4-23大きく変わる
仲直りのときに竜聖がどう感じていたかという竜聖視点です。
俺の周りが大きく変わった。
それもこれも紗英が俺の前に現れてからだ。
最初は強引に友達宣言されて、何を考えているのかよく分からなかった。
でも、いつも笑顔で俺に会いに来る紗英を見ていると、ここに来たいから来てるっていうのが伝わってきて、何となく冷たく突き返せなくなった。
そして断れないままに紗英の同僚と一緒に飲みに行ったり、二人で話をするようになって、時折彼女が寂しそうな顔をすることに気づいた。
紗英は俺がそれに気づくと、すぐに笑顔を作って隠してしまう。
なぜ、そんなに俺の隣で笑顔で居続けようとするのか、不思議だった。
不思議だったけど、俺はそんな紗英にどこか救われていた。
深く追及もせずに隣で笑ってくれる人がいる。
『ここにいるよ』って言われているようで、安心した。
今までこんな女の子に出会った事がなかっただけに、俺の張っていた線も薄くなった。
だから、心のどこかで気を許してしまったんだ。
それがあの日だった。
俺は口が勝手に食事に誘ってしまった。
言ってからしまったと思った。
俺は今まで女の子から誘われる事はあっても、自分から言い出した事はなかった。
でも、嬉しそうに目を輝かせている彼女を見て、俺は胸が熱くなってそんな考えが吹き飛んだ。
俺は仕事が終わるまで彼女に待っててもらう事にすると、仕事に戻った。
俺はその間、さっきの嬉しそうな顔が浮かんできて、顔が緩みっぱなしだった。
仕事が終わると急いで支度して店を飛び出したが、小関に引き留められて家に来ないか誘われた。
俺は最近そういう関係とは距離をとっていたので、笑って躱すと紗英を待たせているカフェに走った。
カフェに着くと、紗英が辛そうな顔で目を瞑っていて、一瞬戸惑った。
紗英のあんな顔は見たくないと思った。
笑っていてほしくて、俺は今まで誰も連れて行ったことのない、俺の落ち着く場所に彼女を連れて行った。
俺が落ちているときに何度も助けられたマスターの店なら、紗英も自然に笑ってくれると思った。
俺のもくろみ通り、紗英はいつも通りに戻った。
学校でのグチを聞きながら、紗英が身近に感じられて嬉しかった。
そんなとき嫌な奴から電話がかかってきた。
桐谷の家の番号だったので、俺は取らないわけにもいかなかった。
ふわふわと幸せだった時間が、地獄へと変わった。
電話の内容はいつもと同じだった。
『母さんがお前を呼んでる。』
母さんの顔が浮かんで、俺は胸にどす黒いものが溜まっていくのを感じた。
気分が悪い…
こんな状態では紗英と楽しく食事するなんて無理だと思った。
だから、俺は緩んでいた線をしっかり張り直して、紗英に別れを告げた。
でも紗英は俺に初めて一歩踏み込んできた。
真剣な様子で「頼ってほしい」とか「力になりたい」とか甘い言葉で誘惑されて、俺は線を分厚くしてそれを耐えた。
でも、紗英の諦めたような鼻にかかった声を聞いて、俺は胸が痛くなって咄嗟に引き留めてしまった。
今まで誰にも打ち明けたことのない…自分の一部分を初めて、紗英に明かしてしまった。
紗英は黙って聞いてくれたけど、俺の死んだ父さんの話を聞くなり、俺よりも悲壮な顔で泣いてしまった。
そんな反応をされたのは初めてで、俺はどうすればいいのか分からなくなった。
父さんが死んだと言っても、俺にはその父さんとの思い出がない。
他人のように感じていて悲しいなんて思った事もなかった。
紗英に諭されて、俺は悲しかったのかもしれないと思うと、死んだ父さんの現実がスッと胸に入ってきた。
それだけで黒いものが少し明るくなったようで、気持ちが楽になった。
だから、紗英に対してまた線が緩んだ。
紗英の働く高校で紗英を見つけたとき、気持ちが弾んだ。
でも話しかけた紗英はいつもと様子が違って、俺の話した事が尾をひいているのだと感じた。
俺はやっぱりダメな奴だと再認識した。
俺に関わると皆、碌なことにならない。
でも、紗英はそんな俺の気持ちを見透かしてか強がってきて、胸が温かくなった。
紗英はお日様みたいだと思った。
こんな黒くて汚い俺でも、紗英の隣にいたら日向で温かさを感じることができる。
紗英に救われてる。
そう思って言った言葉だったのに、紗英から返ってきたのは予想外の言葉だった。
『好き』
俺は耳を疑った。
何…言ってるんだ…?
紗英みたいな…優しくて、幸せな人間が…俺みたいなずるい奴が好き?
そんなのダメだ!
俺は自分の線がなくなってしまっていることに気づいて焦った。
そして俺は彼女から逃げた。
俺の耳の奥で彼女の言葉が鳴り響いて止まなかった。
『好き』『大好き』
俺はそんな事、言われていい人間じゃない!!
今までは軽い付き合いしかしてこなかった。
だから、本気の言葉にどうすればいいのか分からない。
俺は紗英を避けて、かかってきた電話もとらなかった。
一晩、悩んで…悩んで。
結論を出した。
俺は固く線を張り直して、紗英に会いに行った。
俺は紗英の姿を見てしまったら、また固くした線が緩みそうになって気持ちを強く持った。
本心は胸の奥底に押し込めて、俺は彼女に告げた。
会わない、友達もやめる
一晩考えて出した答えだった。
近づいたからいけなかった。
これが最善の方法だと思った。
俺の中に入ってこないように、予防線を張った。
紗英の顔を見たら決心が鈍るから、俺は言うだけ言って高校を後にした。
車を運転しながら紗英の引き留める声が聞こえて、顔をしかめた。
「ごめん…ごめんっ…。」
彼女には届かないと思ったけど、謝った。
謝るしかできなかった。
そのとき背後でトラックのクラクションが鳴って、ブレーキ音が聞こえた。
俺はまさかと思って車を止めて振り返った。
そこには紗英の姿はなかった。
でも、言い様のない不安が湧き上がってきた。
胸がズクンズクンと痛み出す。
俺の中の嫌な記憶がフラッシュバックする。
紗英も俺と同じように事故にあってたら…
そう思うと体が勝手に動いた。
車を降りて、トラックの通っていた角を曲がる。
そこには肩を押さえて顔をしかめた紗英がうずくまっていた。
俺の顔を見上げた紗英に、俺はほっと胸を撫で下ろした。
良かった…
緊張していた体の力が抜けた。
そのとき紗英が辛そうに顔を歪めて謝ってきた。
『このままでいたい』『笑顔が見ていたかった』
紗英の気持ちを聞いて、俺はストンと理解した。
俺自身も同じ気持ちだった。
紗英の笑顔が見ていたかった。傍にいたかった。
俺は欲張りだ。
誰にも何も返せないのに、俺ばかりが求めてしまう。
こんな俺はイヤだ。
もう、こんな俺…いなくなってしまえばいいのに。
そのままの気持ちが口をついて出た。
でも、紗英はそれがイヤだと言ってきた。
俺がいないとダメだと…笑えないと…
俺は誰かにこんなに必要とされるなんて思わなかった。
紗英から感じるのは上辺だけの言葉じゃなくて、まっすぐに信じることができた。
こんなに情けない俺でも良いと…受け止めると…彼女が言ったとき、俺の線がなくなった。
紗英がほしいと思った。
紗英の隣にいると、自分が許されたような気になる。
その居場所を失いたくないと思った。
これが『好き』という感情なのかは分からなかった。
でも『好き』になりたいと思った。
俺はこのとき初めて、他人を信じることができるようになった。
表面上の付き合いじゃなく、深く付き合いたいと思ったのは初めてだった。
そこから、俺は紗英と会うたびに彼女に惹かれていくのが分かった。
ずるいけど、彼女といると幸せになっても良いと思えるようになってきた。
そんなとき、あの二人が紗英と一緒に店にやってきた。
あんなにひどい事を言ったのに、平然と付き合えと言ってくる男に俺は戸惑った。
この二人は昔、俺と友達だったというのは知っていた。
でも、俺には記憶がないだけに馴れ馴れしいこいつらに嫌悪感を抱いていた。
どう接すればいいのかも分からない。
何を考えているのかも分からない。
自分が知らないのに、向こうは何でも知っている状態は怖い。
だから拒絶してきたのだが、向こうは遠慮なんかしてこない。
でも、その日は紗英が隣にいた。
それだけで少し気持ちを強く持つことができた。
俺は紗英との事もあって、少しだけこいつらを信じてみようと思った。
河川敷に来ると、キャッチボールを始めた。
あの竜也という奴が俺を見据えているのにドキッとした。
真剣な目に何か強い意志を感じた。
その竜也からボールが飛んできて、俺は我ながら上手くキャッチできて思わず「ナイスボール!」と柄にもない事を口走った。
キャッチした瞬間、口が勝手にそう動いた。
それが何なのか分からなかったけど、俺が次に翔平という奴にボールを投げたら、ボールはあさっての方向に飛んでいった。
やっちまった…
俺は野球なんてしたこともなかったので、「ちゃんと投げろ!アホ!」と言われて、自然に笑顔が漏れた。
いたって普通に俺を罵倒した翔平に気持ちが緩んだ。
そのとき紗英が声を上げるのが聞こえて、俺がそっちに目を戻すと紗英が竜也に駆け寄っていた。
何か話したあと、紗英が竜也からグローブを奪ってこっちに走ってきた。
何なのか分からなかったが、紗英の嬉しそうな顔を見て、俺も自然と顔が綻んだ。
紗英は「キャッチボール教えて!」と俺たちの間に割り込んできて、仕方なく翔平がボールを投げると、紗英は見事に取り落していた。
それもワンテンポ遅れていて、思わず吹き出すように笑った。
下手くそにも限度というものがある。
何度も取り落しては諦めようとしないので、俺は仕方なく取り方を教えることにした。
ボールが落ちてくる所にグローブを構えると自然に入ってくると伝えると、紗英は真剣な顔で頷いて、その真剣な姿にまた笑いが漏れそうだった。
そしてやっと取ることができると、紗英は嬉しそうに手を振り上げた。
俺は紗英とグローブを合わせたあと、自然と翔平と目が合って、笑っている自分に恥ずかしくなった。
翔平は「俺とキャッチボールしようぜ。」と言うと、優しい目で笑った。
俺はその目が紗英と同じに見えて、また気持ちが緩んだ。
自然に馴染んでいる自分が不思議だった。
翔平とボールを投げ合いながら、体が勝手に動いているのが分かった。
指の先にボールの感覚が戻って行くのが分かる。
俺はもしかしたら野球をしたことがあるのかもしれないと思った。
最初、俺にあんなに突っかかってきた二人は今、俺に何も聞いてこないし、過去の事を何も話そうとしない。
俺はそのことが気がかりで、自分から尋ねるべきかと思って、竜也の方に目を向けると、紗英と抱き合っているのが目に入ってドキッとした。
二人の仲の良さそうな雰囲気に息をのむ。
俺にこの五年があったように、二人にも五年があったんだ。
どんな関係であろうと自分には口を出す権利も資格もない。
紗英は俺の事が好きだと言った。
それを信じるしか、俺にできることはない。
俺がグっと口を引き結んでいると、翔平が話しかけてきて、俺は顔を背けた。
紗英の事が好きなんだろと訊かれて、俺は顔をしかめた。
これは好きという気持ちなのか分からない。
俺は紗英の笑顔を見ていたいけど、それを独り占めしようなんて嫌な思いまである。
こんなの紗英には相応しくないんじゃないか…いつも頭のどこかで考えていた。
こんな俺に好きだなんて言う資格はない。
それを口に出すと、翔平はまっすぐな答えを告げた。
『体で感じるままに動け』
俺はその言葉に気持ちが明るくなるようだった。
俺がしたいことをしていいという前向きな気持ちが芽生えた。
だから、俺は翔平や竜也とも向き合いたいと、このときそう思った。
翔平とキャッチボールしていると、なぜか自然に笑える自分がいる。
グローブに収まる気持ちの良い音を聞くと、胸が弾む。
ただのキャッチボールがこんなに楽しいと、このとき初めて思った。
そして竜也から『友達』と言われて、俺は自分がそう思い始めていたことに驚いた。
俺は二人を一度傷つけている…、きっとこれからもそうしないとは言い切れない。
もしかしたら自分も二人の間に入っていって、辛い思いをするんじゃないか…そう思うと声が出なかった。
でも、『もう友達だ』と言われて胸が熱くなった。
俺は今まで何を見てきたんだと、後悔した。
こんな俺のことを、そう呼んでくれるだけでいいんじゃないのか…?
俺は紗英と同じように優しい二人を見て、自分も向き合う決心をした。
そのとき紗英の鼻歌が聞こえて、俺はその鼻歌で目の前に見たことのない景色が浮かんだ。
紗英の鼻歌に重なるように、楽器の音が耳に響く。
目の前に広がるグラウンド、俺の隣には仲間が…
そのときハッと我に返った。
この曲を知ってると思った。
どこで聞いたのかまでは分からなかったけど、何となくそう思った。
大事なことのような気がする。
でも俺はそれを考えるよりも、今は目の前にいる二人に自分の気持ちを伝えようと思った。
「二人とも、ありがとう」
俺は二人の笑顔と紗英の笑顔を見て、胸にぽっかりと空いていた空間が少し埋まったような気がした。
竜聖の抱えていた苦悩を明かしました。
次は久しぶりに学校での話です。




