20. 相対論的速度
■ 11.20.1
「いやホント、マジヤバイんっすから。頼んますよ、た・い・い・ど・の。」
トレイシーがEPAFのスラスタトラブルの後、虚空に投げ出され漂流中であることをハインリヒが告げると、一人艦橋に残って索敵と艦の操縦を担当していたジェラルドは、腹を抱えて大笑いした後にオルペウスを直接動かしてトレイシーを回収しに行くと言った。
スラスタトラブルの結果、まるでトップフィギュアスケート選手の演技ような超高速回転で酷い目に遭った後に、唯一の生存圏であるオルペウスからも離れていってしまったトレイシーの不運を目の当たりにしたハインリヒとしては、ゆっくりと回転しながら徐々に小さくなっていくトレイシーの姿は、我が身に置き換えて考えれば恐怖でしかなかったのであるが、コルベット艦を手足のように操ることの出来るジェラルドにしてみれば、さしあたって特に酸素の欠乏の心配もなくゆっくりと漂流しているだけの事に過ぎず、そして腕の良いパイロットにとってトレイシーを回収する事など朝飯前の軽作業でしかないのだと思い知らされた。
彼らが船外で作業している間中索敵を担当し敵の動向に神経を尖らせていたジェラルドにしてみればそんなことよりも、トレイシーを回収するために時間を消費する事で、刻々と接近しつつある敵艦とミサイルを回避する行動を起こすのがその分遅れてしまうことの方が遙かに大問題であると認識していた。
「0.5G程度でゆっくり加速するんで、その辺のもの何でも良いんでしっかり掴まっておいてください。」
ジェラルドに散々急かされながらハインリヒが使用していたEPAFを格納庫に片付けた後、エアロックに戻って外扉を閉じると、すぐにジェラルドからトレイシー回収のために艦を動かすと通信があった。
ハインリヒとウェイは言われたとおりにエアロック内部のあちこちに設置してある手摺りをがっちりと掴み、身体を固定する。
すぐに加速度が掛かるのを感じ、EASの足が壁面に付いたので、両足も使って身体を固定する。
加速による疑似重力はすぐに反転し、減速加速となった。
それもすぐに収まり、無重力へと戻る。
「追い付いたっすよ。間抜けな漂流遭難者をとっとと回収して、さっさとずらかりましょう。」
異星人の船への工作は終了している。
プラズマジェットエンジンと重力プラットフォームを取り付けられた残骸は、同じく船殻に取り付けられ、有線接続された制御ユニットからの指示によって勝手に地球を目指して動き始めるだろう。
あと数分もすれば、目立たないようにプラズマジェットを噴かし、稼ぎ過ぎてしまった速度を徐々に殺した後、地球へと向かうはずだった。
その傍らで、オルペウスはわざと目立つように重力推進を使用しファラゾアの注目を集めることで、こっそりと虚空を移動する残骸からファラゾアの注意を逸らす役割を果たさねばならない。
ウェイがエアロックの外扉を開けると、船体から100mほどのところをトレイシーのEASがゆっくりと回転しているのが見えた。
命綱を二つ付けたウェイが船体を蹴ってトレイシーに向かって跳び、回転するEASを抱き抱える様にして確保した。
ウェイが命綱の一本をトレイシーのEASに固定したところで、エアロック内に残っているハインリヒが命綱を二本まとめて引っ張り、二人を手繰り寄せた。
二人の身体がエアロックに入ったことを確認して、ハインリヒは命綱を離した。
すぐにウェイが外扉に取り付き、扉を閉めてロックを掛ける。
ハインリヒはエアロックに空気を導入するボタンを殴りつけるようにして押すと、トレイシーの元に駆けつける。
エアロックの中に浮くトレイシーのEASは、ヘルメットのバイザーが血で真っ赤に染まり中を覗き込むことも出来ない。
「トレイシー! おい、トレイシー! 返事をしろ。」
エアロック内部が空気で満たされたことを示す、ライトが白に変わるのももどかしく、トレイシーのEASのヘルメットを取った。
中から出てきたトレイシーの顔は血で真っ赤に染まっている。
自分のヘルメットを投げ捨てるように取ると、トレイシーの呻き声が聞こえてくるようになった。
「トレイシー、大丈夫か?」
「ああ、問題、ない。ぐるぐる回ってるときに、鼻血が出てな。うぅ、気持ち悪ぃ。多分、見た目ほど深刻じゃないと思う、ぜ。」
思ったよりもトレイシーの声に力があり、胸を撫で下ろす。
「トレイシーを回収した。」
「諒解っす。ちょっと時間押してるんで、急いで艦橋に戻ってきてください。」
「構わん。とりあえずは重力推進で敵に向かって全速だ。出せ。」
「諒解。AGG起動。こっちでやっとくんで、早めに戻ってきて欲しいっす。」
「オーケイ。ウェイ、手伝ってくれ。コイツのEASを脱がせる。」
「分かりました。」
「うぅ、畜生め。まだクラクラする。毎回こんなんばっかりだな、クソッタレめ。ぐるぐる回りながら宇宙の彼方に飛ばされるのは、もう懲り懲りだ。」
「良かったじゃないか、今回も助かって。つくづく悪運の強い奴だ。そもそもが、ローダー乗り換えろと俺が言ったときに素直に従っておけば、こんな面倒な事にもならなかったんだ。」
「ああ、悪かったよ。次は言う事を聞くよ。」
トレイシーのEASを脱がせて、特に外傷がないことを確認してから、三人でEPAF用のターミナルスーツ(TIS:Terminal Inner Suit)も脱ぎ、艦内用のボーディングスーツに着替える。
トレイシーは、その場で見た限りでは鼻血を出した以外には特に問題となりそうな怪我はしていなかった。
ヘルメットの内部など血がべったりと付いていて、拭き取らねば次に使うことが出来ないほどであったが、その整備と掃除はトレイシー本人に任せ、ハインリヒは急ぎ艦橋へと向かった。
「トレイシーは大丈夫のようだ。鼻血が出ただけだ。一安心だな。状況は?」
航海士席でHMDを着けているジェラルドに声を掛けながら艦長席に座る。
「血の気が多い分、ちょっと抜けてちょうど良いんじゃないすかね。本艦現在1500Gにて加速中。機関問題なしっす。針路は敵ミサイル、駆逐艦とヘッドオン。敵ミサイル三十発、52分後に接触予定。互いにこのまま加速すると、接触時の相対速度はなんと176000km/s。0.6光速 っすよ、0.6光速。なんかもうワケ分かんないっすよ。」
自分の足で歩いて4km/h、走ったとしても30km/h程度、車を飛ばしたとしても30m/sがせいぜい常識的な範囲である一般的な地球人類にとって、18万km/s、即ち0.6光速という速度は未知の領域などという生易しいものではなく、数字の字面以外全く理解の追いつかない速度であった。
もちろん、その様な速度の中で戦闘機動を行った者は人類史上これまで存在しない。
「駆逐艦の方は?」
「駆逐艦は0.2光速以上は出さないって話なんで、かなり後になるっすよ。減速せずにすれ違うなら約140分後、減速してこちらに合わせるなら220分後っす。こっちの動きに合わせて向こうも動きを変えてくるでしょうから、あくまで目安っすよ?」
「いずれにしても、対策を考えなきゃならんな。しかもすぐに。」
あらゆる意味で人類がこれまで経験した事のない戦いに臨もうとしている。
これまで人類史上行われた無数の戦いの経験が、全く当てにならない。
「それなんすけどね。ちょっと考えがあってね。」
「聞こう。」
どうやらジェラルドは、船外活動組を待つ間の時間で色々と自分なりに対策を考えていた様だった。
「本艦に搭載されているグングニルミサイルを四発、使わして貰えませんかね? ミサイル三十発は、相対速度0.6光速でこっちに突っ込んで来るっす。その前面に、煙幕代わりにミサイルをばら撒くんすよ。タイミングを合わせて激発してやる事で、運が良ければ何発か巻き込まれて消えるでしょうし、そうで無くともこっちのミサイルを避けるために軌道を変えてくれりゃ、そこに突っ込む隙が出来ると思うすよ。
「計算じゃ、ざっくり接触3分ちょい前くらいにグングニル撃って、前方30万km弱位んトコで激発させるっす。1.5秒じゃ、多分ファラゾアのミサイルは向きを変えきれないんで、付け入る隙が出来る、筈っす。」
「敵のミサイルは生体脳(CLPU)じゃなくて、電子脳(CEPU)しか積んでないって話だぞ? ミサイルはトロくない筈だが。」
「いや、反応速度の遅さでなくて、高速すぎて曲がりきれない方を期待してんですよ。スピード出しゃいいってモンじゃないすからね。」
「ふむ。詰まりは、本艦を操縦しているお前は、その1.5秒で敵のミサイルの動きを読んで活路を見出し、そこに艦をねじ込む、という訳だな。」
「キビシイっすけどねー。流石に敵のミサイルもアホじゃ無いんで、何もせずにこのまま真っ直ぐ突っ込んだら確実にやられるでしょ。多分それよりゃマシっしょ?」
「レーザーで迎撃は・・・無理だな。」
「そうすねー。うちらのレーザー、公称射程が10万km程度なんで。当てても爆発しながらそのまんま着弾してくるでしょうしね。」
「ザックリだが、だいたい分かった。まだ時間がある。タイミングの計算しておけ。二人が戻ってきたら、奴等の意見も聞いてみよう。」
「諒解っすー。」
前方から刻々と接近してくるミサイルを躱すために、ジェラルドが考えた案はだいたい理解できた。
こちらより遙かに加速性能が良いミサイルを躱すためには、多少の危ない橋も渡らねばならないだろう事は理解できている。
最大の問題は、相対速度が余りに速すぎて、僅かコンマ一秒の差が大きな差となって結果に反映されてしまうことだった。
「良いんじゃねえか。つか、それ以上に良い手ってのは俺にゃ思いつかんよ。」
血だらけの顔を洗って綺麗にして、いくらか残っていた目眩も収まったトレイシーが艦橋に戻ってきたのは、敵のミサイルと交錯する僅か二十分ほど前だった。
COSDER画面には、距離も近くなり、その上GDDが艦前方に指向性を上げてスキャンしているため、ゆっくりと不気味に真っ直ぐ接近してくるミサイルのマーカがはっきりと表示されていた。
ゆっくりとはいえ、それはあくまでモニタ上のことであり、実際にはすでに0.5光速近い相対速度で急速に接近している。
「俺も思いつきません。お任せします。」
と、ウェイも肩を竦めた。
「オーケイ。じゃあジェラルドの案で行く。タイミングが相当シビアだが、手動操縦で大丈夫か?」
一瞬のうちに状況を読み取って判断し、そして一瞬の遅れもなく繰艦せねばならない。
人間が手動操縦で反応できる限界と言って良かった。
「いや、むしろ自動操縦には任せられないすよ。ちょっとした見込み違いにも瞬時に対応しなきゃならんので。」
「なるほど。確かにその通りだ。分かった。頼りにしてるぞ。」
「任せてくださいっす。絶対に生きて帰るっすよ。俺っちこの作戦が終わったら彼女に結婚申し込むんすから。」
「おい馬鹿やめろ。」
「いやお前今彼女いねえだろ。こないだ振られたっつったじゃねえか。不成立だ。」
「ヤケクソのお約束で言ってみたっすー。厄落としっすよ、厄落とし。」
「馬鹿野郎。この艦に乗ってる限り一蓮托生だぞてめえ。」
「・・・皆さんいつもこんな調子なんですか?」
人類史上初の条件下での命を掛けた戦いを前にしてなお、じゃれ合いを続ける三人にウェイが呆れた様な声を出す。
勿論、それは誰も経験した事の無い戦いに挑む極度の緊張を和らげるための軽口であったり、或いは分の悪い戦いに対する恐怖を自分自身にさえ気付かせない様に誤魔化すための無理して作った陽気な雰囲気であったりするのであろう事は、ウェイにもよく分かっている。
例えそうだとしても、急速に接近する死の恐怖に対して、誰一人として声を震わせるでも無く、恐慌に陥るわけでも無く冗談を飛ばし続けるこの三人の胆力にこそ呆れていた。
自分を除いた三人が、どう考えても戦闘向きとは言えない貧弱な性能のOSVを駆り、実戦に投入されたばかりの桜花シリーズミサイルを巧妙に使用して、地球人類史上初のファラゾア戦艦撃沈という大きな功績を挙げたチームである事はよく知っている。
攻撃に成功した後、飛び散ったデブリとの衝突でOSVが制御不能に陥り、意識を失った乗務員を乗せたOSVは軌道を外れて深宇宙に向かって漂流したものの、回転するOSVのコクピット内部を飛び交った様々な備品の一つが運良く緊急救難信号発信ボタンを叩き、その上さらに幾つもの幸運な偶然が重なった結果、無事救助されて地球に帰還した事も。
例え偶然の積み重ねとは言え、絶体絶命の状況でも生存を手繰り寄せる強運と、絶対的に不利な状況であろうとも僅かなチャンスがあれば仇敵の撃破を狙う不屈さ、そして生命の危機に際してなお萎縮せず恐慌に陥るわけでも無い鋼の様な精神。
歴戦の熟練兵とはこの様な者達の事を言うのだろうと、ウェイはじゃれ合いを続ける三人を眩しそうに眺めた。
この時、ファラゾアミサイルの速度は約0.5cで、オルペウスが0.1c、ヘッドオンで接近するため、ジェラルドは単純に足して0.6cと言っている。いずれも、太陽系座標(太陽系の中心位置(≒太陽の位置)をゼロとした位置関係)での速度を基にした単純計算であり、相対性理論による時間の遅延が発生する為、厳密には誤り。実際にオルペウスから見たファラゾアミサイルの速度は、特殊相対論の速度合成式に当て嵌めると、(0.5c+0.2c)/(1+0.5c*0.2c/c^2) = 0.7c/(1+0.1c^2/c^2) = 0.7c/(1+0.1) = 0.636c となる。
まあぶっちゃけ、0.7cだろうが、0.64cだろうが、人間の知覚ではどうしようも無い相対速度という意味においても、はっきり言ってたいした差は無いが。w
ちなみに、0.2cで航行する宇宙船上の時間の遅延は、 dt' = SQRT(1-(0.2c/c)^2)*dt = 0.9797dt となり、約2%程度の時間の遅れが発生している。これくらいならまあ、無視して良いレベルと思われる。
某運送会社&警備会社の社長の様な船上生活者が、年中全開0.2cで飛び回ってると、年間数日の差が発生してちょっと困っちゃう程度。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
・・・いかん。今回で戦闘に突入しようと思ってたんだけど。
次回こそ必ず。
あ。計算とか間違いあったら遠慮なくご指摘下さい。




