21話 つけねらうもの
「おはよう、ぼくの仔猫ちゃん!」
「おはようございます、お兄様」
私があいさつを返す前には、もうベッドに腰かけ、にこにこと私を見つめておられます。
お兄様はいつお会いしても元気溌剌なご様子。安心いたします。
「おはよう、ローゼ。具合はどう?」
「まぁ! おはようございます、お母様」
驚いたことにお母様が侍女を連れて入室なさいました。
ルシウスは頭を下げてお母様に場所を譲り、部屋の隅に移動します。
……こんなことを思うのもいけないことですが。
彼が離れてしまったことが少し寂しいです。
お母様の後ろからはセドリック師がカバンを抱えてやって来られました。
「おはようさん。ちょっと傷跡見せてな?」
セドリック師のお顔は少し眠そうです。
ひょっとしたら昨日摘出したものについてなにか調べものでもしていたのでしょうか。出会ってまだ二日ですが、この方、見かけや言動によらず、お仕事に真摯に向き合う方だと私は思っております。
「横になってくれる?」
私は言われたようにキルトケットをはいで、ベッドに横たわりました。
侍女がさっと紗をおろします。
なので。
ルシウスの姿が見えなくなりました。
「面布も交換しておこうな」
セドリック師は、私の足元に座るお兄様に膿盆をひょいと渡されます。
それから私の右横にセドリック師は立たれました。
その隣にはお母様と侍女が控えています。
ああ、なるほど、と思いました。
お母様は傷跡のことをひどく心配しておられました。きっと診察に立ち会い、それをご確認したいのでしょう。
「服を失礼」
セドリック師を紳士だと思うのは、こうやって一言声をかけてくださることです。
寝付いてからというもの、いろんな医師に診察を受けましたが……。
なかにはいきなり衣服を剥いだ医師もおり、必要なことだとわかりつつもいい気分ではなかったことを思い出します。
セドリック師は、私の寝間着をたくしあげるようにして、右わき腹を露出させました。
下にはズロースを履いておりますし、セドリック師は必要以上に寝間着を引き上げませんから、胸が見えることもありません。このことひとつとっても、本当に気遣いができる方なのです。
「面布をとるわな」
「はい。あの……私もみてみたいのですが、傷跡を」
おそるおそる言うと、セドリック師はなんでもないことのように「ええよ」と言ってくださいました。
そっと。
セドリック師は面布を取ります。
表面には見えませんでしたが、裏側にはやはり血がこびりついています。
それをお兄様が持つ膿盆に、ぽいと捨てられました。
「傷口、きれいにくっついてるわ。腫れてるけど、これは日にち薬や。化膿もいまのところしとらんし……。これは目立たんな」
セドリック師は嬉し気におっしゃいました。
ちらりと私はお母様を見ます。
お母様は目を潤ませ、ほっとしたように何度もうなずいて、侍女と手を握り合っています。
仰向けに寝転がったまま、私も自分の傷跡をおそるおそる見てみました。
そして驚きます。
びっくりするぐらい、小さな傷跡なのです。
セドリック師はもともと小指ぐらいの大きさを示していましたが……。それよりもっと小さいのではないでしょうか。
傷口は腫れてみみずばれのようになっていますが、変な色の汁が垂れていたりしていません。おかしな表現だとお思いでしょうが、きれいな赤色でした。
「この腫れはひきますか?」
私は左手で指さしました。
以前のような……ぼこりとした腫物ではないのですが、それでも、ぼより、と膨らんではいます。
「うん。これは体液が溜まっているだけやから。次第に吸収されてへっこむ。あ、だけど。コルセットとか締め上げる系は1年間はやめてな」
セドリック師が言い、侍女とお母様が神妙な顔で頷かれました。
「じゃあ、新しい面布を貼るわな。これはわたしがおらんようになっても、傷口の腫れがひくまで、毎日交換するように」
「わかりました」
侍女がはっきりと答えました。
その後、テキパキとセドリック師は新しい面布を私のおなかにあてます。
昨日は出血で張り付いていましたが……。今日はそういうわけにはいきません。なので、侍女にも手伝ってもらって、おなかにぐるりと包帯を巻いて面布を留めました。
「はい、終了」
セドリック師が寝間着を整えてくださり、座るのを手伝ってくださいました。私がしっかりと座ったことが合図のように、侍女が紗を上げます。
足音もなくルシウスは近づいてきたのですが……。
お兄様の側に行ってしまいました。
「どうだ?」
「大丈夫」
小声でそんなことを交わした後、私を見ます。
「よかったな。どんな小さな傷も命取りの場合がある。よく食べて力をつけろ」
ほっとしたようにルシウスが言うので、私は嬉しくなりました。
傷跡がどれだけ残ったか。
そんなことを気にしたのではなく、化膿していないか、悪化していないかを心配してくだっていたようです。
「はい。その、実はとてもおなかがすいていて……」
言った途端、ぐう、となるからたまったものではありません。
私は顔から火を噴くかと思いましたのに、その場にいるみなは朗らかに笑います。
特にお母様など、最初は笑っていたのに次第に泣き始めるではありませんか。
「ローゼリアンが……おなかが空いたという日が来るなんて」
そう言っておいおいと泣きだすので、苦笑いしたお兄様が立ち上がって抱きしめます。
「全快も近いでしょう。母上、いままでお疲れさまでしたね」
「あなたも。本当にいい呪術医をみつけてくださいました」
その言葉に、私はふと気になってセドリック師に尋ねます。
「あの……お兄様とはどこで?」
「ん? 飲み屋」
飲み屋⁉
私だけではなく、その場にいたみなが目を丸くします。
「腕はいいけど、めったなことでは仕事を受けない呪術医がいるって聞いてね? それでそいつが毎晩通っている飲み屋があるって言うから行ってみたんだ」
なんでもないことのようにお兄様は言います。セドリック師はうんざりした様子で肩をすくめられました。
「『飲み比べで勝ったら仕事を受けてくれ』ってこの坊が言うたんや。そんな駆け引きする奴おらんかったから、おもろいやつやな、って。それにぱっと見ぃ、いいとこのボンボンやん? 細いしさぁ。まさかうわばみなんて思いもせんかったわ」
「確かに、ザルだからな」
笑い声を立てたのはルシウスです。
知りませんでした。お兄様はどうやら酒豪のようです。
「なにはともあれ、良いご縁でした」
お母様はとまどいつつもセドリック師に頭を下げます。
そのあと、侍女や部屋の隅で待機しているメイドと執事に指示を出します。
「みなさまに朝食のご用意を。私もすぐ参ります」
「はい」
「ローゼリアンの分はこの寝室に」
侍女がはい、と返事をする前に、私は「あのお母様」と遮りました。
「私も皆様と一緒に食べてはいけませんか?」
「え……。だけどあなた……。歩ける?」
心配そうにお母様が私とセドリック師を交互に見比べます。
「昨日はお手洗いまで歩けました」
メイドに手を借りて、ですが。
「みんな一緒に召し上がるのに……。私だけここは……寂しいです」
「じゃあお兄ちゃんが一緒に食べてあげよう!」
勢いよく挙手してくれますが、そういうことではありません……。
「まあ……ゆっくりなら、ええんちゃう? あかんかったら、途中で誰かが背負ったらええやろ」
セドリック師が助け舟を出してくれてホッとしました。
「だけどみんなとおなじものは食べれへんで? まずはスープとかかゆとか」
「えー……」
つい不満顔になります。
「昨日はクロワッサンサンドを食べました!」
「それは坊の身体で、やろ? ここ数か月まともに食べてへん身体やのに、すぐに固形物はきついわ。やらかいものか、水分ならみなと一緒のテーブルでええで?」
ここは頷くしかありません。
「ではローゼリアンの席も用意して……。あの、セドリック師。娘の料理のチェックをお願いできます?」
「ええで」
「ではこちらへ。……先に行っているわね」
お母様は侍女やメイド、それからセドリック師たちと一緒に部屋を出て行かれました。
「じゃあ、ぼくらも行こうか」
お兄様が言います。私はゆっくりとベッドから足をおろしながら、心配になりました。
「寝間着でもいいかしら」
「ぼくは気にならないよ。ルシウスは?」
「俺も別に」
「ならいいんじゃない?」
あっさりしたものです。
私は苦笑いしながら、ベッドに手をつきました。
そろそろと腰を上げようとして。
目の前に、手が差し出されます。
それは。
お兄様とルシウスです。
「私はひとりで立ってみたいんです。少し離れて待っていてくださいませんか?」
なんだか過保護なこどもになった気分です。だからかもしれません。声がぶっきらぼうになりました。
お兄様とルシウスは互いに顔を見合わせ、それからそろって肩をすくめました。
そして私から離れながら、「ルシウスのせいだ」「激アマなお兄ちゃんのせいだろ」と言い合っています。
私はそっと腰を離します。
両の足裏にしっかりと体重を感じながら、ゆっくりと背を伸ばしました。
立てました。
ちょっと感動です。
昨日はメイドの肩につかまっての立ち上がりでしたから。
やってみてよかった。自信につながります。
ですが、すぐにこう……。
身体が前後に細かく揺れます。
安定しません。
これは歩き出してしまった方がいいのかもしれません。そのほうがバランスがとれるかも。
そう思った矢先。
ぽたり、と。
右肩になにかが滴り落ちました。
感覚としては、水滴が落ちたような感じでしょうか。
ぽつん、と。
夕立の前の、大粒な雨。
そんな感じでした。
引かれるように目を向けます。
それは。
当然ですが、雨粒などではありません。
黒い。
そう、漆黒の粒でした。
インクのようなその雨滴は、寝間着にシミをひろげながらそこにあります。
「え……?」
つい声がもれました。
こんなもの……。どこから。
ぽつん、と。
また滴ります。
私の右肩を濡らしました。
ぽつん、ぽつん。
連続で落ちてくる、黒いしずく。
ぽー……つん、ぽーーつん。
だんだんと粘着性を帯び、それは糸を引き始めます。
私は。
おそるおそる顔を上げます。
ベッドの天蓋。
青空を模した絵が描かれ、鳥のモービルがつられた見慣れた天井。
そこに。
四肢を大きく広げた、ヒトガタのなにかがいます。
そう。
人型、としか言いようがありません。
なぜなら。
蜘蛛のように四肢を広げたそれには頭部がありません。
胴体部分と思しきところがぱっくりと割れ、鋭くとがった歯がいくつも並び……。
そこから黒い涎がしたたっているのですから。
「ろー……ぜりあん……」
胴体の裂け目のような口がゆがみ、微妙に音程のずれた声で私の名を呼びます。
そして。
一気に下降してきました。
「ローゼ!」
化け物に捕食される瞬間。
お兄様が私を抱えて飛びました。
どん、と。
強い衝撃を受けましたが、それは着地によるもので……。
お兄様が抱えてくれていたので、実際は床に身体を打ち付けることはございません。
「ルシウス!」
「わかっている!」
声のするほうに首をねじります。
天蓋からはい出した化け物は、四つ足を広げて床を素早く這います。
それに相対しているのはルシウスでした。
彼は肩幅に足を開いたまま、剣を抜き払いました。
化け物はいきなり二足で立ち上がると、大きく跳躍して天井にはりつきます。
そこから胴体部分の口を大きく開いて落下してきました。
ルシウスは数歩下がり、袈裟がけに斬ります。
吹き上がる緑の液体を、身体をよじって避けたルシウスに、化け物は轟音を立ててさらに襲いかかりました。
襲いかかるという表現が正しいのか、もはやわかりません。
痛みにもんどりうっているというのが正解なのかもしれません。
化け物は身を丸くして床を転がり、まさに体当たりを試みようとしているのですから。
ルシウスは寸前のところでかわし、再度ぶつかってこようとする化け物を、今度は冷静に対処しました。
逆手に剣を持ち換え、上からぶっすりと刺したのです。
化け物は回転を止めざるをえません。
ですが、くし刺しになった状態から逃れ出ようと四肢を伸ばします。もがきます。
「……ふっ!」
ルシウスは一気に力をかけます。剣先が化け物の身体を貫通し、床に届きます。
ぴたり、と。
化け物は動きを止めました。
そして。
身体が崩壊し、黒い靄のようになって消えていきました。




