2話 救世主、現る
「ど、どどどどどどどどどどうしましょう!?!?!?」
トイレってどうしたらいいんですか!!!!!!
今までどうりにすればいいのですか⁉
待ってください……。
ですが殿方は「立って」する、と聞いたことが……。
立って⁉
立ってってどうやって⁉
濡れないのですか⁉ え、どうやって前に飛ばすのです⁉
ま、前に飛ばす……? 前に飛ばす!?!?
いや、そうでしょう!!!! だって、そのまま、だらーっと下にしたら、確実に足にかかるのでは⁉
ではどうやって……⁉
混沌に飲まれそうになった私の耳に、高らかに鳴り響くラッパの音が聞こえてきました。
メロディ……というものではないような気がしますが。
決められた音符を軽快に吹き鳴らすそれは、初めて聞いたものですが、起床ラッパなるものなのでしょう。
なにひとつ解決はしていませんが、なんだか少しほっとした気がします。
というのも。
ルシウス卿がやってきてくださるはずだからです。
これでひとつ、解決するはずです。
床に手をつき、よろよろと立ち上がった時、ドンドンドン、と三度ドアが鳴る音がしました。
きっとルシウス卿です。
私は「はい!」と大きく返事をして、寝室を出ました。
歩くたびに否が応でも……その、意識いたします。そのうえ、一度自覚してしまったからなのか、だんだんとトイレに行きたくて仕方ありません。お兄様……。まさかと思いますが、私が困ると思って、お眠りになる前に大量の水分をおとりになったんじゃありませんよね。
私はなにも知らせてはくれないお兄様を心の中でなじりながら、廊下と言うにはあまりにも短い通路を通り、玄関扉らしきもののところまでたどり着きました。
靴脱ぎ場とおぼしきものがあり、軍靴が二足、並んでいるので間違いないでしょう。
私は横棒をスライドさせるタイプの鍵を開け、扉を開きました。
まぶしさに、おもわず目を細めます。
逆光になっているため、その訪問者はまるで巨大な影でした。
「今日の気分はどうだ、レイン? それとも本当に入れ替わったか?」
まるで地の底を這うような不機嫌な声に、知らずに肩が震えます。
「あ……あの」
「これでいいだろう? さっさと着替えろ。あとでまた迎えに来る」
くるりと背を向けるその殿方に思わず私は抱き着きました。
「帰らないで!」
「はあ⁉」
抱き着いているせいで、背中越しに聞こえたルシウス卿の声はさっきとは大違い。素っ頓狂な声です。
おまけに、抱き着く私を振り払おうと、水浴び後の犬のような動きをなさいます。
逃がすものか、と私も必死にしがみつきました。
「お願い! ひとりにしないで!」
「はあああああ⁉」
「あなたに出て行かれたらどうしたらいいのか!」
「待て待て待て待て待てぇぇぇぇぇ!」
「卿なしでは生きていけない!!!!!」
「レイン!!!!!!」
怒鳴ったかと思うと、恐ろしい力で引きはがされました。
巨大な影が私と向き合い、がっしりと両の肩をつかまれました。
「冗談もたいがいにしろ。殺すぞ」
凄まれた途端、堰を切ったように目から涙が溢れました。
ぎょっとしたような雰囲気を感じましたが、見ることなどできません。
私は顔を両手で覆い、おいおいと泣きます。
「だって……だって。どうしようもないんですもの」
「ちょ……レイン」
「あなた以外、頼れる人もいないのに、どうしてそんなことおっしゃるの」
「レイン……バード……くん?」
「私だってこんなことしたいわけじゃあ……」
「頼む、おい!」
ぐい、と一度揺さぶられて、私はハッと顔を上げました。
拍子に目から涙がこぼれ落ち、一気に視界が開けます。
そして見ました。
道路にいるたくさんの軍人さんたちが、遠巻きに私たちの様子をうかがっているのを。
「……お前、ひょっとして本当にローゼリアンなのか?」
顔を近づけてきたのは、随分と精悍な顔つきの男性でした。
年はお兄様と変わらないでしょう。21か、22か。
ですが体格はまるで違います。
がっしりとした肩幅に、ぴたりと張り付くような軍服。顔は日に焼け、短く切りそろえた髪も日に焼けたせいなのか、オレンジ色にも見える金色です。
いぶかし気に私を見つめる目は若葉色ですが、いまはもう怖いとは思いません。
とにかくすがるしかないのですから。
「そうです。ローゼリアン・チャリオットです」
途端にルシウス卿は大ため息をついてうなだれました。
ですがそれも数秒のことです。
はじかれたように顔を上げました。
「だとしても、だ。いいか、はたから見ればお前はレインバード・チャリオット少尉だ」
「え……ええ。ですからとても困惑しているのです」
「俺だってだ! 見てみろ、周りをっ」
押し殺した声に促され、彼の肩越しにもう一度あたりをうかがいました。
どうやら官舎というのは平屋の建物らしく、それが道を挟んでいくつも規則正しく並んでいるようです。
起床ラッパを合図になにか……あるのでしょうか。みな、官舎から出てきたようです。軍人さんなのでしょう。いずれもが簡易ではありますが、軍服を着ておられます。
そして皆、面白そうに。興味深そうにこちらを見ているのです。
「なぜ、皆さまは私たちをご覧になっているのでしょう。あ! 私が寝間着だからですか?」
「違うっ。さっきの会話だっ」
噛みつかんばかりに言われたものの、はて、と首をかしげました。
そして。
気づきます。
『帰らないで!』『お願い、ひとりにしないで!』『あなたに出て行かれたらどうしたらいいのか!』『卿なしでは生きていけない!!!!!』
「俺とレインが恋仲だと……念弟だと思われるじゃねぇかっ」
「まあ!」
私は目を丸くして慌てました。
「失礼しました! では早速誤解を……。みなさーん! あの、違います! 私とルシウス卿は……!」
「静かにしろっ」
「もごがふっ!」
違うのだと訴えようとしたのに、口を手で覆われ、かっさらわれるようにして官舎に押し込まれました。
「あ、あの。ルシウス卿。それで、ですね」
バタンっとすごい勢いで扉を閉め、鍵までかけたルシウス卿に、私はおそるおそる声をかけました。
聞きたいことは山ほどあります。
なぜ私は兄になってしまったのか。
それから、ひげを剃るにはどうしたらいいのか。
言いにくいけれど、トイレはどうすればいいのか。
「その前に、もう一度確認する」
がばりと勢いよくルシウス卿は振り返られました。
眉毛がぎゅっと中央に寄り、まるで悪鬼のような形相ですが、それがなんとなく真剣だからこそなのだと私にはわかりました。
だから私もぴしりと背筋を伸ばして彼の言葉を待ちました。
「本当に、ローゼリアンなのだな?」
「ええ、ルシウス・マリオン卿」
私はスカートをつまもうとしてないことに気づきました。
仕方なく、あると想定し、左足をひいて右足を曲げ、お辞儀をいたしました。
「チャリオット伯爵家の長女、ローゼリアンです」
「まじか……」
途端に、ルシウス卿は両膝を床についてうなだれてしまわれました。




