4-5落ち着く場所
連日の残業に俺はいつもの冷静さを欠いて、仕事でミスばかりしていた。
というのも沼田さんに会いたいのに、会えないこの状況にイライラしてるためだ。
三月の卒業式で会って以来、一度もこっちでは会っていない。
メールではやり取りしたりするが、やっぱり彼女の笑顔を見ないと落ち着かない自分がいる。
働き始めて分かる。
彼女は俺の精神安定剤なのだと…
言ったら怒られるかもしれないが…
「だーっ…!また、やっちまった!!」
俺は声を張り上げると頭を抱えた。
ノートパソコンのキーボードに当たりたくなる。
一段ずれて打ち込んでいて、また最初からやり直しだ。
ミスばかりしていて、イライラも絶頂だった。
「お疲れ様。はい、これでも飲んで落ち着いて。」
俺が頭を掻きむしっているところへ、事務のアイドルである城田美空さんがやってきた。
俺の机にコーヒーの入ったマグカップを置いて、俺の肩越しからパソコンを覗いてくる。
そのときに彼女から甘い花のような香水の匂いが鼻を掠めた。
「ありゃ~…また、やっちゃった感じ?」
彼女は髪をかき上げながら、俺に顔を向けた。
俺は彼女の白くて細い首筋を見て、さすがマドンナと呼ばれるだけはあるなと思った。
「あぁ…もう何回目か分からねぇ…。」
俺はぼやきながら、持ってきてくれたコーヒーを口に運んだ。
彼女は口元に手を持ってきて優雅に笑うと、俺の肩をポンポンと優しく叩いた。
「まだ、お昼過ぎだし大丈夫だよ。頑張れ!」
彼女から励まされて、少しやる気が出てきた。
「ありがと。あ、これもサンキュな。」
俺はマグカップを彼女に掲げてお礼を言った。
彼女は満足そうに頷くと、自分のデスクに戻っていった。
その背を見ていると、隣のデスクの先輩が椅子を転がして俺のところにやってきた。
「よ、色男!」
「は?何言ってるんですか?」
「何ってどう見ても城田さんはお前狙いじゃねぇか!」
「からかうのもいい加減にしてくださいよ。俺はその気はないんで、迷惑です。」
「はっきり言うなぁ~。ま、でも今夜の合コン、お前も参加だからな?」
「は!?」
俺は急な参加要請に目を剥いた。
先輩はポンポンと俺の肩を叩くと言った。
「今日金曜だし、明日は休みだから合コンするにはちょうどいいんだよ。それにお前誘うって言ったら、女子の参加率がすっげー事になってさ。強制参加だからな。」
「ちょっ!!先輩、勘弁してくださいよ。俺、今日こそは家でゆっくりしようと思ってたのに…。」
俺はどうしても合コンには行きたくなかった。
沼田さんの事を考えると、罪悪感で胸が痛くなってくる。
しかし先輩は俺のそんな心情お構いなしで「先輩命令だ」と言う始末だ。
俺は顔をしかめてため息をつくと、なるべく早く帰ろうと心に決めた。
***
先輩主催の合コンは5対5で、女性陣は城田さん含め、今年の同期の女子メンバーだった。
対する男性陣は俺が一番下で、後は皆同じ部署の先輩ばかりだった。
主催する先輩の同期らしい。
俺は一番端の席に座ると、なるべく女子に絡まれないように小さくなっていようと思った。
先輩の「乾杯」の音頭で始めると、俺は自分の思惑とは裏腹に女子に周りを囲まれた。
「山本君って休みの日、何してるの?」
「ねぇ、何かスポーツやってた?」
「腕逞しいよね~触ってもいい?」
代わる代わる質問され、俺は目が回りそうだった。
先輩に助けを求めようと横を向くと、先輩方は城田さんを囲んで質問攻めにしていた。
俺は生贄か!!と思いながらも無難に会話をしていく。
女子特有のきゃぴきゃぴしたテンションにだんだん疲れてきて、俺はトイレに行くフリをして席を立った。
トイレに逃げ込むと、鏡の前で手をついて大きくため息をついた。
鏡に映った自分の顔を見ると、相当疲れているのか瞼が落ちかけていて、表情にも生気がなかった。
俺は鏡に背を向けて洗面台にもたれかかると、ポケットからケータイを取り出してある写真を開いた。
それは安藤の結婚式の日に沼田さんが送ってきた写真だ。
ワイングラス片手に嬉しそうな顔で笑っている。
「っふ…。」
彼女の笑顔を見てると自然と気持ちが楽になって、笑みが漏れた。
会いたいな…
俺は写真を見つめて帰ることに決めた。
ケータイをポケットに戻すと、先輩への断り文句を考えながらトイレから出る。
するとトイレの前に城田さんが立っていて、俺は思わず立ち止まった。
「あ…お疲れ…。」
城田さんは俺と同じように先輩たちから逃げてきたのだろうかと考えて、その言葉が飛び出した。
しかし城田さんは俺を誘惑するように笑いながら、俺に体を押し付けてきた。
「ねぇ、山本君。これから二人で抜けない?」
「は?」
俺は彼女のあからさまな態度に唖然としながら、背を壁に引っ付けて彼女から逃げようと試みる。
「私たちきっと相性抜群だと思うんだけど…。そう思わない?」
「あ、ごめん。それはない。用事思い出したから、帰るな。」
俺はバッサリと断ると、彼女を押しのけて席に向かって歩き出した。
すると城田さんに腕を掴まれて、彼女はその腕を胸に押し付けてくる。
「ねぇ?本当に後悔しないの?」
彼女のお色気攻撃に頭痛がしてきた。
俺はイライラしているのを表情に出さないようにすると、なるべく優しく彼女を引き離した。
「ごめんな。ホント、急いでるんだ。」
俺はそれだけ言い残すと席に向かって足を速めた。
そして、席に着くと待ちわびていた女子の声を遮って先輩に告げた。
「先輩。用事ができたんで、俺、帰ります。お疲れ様です。」
俺は財布から万札を出すと先輩に手渡した。
先輩は「おい。」と焦っていたが、俺は「すみません」とだけ言うと足早に店を出た。
連日の残業と女性陣からの猛アタックに頭痛のしていた俺は、この心労を癒すべくまっすぐ彼女の家へ向かった。
***
彼女に教えてもらっていた住所に着くと、俺は彼女のマンションを見上げてどうするか考えた。
急に行ったら迷惑かな…と考えて、とりあえず電話をかける。
しかし呼び出し音が鳴るだけで全く出ない。
俺は電話を切ると、またケータイ見てねぇなと結論付けて家に突撃することに決めた。
そして彼女の部屋番号の前に来ると、俺はインターホンを押した。
時間も遅いので家にいるはずだ。
そう思って出てくるのを待ったが、一向に出てこない。
念のためもう一度押す。
でも出てこない。
まだ、帰ってないのか…?
俺は彼女から貰った腕時計で時間を確認すると時刻は十時を過ぎていた。
遅くないか…?
学校ってそんなに遅くなるものなんだろうか…?
俺は不安になる胸を押さえると、ドアにもたれかかってへたり込んだ。
「まぁ…いつか帰ってくるだろ。」
俺は小さく呟くと目を瞑った。
目を閉じると瞼の裏に沼田さんの笑顔が見えて、俺は頬を緩ませた。
***
「山本君…山本君。」
俺は俺の名前を呼ぶ声に目を開けた。
いつの間にか眠ってしまっていたのか、目の前がぼやけてはっきりしない。
俺は手で目を擦ると、やっと視界がはっきりしてきて声の主が目に入った。
「山本君。大丈夫?」
はっきりした視界に飛び込んできたのは、沼田さんの心配そうな顔だった。
距離の近さにドクンと心臓が跳ねる。
「うっわ…沼田さん。」
「あ、目覚めたみたいだね。良かった。」
彼女は安心したように笑うと、俺から離れて立ち上がった。
俺は気持ちを落ち着けてから立ち上がると、沼田さんの家の前でへたり込んでいた事を思い出した。
彼女は飽きれた様に俺を見ると微笑んだ。
「もう、誰が倒れてるのかと思ったよ。来るなら事前に連絡してくれたら良かったのに。」
「あ、一応電話はしたけど…。」
俺が言い訳のように告げると、彼女は鞄を漁ってケータイを取り出すと着信ランプが光ってるのを見て、気まずそうに俺を見上げた。
「あはは…ごめん。気づかなかった…。」
「いいよ。もう慣れた。」
俺はふーっと鼻から息を吐き出した。
そのときに何時なんだと思って腕時計を確認したら、午前0時を回っていた。
驚いて彼女を見ると、沼田さんは何でもないように鞄から鍵を取り出して開けている。
「っちょ!!今日、何でこんなに遅いんだよ!」
「へ?」
俺はいつもこんなに遅いのだろうかと心配になった。
彼女は鍵を開けると、顔だけ俺に振り返った。
「あぁ…今日は歓迎会だったの。同期の先生に付き合ってたら遅くなっちゃって…。」
彼女のへらっと笑った顔を見て、俺はドアに手をついて追及した。
「同期って…男?」
「えっ…?……うん。そうだけど…あ、でも女の先生も一緒だよ?」
彼女が困った顔で言い訳しているが、俺はそんなの耳に入らなかった。
両手をドアにつくと、彼女の逃げ道を塞いだ。
「男とこんな遅い時間まで飲むなんて…警戒しなさすぎだろ。自分が女だって分かってんだろ?」
「で…だって…今日は歓迎会だったんだってば…。警戒も何も…同僚だよ?」
「そんなの分かんねぇだろ!?…連れてかれた店で強い酒飲まされることだってあるんだよ。」
「っそんな…こと…。」
俺は彼女の無防備な姿に腹が立った。
彼女は言い訳を考えているのか、俺と目を合わせようとしない。
「っと…ちょっと、落ち着いて話しよう。コーヒー入れるから、とりあえず中入って。」
沼田さんは俺に背を向けると、ドアノブに手をかけたが俺がドアを押さえているため開かない。
彼女の背中から焦っている空気が伝わってきて、俺は手を握りしめるとしぶしぶドアから手を離した。
沼田さんはドアを開けると、俺と目を合わせようとせずに「どうぞ。」とだけ言って中に入った。
俺はイライラする気持ちを抑えながら、一度ため息をついて中に入る。
俺は靴を脱いで中に足を踏み入れると、彼女らしい爽やかな香りが鼻についた。
アロマか何かかと思ったけれど、洗面所の扉が開いていたので柔軟剤の香りかと納得した。
彼女に促されてリビングに置かれたテーブルの傍に腰を下ろす。
間取りこそ大学のときと変わっているものの、テーブルも家具も大学のときに部屋にあったものと同じだった。
彼女はキッチンに立ってコーヒーを準備してくれているようで、俺はその背中を見つめながらむすっとふてくされた。
ただの嫉妬だというのは分かっている。
でも、俺は全然会えていなかったのに、その男は毎日一緒にいると思うと腹が立った。
彼女の笑顔を毎日見てるのかと思うと…胸が苦しかった。
俺は大きくため息をつくと、頭をガシガシと掻いた。
「お待たせ。インスタントだけど…どうぞ。」
彼女が遠慮がちにテーブルにマグカップを置いた。
そのとき彼女の腕に見覚えのある髪ゴムがついているのが目に入った。
「それ…。」
俺がその髪ゴムを指さすと、彼女は俺の目の前に腰を落ち着けると笑った。
「うん。山本君にもらったシュシュ。気に入ってよく使ってるんだ。」
彼女はテーブルにそのシュシュ(名前を初めて知った)をつけた腕をのせると、俺の方に見せてきた。
その顔が嬉しそうで、俺は今までのイライラが消えていくのを感じた。
テーブルにのせられた彼女の手を見つめて、俺はそっと腕についているシュシュを触った。
「すごい安物なんだけどな…。」
「値段じゃないよ。気持ちが嬉しかったんだから、いいでしょ?」
彼女の誇らしげな顔を見て、俺はシュシュを触っていた手を彼女の手に移動させた。
壊れ物のように優しく触れる。
触った瞬間、彼女が驚いて顔を上げたのが分かった。
俺は手に触れただけで頬が熱くなっていて、顔が上げられなかった。
「……大事にしてくれてて、嬉しいよ。」
「う…うん。」
静かな気まずい沈黙が流れる。
でも、俺はその沈黙が嫌じゃなかった。
久しぶりに感じる穏やかな時間に心が温かくなった。
俺が触れている手に力をいれたとき、彼女が声を上げた。
「あっ!!私、着替えてきてもいいかな!?今日汗かいちゃってさ!」
彼女は俺の手から逃れるように立ち上がると、焦っているのかその場でウロウロした後、奥の部屋に駆け込んだ。
俺がそっと顔を上げたとき「ゆっくりしてて!」とだけ声がかかって、奥の部屋の扉が閉められた。
その慌てた姿に俺は胸がくすぐったくなった。
「っふ…。」
思わず笑みが漏れる。
声を殺して笑うと、その場に寝転んだ。
そして笑いを抑え込むと、さっき彼女の手に触れていた手を閉じたり開いたりして確認する。
まだ優しい温もりが残っているようで、消えないように握りしめた。
やっぱり…ここはいいな…
俺は安心する居場所に心が落ち着いた。
ずっとこのままの時間が流れればいい…
そう願いながら、重くなってきた瞼を閉じた。
久しぶりに竜也が登場しました。
同僚の城田さんは今後も出てくる予定です。




