第四話 零落と後悔の奈落
私の三年は、まるで坂道を転がり落ちる石のようだった。
あの日、湊が私の人生から消えてしまった日から、私の世界は色を失い、音をなくし、ただただ転落を続けている。
湊がいなくなり、全てのライフラインが止まったあのアパートに、私は長くはいられなかった。管理会社からの度重なる督促に耐えきれず、わずかな荷物だけをまとめて夜逃げ同然に部屋を飛び出した。頼れる人なんて、どこにもいなかった。
震える手で、最後に縋ったのは龍牙だった。
「助けて! 湊くんがいなくなっちゃって、家も追い出されそうなの!」
電話口で泣きつく私に、彼は心底面倒くさそうな声でこう言った。
「は? マジで? それ、俺に関係ある? つーか、そういう重いの無理だから。じゃあね」
プツリ、と一方的に切られた電話。それきり、彼から連絡が来ることは二度となかった。私にとって彼は「火遊び」の相手だったかもしれないが、彼にとって私は、暇つぶしのための使い捨ての玩具にすらなっていなかったのだ。
両親は遠い田舎で暮らしており、勘当同然で上京してきた私には、今更「助けて」と泣きつくことなどできなかった。かつてはあれほどいた友人たちも、私の落ちぶれた姿を見るや、潮が引くように一人、また一人と離れていった。彼らが求めていたのは、明るくて人気者の「天唄響歌」であって、金も住む場所もない、ただの惨めな女ではなかった。
結局、私は高い学費を払うことができず、大学を中退した。生きるためには、働くしかなかった。何のスキルも学歴もない私が選べた仕事は限られていた。昼はコンビニのアルバイト、そして夜は……キャバクラのキャスト。最初は抵抗があったけれど、日々の生活費と、いつか湊が帰ってきたときのために貯金をしなければという強迫観念が、私のプライドを麻痺させた。
都心からいくつも電車を乗り継いだ先にある、古びた木造アパートの一室。それが、今の私の城だった。隙間風が吹き込み、壁の薄いその部屋で、私は毎晩のように同じ夢を見る。
湊が「ただいま」と帰ってくる夢だ。彼はいつものように少しはにかんで、「響歌、おまたせ」と微笑む。私は彼の胸に飛び込んで、「どこに行ってたのよ、心配したんだから!」と泣きながら彼を責める。すると彼は、「ごめんごめん」と私の頭を優しく撫でてくれるのだ。
しかし、そこでいつも目が覚める。私を包むのは、湊の温かい腕ではなく、冷たく湿った安物の布団だけ。あまりの現実に、声にならない嗚咽が漏れる。朝が来るたびに、私は絶望を新たにしていた。
そんなある日、休憩中にスマホをいじっていた私の目に、衝撃的なニュースが飛び込んできた。
『アパレル大手「Sumeragi Style」創業家御曹司、皇龍牙氏を懲戒解雇。巨額の損害賠償請求へ』
記事を開くと、そこには信じられないような内容が綴られていた。龍牙の会社経費の不正利用、複数の女性とのトラブル、そして会社の機密情報漏洩。彼の悪行が、これでもかというほど赤裸々に暴かれていた。記事に添えられた彼の写真は、逮捕された犯罪者のように憔悴しきっていた。
会社をクビになり、父親に勘当され、多額の借金を背負わされた彼は、今や社会的な信用も財産も全て失ったという。
自業自得だ。私をあんなにも無下にあしらった男の末路なんて、どうでもいい。そう冷たく思う一方で、私の背筋をぞっとするような悪寒が駆け上がった。
タイミングが、良すぎる。
まるで、誰かが周到に準備して、完璧なタイミングで彼の破滅の引き金を引いたかのようだ。
その「誰か」の存在を想像したとき、私の脳裏に、三年間一度も忘れたことのない彼の顔が浮かんだ。
――湊。
まさか。そんなはずはない。あの優しかった湊が、こんな残酷なことをするはずがない。でも、もし、あの日の裏切りが、彼の優しさの奥底に眠っていた何かを呼び覚ましてしまったのだとしたら?
私を捨てたあの完璧な手際。自分の存在を跡形もなく消し去った、あの冷徹な計画性。それと同じ匂いが、龍牙の破滅から感じ取れた。
龍牙を破滅させた「何か」が、すぐそこまで迫っている。次は、私の番なのではないか。得体の知れない恐怖が、心臓を鷲掴みにするようだった。
その日から、私はまるで何かに憑かれたかのように、街を彷徨い歩くようになった。湊の影を求めて。私たちの思い出が染みついた場所を、巡礼者のように辿って。
二人でよく通った、駅前のカフェ。窓際の席に座り、何時間もくだらない話をした。
初めてキスをした、夕暮れの公園のベンチ。彼の照れた顔を、今でもはっきりと覚えている。
そして、二年記念日に行くはずだった、あの高級ホテルの前。いつか、二人で泊まりたいね、なんて笑い合った場所。
その日も、私は吸い寄せられるように、そのホテルの前に立っていた。きらびやかなエントランスを出入りする、幸せそうなカップルや家族連れ。自分が場違いな存在であることは、痛いほどわかっていた。みすぼらしい服装、疲れ切った顔。ショーウィンドウに映る自分の姿は、三年前の私とはまるで別人だった。
自嘲気味に踵を返そうとした、その時。
ホテルの回転扉から出てきた人物に、私の目は釘付けになった。
嘘。
見間違えるはずがない。少し大人びて、洗練されてはいるけれど、あのまっすぐな背中、歩き方の癖。
「……みなと?」
掠れた声が、喉から絞り出された。
そこにいたのは、紛れもなく湊だった。
高級そうな仕立ての良いスーツを完璧に着こなし、髪は上品に整えられている。その隣には、知的で、息をのむほど美しい女性が寄り添い、親密そうに彼に話しかけていた。湊は、私が一度も見たことのないような、自信に満ちた穏やかな表情で、彼女に微笑み返している。
私が知っている、少し頼りなくて、いつも私の後ろをついてくるような、あの湊じゃない。
住む世界が違う。別次元の人間だ。
彼が放つ輝きが、あまりにも眩しくて、私の惨めな現実を容赦なく照らし出した。
気づけば、私は彼に向かって駆け出そうとしていた。
「待って!」
その名を叫び、その腕に縋りつきたい。謝りたい。もう一度、やり直したい。
しかし、ホテルのガラスに映った自分の姿が、私の足を縫い付けた。
色褪せたTシャツに、履き古したジーンズ。夜の仕事で荒れた肌。光を失った、虚ろな目。
隣にいる、まるで宝石のように輝く女性と、泥にまみれた私。
あまりにも違いすぎて、笑いさえこみ上げてきた。
今の私が、彼の前に出て行って、一体何が言えるというのだろう。
「ごめんなさい」? 遅すぎる。
「やり直したい」? どの口が言うのか。
「助けて」? 私は彼を奈落の底に突き落とそうとした張本人なのに。
湊は、私の存在に気づく様子もなく、隣の女性と楽しそうに言葉を交わしながら、ゆっくりと私から遠ざかっていく。その背中が雑踏に紛れ、完全に見えなくなる。
その瞬間、私は、自分が本当は何を失ったのかを、骨の髄まで、魂の芯まで、理解した。
私が捨てたのは、ただの優しい彼氏じゃなかった。
私の全てを許し、包み込み、未来の全てを捧げようとしてくれていた、かけがえのない愛情そのものだった。
私の軽率な裏切りが、彼の純粋な心を冷徹な刃に変え、龍牙を破滅させ、そして、この私自身を、救いのない後悔という名の奈落の底へと突き落としたのだ。
「あ……あぁ……」
声にならない嗚咽が、喉の奥からせり上がってくる。足から力が抜け、私はその場にへたり込んだ。行き交う人々が、訝しげな視線を私に投げかけるが、もうどうでもよかった。
もう遅い。
何もかもが、手遅れだったのだ。
私が夢見ていた「いつか湊が帰ってくる日」は、永遠に来ない。
彼にはもう、新しい人生があり、新しいパートナーがいる。彼の世界に、私の居場所はもう、どこにもない。
この事実は、死よりも残酷な罰として、これからの私の人生に永遠に付きまとうのだろう。
涙が次から次へと溢れ出し、アスファルトに染みを作っていく。
私はただ、湊が消えていったその先を、いつまでも見つめ続けることしかできなかった。




