4-68決心する
母さんと病室に残された俺は、母さんをベッドに寝かせて落ち着かせると、さっきの事を尋ねた。
「母さん…何で…紗英の事、突き飛ばしたり…あんな帰れとかひどい事…言ったんだよ?」
俺はベッドの脇の丸椅子に腰を落ち着けて、母さんの顔を窺った。
母さんは冷たく暗い瞳で俺を見た後、視線を逸らして口を開いた。
「…あの子はダメよ。」
「…は…?」
母さんは顔を背けたままピシャリと言い切った。
俺はダメと言われる理由が分からなくて、口を開けたまま固まった。
「…女の子と付き合うなとか結婚するなとか言ってるわけじゃないのよ。ただ、あの子だけはやめて。」
「なっ…んで…!?どうしてだよ!?」
俺は意味が分からなくて声が喉に詰まりかけた。
紗英だけがダメだとか…なんでよりにもよって…!?
「…理由なんかないわ。あの子以外の子にしなさい。大学の頃とかよく連れてたじゃない?明るくて元気な女の子たち。そういう感じの子でいいのよ。」
「…な…何言って…?大学の頃とか…俺、彼女なんて作った覚えねぇよ!!」
母さんが少しだけ笑みを浮かべて言った言葉に俺は驚いた。
大学の頃はそれこそ言い寄られた子と適当に遊んでただけで、家に連れてきた事なんか一度だってない。
それなのにどうして母さんが連れてたとか知ってるのか気になった。
「…そう?彼女じゃなかったのね。でも、そういう感じの子達との付き合いでいいのよ。あなたが私たちに紹介してくる子なんて…いらないわ。」
母さんの言い分だと、俺は適当に遊んでいる方が良かったみたいな言い方だ。
それこそ真剣な付き合いをしている紗英は認めないと言われているように聞こえる。
母さんの考えている事が分からなくて、俺は頭が混乱してきた。
母さんなら喜んでくれると思ってた。
俺が大好きな紗英なら母さんも受け入れてくれると…思ってた…
でも、予想に反して母さんは大反対だ。
何がそんなにいけないのか理由もないと言われたら、どうすればいいのか分からない。
「何で…何でだよ…。俺は…紗英がいいんだよ…。何でそんな事言うんだよ…。」
俺は俯いて手で頭を支えると顔をしかめた。
すると母さんが俺の肩に手を置いてきて言った。
「あなたの一番は母さんでしょ?…あの子じゃないでしょう?竜聖。」
一番…?
俺は顔を上げて母さんを見ると、母さんはいつも通り微笑んでいて、今はそれが異様に不気味に見えた。
だから紗英が一番だと言う事ができなくなって、口を噤んだ。
「悪いが私も玲子と同意見だな。」
背後から急に親父の声が聞こえて振り返ると、どこから聞いていたのか親父がニヤッと笑いながら扉の前に立っていた。その後ろに猛の姿も見える。
親父はズカズカと病室に入ってくると、俺の横まで来て見下してきた。
「お前はあの子に現を抜かし過ぎている。以前のお前の方が女との付き合い方を弁えていた。経営者に必要なのは愛や恋じゃない。そんなものに心を左右されていると、会社が潰れる。だから必要ない。あの子とは別れろ。いいな。」
「なっ…!?」
一方的に言われ、俺はカチンときて母さんの前だったが親父に歯向かった。
「そこまで指図される覚えはねぇよ!!紗英とは別れねぇからな!!」
「そうか。でも、同じことを彼女にも伝えてきたら、別れても良いと言っていたぞ?」
「は…!?」
親父の言葉に俺は目を見開いた。
別れても良いってどういう事だ?
俺は親父の言葉に心が揺れた。
紗英がそんな事言うとは思えないのだが、親父の堂々とした態度を見ていると嘘じゃないような気がしてくる。
「そういう事だ。お前も桐谷の人間なら、感情のコントロールのできる相手と付き合え。それなら文句は言わん。」
「そっ…んなん…イヤだ!!」
俺は心の中にハッキリした気持ちを抱えていたのだが、母さんの前で口に出す事を躊躇った。
言いなりになるのだけを拒絶する。
「竜聖。今日はどうしてそんなに言う事をきかないの?」
母さんが今にも折れてしまいそうな細い手で俺の手を掴んできて、言葉に詰まった。
母さんの手を見つめたまま、声が出ない。
きっと俺が紗英といたいって…いられないぐらいなら家と縁を切ると言ってしまったら、母さんはもっと気に病んでしまう。
そんなひどい言葉を俺は発することができなくて、母さんの手を振り払うと母さんに背を向けた。
「ごめん…。今日はどうかしてる…。ちょっと時間をくれ。頭を冷やしてくる。」
俺は猛の横を通り過ぎて逃げるように病室を後にすると、病院のロビーの椅子に腰かけて頭を抱えた。
母さんが望んでるのは、俺が家を継いで、適当な女の子と付き合うこと…
これは親父も同意見で、俺がこれを拒絶すると母さんの心労が増える事になる。
でも…俺は紗英と一緒に生きていく道を選びたい…
桐谷の家なんかどうでもいい…どうでもいいと思ってた…
でも、いつだったか紗英に見透かされたように見捨てることのできない自分がいる。
どうすればいい?
どうすれば、紗英とも一緒にいられて、母さんを納得させることができる…?
もう最悪、家を継いでもいい…でも紗英の事だけは諦めたくない…
俺は良い案が浮かばなくて、大きくため息をついた。
***
それから俺は結論の出ない悩みを抱え込んで、とりあえず病室に戻った。
するといつ来たのか宇佐美のやつが母さんと仲良さげに話をしていて、俺は病室に入らずに廊下の壁にもたれかかって話が終わるのを待つことにした。
待つ間もどうすればいいのか考えていると、そこへ猛が中からやって来て俺を鋭い視線で見てきた。
「あんたさ、贅沢だよな。」
「は?」
猛は好戦的な姿勢で言い放って、俺は猛を見て防御態勢をとった。
「自分を心配してくれる実の母親がいて、父親には期待されてて家を継げと言われてる。それなのに、好きな女がいるから、どうすればいいのか分からないって顔してる。要は全部欲しいって思ってんだろ?この贅沢者。お前見てると吐き気がする。」
見透かされた上に、上から目線で貶されて、俺は返す言葉もなかった。
猛の言う事は正しい。
俺は情けない兄貴だな…と思った。
それだけに猛なら何か答えをくれるような気がして、訊いてみる事にした。
「猛なら…俺の立場だったら…どうする?」
俺の質問に猛は目線だけで反応すると、メガネを押し上げてからサラッと言い切った。
「そんなの決まってる。母さんと家をとるよ。母さんも継ぐのを望んでる。なら、それに応えるのが息子の使命だよ。こんな簡単な事も分からないなんてな?」
猛にバカにされたように返されて、俺はふっと笑みが漏れた。
簡単な…こと…か…
俺はちらっと猛に目を向けると、興味本位で訊いてみた。
「猛は、好きな女の子いねーのかよ?」
「そんなのいた事ないね。女は皆バカだよ。母親以外はね。」
猛の発言に更に笑いが漏れた。
こいつ本当に母さんの事好きだなぁ…
俺は猛と初対面したときの事を思い出して、懐かしさに目を細めた。
5年前、俺と同じ高校生だったこいつは、俺を敵視してきて、なるべく母さんと接触させないようにしていた。
その姿はまるで忠犬のようで、主である母さんを守っているようだった。
それから俺は猛に一度だって好意的な目で見られたことはない。
というか名前ですら呼んでもらった事がない。
俺は初恋すらまだだろう猛を見て、ふっと笑った。
すると何か勘に触ったのか猛が眉を吊り上げて、詰め寄って来た。
「何笑ってんの?彼女いるやつが偉いとか思ってたら大間違いだから。自分の事もちゃんと決められねークセに。」
「悪い。そういう意味で笑ったんじゃねぇんだけど。お前はハッキリしてて羨ましいよ。変わって欲しいぐらいだ。」
俺が何にも束縛されていない猛を見て本音が漏れた。
すると猛はふんと鼻で笑うと、俺から少し離れた。
「俺はお前の方が羨ましいけどな。ま、持ってるやつには分からねーだろーけど。」
「…どういう事だよ?」
羨ましいなんて思われてるとは思わなくて訊き返すが、猛は答える気がないようでさっさと病室に入っていってしまった。
俺はそれを廊下から眺めてふっと息を吐いて腕を組んだ。
羨ましいなら変わってくれよ…
俺は自分の道を自由に選べる猛が羨ましかった。
「竜聖。どうしたの?」
母さんと話を終えたのか宇佐美が病室の入り口で立ち止まっていた。
俺はそれをちらっと見ると「別に。」と答えた。
すると宇佐美は俺の隣の壁にもたれかかると、気遣うように言った。
「また何か悩んでる?」
「……そんなんじゃない。」
「嘘。高校のときと同じ顔してるよ。」
同じ顔と言われて、俺は顔を上げて宇佐美を見つめた。
宇佐美は高校のときと同じ、俺に話を促すような優しい顔をしていた。
高校3年の半年間、俺は宇佐美に何度となく助けられた。
そのときの事を思い出して、口が勝手に悩みを打ち明けた。
「…母さんの…希望に沿えない俺って…ダメなやつだよな…。」
「…希望って…お家を継ぐって事?」
宇佐美が母さんの望みを知っていたことに驚いたが、俺が母さんをよく見てなかっただけかと分かった。
それだけ継ぐって事が嫌で、色んな事から目を背けていたのかもしれない。
俺は病室の中に目を向けると猛と話している母さんを見つめた。
「息子なら…親の希望に応えるのが当然だって…猛は言ったけど…、俺は…それよりも大事なものがある。だから…もうどうすればいいのか分からない…。」
「……大事なものってのが何かは分からないけど…、一回その親の希望っていうものも考えてみたらどう?」
「…え…?」
「大事なものがすぐなくなってしまうものなら話は別だけど、すぐになくならないなら家の事を向き合う時間が必要なんだと思う。その大事なものを一旦置いておいて、玲子さんや譲太郎氏と向き合って考えれば活路は見出せるんじゃないかな?」
宇佐美が簡単に俺が逃げてきた事と向き合えと言ってきて、戸惑った。
でも、紗英の事を理解してもらう時間は必要だというのは分かってただけに、それしか道がないような気もする。
母さんが紗英をそこまで毛嫌いする理由も分からないんだ。
なら、今は従順なフリをして探った方が得策かもしれない。
「…その通りかもな…。俺…きっと親父の事も母さんの事も知らない事がたくさんある気がする。」
「でしょ?なんなら秘書の私が情報を流してあげるから、一度しっかり考えてみよう?」
宇佐美が得意げに笑うと胸をドンと叩いて言った。
俺はこんなに近くに味方がいたことに頼もしく感じながら、宇佐美に笑いかけた。
「ありがとな。ちょっとスッキリしたよ。」
「どういたしまして。」
宇佐美が嬉しそうに笑顔を向けて、俺は気持ちが軽くなるのを感じた。
何だかんだ一番俺のこと分かってるのこいつかもしれねぇな…
転校したばかりの頃に同じ境遇だった宇佐美とつるんでいた事を思い出して、気が緩んだ。
ここにも友人と呼べる奴がいたと気づいて、俺は家と向き合う決心をつけた。
宇佐美が絡んできました。
この決心が今後大きく関わってきます。




