4-82同じ気持ち
私は吉田君と別れてから、体の力が抜けるような毎日を送っていた。
何をしていてもフワフワと現実感がなくて、あの日の事が夢だったような気さえしてきた。
でも左手を見るたびに、あれは本当にあったことだと現実に引き戻される。
私の左手にはもう指輪がない。
吉田君と交わした約束も全部消えてしまった。
嘘ばっかりだったね…
私は心の中で吉田君に言った。
吉田君は昔から約束は守らない。
昔の吉田君も…今の吉田君も…口ばっかりだ…
私は左手を握りしめると、授業に向かうために席を立った。
***
それから何とか一日の授業を終えた私は、野上君と村井さんに別れを告げた。
「お疲れ様。お先に失礼します。」
「あ、沼田さん。今日、飲みに行かない?」
私が帰ろうとすると、村井さんが気を遣って誘ってくれた。
村井さんと野上君には吉田君と別れた次の日に追及されて、別れたことを打ち明けていた。
それだけに二人は度々飲みにだったり、ご飯に誘ってくれる。
私は、今日はそんな気分じゃなかったので首を振ると断ることにした。
「ごめん。今日は疲れたから、帰るね。」
そう言うと村井さんが悲しげな顔をして、頷いてくれた。
その顔を見て、私は最近色んな人にこの顔をさせてるなと思った。
麻友から聞いたのか、翔君と山本君も私を心配して、この顔でよく家にやって来る。
この間は理沙も一緒にやって来て、私以上に泣いて怒ってくれた。
それだけで心が軽くなって、私は何とか前を向けてると思う。
私は職員室を後にして、校舎を出て校門に向かって歩いていると、ケータイが鳴ってメールの受信を知らせた。私はそれを取り出して画面を確認する。
送り主はもう日課のようになっている鴫原さんからのものだった。
私は鴫原さんに別れたことを切り出せずにいて、なんとなく報告を受け取り続けていた。
今日の内容は吉田君が弟である猛さんとケンカしたという内容が記されていて、もうメールはいいって言わなきゃいけないと返信ボタンを押した。
本文に吉田君と別れたこと。もう報告はいらない旨と吉田君を支えてあげて欲しいという願いを書き込んだ。
これで完全に吉田君との繋がりは切れる。
そう思うと胸が痛くなってきた。
忘れるんだ…
もう終わったことなんだから…
私は泣きたくなるのを堪えると、送信ボタンを押した。
そして夕焼けの空を見上げて、冬と秋の匂いの混ざった空気を嗅いだ。
どうか…この気持ちが思い出に変わりますように…
私は息を吐き出すと、空に向かって祈った。
***
次の日――――
私は体がだるいな…と思って目を覚ました。
手を額に当てると、少し熱っぽい気がした。
風邪かと思ったけど、学校を休むわけにはいかないので、薬だけ飲むと気合を入れて家を出た。
いつも通り満員電車に揺られて何とか学校に着くと、私は机に突っ伏した。
ヤバい…本気でしんどくなってきた…
私は自分の吐き出す息が熱い気がして、熱が上がってるのが分かった。
「おっはよー!沼田さん!!」
横で野上君の能天気な声が聞こえて、私は虚ろな目でそっちを向いた。
「おはよ。」
「あれ?何か顔死んでるけど、どうしたんだよ?あ、顔死んでるのはいつもの事か!!」
楽しそうに笑う野上君を見ながら、私は渇いた笑いを返した。
今日はこの笑い声も鼻につくなぁ…
私は隣で笑い続ける野上君にイラッとした。
「っつーか、マジで体調悪いとか?」
「うん。…なんか朝からだるくって…。」
私がため息をつきながら答えると、野上君は驚いて私に近寄ってきた。
そして私の額に手を当てると、みるみる目を見開いた。
「やべーって!!これ、結構熱あるんじゃねぇ!?」
「そう?そんなにあるかな?」
私は自分で触って確認するけど、自分の体温が高いのかよく分からなかった。
野上君は立ち上がって慌てだすと、私を見下ろして言った。
「とっ!とりあえず、保健室行こう!!授業まで休めば、少しは楽になるかもしれねぇし!!」
野上君は私の腕をとると、引っ張って私を立ち上がらせた。
私は抵抗する体力も気力もなかったので、とりあえずされるがままに職員室を出た。
野上君に腕をひかれながら廊下を歩いていると、足元がふらついて起きたときより悪化してるのが分かった。
こういうとき誰かがいてくれると助かるなぁ…
私は野上君の背中を見て、何だかんだ気づいてくれた彼に感謝した。
そして保健室までくると、野上君は扉を開け放って声を上げた。
「先生!急患だ!!すぐ治してやって!!」
「野上先生、扉は静かに開けてください。」
保健の先生である古谷先生が野上君にピシャリと注意した。
古谷先生は40代ぐらいの恰幅の良い女の先生で、丸メガネの奥の目を光らせた。
「急患って沼田先生ですか?どうされたんですか?」
「ちょっと朝から体調が良くなくて…。」
私は野上君に引っ張られながら中に入ると、古谷先生にベッドに座らされた。
古谷先生は私の額に手を当てると、顔をしかめて机から体温計を差し出してきた。
「とりあえず熱を測りましょうか。」
「はい。」
私は受け取って服の下から体温計を脇に挟んだ。
それを見ていた古谷先生がいつまでもいる野上君に目を向けて、手をシッシッと動かした。
「野上先生はもう戻っていいですよ。もうすぐ朝の会議の時間でしょう?」
「あー、はい。お任せしても大丈夫な感じですか?」
「あなたがいてもできる事ないでしょう?」
「あはは!ですよね!!じゃあ、お任せします!」
野上君は扉まで移動すると私に振り返って「お大事に!」と言ってくれた。
私はそれに手を振って「ありがとう。」と答えた。
すると彼はニッと笑ってから、扉を閉めて戻っていってしまった。
いつもはおちゃらけてても、こういうとこ優しいよなぁ…
私は去っていった野上君を考えてそう思った。
そのとき体温計がピピピと鳴って、私は取り出すと先生に手渡した。
「あらら、38.5度って…相当しんどかったんじゃない?これは病院に行った方がいいわね…。」
「病院…ですか…。でも、授業があるので…。」
「何言ってるの!!こんな状態で授業されても生徒も迷惑よ!違う日に振り替えてもらいましょう。教頭先生には私も一緒に説明しに行くわ。」
古谷先生にお母さんのように叱られて、私は頷くしかなかった。
そして古谷先生と一緒に職員室に戻ると、朝の会議が始まっていて先生方の注目を浴びながら事情を説明した。
授業は他の教科に振り替えることになって、私は病院へ行くように古谷先生に指示された。
私はそれを了承すると、野上君に再度お礼を言って、村井さんに心配されながら、職員室を後にした。
私はぼーっとしながら駅までの道を歩く。
病院っていったら…やっぱりあそこしかないよね…
私は吉田君のお母さんの入院していた病院を思い浮かべて、気が重くなった。
できれば違うところに行きたかったが、一番近くて一度かかってるので診察券を持っている。
早く治すためにも知ってる所の方がいいだろうと思って、しぶしぶ足を向けた。
そして電車に乗って移動して、病院の最寄駅の階段を上がっていると誰かが目の前に立ち塞がって顔を上げた。
「……宇佐美さん?」
目の前には宇佐美さんが今にも泣きそうな顔で立っていて驚いた。
宇佐美さんは階段を一段下りてくると、私の胸倉を掴んできた。
「なんで…いっつもあなたなの!?」
「え…?」
宇佐美さんが怒って声を張り上げてきて、私は熱で頭も痛かったので顔をしかめた。
宇佐美さんは私を掴む手を震わせていた。
「私は…この5年…ずっと努力してきた…。桐谷の家の人間になった竜聖に追いつきたくて、留学までして一緒にいられる道を選んできたのに!!なんで、何の努力もしてないあなたなのよ!?」
宇佐美さんは言いながら、目から涙を零した。
宇佐美さんが竜聖を想って泣いてる事だけは伝わってきて、私は口を閉じた。
「どうしてっ…私じゃないの!?…あなたと同じ頃から…ずっと竜聖だけを見てきたっ…。私とあなた何が違うっていうのよ!?教えてよ!!」
宇佐美さんに頭を揺さぶられて、私は頭がクラッとしたけど、一度目を閉じて開けると宇佐美さんを見つめた。
「…違うのは…当然じゃないかな…。」
私は目の前の宇佐美さんを見て感じた事をそのまま口にした。
「この世に同じ人なんて…存在しないんだよ。私がどんなに望んで…秘書だっていう宇佐美さんになりたいって思ったとしても、私は宇佐美さんにはなれない。私は宇佐美さんが羨ましかったよ。」
私の言葉に宇佐美さんの瞳が震えるのが見えた。
「竜聖と高校も一緒だったし…私の知らない竜聖の5年を知ってる。それに…今は一番竜聖の近くにいる…。私がどれだけ宇佐美さんに…嫉妬したと思う?」
私は心に溜め込んでいた嫉妬を口に出した。
宇佐美さんに再会したとき、どうして彼女が吉田君の傍にいるんだろうって思った。
この5年一緒だったって聞いて、何で宇佐美さんにできたことが私はできなかったんだろうって思った。
毎日一緒にいるって聞いて、羨ましかったし…不安だった。
「…みんな一緒なんだよ…。違う誰かになりたいって思っててもなれない…。だから自分で頑張るしかない…。宇佐美さんだって分かってたから、それだけ努力してきたんだよね?」
ここで宇佐美さんの目から涙が溢れだしてきて、宇佐美さんが頭を私に押し付けてきた。
「そうだよっ…。私は…沼田さんには…なれない…。どれだけ頑張っても…竜聖の一番には…なれないっ…。なんでっ…!?……くやしいっ…。」
私は宇佐美さんも私と同じ気持ちを抱えてると思って、彼女の頭をポンと撫でた。
吉田君のことが好きで…ただ好きで…
どうしようもない気持ちを胸に抱えてる。
私は想いの伝わらない悲しさを知ってるだけに、共感することができた。
「……宇佐美さんの…気持ち…痛いほどよく分かるよ…。」
私の言葉にビクッと反応した宇佐美さんが私から手を離して下がった。
その瞬間、私は眩暈がして足を階段から踏み外してしまった。
後ろに重心が傾いて、浮遊感が襲う。
私の視界に目を見開いて手を伸ばす宇佐美さんが見えた。
私は彼女に手を伸ばしたけど、手は空を掴んでしまった。
そして私は階段から後ろ向けに転げ落ちた。
「沼田さんっ!!!」
ホームに反響した宇佐美さんの声が遠くに聞こえた。
私は体中が痛くて、なくなる意識の端で血だまりが広がっていくのを見ていた…気がした。
最後のもう一山に差し掛かりました。
残り三話、お付き合いください。




