こんな稀有な体験はきっともう起こらない……はず?
二日後。
私は見送りのために屋敷の玄関にいました。
「座っていてもいいんだよ?」
お兄様が心配そうに眉根を下げますが、私は笑って首を横に振りました。
一日中立っていることはまだ無理ですが、これぐらいはもうなんの問題もなくなったのです。
「セドリック師、お世話になりました」
深々と頭を下げると、すっかり旅装を整えたセドリック師が笑います。
「まさか聖水効くとは思わんかったなぁ。いままで神殿なんてバカにしていたけど、ちょっと見る目を変えてみるわ」
そんなことをおっしゃるので、みんなで顔を見合わせて笑ってしまいます。
そう。
お兄様がイリスの髪を断ち、セドリック師に聖水をかけられて……。
黒髪から解放された私は気絶し、そしてお兄様と魂がふたたび入れ替わりました。
イリスはというと……。
彼女はお兄様から髪を断たれた直後、意識を失ったのだそうです。
子爵夫妻はイリスを連れてすぐに屋敷に戻ったのですが、どうやら「ローゼリアンの体調不良の原因」を察したらしく……。その後、なんの連絡もないそうです。
お父様は激怒して私兵を差し向けようとしますし、お兄様はせっせと怪しげな溶液を準備するし……。昨日は大変な騒ぎでしたが、様子を探りに行ったルシウスが言うところには、イリスは部屋に閉じこもり、ひとりなにかをつぶやき続けているのだとか。
「医者が何人も呼ばれていたが……。あれは医療ではないな」
たぶん、呪いが返ったのだ、と言い、ひとまずお父様とお兄様の怒りは解けたようです。
「いやあ、でも。五日の休暇中にすべてことが収まって。さすがルシウス。ぼくの親友だよ」
「ほんまほんま。やっぱり武闘派はいるな」
お兄様は上機嫌でルシウスを小突き、セドリック師は何度もうなずいています。
「ルシウス。あの……入れ替わった時から、そばにいてくれてありがとうございます」
私は胸をしめる寂しさを押し隠すように頭を下げます。
というのも。
有給休暇は今日でおしまい。
お兄様とルシウスは駐屯地に戻られるのです。
「いや、別に。俺はレインに頼まれただけだから」
言葉のそっけなさに、心がちくりと痛みました。
だからでしょう。
そのあとの言葉が続きません。
なんとなく無言の空気が広がりましたが、ルシウスが咳ばらいをするので、そっと顔を上げました。
「もう少し元気になったら駐屯地に来るといい。約束通り白鹿亭で一緒に食事をしよう」
「は、はい!」
嬉しくなってぶんぶんと首を縦に振ると、お兄様がルシウスに噛みつきました。
「そんなことぼくは頼んでいないぞ! ぼくも行くからな!」
「ええ加減、妹ばなれせんかいな、坊」
あきれ顔でセドリック師が言い、私もほとほと困り顔でお兄様を見ます。
「もう私は元気になったんですから、自由にさせてください」
「まだ心配だよ! いいかい、ローゼ! 男はみんな狼なんだ! 危ないんだよ⁉」
「そうなんですか?」
ルシウスに尋ねましたが、彼はふいと顔を背けて何も言いません。あら、どうしたことでしょう。
「まあでも、お嬢さん」
「はい」
セドリック師が一転、真面目な顔で眼鏡を押し上げました。
「とりあえず今回はうまくいったけど。気をつけるにこしたことはあらへんで? あんたは知らずに悪意を拾うタイプやから」
悪意を……拾う。
「それに、魂の入れ替えがうまくいくことを考えると、霊媒体質でもあるんやと思う。坊の言う通り、誰もがいい人や、仲良くできると思わんほうがええ。悪いもんが、あんたに入り込もうと狙っているかもしれんからな」
そう……なのでしょうか。世間知らずなのはいなめませんが……。生まれながらの悪人というのはいないと思うのですが。
イリスだってそうです。
きっと……。気づかなかっただけで、私がなにか悪いことをしてしまっていたのでしょう……。
「それにほら、坊。このお嬢さん、王子妃にって言われてたんやろ?」
「まあ、うん。それも立ち消えしたけどね」
「元気になったら、元通りの別嬪さんになるで。うちの国の王子、まだ決まった相手はおらへんねんやろ? また王子妃の候補に上がったら、誰かに妬まれ……」
「それはない」
セドリック師の言葉をルシウスが断ち、私を見ます。私はきょとんとして彼を見つめました。
「その前に、俺がもらうから」
「…………っ………」
途端に顔が熱くなってどうしようもなくなります///!!!!
「許さん許さん許さん! お兄ちゃんが許さん!」
「はいはい。そういうのも含めて馬車で話し合おか」
地団太踏むお兄様をなだめすかし、セドリック師は、馬車回しに到着した馬車へと誘導していきます。
そのあとをついて行くルシウスでしたが。
ふと立ち止まり、振り返りました。
「手紙を書くから」
「ええ、私も書きます」
「白鹿亭で」
「ええ、楽しみにしています」
そうして私は三人が乗り込んだ馬車を見送りました。
この五日間。
本当にいろんなことがありました。
お兄様と入れ替わるなんてこんな体験、そうそうあることではありません。しかも、一度だけではなく二度も。
「さ、お嬢様。身体にさわりますから中に」
メイドに促され、名残惜しく思いながらも私は小さくなる馬車に背を向けます。
ふと。
二度あることは三度ある、という言葉がよぎります。
まさかね、と小さく笑いました。
お兄様と入れ替わる。
そんなこと、私の人生にはもう起こらないでしょう。
そう思いながら。願いながら。
私はルシウスとの約束に心躍らせ、屋敷に入ったのでした。
了




