10話 名を呼ばれた
「ちょっと単刀直入なものいいになるがいいか?」
一気に飲み干し、ルシウスが私に向き合います。
私も座り直し、彼のハンカチを握りしめてうなずきました。
「なんでしょう」
「寝付いて何年だ?」
「14歳からで……いまは19歳だから。かれこれ5年といったところでしょうか」
「君は、腹にできたしこりのせいだと思っているんだな?」
「私だけではなく、お兄様以外全員ではないでしょうか。お医者様の見立てもそうですし」
「なにかこう……悪いことは起こらなかったのか?」
「悪いこと?」
「気味が悪いというべきか? 悪霊が来た、とか。なにやら視線を感じるとか」
問われて私は思い返してみます。
呪詛。
それを受けると一般的に想起されるべき事象。
例えば家具が勝手に移動したり、自分の意図に反して身体が動き、ブリッジをしたまま蜘蛛のように歩いたり……でしょうか。あるいは緑の嘔吐物を聖職者に吹き付けたり……?
……そのようなことを自分でしたことは記憶しておりません。
が。
「あ……」
「なんだ」
勢い込んでルシウスが応じてくださったところを悪いのですが……。
「その、たわいないことなのですが」
「かまわん」
「悪夢をよく見ます。あれは、寝付いてからしか見ていません」
「悪夢?」
だけど、ルシウスは「なぁんだ」というがっかりした顔をしません。
「それはどんなものだ」
きちんと私に向き合ってくれるので、私自身のためらいも消え失せました。
「魔物が出てくるのです」
「魔物。それはどんな? ドラゴンか? 悪鬼か」
「悪鬼……なのでしょうか。こう……額の両脇にこぶのようなものが隆起しておりまして、口は耳まで裂けようかというほど。そこから牙ものぞいております。上半身は人間の男のようなのですが……下半身は黒ヤギで、蹄まであります」
私は夢で見た、見続けたその悪鬼を想像し、次第に胸の鼓動が早まります。
ぎゅっと再びハンカチを握りしめると、ふわりと背中にあたたかいものを感じました。
ルシウスです。
彼が背中を撫でてくれているのでした。
「そいつがなにかしてくるのか?」
「追いかけて……くるのです。私は必死に逃げるのですが、髪をつかまれ、地面に押さえつけられ……」
その地面が、ずぶずぶと沈むのです。
沼地、というのとはまた違うでしょう。
柔らかく、それなのに粘着性のある地面。
そこに身体全体を押し込もうと、悪鬼は私を上から押さえつけるのです。
一度、あがらいきれずに顔の半分が埋まったことがあります。
そのとき、私はその地面の下から恐ろしいほどの阿鼻叫喚を聞きました。
明言はできませんが……。
あの下は地獄なのです。
なので私は必死に抵抗します。
悪鬼を殴り、爪をたて、蹴りつけます。
なんとかあの腕から逃れ出なくては。
そう思って……。
汗だくになって目を覚ますのです。
そんなことをとつとつと語りますと、ルシウスは最後までしっかりと聞いてくださいました。
「そのことをレインに話したことは?」
ルシウスに尋ねられ、過去を振り返ります。
そしてぽん、と両手をあわせました。
「言ったような……ことがあるようにも思います。まだ病で寝付いたばかりのころ、あまりの怖さに、帰省していたお兄様のベッドにもぐりこんだことがありますから」
「ということは、レインも脈絡なく『呪詛だ』と思っていたわけではない、ということか。次第に確信した、というところではないか?」
「そう……なのでしょうか」
あの頃からお兄様は疑っていたのでしょうか。
「レインは、俺に『悪鬼を斬ってくれ』と言っていた。大丈夫だ」
突然、大きな手で頭を撫でられ、私は顔を起こしました。
ルシウスです。
彼は笑みを深め、目をあわせてうなずいてくれました。
「悪鬼など叩き斬ってやる。だから安心しろ」
こんなふうに。
私に笑いかけてくれる男性を知りません。
私はほっとすると同時に、また目が熱くなってきて……。
「あ、あの!」
ごまかすために私は立ち上がりました。
「ご、ごみを捨てましょう!」
ハンカチをズボンのポケットに入れ、膝の上に置いたままになっていた包装紙をつかみました。
「そうだな。買った店に戻ろう」
ルシウスがお盆を持って立ち上がります。すでにゴブレットがふたつ、並んでいました。
なるほど、どこかにゴミ箱があるわけではなく、買った屋台のところに持っていけばよいようです。
ルシウスが盆を「ん」と言って差し出すので受け取ろうとしたら、「違う。包装を置け」と言われました。
「私が持ちます」
「俺の方が慣れている」
そのいい方も目も、完全に私を信用しておられません。
……まあ。屋台など初めての経験ですし、なんなら着替えに時間がかかったことはいなめません。今日のところはルシウスに従うことにしまして、包装紙を置きました。
ルシウスはさっさと屋台に行き、店長に一声かけて盆を返却いたします。
ちょうど接客中でしたが、店長は笑顔で応じ、なんなら気さくに私にまで手をあげてくだだいました。
初対面なのに、とぎこちなく私も挨拶をしましたが……。
なんのことはありません。私ではなく、レインバードに挨拶をしたのでしょう。
苦笑いが浮かんだ時、遠くから歓声が聞こえてきました。
「まあ、なんでしょう」
「時間的にあれだ。広場の噴水だ」
「噴水⁉」
見たい! 口には出しませんが、きっと表情はそのままだったのでしょう。
ルシウスが私の背を押し、歩き出します。
私たちは並んで屋台の並ぶ川沿いを西に進みました。
穏やかな朝です。
鉄柵のむこうを流れる川面もキラキラと輝き、釣り糸を垂れている人もいました。
「定期船もあるぞ」
「船? 川をですか?」
「ああ」
私はまたもやドキドキした気持ちでルシウスに尋ねます。
「このあたりは王都でも有名な商業地区でな。川沿いは屋台が並ぶが、公園のむこう側はかなり大きめの商店街になっている。移動に船を使うやつも多い。あとで行ってみるか」
ルシウスはそう言ったものの、すぐに眉根を寄せた。
「といっても、その格好では買えるものといえば、男物になってしまうな」
「確かにそうですね。だけど船には乗りたい」
可笑しくなり、私が笑い声を立てたときです。
「ローゼリアン」
名を、呼ばれた気がしました。
「はい?」
振り返ります。
「……え……?」
ですが。
そこには誰もいません。
いえ。たくさんの人はいます。
見回しました。
私を呼び止めた方はいらっしゃらないようです。
「どうした」
足をとめた私をいぶかしく思われたのでしょう。ルシウスが尋ねます。
「いえ。なんでもありません」
私は答えて、また彼に並びました。
しばらく歩いていると、道路の様子が変わってきました。
土から舗装された道になったのです。
そのころにはもう屋台はありません。
相変わらず右手側は川ですが、左側には植栽の木立が並びます。
どうやら、噴水のある公園に入ったようでした。
子どもたちの声は風に乗って時折聞こえてきます。
それにあわせ、アコーディオンの音色やフルートも。
きっとなんらかの楽団が来ているのかもしれません。
否が応でも期待値が高まります。
「子どもと一緒にはしゃぐなよ」
そんな風にルシウスにからかわれ、「もう」と私はこぶしを振り上げます。ルシウスは笑ってそれをかわすふりをし、数歩前を走りました。
追いかけようとしたとき。
「ローゼリアン」
また。
名前を呼ばれた気がしました。
「……」
はい、と返事をしかけて今度は飲み込みます。
おかしいではありませんか。
だって……。
だってそうでしょう?
どうして。
いまのこのわたしを見て、「ローゼリアン」だとわかるのでしょう。
私はいま、レインバードお兄様の中にいるのです。
それなのに。
どうして……。




