4-3初授業
始業式、入学式の次の日――――
とうとう私の初授業の日がやってきた。
始業式や入学式の様子から見ると、生徒たちは真面目そうで安心していた。
しかし私の授業をしっかり受けてくれるとは限らない。
なめられないようにしないと…と気合を入れた。
私はドキドキしながら音楽室の扉を開けると、黒板の前まで移動して生徒たちの顔を見た。
私が生徒たちを見たとき、日直の子から号令がかかって一斉に皆が立ち上がる。
『礼』の声にお辞儀しながら「お願いします」と声をそろえて挨拶される。
私は一気に緊張すると、生徒たちが着席したのを見て慌てて口を開いた。
「え……えっと…昨日、壇上であいさつさせてもらいましたが…今年から音楽の授業を担当する沼田といいます。これからよろしくお願いします。それじゃあ、点呼をとります。」
私は出席簿を手に取ると、生徒たちに近づこうと黒板の前から移動した。
そのときに緊張で段差に気づかなくて踏み外して、思いっきりに転んでしまった。
受け身をとる余裕もなく腰を打ち付けてしまい、私は痛みと恥ずかしさで顔が上げられない。
教室がシーンと静まり返っていて、私は穴があったら入りたかった。
そんな沈黙を破ったのは生徒たちの笑い声だった。
「先生。大丈夫ですか?」
「緊張しすぎだって!」
「先生、頑張れー。」
目の前にいた男子生徒が私に手を差し出してくれた。
私は生徒たちから励ましの言葉をかけられ、嬉しい反面情けなかった。
手を差し出されたので、有難く手をとって立ち上がると恥ずかしさで紅潮した頬を隠したくなった。
一番恥ずかしいことをやってしまったので、少し吹っ切れた私は気を取り直した。
「みんな、ありがとう。確かに緊張しすぎだね。
先生は皆と一番年が近いと思うので、先生ぶるのはやめることにします。」
私は出席簿を置くと、教壇より前に立って近くで生徒たちの顔を見た。
生徒たちは私を見て笑いながらも話を聞いてくれているようだった。
「音楽の授業っていうのは、もしかしたら普通の授業に比べたらつまらないものなのかもしれません。
でも、私は音楽が好きだし、みんなに少しでもそれを知ってほしいと思っています。
だから私の知っている話を、これからみんなに話したいと思うので堅苦しく考えないで聞いてください。」
ここまで話すと笑い声も収まってきた。
私は生徒たちに自分の気持ちが伝わったのを確認すると、授業を始めるべく教壇に戻った。
そこからは順調に授業を進めることができた。
最初に大失態をしたからかもしれない…
あれ以上に怖いものはないと思うと何とか乗り切れた。
チャイムが鳴り教室を出ていく生徒を見送りながら、私はふうとため息をついた。
すると女子生徒のグループが私に近寄って話しかけてきた。
「先生。先生ってどこの高校行ってたんですか?」
「私?…私は西城高校っていうところだよ。音楽科があってそこに行ってたの。」
「へぇー!高校から音楽の勉強してたなんてすごーい!!」
生徒たちに気軽に話しかけられて嬉しくなってきた。
女子高生のこういうテンションの高い感じも懐かしい。
私は自分の高校時代を思い出して、微笑んだ。
「じゃあ、先生は恋人っているんですか?」
「へっ?…恋人!?」
高校生だとこういう話題も出るのかと驚いた。
生徒たちは興味津々といった表情で目を輝かせている。
私はその期待に応えられず、正直に答えた。
「残念ながら…いないんだよねぇ~…。」
「えー!!じゃあ、昔はどうなんですか?大学とか高校とか!」
私は過去の事を聞かれて、吉田君のことを思い出した。
前までは思い出しても悲しくなるだけだったのに、最近は笑って思い返せるようになった。
私は期待している生徒たちの目を見て笑った。
「ないしょ。さ、次の授業あるよね。移動しましょう~!」
生徒たちが「えー!!」とブーイングしながら文句を言ってくる。
私はその背中を押すようにして音楽室から出る。
職員室に戻る廊下でもずっと質問攻めだったが、上手く躱して女子生徒たちとは階段で別れた。
私は一息ついて階段を下りていると、後ろから足音がして声をかけられた。
「先生!」
そこには私に手を貸してくれた男子生徒が立っていた。
確か川島君。下の名前は覚えていない。
彼は私の何段か上で立ち止まると顔をしかめて言った。
「さっきぶつけた所大丈夫ですか?」
私はまだズキズキする腰をちらっと見てから、平気な振りをして笑った。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。」
彼はホッとしたように表情を崩すと、一度頭を下げて走っていってしまった。
私は優しい生徒もいたもんだと嬉しくなった。
さっきのクラスはいい子達ばかりだった。
私は職員室に戻りながら、生徒名簿を開いた。
3年5組と書かれた名簿には35名の生徒の名前が記されている。
私は早く顔と名前を一致させようと、さっきの授業を思い出して一人ずつ当てはめていった。
そして職員室の前までそうして歩いていると、声をかけられた。
「沼田先生。そんなして歩いてると誰かにぶつかりますよ。」
私は顔を上げて声の主を見ると、首を傾げた。
見覚えのないイケメンが目の前に立っていたからだ。
誰…?
私は長めの前髪を横に流して、後ろ髪をゴムでまとめたその人に近寄って目を細めた。
「あれ?俺のこと分かりません?」
「…はい。どちら様ですか?」
「ひどいですねぇ~。昨日仲間になったばかりなのにぃ~。」
しゃべり方でハッと気づいた私はまさかと思った。
「野上くん…?」
「せいかーい!!本当は昨日、こうやってビシッと決めるはずだったんですよ~。」
昨日のだらしない格好にメガネの姿とは一変して、目の前の野上君は髪型こそチャラいもののシャツにネクタイとビシッと決めていて、できる先生を演出していた。
私は見た目を整えるだけでこんなにも変わるんだと驚いた。
そういえば今朝も遅刻してきていて、今日初めて会うなと思った。
「イケメンな俺に惚れてしまいましたか?いや~照れますねぇ~。」
「それはない。っていうか遅刻ばっかりして、どんな生活してるの?」
「冷たいなぁ~。生活は普通ですよ。毎日、授業のことを考えて頭を悩ませてて遅刻しちゃうんすよねぇ~。」
こんなに何も考えてなさそうな人が、授業に悩むとかあり得るのだろうかと信じられなかった。
「あ、そういえば今週末、俺たちの歓迎会を開いてくださるそうっすよ?
詳しくは教頭先生から連絡があると思うけど。おっと、チャイム鳴りそうっすね。じゃ!」
野上君は爽やかに手を上げて、授業のあるクラスへ走っていってしまった。
私はそれを見送ったあと、職員室に入ると教頭先生に声をかけられた。
「あ、沼田先生。ちょっと連絡があるんですが。」
「はい。」
私は職員室の扉を後ろ手で閉めると、教頭先生に駆け寄った。
「今週末の金曜日にあなた方新しい先生たちの歓迎会を開こうと思っています。
予定を空けておいてくださいね。」
「はい。分かりました。」
さっき野上君から聞いていたので、私は確認の感じで聞いた。
そして自分の机に戻ると、村井さんも空きなのか机に向かって何か書き物をしていた。
私は少し話がしたかったので、声をかけてみた。
「村井さん。」
村井さんは顔を上げると、かけていたメガネを外して私を見た。
「何?どうしたの?」
「さっき野上君を見たんだけど、昨日と全然違っててびっくりしたよ~!村井さんは見た?」
「………見たよ…。ちょっと驚いた。」
村井さんは何か思う事でもあるのか、目を逸らして俯いてしまった。
私は村井さんの様子が気になったが、構わずに続けた。
「でも2日連続で遅刻なんて野上君も自由人だよね~…授業で悩んでて遅刻するって本当なのかな…?」
「……私、その気持ち…ちょっと分かるかも。」
「え?」
村井さんから野上君を擁護する言葉が出たことに驚いた。
村井さんは相変わらず俯いたままだったけど、口調ははっきりしていた。
「生徒たちの将来を担う教科の担当だから、責任とか感じちゃって…何度もカリキュラムを見直したりして、夜寝るの遅くなっちゃうし…悩むっていうのはすごく分かる。」
それを聞いて村井さんも野上君も受験に必要な教科の担当だったと気づいた。
村井さんは国語、野上君は世界史。
ほとんど受験に必要のない私の音楽とは悩みの真剣度が違うのかもしれない。
でも、私だってカリキュラムで悩んだりする。
村井さんの言葉に少し棘が含まれている気がして、仕方なく笑って和やかに返した。
「そうだよね。人の悩みって、それぞれだしね。軽く言っちゃってごめんね。」
「沼田さんは音楽だから、あまり感じないよね。」
その言い方に私はカチンときた。
反論しようとしたが、出勤2日目で気まずくなりたくない。
私は文句を飲み込むと、「そうかもしれないね。」と返事して会話を終わらせた。
村井さんは私の態度が変わったのを気にしていないようで、またメガネをかけると書類を開いた。
私は行き場のない悔しさを胸に抱えて、気分が悪かった。
さっきの授業でぶつけた腰も痛くなってきて、妙にイライラし出して仕事が手につかなかった。
書きながら紗英が大人になったなぁ…と実感しました。
書き始めた当初は生徒の位置だっただけに、感慨深いです。




