7話 噂の的
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絶望を表現せよと言われたら、いまのレイン……いや、ローゼリアンのようになるのではないかという感じで、トイレから出て来た。
「ちゃんとできたか」
一応確認する。「はい」とうなだれたまま返事された。
「結局……」
立ってしたのか、座ってしたのか。
尋ねてみようとしたら、すごい目でにらまれた。そうだな。別にどっちでもいいし、寝間着の前が汚れていないということはいいことだ。
「あの」
「なんだ」
ローゼリアンがまたもやもじもじとなにか言いにくそうに言葉をよどませた。
だから。
「大きい方は、普通に座って……」
「そうではなく! お、おひげのことです!」
「ひげ?」
目を瞬かせると、ローゼリアンは真剣な様子で頷き、自分の顎を指さした。
「さっき、トイレのあとに洗顔は済ませたのですが……。おひげはどうしたら?」
「ひげって……。目立たないだろう」
「えええええ⁉ だ……だって、ぷつって!」
「今日は勤務じゃないしな。それぐらいかまわん。レインも休日は確かそってないぞ」
「そうなのですか⁉」
「体毛が濃いほうじゃないからいけるだろう。明日また、のびていたら剃り方を教えてやる」
「お願いします」
深々と頭を下げられた。
……男も女もそんなに変わらんと思っていたが、意外に面倒だな。そんなことを思いながら、俺はソファを指さした。
「じゃあ着替えるか。寝間着を脱げ」
彼女がトイレに行っている間に、俺は軍服一式を居間に用意していた。
所詮官舎だ。配置は同じ。幼年学校でいやっていうほど軍服やシーツの扱いはたたきこまれるので、収納場所も方法も同じ。
さっき彼女は「侍女は?」と尋ねていて驚いたが……。
よく考えれば、貴族の子女だ。軍人にでもならぬ限り、衣類の着脱に人手はいる。
まず衣類を着る段階で一人では無理だ。
女だけではなく男でもコルセットをまくやつはいるし、後ろにボタンのついた衣類もある。
幼いころから着替えや風呂に他人が……世話係がいることが普通。
手伝ってやる方がいいのだろうかと戸惑う俺の前で、ローゼリアンが言った。
「少しお待ちくださいませね」
レインバードの姿だから、というのもあるのだろうが。
ローゼリアンは抵抗なく俺の前で着替えを始めた。
まあ、今日のところは俺が手伝えばいい。軍服は誰でもひとりで着ることができる。
……ただ。
めちゃくちゃ、遅い……。
ボタンを外すのにどれぐらいの時間をかけるのだ、とイライラする。
イライラするが、本人は非常にまじめなようだ。
よいしょ、よいしょ、とばかりにボタンを外し、上着が脱げただけで、ぱぁっと満面の笑顔だ。
俺は、なにを見せられているのだろうと思う一方。
……ちょっとかわいく思えたりする。
おそろしいことだ……。外見はレインだぞ? しっかりしろ、俺。
自分を叱りつけていたら、「できました!」とパンツ一枚になったローゼリアンが挙手をした。
……すごいな、俺。こんな状態でも「これはローゼリアン」だと認知できるようになるとは。
「よし。では次はシャツを着ろ」
「はい!」
すがすがしい顔でシャツを手に取り、着るのはいいのだが……。また時間が……。いかん。堪えろ、俺。我慢あってこその成長だ。見守りだ。
その後、ズボンを履かせ、ベルトの締め方を教える。
ついで、佩刀を……これはつけてやった。
やれやれ、とローゼリアンの姿を改めてみる。
見た目は完全にレインだ。
くせのある銀髪に、細身の身体。肩幅に少し余裕のある軍服を着用し、少しだけ右に傾けた姿勢で起立するのだが。
いま、俺の目の前にいるのは、まっすぐに両足で立っている。
体重が右にも左にもかかりすぎていない。しっかりと中心に重心がある。
ああ、やはりレインではないのだな、と変な感慨を覚えた。
「刀が重くないか?」
「ええ。懐かしいぐらいですわ。よくお兄様と剣術ごっこをいたしましたもの」
くすりと笑う。
そういえば。
幼年兵学校のころ、何度かレインの屋敷に遊びに行った。
そのときの彼女は本当に男児かと間違うほどに元気で……。
そういえば剣も振り回していたな。レインがボコられていたのではなかったか。
「よし、では食堂に飯を食いに行こう」
「はい!」
ぴょこんと跳ねるようにローゼリアンが一歩を踏み出した。
飯を食うのがそんなに楽しみなのかと口に出かけて飲み込む。
そうだ。
この数年、彼女は病に臥せっていた。いまも死の床にあるのだ。
もし悪鬼とやらを退治できなければ五日後に死ぬほどに。
魂が入れ替わり、健康なレインバードの身体に入ることにより、久しぶりに空腹を感じ、食事が楽しいと思えるようになったのかもしれない。
俺は黙ってローゼリアンを連れ、官舎を出た。
「鍵は……」
「ベルトにつけている」
「ああ、これですね」
ローゼリアンがおっかなびっくりに施錠をしているのを見ながら、ふと気づいた。
口調だ。
「ローゼリアン」
「はい?」
きょとんと俺を見る。
姿かたちはレインだというのに、なんだか女性っぽくてなんとも言えない気分になる。
……はっきりいえばその……。ときどき、かわいいのだ。俺は咳ばらいをしてごまかした。
「外では俺のことをルシウスと呼ぶように。卿は不要だ」
「あ……そう、ですよね。ご友人ですものね」
「同じように、他人がいるところでは、俺も君をレインと呼ぶ」
「わかりました」
「そんなに話しかけられることはないと思うが……軍のことでなにか話しかけられれば、『本日は休暇中なので、後日でかまわないだろうか』と答えるように」
「わかりました」
「敬礼はできるか? レインは少尉だから部下がいるし、下士官から敬礼をされる。答礼をするように」
「こうですか?」
そうして俺に見せる敬礼はなかなかのものだ。正直、レインよりしっかりしていて苦笑いしてしまった。
「では行こうか」
ポーチを抜け、官舎と官舎の間にはさまれるように作られた道路を食堂の方に向かって歩き出す。
「あの、お兄様の人間関係とか、よく知らないのですけど。話しかけられたらどうすればよろしいのですの?」
こっそりとばかりに、ローゼリアンが言う。俺は肩をすくめた。
「レインはそんなに人づきあいがいい方ではないから、そんなに話しかけられることもないだろうが……」
「マリオン少尉!」
それなのに、いきなり声をかけられ、ローゼリアンと同時に振り返る。
同期の砲兵士官が笑いながら、どん、と俺とローゼリアンの間に割って入ってきた。
きゃあ、と悲鳴を上げかけたローゼリアンが必死に声を飲み込んだ。
「なんだ、どうした」
朝っぱらからもう面倒くさい。
俺とローゼリアンの首に腕を絡ませ、がははははと豪快に笑う砲兵士官をにらむ。
「お前達、朝っぱらから修羅場だったんだって⁉」
「はあ⁉」
「ええ⁉」
ふたりそろって素っ頓狂な声を上げるが、砲兵隊員は相変わらず笑いっぱなしだ。
「いま、食堂はその話題で持ちきりだぜ? あいつら仲がいいと思っていたが、とうとう禁断の一夜を過ごしたらしいって」
……あれだ。
ローゼリアンの誤解発言だ……。
「ち、違います! あれは!」
ローゼリアンが必死に抗弁しようとしたら、バシバシと砲兵士官が頭を叩いている。やめろ。そいつはレインに見えるが、レインじゃない。
「わかってるって! お前には婚約者候補がいるしな! だけどまあ、軍も娯楽に飢えているからな。当分はこのネタで沸くだろう」
俺がため息をつくと、砲兵士官は片眼をつむって俺達から離れた。
「ふたりとも休暇なんだろう? 外で飯食って来いよ。食堂に行って、わざわざ噂になってやることもないだろう?」
ようするに警告に来てくれた、ということか。持つべきものはやはり同期だ。
「ありがとう」
俺が片手をあげて礼を言うと、砲兵士官もおどけて敬礼を返した。
「仕方ない。駐屯地の外で飯を食おう。屋台とかでもいいか?」
「屋台! もちろんです!」
目をキラキラさせてローゼリアンはコクコクとうなずいた。
こうして。
俺たちは駐屯地を出ることにした。




