4-76跡取り問題
俺は何日かぶりに帰って来た自分の部屋でぼーっとしていた。
というのも友達だと思っていた宇佐美から告白されて、多少なりとも動揺してしまったからだ。
また紗英以外とキスしたのもかなり久しぶりの事で、罪悪感で胸が押しつぶされそうだった。
彼女がいるのに…向こうからとはいえ…何ですぐ拒絶しなかった…?
俺は自分がすごく汚い人間に見えて頭を掻きむしった。
こんな俺…紗英の前に堂々と立てない…
やっぱり俺は紗英にふさわしくないんじゃ…
俺は紗英と付き合いだす前の気持ちを思い出しかけて、きつく目を瞑った。
違う!!ふさわしいとか…そんなんで決めちゃダメだ…!
紗英の傍にいたい…笑顔が見たい…それだけでいいって言っただろ…!?
俺はどうすればいいのか分からなくなってきて、眩暈がしそうだった。
紗英と一緒にいたいという自分と、紗英の幸せのためには一緒にいない方がいいという自分いて、どっちが正しいのか決める事ができない。
宇佐美とキスをしたのは事実だ。
これを紗英に隠したまま、紗英と付き合い続けることはできない。
母さんが退院したら、紗英に全部話そう…
それで紗英が許してくれなかったら…そのときは潔く身を引こう…
俺はそう決めて、大きく息を吐き出した。
そしてシンと静まり返った部屋を見回して立ち上がると、紗英と過ごした3日間の事を思い出して凝り固まっていた頬が緩んだ。
今思えば…あの3日間が一番幸せだったかもしれねぇ…
俺はリビングのテーブルに目を向けると「おかえり」と言ってくれた紗英の笑顔が蘇ってきて、泣きたくなってきた。
どうしてあの日がもっと長く続かなかったんだろうか…
俺は、母さんの事、宇佐美の事、親父に家の事が足枷になって、紗英との思い出がすごく昔の事のように感じた。
またあの日のように戻れるだろうか…?
俺はそれだけが気がかりで、母さんの退院の日が待ち遠しい反面、心が怯えているのをうっすらと感じていた。
***
ある日俺が病院に行くと、母さんが嬉しそうに笑っていて、珍しい姿に一瞬戸惑った。
「竜聖!退院の日が決まったわよ!!来週の水曜日。やっと病院暮らしから解放されるわ。」
俺は母さんを見つめて、どこか喜べない自分もいて複雑だった。
「そっか。良かったよ。」
俺が笑顔を浮かべてそう言うと、母さんがベッドから立ち上がって俺に近付いてくると優しく微笑んだ。
「竜聖。毎日顔を出してくれてありがとう。退院したら、あなたに言いたいことがあるの。聞いてくれる?」
「……言いたい事?」
俺は母さんの雰囲気がいつもと違う気がして、首を傾げた。
母さんは手を伸ばしてきて、背伸びをしながら俺の頭を撫でるとふっと息を吐き出して笑った。
「もう背伸びをしないと届かないなんてね。いつの間にか…大人になったのよね…。」
「………母さん?」
俺は母さんが何を言おうとしているのか分からなくて、変な違和感が生まれた。
「ふふっ…何でもないのよ。さ、今日も仕事あるんでしょう?ぼーっとしてないで、いってらっしゃい。」
母さんは俺から手を離すと、俺の肩を掴んで体の向きを変えさせて部屋から追い出すように押した。
俺はそれに誘導されながら、肩ごしに母さんを振り返ってされるがままに部屋を出る。
「…わかったよ。また、明日も来るから。」
「はいはい。遅刻しないようにね!」
俺は母さんの見送りを背に、仕事へ向かう事にした。
その道すがら、俺は母さんの様子が以前と違うことが引っかかって胸に違和感を残したのだった。
***
それから俺はいつも通り仕事を終えて、実家に顔を出すと猛が玄関で俺を待ち構えていて、俺は扉を開けたまま固まった。
「やっと来たんだ。これ、やっておいたから。」
猛は不服そうにファイルを差し出してきて、俺はそれを無言で受け取って中を確認した。
それは俺が親父の仕事で任されていた書類の束だった。
きっちり全てに付箋でメモ書きや書き込みがされていて、顔を上げて猛を凝視した。
「何、その顔。俺が手伝わないとでも思ってたの?」
「あ…いや。まさか、お前が手伝ってくれるとは思わなかったからさ。」
俺が本音を漏らすと、猛はふんっと鼻で笑って立ちあがった。
「こんなのに時間かけてる自分が悪いんだろ?親父の仕事に迷惑かけないようにしてやっただけさ。」
猛の言葉にやっぱり猛は親父を尊敬してて、それこそ小さな頃からその姿を間近に見てきた事が伝わってきた。
俺はもう一度書類に目を通すと、猛なりのアドバイスともとれるメモ書きまであって、俺は猛の凄さが伝わってきた。
やっぱり…猛の方が、俺より経営者に向いてるだろ…
こんなたくさんの書類をたった一日でこんなに細かく、それもアドバイスまで添えて…
俺は猛に目を戻すと、今までずっと気がかりだった事を尋ねた。
「…猛。お前、俺が桐谷を継ぐことどう思ってるんだ?」
猛はメガネの奥の目を吊り上げると、不服そうな態度のまま答えた。
「そんなの会社が潰れなきゃいいなぐらいにしか思ってないよ。跡取りにお前を選んだのは親父だから、文句もないしね。」
「……そうか。…じゃあ、もし親父が俺じゃなくお前を跡取りに選んだら、どうする?」
俺は猛の気持ちが知りたくて尋ねた。
猛はすこし驚いていたようだったけど、目線を下げると諦めたように言った。
「…俺は、そうなればいいって勉強してきたからな…。そうなったら、期待に応えて努力するだけだ。ま、そんな事起こらねぇだろうけど。」
俺は猛が継ぎたがっている事が分かって、ファイルを持つ手が震えた。
猛が継ぎたいって思ってるなら…何の問題もないんじゃ…
俺はファイルと猛を交互に見て、一番良い道が見えた。
「猛。その望み…兄である俺がなんとかしてやるよ。」
「…はぁ?何言ってんの?」
俺はバカにしたように俺を見る猛を見て、靴を脱ぐとまっすぐに親父の部屋へ向かった。
後ろから猛の引き留めようとする声が聞こえたけど、俺はこれがこの家にとって一番良い道だと信じた。
そして俺は親父の部屋の扉をノックもせずに開け放つと、鴫原と何かを話していた親父を見据えた。
「おいおい。ずいぶん派手な登場じゃねぇか。一体何の用だ?」
親父がへらへらと笑いながら、俺を見て言った。
俺はズカズカと中に入ると、猛から受け取ったファイルを親父に突き出した。
「これ、猛が俺の仕事を手伝ってしてくれたものです。」
親父は俺の言葉を聞いて、眉を吊り上げながら受け取った。
そしてファイルをひらげて目を通しているのを見て、俺は続けた。
「俺はこの一カ月、親父の仕事を傍で見てきた。親父がどれだけ凄い奴なのか伝わってきて、俺なりに勉強も頑張ったつもりだ。…でも、これを見れば分かるように、俺はどれだけ頑張っても猛には追いつけない。猛の方が親父の跡を継ぐのにふさわしいと思う。」
俺は本心をまっすぐに伝えた。
親父はファイルをバシンと閉じて、俺を睨むように見上げると口を開いた。
「お前、それは逃げじゃねぇのか?やっと継ぐ気になったと思ったら、今度は猛がふさわしいだなんて…前までのお前のままじゃねぇか!要は継ぎたくないってハッキリ言ったらどうだ!?」
「ちっげーよ!!俺は本気で継ぐことも考えた!!だから寝る間も惜しんで勉強したんだよ!でもな、俺が役に立てた事なんか今まで一回だってなかっただろ!?俺にはそもそも経営者なんて無理なんだよ!!」
俺はこの一カ月を振り返って親父にぶちまけた。
親父は額に青筋を立てて立ち上がると、俺の目の前に来て声を荒げた。
「それが逃げじゃねぇのかって言ってんだよ!!無理だとか一カ月やそこらで決めんじゃねぇよ!!」
「逃げじゃねぇよ!!俺は元々この家の人間でもねぇし、本気で会社をどうにかしたいとか親父の跡を継いで頑張りたいとか思うようにしてきたけど…、俺以上に猛は熱い想いで親父の背中を見てたんだよ!!それこそ本当に小さな頃からずっと!!だから、まだ学生のあいつがこんなすげー事できるんだろが!!それをちゃんと見て、俺と比べて見ろよ!!」
俺が猛の抱えてる気持ちを伝えたことで、親父が少し躊躇って口を噤んだ。
俺はそれに畳みかけるように言った。
「俺はもう継ぐのがイヤだとか、桐谷の家がイヤだとか思ってねぇ!!だから、どうするのが一番この家のためになるのか考えた結果だ!!…親父がこれでも俺に継げって言うなら、俺は猛と一緒にやる道を選ぶ!!あいつの方がふさわしいのはバカな俺でも分かるんだからな!!」
俺は上がった息を何度も吐き出して、親父を睨みつけた。
親父は真剣に考えているようで、俺を見る目を動かそうとしない。
すると親父の背後でファイルに目を通していた鴫原が動いて、こっちにやって来た。
「社長。これは私が見ても、猛さんの力量がハッキリ分かります。少し考慮してみてはいかがでしょうか?」
鴫原の言葉に俺は驚いて、鴫原を凝視した。
鴫原はちらっと俺を見て微笑んだあと、親父にファイルを差し出した。
「竜聖さんが勉強を頑張られていたのは私も知っています。ちゃんとこの家と向き合ってこられたのも…だから、先程言われた言葉に嘘はないと思いますが。社長はいかがですか?」
鴫原に促されて親父は苦し紛れに顔を歪ませると、ファイルを受け取って俺に背を向けた。
「鴫原、猛を呼べ。あいつに直接聞く。」
親父の言葉に俺はほっと胸を撫で下ろした。
鴫原が「分かりました。」と言って部屋を出ていくの続いて、俺も部屋を出ようとすると親父から声がかかって足を止めた。
「竜聖。お前は自分を卑下しすぎる。もう少し自信というものを身につけてこい。」
親父からこんな言葉がかかるとは思わなくて返答に困った。
俺はとりあえず「そうするよ。」と答えると、鴫原の後に続いて部屋を後にした。
そして親父の部屋を出たところで、鴫原が俺に振り返って微笑んでいて足を止めた。
「竜聖さん。良かったですね。」
「……あぁ…。」
鴫原がなぜか喜んでいるのが伝わってきて、俺は口から返事だけが出た。
この間の事といい鴫原は最近俺に優しい気がする。
どういう心境の変化かは分からないが、俺の味方であるのは間違いないようだった。
だからさっき助け舟を出してくれた事に感謝することにした。
「…さっきは助かった。ありがとな。」
鴫原は少し驚いたように目を見開くと、ふっと笑った。
「いいえ。良い方向へ進みつつあるようで嬉しいですよ。」
鴫原はそれだけ言うと、猛を呼ぶために歩いていってしまった。
俺はその背を見送って、大きくため息をついた。
とりあえず家の事は前に進んだ。
跡取りの問題がなくなれば、あとは母さんを説得するだけで紗英と一緒にいられる毎日に戻るはずだ。
俺は紗英との仲直りを考えて、紗英に母さんの退院の日を知らせようか悩んだ。
会うのが怖い…
俺は宇佐美との事を伝えて、軽蔑されるのが嫌だった。
もう一度紗英にあんな目で見られたら、立ち直れない気がする。
俺はあの日の仲違いが俺の中で尾を引いていて、どうしても紗英に連絡する勇気が出なかった。
桐谷家の事が一段落しました。
最終話までとうとう一桁となりました。




