボディライン。男の獣欲を刺激するに留まらず、同姓の羨望の眼差しも一手に引き付けた。その存在はもはや、機関の広告塔的存在と例えても、決して言い過ぎではなかった。
「ゲームを愉しんでいる一般の電脳ユーザーに余計な不安感を抱かせない為にも、現場まで変装して行動しようという三佐の考えには同意致します。ですが、もうちょっと普通の服装でも良かったのではありませんか?」
「普通の服を選んだら変装の意味がねぇよ。お前はどんな服でも簡単に着こなしちゃうもんな。華が更に華をつけてどうする」
「そういう三佐だって私以上の有名人じゃないですか。《人喰い電狼》の勇名は、仮想世界の果ての果てまで届いているんですよ?」
「だから、俺もこうして変装しているじゃないか。ピエロの格好をして、おまけにお面まで被ってな」
ややくぐもった声でそう言うと、司狼は己の顔面に被さった、ゴテゴテしい『お面』を指さした。お面以外にも、機関員であるとバレないように、何故かピエロの格好までしている始末だ。
服装もそうだが、お面のデザインもまたかなり奇抜だった。仮面の頭頂部からは色とりどりの鳥の羽が生えていた。加えて、鬼を思わせる意匠がされてある。過激を通り越して、何処か阿呆に見える。
「つかぬ事をお伺いするようで申し訳ございませんが、どうしてそのお面を選んだのですか?」
「いいだろぉ~~~~これ。蘭陵王の面だぞ? ちょっとばかし前に評価ポイントを溜めに溜めて買ったんだ。どうだ? 似合うだろう? カッコいいだろ?」
「え、ええ……その、凄く独創的だとは思います」
「そうかそうか。不知火、ようやくお前も、俺のセンスが分かってきたようだな」
愉快そうに笑って先を急ぐ司狼の背中を、澪は困った表情で眺めた。ここに来るまでの間に何人かの電脳ユーザーとすれ違った。誰も、二人の正体には気が付いていない。というか、挨拶すら寄こしてこなかった。
無理もない。片やモンペの女、片や蘭陵王の面を被ったピエロ姿の男である。おかしなユーザーもいるものだと、一笑に付されるのは当然だ。既に何処かの仮想空間では懇親会が立てられ、『ファームベルト・オンライン』でおかしなコスプレをした二人組を見かけたとか何とか、そんな話題が上っているやもしれぬ。そうなったらそうなったで、別に構わない。完璧に周囲の目を欺けている事の証拠に他ならないからだ。
真船司狼は不知火澪の上官である。階級は三佐で、澪と同じウィザード級、つまりは最上位クラスの情報戦技を習得している。
彼は、須菩提大隊に五人いる中隊長の中でも、頭一つ抜きん出ている存在だった。紅く燃えるような髪と薄青い瞳は、彼の情熱と知性の表れであろうか。凛々しい顔つきは女性受けするのも当然で、おまけに仕事も出来るときたものだ。親戚には巨大複合企業の経営者までいるというから、一見すると欠点が見当たらない、ように思える。
しかし、致命的な欠落があった。ファッションセンスである。彼は仮想と現実、両方の世界において、何故か万人受けする服装には目もくれず、一般受けしそうにない奇抜な衣装を好む傾向にあった。
一度、背中から鳥の羽を生やしたパーカーを着て街を歩いていたら、道行く人達から好奇の目を向けられた事もあった。尤も彼の場合、その好奇の視線を憧憬の類と誤認してしまっているのだから、手に負えない。
そんな上官を、公の場における礼儀と気配りに気を遣う澪が、気に掛けない筈がなかった。休日、自宅に引き籠っている司狼を引っ張り出してショッピングモールへ連れて行き、まともな普段着を選んでやるのも、今となっては珍しい話でもなんでもない。
なんとも手の掛かる上官である。それでも澪は、面倒臭いと思ったり、嫌な気を起こす事は全く無かった。寧ろ、日頃から慕っている彼と、プライベートの時間を共有出来て嬉しいという気持ちで一杯だった。
同僚の中には時折、この二人の関係性を邪推する者もいた。しかし、それはてんで的外れな考えと言わざるを得なかった。司狼と澪は決して男女の仲ではない。どこにでもいる、ごくありふれた、上官と部下の関係に過ぎ無い。それ以上でも、それ以下でもない。
「そ、それはそうと、三佐。昨晩の件ですが、何か分かりましたか」
話題を変えようと軽く咳払いをした後、澪がそう声を掛けた。背中越しに耳にした部下の問いかけに、しかし司狼は黙って首を横に振るだけだった。
「軽く没入してきたが、まだ手掛かり一つ掴めていない」
「まさか、御冗談でしょう? 三佐ほどの腕前なら、趣味の悪い動画投稿者の一人や二人、簡単に――――」
「俺もそう思っていたんだが、どうにも高度な複合プログラムを組んでいるな、あれは。恐らくはウィザード級錠前破りが二人か三人、徒党を組んでやっている。それなりの量子兵装を用意して、本腰を入れてやらないと駄目だろう」
「……私の潜深術を使えば、あるいは――」
「それは許さん」
お面越しに静かな口調で、食い気味に司狼が言う。その有無を言わせぬ反応に、思わず澪の足が止まりそうになった。
「お前の情報戦技は確かに一流の域にあるが、あれは……潜深術は危険過ぎる。下手を打てば脳死直行だぞ。なんであんな危険な技術を、そうポンポン使おうとするんだ、お前は」
「お言葉ですが、三佐」
普段の淑やかな声は鳴りを潜め、代わりに凛々しい声で、澪は断言した。
「私は貴方の部下です。貴方の為に命を尽くすは、私が為すべき当然の責務です」
「なんでそう、重い話になるかな……」
「なるに決まってるじゃないですか。私が一体、何のために潜深術を身につけたか分かりますか? 仮想の海に一年近く沈んで、意識と肉体がバラバラになる寸前まで自分を追い込んでまで、どうしてあの技術を身につけたのか。その理由が、三佐になら分かるはずです」
「……」
「全て、貴方をお守りする為です。貴方に仕え、貴方のお役に立つ為です」
まるで忠犬である。部下を持つ身としては、この上無く嬉しい言葉なのかもしれない。だが、司狼は心の底から、彼女の想いを受け止める事が出来なかった。その昔、両者の間で起こった『とある出来事』がそれに関係しているのだが、それはまた別の話である。
澪の気持ちに嘘はない。彼女は恐らく、司狼が『死ね』と言えば簡単に拳銃を己の眉間に突きつけるだろう。ハニートラップを仕掛けてこいと言えば、敵地でどこぞの誰とも知れぬ男に、体を開くだろう。そんな事、司狼が許す筈もないが――仮にそういう道を選ばざる時が来たら、きっとそうなる。確信があった。
頼りになる部下だ。しかし、一抹の危うさが見え隠れする。見た目の上品な雰囲気からは想像しにくいだろうが、不知火澪は気が強い性質だった。特に上官である司狼の事となると、そればっかり考えてしまう癖があった。それは時と状況によっては良い癖でもあったし、悪い癖もであった。
今は、完全に後者であったが。
「不知火」
「なんでしょうか」
「お前は、上官である俺に『部下殺し』の汚名を着せたいのか?」
声の調子に、多少の怒気が含まれていた。
「無茶苦茶な技術を多用させた挙句に、大切な部下を脳死させたと、そう周囲に陰口を叩かせたいというわけか」
「…………」
澪は黙りこくった。パンチの効いた一言だった。司狼は振り返る事なく歩み続ける。部下が今、どんな表情を浮かべているかは、振り向かずとも分かった。
「申し訳ございません。そういうつもりで言った訳ではないのですが……すみません」
平静さを保とうとしているが、声に若干の震えが込められているのを、司狼の耳は聞き逃さなかった。自身の愚かさを悔いている念と、嫌われてしまったのではないかという念。その二つの念が混じった声。
少々、言葉に棘がありすぎたか。司狼は紅蓮のように燃える赤髪をクシャリと掻くと、ゆっくり、言い聞かせるように口調を和らげた。
「なぁ、不知火」
「はい」
「奥の手っていうのは、もう他に打つ手が無い、最後の最後に選択する手段だから、奥の手って言うんだぞ」
その一言だけで、十分だった。澪はごくりと唾を飲み込むと、小さく「了解しました」と呟いた。
司狼が、務めて明るい口調で言った。
「まぁそれに、だ。お前が潜深術を使わなくとも、既にある程度の事は分かっている。俺の為に、そこまで気を揉む必要も無い」
「先程、手掛かり一つ掴めていないと、仰っていませんでしたか?」
「動画投稿者に関する情報はな。だが、あの動画の真偽については、俺の中ではっきりしている」
「と、仰いますと?」
『誰が聞いているか分からない。ここからは一応、念話を使ってやり取りするぞ』
突如、澪の脳内に司狼の声が流れ込んできた。司狼は依然として前を向いたままだ。その唇は動いていない。軍用の通信ツールはテレパシーによる会話を可能とする。密談にはもってこいだ。
『あの動画、恐らく本物だ』
『……!』
澪は言葉を吞んだ。目の前を歩く司狼の背中が、やけに大きく見える。
『根拠をお聞かせ願えないでしょうか』
『只の悪戯目的だったとして、あそこまで手の込んだ追跡妨害プログラムを組む事の必要性が分からない。腕試しや荒らし目的にしては、ちょっと異様だ。証拠に乏しいが故に推察するしかないが、あの動画は本物だと断定していい』
『だとすると、人型のベヒイモスが実際に……』
『俄かに信じられない話だが、起こっても不思議じゃない。ここは幻幽都市。何が起こるか分からない、渾沌の神域なんだからな』
念話はそこで打ち切られた。司狼は相変わらず堂々とした態度で仮想の畦道を歩き続けているが、彼の後ろを歩く澪の足取りは重かった。
昨晩のことだ。呪工兵装突撃部隊・新宿支部に在籍する機関員二名が、ベヒイモスと見られる生命体による襲撃を受けて殺された。その一報が蒼天機関の全機関員へ通達されたのは昨晩遅く、黄金氷柱の消失後の事であった。統合指令本部に併設されている宿舎住まいの澪は、任務用のスマートフォンでその事実を知った。
仮想世界上に現場での様子を収めた動画がアップされていると連絡を受けたのは、メールを受け取ってから更に一時間後の事だった。事の真偽を確かめる為、上層部から指令を受けた司狼が単身、超現実仮想空間へ没入して調査にのり出した。
仮想の世界は陽気な空気に包まれている。見渡す限りの平原地帯に不穏な気配はなく、穏やかな空気が漂っている。目の前を、楽しそうに一匹のモンシロチョウが――それは、幻幽都市では既に絶滅した蝶だった――泳いでいる。平和に満ちた世界。安心に満ちた世界だ。
それにも関わらず、澪は言いようの無い寒気を感じた。何か、巨大な陰謀が己の知らぬ所で、着々と足音を立てているかのような不安を覚える。考え過ぎかもしれないが、そんな雰囲気を感じた。
元旦までは、あと二カ月以上の猶予がある。それにも関わらず、何故この時期にベヒイモスが活動を開始したのか。今朝のミーティングでその事について、機関お抱えの御用学者達が持論を展開していたが、どれもこれも、説得力に欠けるものだった。
それに――ここが一番分からない所だったが、あのベヒイモスは『人型』をしていた。本来ならありえない話だ。そんな形状をしたベヒイモスは、今まで只の一度も観測されていないのだから。
突然変異体という奴なのだろうか。だとしても根拠がない。
四源の一つ――『偽獣』が気まぐれに起こした現象だとでもいうのだろうか。
「一体、この街はどうなるんでしょうね……」
やや俯き加減で、澪はひとりごちった。前を往く司狼は歩みを止めず、素っ気ない口振りで言った。
「それは、俺たちが考える事じゃない。現実の事は他の奴らに任せればいい。俺達はただ、仮想の世界で為すべき事を為すだけだ」




