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第一話 崩壊のプレリュード

午後の講義が始まるチャイムが、初夏の気怠い空気を孕んでキャンパスに響き渡る。僕は教授に軽い頭痛を訴え、大きな講義室をそっと抜け出した。もちろん、頭痛なんて嘘っぱちだ。僕、夜凪湊よなぎみなとの頭の中は、今夜のことだけで埋め尽くされていた。


今日は、六月十五日。僕と彼女、天唄響歌あまうたきょうかが付き合い始めて、ちょうど二年の記念日だった。


いつもバイトやサークルで忙しくしている彼女を、ささやかに祝ってやりたい。そんな思いつきが、僕を大学から早退させた。駅前のこじゃれたパティスリーに寄り、ショーケースに並んだ宝石のようなケーキを眺める。響歌が好きないちごをふんだんに使ったタルト。ホールで買うのは少し気恥ずかしかったが、店員の「記念日ですか?」という優しい問いかけに、僕は小さく頷いてしまった。


「はい、まあ……そんなところです」


白い箱に赤いリボンをかけてもらい、少しだけ浮ついた心で店を出る。早く帰って、部屋の掃除をして、彼女が好きだと言っていたハーブティーを淹れて待っていよう。僕たちのささやかで、けれど何よりも大切な日常。その延長線上にある、小さな特別。それだけで、僕の心は満たされるのだ。


幼い頃に両親を亡くし、町工場を営んでいた祖父に引き取られた。その祖父も数年前に他界し、僕には天涯孤独という言葉が重くのしかかった。けれど、事業を整理した際に想像以上の遺産が手元に残り、経済的な不安だけは僕の人生から取り除かれた。そのことは響歌には話していない。特待生として大学に通い、時々バイトをする普通の苦学生。それが彼女の知る僕の姿だ。彼女が僕の財産ではなく、僕自身を愛してくれているという事実が、僕の唯一の拠り所だった。


響歌と出会って、僕の世界は色を取り戻した。太陽みたいに笑う彼女が隣にいるだけで、灰色だった日常が鮮やかな色彩を放ち始めた。将来は弁護士になって、彼女を一生支えていく。それが僕の夢であり、揺るぎない目標だった。


最寄り駅からアパートまでは、歩いて十分ほど。二人で手を繋いで何度も歩いた道。道端に咲く紫陽花の色が去年より濃いとか、新しくできたコンビニは便利だとか、そんな他愛もない話をした記憶が蘇る。僕たちの未来は、この道の先にあるアパートの一室から、どこまでも明るく続いていると信じて疑わなかった。


アパートの前に着き、ポケットから鍵を取り出す。いつもなら響歌はまだ大学にいる時間だ。静まり返った部屋で、一人サプライズの準備をする自分の姿を想像して、自然と口元が緩んだ。


カチャリ、と鍵を開けてドアノブに手をかける。


「ただいま」


誰もいないはずの部屋に、無意識に声をかけた。


しかし、その瞬間、僕は玄関に立ち尽くすことになる。

靴箱の横に、見慣れない男物のスニーカーが脱ぎ捨てられていた。やけに派手なデザインで、僕の趣味とはかけ離れている。共通の友人の誰かだろうか。いや、響歌は友人を連れてくるとき、必ず事前に連絡をくれるはずだ。


胸をざわつかせながら、一歩、部屋の中に足を踏み入れる。しんと静まり返っている。だが、その静寂はいつものそれとは明らかに異質だった。空気が重く、粘りついているような、嫌な感覚。


耳を澄ますと、奥の寝室から、かすかに衣擦れのような音が聞こえた。そして、それに混じって、押し殺したような、吐息が。


「……んっ」


それは、間違いなく響歌の声だった。

どうして、寝室に? こんな時間に? 一緒にいるのは、誰だ?

思考が追い付かない。足が鉛のように重くなり、その場に縫い付けられたようだった。手にしたケーキの箱が、じっとりと汗ばんだ手の中で傾く。


次の瞬間、僕の耳に、決して聞きたくなかった言葉が、ナイフのように突き刺さってきた。


「んっ…ぁ、龍牙ぁ…もっと、そこ、だめぇ…」


蕩けるように甘く、それでいて切なげな響歌の喘ぎ声。龍牙。その名前に聞き覚えがあった。同じ大学の、派手なグループにいる男だ。どうして、その男が、僕たちの寝室に。


「ははっ、響歌ちゃん、マジ最高。彼氏いるのにもったいねぇな」


低く、嘲るような男の声。皇龍牙すめらぎりゅうが。女癖の悪さで有名な、あの男だ。

頭の中で何かが砕け散る音がした。怒り? 悲しみ? いや、そんな生易しいものじゃない。僕が二年かけて築き上げてきた世界そのものが、ガラガラと音を立てて崩壊していく。


そして、とどめの一撃が放たれた。


「湊には…バレないから、だいじょぶ…」


大丈夫。

その言葉が、僕の心臓を内側から食い破った。大丈夫だと? 何が? 僕が何も知らずに、この後「記念日おめでとう」なんて馬鹿面を下げてこの部屋に帰ってくることが、お前にとっての「大丈夫」なのか。


全身の血が逆流し、頭に集まっていくような感覚。視界が赤く染まり、耳鳴りが激しくなる。怒りで叫び出しそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に堪えた。ここで騒ぎ立てて、何になる? この二人を問い詰めて、みっともなく泣き喚いて、それで何が残る?


違う。そんな結末は、僕が望むものではない。


ふっと、頭の中の熱が急速に冷えていくのを感じた。怒りも、悲しみも、絶望も、全てが混ざり合い、やがてそれは絶対的な無へと収束していく。僕の心は、凍てついた湖面のように静まり返っていた。


僕は、手にしていたケーキの箱を、音を立てないようにそっと玄関のたたきに置いた。赤いリボンが、やけに虚しく見えた。


そして、身を翻すと、靴を脱ぐことなく、書斎として使っている隣の六畳間へ入る。ここは僕の聖域だった。法律関係の専門書が壁一面を埋め尽くし、大きなデスクの上にはラップトップが一台置かれている。


僕は椅子に腰かけると、慣れた手つきでラップトップを開いた。カタカタ、と静かな部屋にキーボードを叩く音だけが響く。


まずは、大学のポータルサイトにログイン。学籍情報が記載されたページを開き、迷うことなく「退学届」のリンクをクリックした。理由は一身上の都合。送信ボタンを押す指に、一切の躊躇はなかった。弁護士になる夢? 響歌を支える未来? 全ては、あの嬌声を聞いた瞬間に消え去った。


次に、スマートフォンのキャリア会社のウェブサイトを開く。契約者情報を入力し、即日解約の手続きを進める。本人確認のSMSが届き、それを入力する。これで、明日にはこの番号は使えなくなる。響歌からの連絡手段は、一つ断たれた。


立ち上がり、クローゼットの奥に隠していたビジネスバッグを取り出す。中に入っているのは、祖父から相続した遺産に関する全ての書類。複数の銀行の通帳、不動産の権利証、そして、パスポート。引き出しから、当座の資金として保管していた現金数百万を掴み、無造作にバッグに詰め込む。


机の引き出しを開けると、小さなベルベットの箱が目に入った。去年のクリスマスに響歌へプレゼントしたネックレスだ。彼女の笑顔が見たくて、バイト代を何か月も貯めて買った、僕にとっては宝物だったもの。

僕はその箱を手に取ると、感情のこもらない動きで、デスク脇のゴミ箱へと投げ捨てた。カサリ、と乾いた音がした。


最後に、もう一度ラップトップに向かう。このアパートの賃貸契約者も、僕だ。管理会社のウェブサイトから、契約者専用ページにログインし、解約通知のフォームを開く。退去希望日は、最短の一か月後。違約金が発生するが、そんなことはどうでもよかった。必要事項を全て入力し、送信ボタンを押す。


これで、終わりだ。


全ての作業を終え、僕は静かに立ち上がった。ビジネスバッグを肩にかけ、書斎を出る。リビングのテーブルの上には、響歌が昨日買ってきた花が飾られている。僕たちの平和な日常の、残骸だ。


僕はポケットから鍵束を取り出し、そこからアパートの合鍵を一つだけ外す。そして、それをリビングのテーブルの真ん中に、静かに置いた。カチャリ、という小さな金属音が、この部屋で僕が立てた最後の音になった。


玄関のドアに向かう。

ドアノブに手をかけようとした、その時。


「んくっ…ぁあッ! も、だめ、いっちゃ、うぅ…!」


再び、寝室から響歌の絶頂を告げる声が漏れ聞こえてきた。

僕は一度だけ、固く目を閉じた。脳裏に、彼女と出会ってからの二年間が走馬灯のように駆け巡る。初めて手を繋いだ日のこと。二人で見た映画のこと。僕の作った下手な料理を「美味しい」と笑ってくれたこと。その全てが、今聞こえてくるこの声によって汚され、踏みにじられていく。


目を開くと、そこにはもう何の感情も映っていなかった。


静かにドアを開け、外に出る。振り返ることはしない。自分の手で、ゆっくりとドアを閉めた。オートロックがかかる重い音が、僕とあの部屋を永遠に隔てた。


アパートを見上げることもなく、僕は駅へと向かって歩き出す。記念日のためのケーキも、二人の思い出も、未来への夢も、全てあの部屋に置いてきた。


天唄響歌の世界から、夜凪湊という人間は、今日この瞬間、完全に消滅する。


僕の人生を汚したゴミは、僕自身の手で、完璧に処分しなくてはならない。

これは、復讐じゃない。ただの、後始末だ。

冷たい決意だけを胸に、僕は雑踏の中へと姿を消した。

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