4-73怖い
俺は紗英に対して苛立ちが募っていた。
病人の母さんに手を上げたこと、俺と母さんの関係を家族ごっこと言ったこと。
そして距離をおこうと言った事に対して、すんなりと納得したこと。
親父が言っていた「別れてもいい」という言葉が本当のように思えてきて、何でそんな事を軽々しく口にできるのかとイライラした。
ずっと一緒にいたいと思ってたのは自分だけだったのかと思った。
それなのに翔平も竜也も紗英の肩を持つような事を言う。
誕生日だったっていうのには驚いたけど、今更どんな顔で祝えばいいのかも分からない。
俺を軽蔑するように睨んできた紗英の顔が頭から離れない。
俺が何をしたっていうんだよ!!
俺は苛立ちから病院の廊下の壁を叩いた。
「ちょっと!竜聖。こんな所でなに暴れてるの?」
壁を叩いたことに驚いて、宇佐美がどこからか駆け寄ってきた。
俺は拳を下げると宇佐美から目を逸らした。
「別に…暴れてねぇよ…。」
「嘘ばっかりついて…。荒れてるのは見てれば分かるから。」
俺が言い訳したことに、宇佐美は飽きれた様に言った。
俺はいたたまれなくなって母さんの病室へ足を向けた。
「最近休みの日も勉強してるみたいだけど、大丈夫なの?」
宇佐美が俺を追いかけて来ながら声をかけてきて、俺はイライラする頭を顔をしかめて堪えた。
「平気だよ。勉強すればするほど、親父がすげー人間だって分かる。やっぱり一つの会社を支えるだけの器だよ。俺には到底追いつける気がしねぇ。ホント何で俺を跡継ぎにしたいんだか。」
愚痴と一緒に息を吐き出すと少し頭がスッキリした。
宇佐美は俺の横でクスクスと声を出して笑うと、俺を横目で見上げてきた。
「自分では気づかないもんなんだねぇ。竜聖って生まれ持った人を惹きつける魅力があるんだよ。」
「魅力?そんなもんで経営者になれるかよ。」
「分かんないかなぁ~。人を惹きつける魅力があるって事はさ、商談を有利に運べるって事だよ?充分素質だと思うけど。」
「そういうもんかなぁ…。」
「そういうもんだよ。」
宇佐美に励まされて、俺は少し気が楽になった。
この一カ月、右も左も分からない事だらけで、ただ親父の姿を見ている事しかできなかった。
だから少しでも素質があると言われると救われるようだった。
向き合うと決めた以上はできるところまでは責任を持ちたい。
俺は宇佐美と並んで母さんの病室にやって来ると、母さんは以前よりもだいぶ顔色もよく元気そうに本を読んでいた。
「あら、竜聖、麻里ちゃん。いらっしゃい。」
「母さん、体調はどう?」
俺が声をかけると、母さんは読んでいた本を閉じると服の袖を捲って腕を見せた。
「どう?だいぶ太くなったでしょ?」
母さんの腕は見違えるように太くなってきていて、だいぶ本調子に戻りつつあるのが分かった。
この調子だとそろそろ退院だろうか…
「元気そうで安心したよ。飯は?食べられてる?」
「ええ。今では出されたものは全部食べるようにしているわ。もう大丈夫よ。」
「そっか…。良かったよ。」
俺は母さんが以前と同じ姿に戻りつつあって嬉しかった。
母さんは俺の顔をじっと見つめると、俺の顔に手を伸ばしてきた。
「竜聖…この顔どうしたの?」
俺は竜也に殴られた事を思い出して、頬を隠すように顔を背けると母さんから一歩離れた。
「何でもないよ。ちょっと友達とケンカしただけだ。」
「友達?…あなたから友達なんて聞くのは初めてね。」
初めて…?
俺は以前実家に帰った時に話したんじゃないだろうかと思ったけど、母さんに説明することにした。
「翔平と竜也だよ。前言わなかったっけ?中学の同級生だっていう二人。」
「あぁ!野球部のお友達ね。何度か会った事があるかもしれないわ。」
母さんはやっと思い出してくれたのか、手を叩いて笑った。
俺はそれを見て二人の事を話した。
「うん。その二人と会ってさ…。そのちょっと揉めたんだ。あ、でもケンカってわけじゃないから安心してくれよな!!ただの言い争いだからさ。」
「そうなの…?でも手を出すなんて…ひどいお友達ね。」
そう言った母さんの瞳が冷たく光った気がして、俺は背筋がゾクッとした。
何だ…今の目…?
俺が見たこともない母さんの冷酷な表情に固まっていると、横から宇佐美が口を出してきた。
「玲子さん。竜聖ここの所すごく頑張ってるんですよ!休みの日まで勉強してて、すごく熱心に家の事を考えてるみたいで!」
「あら、そうなの?偉いわ。さすが私の息子ね。」
俺は母さんの嬉しそうな顔が見れて、自分の選んだ選択は間違ってなかったと思ってホッとした。
ホッとした…?
俺は疑問が頭を過って、それと一緒に紗英の顔が思い返された。
それを振り払おうと頭を振る。
間違ってない。
紗英から距離をおいて、母さんの体調を優先したのは間違ってないはず。
俺は今まで迷っていた選択が蘇ってきて、言い様のない不安が胸に広がっていった。
これが最善の選択だったんだ。
距離をおいたって、俺たちは大丈夫だ。
母さんが退院さえすれば、きっと元に戻れる。
俺はドクドクと鳴る心臓の音を聞きながら、母さんに声をかけた。
「また帰って勉強するから、今日は帰るよ。」
「あら、今日は早いのね?残念だわ。」
寂しげに俯いた母さんを見て、俺は宇佐美に目を向けた。
「宇佐美、母さんの話し相手になってやってくれよ。」
宇佐美は俺の頼みに笑顔で頷くと「いいよ。」と言って、ベッドの傍の丸椅子に腰かけた。
それを確認して俺は「また明日。」と言って、病室を後にした。
それから俺は病院の入り口に戻ると、鴫原が車の前で待っていて驚いた。
「竜聖さん。今日は実家の方へ戻られますか?」
「……あぁ。明日は親父の仕事を見る予定だから…その方がいいけど…。」
「では、せっかくなのでお送りします。」
鴫原が車の後部座席の扉を開けて促してきて、俺は迷ったけど乗り込むことにした。
鴫原はたまに何を考えているのか分からないことがある。
今も何を考えて、ここで待っていたのか気になる。
鴫原は運転席に乗り込むと車を発進させた。
そして運転しながら黙っている俺に話しかけてきた。
「…ここ最近、沼田紗英さんとお会いになられていないようですが、別れられたのですか?」
「…は?…別れてねぇよ。」
鴫原らしくない質問に戸惑ったが、真実を答えておいた。
バックミラーに映る鴫原の顔を見て、何を考えているのか探ろうとするが全然読み取れない。
「そうですか。…では、どうしてお会いになられていないのですか?」
「……それ、お前に言わなきゃダメなのか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……、私が個人的に気になったもので…。」
鴫原が珍しく言葉を濁らせたのが本心だと分かって不思議だった。
何でこんなに俺と紗英の仲を知りたがるんだろうか…?
「…母さんが退院するまでは会わないことにしたんだよ。母さん…ただでさえ紗英の事気に入らないみたいだからさ…体に障ると思って…。」
「……竜聖さんはそれでいいのですか?」
親父の側近であるこいつの発言とは思えなくて、鴫原を凝視した。
俺の意見なんか今まで聞こうともしなかったのに…どういった心境の変化だ?
「いいも何も…もうすぐ母さんも退院するだろうし…あと少しの我慢だろ。」
「……我慢ですか…。私が観察してきた竜聖さんは我慢のできないお人だと思ってましたが、違ったんですね。」
軽く笑いながら言われて、俺はそういえばそうだったなと思った。
今までは紗英と一日だって離れてるのが嫌だったのに、今はそうでもない。
忙しすぎて忘れてただけか…?
それとも…
「あまり距離をとり過ぎるとその距離を埋められなくなりますよ。」
「は?」
俺は鴫原の言葉に思考が遮られて、鴫原の言葉に耳を傾けた。
「女性というものは弱っている所に現れた男性に心が揺るぎやすいのです。距離をとるのも桐谷の人間としては良い事ですが、その距離感を見誤らないようにしてくださいね。」
鴫原の言葉に俺は何かを見逃してきてはいないだろうかと不安になった。
心が紗英に会わなければと訴えかけてくる。
でも、あのときの紗英の表情がこべりついて行動に移せない。
そうか…一カ月も離れて平気だったのは…会うのが怖いからだ…
俺は紗英にまたあの目で見られたらと思うと、体が震えるようだった。
このままじゃダメな事ぐらい分かっている。
でも、母さんの退院というきっかけさえあれば、会いに行ける。
今の俺はそれを信じる事しかできなかったのだった。
少しずつ二人の間の亀裂が広がっていきます。




