4-74誘惑する
竜聖が譲太郎氏の仕事を手伝うために実家に顔を出すようになって、一カ月が過ぎた。
私は秘書として、彼の傍にいられる現状に毎日胸がときめいていた。
その竜聖はと言うと、毎日のように玲子さんの病室に顔を出していて、玲子さんを温かく見守りながら彼女を元気づけている。
本当に親孝行な息子だと思う。
でも、玲子さんを見ていると、竜聖を息子と見ているというよりは、自分の恋人…夫のように見ているような節があって、私は時たま気分が悪くなる。
竜聖は気づいていなくて、付き合っている沼田さんとも距離をとっているようだし…この不思議な親子関係に頭が痛くなってきた。
そして私はそんな竜聖に頼まれて病室で玲子さんの話し相手になっていると、玲子さんが切なげに目を細めて窓の外に視線を投げかけた。
「……ねぇ…、竜聖は幸せそうにしている?」
「え…?」
急に幸せかと聞かれて、すぐ答えられる人はいるのだろうか?
私は玲子さんの様子を窺って次の言葉を待った。
「……私は…親として…ダメな人間かしら…。あの子を独り占めしたくて…桐谷の家に縛り付けた事…間違ってるのかしら…?…最近…考えるようになったのよ…。」
「…玲子さん…。」
竜聖の前では見せたことのないような、本物のお母さんの顔をしていて私は答えに迷った。
玲子さんの中で何かが変わろうとしている?
私はどういう答えがいいのかは分からなかったけど、子離れしてくれるならその方が良いと思って告げた。
「そうですね…。縛り付けるのは竜聖の幸せではないのかもしれません。でも竜聖も大人ですから、玲子さんが思うようにすればいいと言えば…きっと、竜聖が自分で幸せの道を見つけるはずです。」
「……そう…。やっぱり…そうよね…。でも、すぐには結論は出せないわ。もう少し考えてみるわね。話を聞いてくれてありがとう。麻里ちゃん。」
「いえ…。」
私はお母さんの顔で笑っている玲子さんを久しぶりに見た。
体調が戻ってきて、精神的にも余裕が出てきたのだろうか?
私は自分で言った言葉なのだが、この答えが正しかったのか不安が過った。
この返答の仕方次第で私の前から竜聖が離れていく事もあるのではないかと感じた。
でも口にしてしまった以上、もう取り消せない。
私はどうか自分の選択が間違ってないように祈るばかりだった。
それから私は病院を後にして桐谷家へと戻ってきた。
明日の竜聖の予定を知ってるだけに、今日は実家へ泊るとふんだためだ。
私は玄関で竜聖の靴があるのを確認すると、竜聖の自室へと向かった。
そして私はしばらく竜聖の部屋の前でどうしようか考えていたが、生唾を飲み込むと私はゆっくりと音を立てないように扉を開けて中を覗き込んだ。
中は窓のカーテンが全部閉まっていて薄暗く、書類やファイルの山が部屋中に散乱していた。
どれだけ勉強していたのだろうかと疑いたくなる量だった。
そんな部屋の中にあるソファに竜聖は倒れ込むように横になっているのが見えた。
寝てるのかな…?
私はそれを見て、辺りを確認すると静かに部屋に足を踏み入れて部屋の扉を閉めた。
それから竜聖に近付くと、ソファの横で腰を落として竜聖の顔を眺めた。
竜聖は眉間に皺を寄せた状態で苦しそうに眠っていた。
私はその苦しそうな顔にそっと指で触れると、竜聖がそれに反応してピクッと動いた。
竜聖はそのまま動いて手をフワフワと空中に泳がせ始めて、私は咄嗟にその手を握って自分の方へ引き寄せた。
すると竜聖の表情が緩んで薄く口を開いた。
「…さ…え…。」
沼田さんの名前を呼んだ事に私は目を見開いた。
こんなときまで…どうして…?
私は嫉妬が芽生えて顔をしかめると、竜聖の手を離して意を決してその場で服を脱いで下着姿になった。
そして纏めていた髪をほどくと、寝ている竜聖の上に馬乗りになって顔を近づけた。
「竜聖…。」
愛しい人を呼ぶように声を出して、竜聖の口に自分の口を押し当てた。
それを感じ取ったのか竜聖が私の顔に手で触れてくると、確かめるように触ってから呟いた。
「紗英……。紗英…。」
竜聖は私を沼田さんだと思い込んでいるのか、何度もそう呼びながらキスに応えてきた。
私はキスだけで感じてきて、頭の隅で沼田さんはいつもこんな風に竜聖とキスしているのだろうかと思った。
我慢できなくなってきた私は、頬にあった竜聖の手を掴んで自分の胸に押し当てた。
すると竜聖がうっすらと目を開けて、定まらない瞳で私を見た。
「…紗英…夢…みたいだ…。」
まだ寝惚けているのか竜聖は薄く微笑んだあと、私の背に手を回してきて引き寄せて抱きしめた。
私は抱きしめられた事に喜びを感じて、しばらく腕の中でじっとした後、竜聖の服を脱がそうとネクタイをとってシャツのボタンを外していった。
それからズボンに手をかけようと体を起こしたとき、また竜聖が目を開けた。
でも今度はみるみる大きく目を見開いた後、私を突き飛ばした。
「なっ…!?紗英…じゃないな…誰だ…?」
竜聖はまだ視界がはっきりしないのか、私を見る目を細めて言った。
私は突き飛ばされてソファから落ち腰を打ったので、そこを手で押さえながら顔を上げた。
「…う…宇佐美…?…お前…何してる…?」
私は驚いている竜聖を見つめると正直に告げた。
「見て分かるでしょ?しようと思ってただけ。」
「は…!?しようって…、そんな…お前……正気か?」
竜聖は余程信じられないのか頭を掻きむしると、私から顔を背けた。
それを見た私は竜聖に近寄ると、竜聖の目の前にしゃがみ込んだ。
「正気よ。私は、ずっと以前から竜聖だけを見てきたんだから。」
私の告白に竜聖は一瞬言葉を失っているようだった。
それに畳みかけるように私はもう一度告げた。
「私は竜聖が好きなの。ずっと…本当にずっと前から…。」
竜聖は口を引き結ぶと、何度も瞬いて状況を理解しようとしているようだった。
でも竜聖は答えは決まっていると言わんばかりの真剣な表情で私を見つめると口を開いた。
「悪い。俺は宇佐美の気持ちには応えられない。」
私は分かりきっていた言葉にふーっと息を吐くと、自分の気持ちとさっきの事を告げた。
「知ってる。でも気持ちがなくてもいいの。私がしたかっただけなんだから。それに、竜聖…沼田さんと上手くいってないんでしょう?だから、夢に見るぐらいこういうことしたかったんだよね?」
私が事実を口にすると、竜聖は真っ赤になって俯いて顔を隠した。
図星だったようで、私は苛立ちが募った。
何で…?沼田さんばっかり竜聖をこんな顔にするの!?
私は沼田さんへの嫉妬でおかしくなりそうだった。
二人の仲が上手くいっていない今なら、つけ込む隙があると思った。
私は既成事実を作ろうと竜聖に跨ると、誘惑するように口を開いた。
「私なら何されても拒絶したりしないよ?だから、受け入れて。」
それだけ言うと私は竜聖に口づけた。
竜聖は息を飲み込むと、しばらくされるままだったけど、我に返ったのか私を押しのけて立ち上がった。
「やめてくれ!俺は…宇佐美とは…大事な友達のままでいたい…。お願いだから…服着てくれ…。」
竜聖は動揺しているようで、顔を背けて汗を拭っているようだった。
私は動揺している竜聖ならつけ込める隙があると思って、諦めずに竜聖に抱き付いた。
「私は…友達のままじゃ我慢できないっ!竜聖が受け入れてくれないなら、違う誰かに抱いてもらうから!!」
「変なこと言うなよ!!もっと自分を大事にしろよ!!でないと…俺は…お前と友達でいられなくなるっ…。」
竜聖は私を引きはがすと、今にも泣きそうな顔で言った。
その表情から、唯一の繋がりである友達も揺らぎそうにあると分かって、引くことに決めた。
「分かった。でも、私の気持ちだけは分かって。私はずっとそういう目で竜聖を見てるから。」
「…宇佐美…。」
竜聖は私の方をちらっと見て目を逸らすと、少しだけ頷いて部屋を逃げるように飛び出していった。
私はその行動で着替えろと言われている気がして、服を手にとった。
私の気持ちは伝えた。
きっとこれで私を見る目も変わるはずだ。
私は中学の頃からずっと沼田さんを羨んできた。
沼田さんのようになれば、こっちを向いてくれると努力もしてきた。
でも、竜聖は一度だってこっちを向いてくれたことはなかった。
5年前のあの日だって…そうだった。
だから、竜聖の記憶がなくなったこの5年、傍に居続けてこっちを向いてもらおうと色々策を労してきたのに…
ここに来て、やっぱり沼田さんの存在が立ちはだかる。
長い時間会っていなかったのにどうして?
私は傍にいればいるほど、限界を思い知る事になり悔しい。
きっと気持ちを受け入れてもらえる日は来ない。
なら、やるべきことは一つしかない。
竜聖を自分だけのものにするためにも、沼田さんを引き離す。
上手くいっていない今なら、沼田さんの自信を打ち崩す事ができるかもしれない。
私は服を身に着けると、竜聖にバレないように沼田さんに会いに行くことに決めた。
***
次の日のお昼頃――――
私は沼田さんの働く高校へやって来た。
私は沼田さんの事を調べていたときに、彼女の勤務先は調べていたのですんなりと来ることができた。
校門をくぐって中に入ると、懐かしい雰囲気に頬が緩んだ。
高校のとき、ずっと影から竜聖を見つめていたことを思い返して、あのときの自分は情けない生き方をしていたなと思った。
高校はちょうどお昼休みのようで、たくさんの生徒たちが中庭や廊下を行き来していて、私はキョロキョロしながら沼田さんの姿を探した。
教師なんだから職員室にいるはずだよね…
私はそう思って、校舎の玄関へ向かおうとすると、生徒の声が耳に入ってきて足を止めた。
「紗英先生!!もうお昼食べたんですか?」
声のした方を見ると、渡り廊下に女子生徒と向かい合っている沼田さんを見つけた。
沼田さんは高校のときと変わらない笑顔を浮かべていて、いつ見ても呑気そうな姿にイラついた。
「食べたよ。みんなはこれから?」
「はい!さっき購買に行ってきたんです!!」
「そういえば颯ちゃん先生もいましたよ!!紗英先生、颯ちゃん先生と一緒にご飯食べないんですね?」
「何で、野上先生が出てくるの?」
沼田さんが呆れたように言って、女子生徒が顔を見合わせて笑っている。
「だって、彼女なんですよね~?彼氏とラブラブで食べないんですかぁ?」
からかうように言った生徒の言葉に私は驚いた。
「彼氏じゃないってば!皆はどうして私と野上先生をくっつけようとするの?」
「えぇ~?だって、二人の雰囲気がそれっぽいから!!大人だからって隠さなくてもいいんですよ!!」
「紗英先生だったら、颯ちゃん先生あげてもいいもんね!結婚するとき教えてくださいね~!!」
沼田さんは必死に否定しているけど、生徒たちは笑いながら立ち去っていった。
私は疑念が残り、沼田さんが一人になったのを見て声をあげた。
「沼田さん!!」
沼田さんは私の声に反応して顔を私に向けると、大きく目を見開いたあと、早足でこっちまで駆け寄ってきた。
私はそんな沼田さんを見つめて、ここに来た理由をしっかりと頭に思い浮かべた。
「……久しぶり…。確か…宇佐美さん…だよね?」
沼田さんは一度しか話した事のない私の事を覚えていたようで、少し遠慮がちに口を開いた。
私はなるべく好意的に見えるように笑顔を浮かべると、頷いた。
「うん、そうだよ。宇佐美麻里。5年前に駅で一回だけ話した。」
「…覚えてるよ。…その、宇佐美さん…どうしてここに?」
沼田さんは私がここに来た理由が気になっているようで、小首を傾げた。
私はさっきの生徒との会話も気になったが、自分の用件を伝える事にした。
「ええ。竜聖から沼田さんの事を聞いて、一度会っておこうと思って。」
「…竜聖…?」
沼田さんは私から竜聖の名前が出た事に驚いて、表情を強張らせた。
それを見て、内心ほくそ笑みながら、続けた。
「私、今竜聖の家の秘書をしているの。まぁ、秘書っていう肩書だけど…竜聖も疲れてるから、色々癒してあげる間柄でもあるんだけどね。毎日一緒にいるって言えば…分かるでしょ?」
私の告白に沼田さんは声も出ないのか、目を見開いたまま瞳を震わせていた。
「彼、最近本当に忙しくて…、かなりきてるみたい。あなたと何があったかは分からないけど、別れる事も考えてるみたいよ?」
「…そ…っ…そんな事……ない…。」
沼田さんは今にも泣きそうに顔をしかめると、首を横に振って否定した。
私はふっと息を吐き出すと、今まで溜まっていた鬱憤をまき散らした。
「沼田さんって自分勝手だよね?竜聖が家の事、仕事の事で頑張ってるっていうのに、一度も連絡をとらないでほったらかしなんて…。彼女失格なんじゃない?もう気持ちがないなら、さっさと今の関係に決着をつけてほしいんだけど。」
「…け…ケリって…。そんなの…宇佐美さんに言われる事じゃないよ…。気持ちがないとか勝手に決めつけないで…。…私からは絶対にそんな事…言い出したりはしないから。」
沼田さんは少し迷いながらも決意のこもった目で言い返してきた。
私はその自信のある姿にイラついて、声を荒げた。
「竜聖が言い出せないでいるって分からないかな!?あなたの事を傷つけたくなくて、言えないでいるんだよ!!毎日一緒にいて、傍で見てたらそれぐらい分かるんだから!竜聖があなたに連絡をとらないのがいい例だよ!!」
嘘八百を並べ立てながら、私は我ながら上手い演技をしたと思った。
沼田さんはそれに騙されてさっきまでの自信が揺らいでいるようで、足元をふらつかせながら「ちがう。」と何度も呟いて額に手を当てて俯いた。
あと少しで完全に心を折ることができそうで、私はふっと微笑むと本当の事と嘘を交えて話した。
「竜聖の気持ちは私に向き始めてるの。キスをしたのがその証拠だよ。彼って、意外と熱いキスをするんだって感じちゃったんだから。」
沼田さんは私の言葉にとうとう足の力が入らなくなったのか、その場にへたり込むと顔を手で覆って俯いてしまった。
私はこれ以上は会話もできそうもないな…と思って、沼田さんを見つめて別れを告げた。
「そういうことだから。早めに決断してくれると嬉しいよ。――じゃあ、またね。」
反応を見せない沼田さんを横目に見て、私は踵を返した。
すると背後から「沼田さんっ!」と男の人の声が聞こえて少し振り返ると、少し長めの黒髪にメガネの男性が沼田さんに駆け寄っていた。
彼は俯いて動かない沼田さんを見て、心配しているようで焦っているのが見て取れた。
ただの同僚には見えない仲の良さそうな雰囲気に、私は彼が生徒の言っていた彼氏だと分かった。
私はそんな二人を一瞥したあと、自分のやるべきことは終わったので校門へと足を進めた。
竜聖がいなくても、彼女には支えてくれる人が何人もいる。
私とは正反対の彼女が憎くて、自分のしたことに罪悪感など微塵も感じなかった。
宇佐美の悪女感がでてきました。




