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目が覚めたらお兄様になってしまった⁉ とある伯爵令嬢入れ替わり騒動記  作者: 武州青嵐(さくら青嵐)


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9話 やつの勘を信じてみないか?

「美味しそうなサンドイッチですね! お兄様とはいつもここで?」

 慌てて話題を変えます。


「休日たまに……だがな。なんかこう、今日は食堂って気分じゃないなってときにふたりで来て、ここで喰うんだ」

「そうなんですね。いただきます」


 包紙を剥くと、薄皮のようなクロワッサンの表面がぱらりと落ちました。濃いバターの香りが鼻先をくすぐります。


「私、こんなに大きなサンドイッチをいただくのは初めてかも……」

「そうなのか?」


 すでにぱくりと一口食べたらしいルシウスが目を丸くしています。私は頷き、わくわくした気持ちでクロワッサンを見つめます。


 はさんであるのは、香辛料たっぷりのハムとチーズ。それにレタスとトマトのようです。


 どこから……食べようかと迷った末に、できるだけ大きく口を開いて、頭頂部からぱくりと噛みつきました。


 かしゅ、と小気味よい音をたててクロワッサンが崩れます。はらり、はらり、と表面が剥離しました。


「あわわわ……」


 片手でクロワッサンを持ち、片手で膝の上に落ちるクロワッサンの表皮(?)を払います。はは、と軽い声が聞こえて目だけ向けると、ルシウスが笑って私の膝を一緒に払ってくれていました。


 私はもう、消え入りたい気持ちでしたが。


「おいしい……」

 恥ずかしい気持ちも吹っ飛びました。


 みずみずしいトマトとレタス。ぴりりと感じるのはコショウでしょうか。香辛料のおかげで、ハムはまったくいやなにおいがしません。


 もぐもぐと噛むと、チーズの濃厚な味が口内に広がりました。それがまた、野菜たちの味を邪魔しないのです。ドレッシングでしょうか。チーズの濃さをうまく中和させているような気がします。


「うまいか?」

「はい!」


 大きく頷いて……。

 私はつい。

 動きを止めてしまいました。


 と、申しますのも……。

 隣にいるルシウス。


 彼が。

 とてもやわらかく微笑んで。

 満足そうにみつめてくれていたからです。


「……どうした?」

「な、なんでもありません!」


 あまりにぶしつけに見つめ続けたのかもしれません。 

 ルシウスがいぶかし気に首を傾けます。


 私は慌てて。

 そして熱くなる頬を隠すようにクロワッサンに噛みつきました。


 かしゅ、と。

 あの軽やかな音と、バターの豊潤な香り。チーズやハムたちに癒されます……。


 おいしい。

 ようやく心が落ち着いたころには、もう食べきってしまいました。


「ほれ」


 不意に声をかけられ、なんだろうと顔を向けると、ルシウスがゴブレットを差し出してくれるところでした。


 私は礼を言い、クロワッサンを包んでいた紙を膝の上に載せました。

 両手で受け取ります。

 どうやらお茶のようです。


 こくりと喉に流し込むと、あまり上等とはいえない茶葉です。ですが、はちみつが混ぜられているのかもしれません。甘みも手伝って身体中に水分がいきわたる気持ちです。


 つい勢いづいて全部飲み干し、ほう、と一息ついていると、ルシウスが咳払いします。


「ローゼリアン……じゃない、レイン」


 人前なので、お兄様の名前で呼ばれます。なんでしょう。ぱちぱちと目をまたたかせると、ルシウスは、自分の口元を指さしました。


「ついてる」

「まあ」


 なんとはしたない。

 顔から火がでるとはこのことです。


 クロワッサンのあの軽やかな表皮がついているようです。

 慌てて指でぱたぱたと口元を叩いていると、不意に日がかげりました。


 ふわりと空気が移動します。

 顔をむけると、ルシウスです。


 私に顔を近づけてくるではないですか……!

 私たちにはほとんど距離というものがなく……。


「じっとしてろ」


 そもそも硬直して動けません!!!

 お、お兄様でもこんなに近づいたことはありませんよ⁉


「ほれ」


 だけどなんのてらいもなく、ルシウスは私の口元からクロワッサンの欠片をとってくれたようです。


「兄弟かしら」

「仲いいわねぇ」

「絵になるわぁ」


 遠巻きに見ていたらしい方がたからそんな声が聞こえてきました。

 ……そうです。

 私はいま、お兄様なのですから。


 男同士! 男同士なのです、ルシウスとは!


「あ、ありがとうございます」

「なんの」


 ほら、ルシウスだってなんとも思っていない顔です。ベンチの背もたれに上半身を預けたから、ぎしりときわどい音がいたしました。


 私は気持ちを入れ替えようとしてふるふると首を横に振って……。

 気づきました。


「お金!」


 ぴょこんと飛び上がってしまったから、ルシウスがびっくりしてこっちを見ていますが、それどころではございません!


「お代を支払っておりません! えっと……! お兄様のお金! どこにあるのかしら……!」


 ぱたぱたと軍服の上からいろんなところを叩いたりさわったりしましたが、コインどころかお金の気配もありません!


 そうか……。食堂で食べればお金は使わないから……!

 基本的にあの官舎にて生活していればそんな必要はないのかも! だからお兄様もその辺のところは……。


「別にこれぐらいかまわん」

 一人冷汗を流していたら、ルシウスが飄々とおっしゃいます。


「かまいますでしょう⁉」

「名店に連れて行ったのならそうなんだろうが……。屋台じゃないか。別にかまわん。なんなら、入れ替わってからレインに請求する」


「そ……そうなさってくださいませ。兄には私のほうから手紙ででも知らせておきます」


 へなへなとベンチに座り込みました。


「手紙? なんで面と向かって言わんのだ?」

「いや、だって……。もうお兄様と会うことはございませんでしょう?」


 ほっとしたから、ついまた余計なことを言ってしまいました。


「五日が過ぎたら私はこの世からいなくなります。ですから、官舎に戻ったら……」

「ローゼリアン」


 ぐい、と手首をつかまれ、私は息を呑みます。

 気づけばルシウスが真剣な面持ちで私を見つめていました。


「俺やレインがお前を守ってやる。必ずだ。だからあきらめるな」


 あき……らめる。

 私はルシウスの言葉を咀嚼します。


 あきらめて……いるのでしょうか。

 私は。


 ふと鼓膜が撫でる声が、頭のうちをざらりと撫でました。


『死ねばいいのに。死ね死ね死ね死ね死ね死ね』


 誰の声なのか……。

 悪鬼でしょうか。いえ……なんだかこの声に聞き覚えが……。


 私は慌てて首を横に振ります。


 いえ。

 悪鬼などではありません。ましてや、誰かの声でも。

 自分でわかっているのです。


「兄は……呪詛のせいだと思っているようですし、私もこの世にそういった不思議なことがあることは否定しません。現にほら、このように入れ替わったわけですから」


 ルシウスが私の手首を握っているからなのでしょうか。

 とても暖かい力が、そこから注ぎこまれているようで。

 だから私は饒舌になります。


「ですが……。私の不調はおなかにできたしこりのせいだと思っています。そしてそれは超自然現象的な何かではなく、医療というもので説明できるものだと思っているのです」


 おなか……というか、右わきにできたおおきなこぶ。

 最初は豆粒のようなものだったと思います。いぼかと思いました。


 それが次第におおきくなり、手で押すと、ぶよぶよとしております。いまではくびれ全体を覆うほどになりました。


「なにが正しいのかは、俺だってわからん。だがな、あきらめるな。生きることに関しては簡単にあきらめてはいかん」


 私を見つめるルシウスには、彼の手と同じぐらいの熱量がございます。


 だから。

 彼にみつめられると、胸まで。心までじんわりと温かくなっていきます。


 ああ、なるほど、と私は実感いたしました。

 兄がなぜ、この方を私の側に置いてくださったのか。


 彼はとてもやさしく、良い人なのです。


「……そう、ですね」

 だから私はこっくりとうなずくことができました。


 ええ。

 これは本心です。

 誰だって死にたいわけじゃない。


 だけど。

 長い年月をかけて、あきらめるように仕向けられるのです。病によって。

 周囲の目によって。


「おい、泣くな」

「え?」


 彼に言われてはじめて気づきました。

 私はどうやらボロボロと涙を流していたようです。


「す、すみません」


 慌てて顔を背けると、ルシウスが手を離してくれます。なので、ハンカチを探したのですが、あいにくとそれもありません。


 どうしましょう。そ、袖でも拭いましょうか。

 ためらっていたら、目の前にハンカチが差し出されました。


「あ……」


 ルシウスです。

 彼がぶっきらぼうな態度で突き出しています。


「ありがとう、ございます」


 受け取り、目元を抑えながらも、なんだか次第に笑いがこみ上げてまいりました。


「私、ルシウスに謝るかお礼を言ってばかりですね」

「そうだな」


 ルシウスも苦笑いし、座面に置いていたゴブレットを口元に運んでいます。


「なあ」

「はい?」


「信じられないかもしれないが、ここは仮定してみないか?」

「仮定、ですか」


「ああ。俺はレインの人間性には時折疑問を感じるが」

「おっしゃる通りです」


「やつの勘は信じている」

「勘……ですか」


 ルシウスは大きく頷いた。


「士官学校時代の野営訓練でもそうだ。あいつは、ここぞというときの勘だけは抜群だ。判断を間違ったことがない。そいつが、『これは呪詛だ』と確信し、事実君とやつは入れ替わりに成功した」

「呪詛かも……しれない、と」


 そう仮定して考えてみよう、ということ。なのでしょう。




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