きらきら
◇
わたしの名前は──いや、名前なんてどうでもいいか。
誰も呼んでくれないから。
「おい、ブス」とか「死ねよ、クズ」とかそういう風に呼ばれる事はあるけど、それは名前じゃない。
わたしの家は最悪だ。
お父さんは刑務所にいる。
何をしたのかは知らない。
知りたくもない。
お母さんは夜になると出ていって、朝になると帰ってくる。
タバコとお酒の匂いをさせながら。
「あんたのせいでこうなったんだからね」
それがお母さんの口癖だった。
わたしが生まれてこなければ、お母さんはもっと違う人生を歩めたらしい。
ごめんなさい、と何度謝ったか分からない。
でも謝っても何も変わらなかった。
学校では毎日、地獄が待っている。
上履きがなくなるのは日常茶飯事。
教科書に落書きされるのも、机に「死ね」と彫られるのも、もう慣れた。
慣れてしまった自分が、ときどき怖くなる。
痛みを感じなくなったわけじゃない。
ただ、痛みの置き場所を覚えただけ。
心の奥の誰にも見つからない場所に、そっと押し込む方法を。
でも、こんな私にも救いっていうか、宝物がある──いや、あった。
シロっていう小さな白い犬だ。
お父さんが逮捕される前に、どこからか拾ってきた野良犬だった。
シロだけがわたしの味方だった。
学校から帰ると、ちぎれそうなほど尻尾を振って迎えてくれた。
でももう、いない。
あいつら──クラスの男子たちがやった。
「お前んちの犬、拾ってきてやったぜ」
笑いながら差し出されたのは、動かなくなったシロだった。
首が、おかしな方向に曲がっていた。
私はその時どうしたんだっけ。叫んだのかもしれない。泣いたのかもしれない。
覚えていない。
気がついたら、わたしは目を瞑っていた。
ぎゅうっと、力いっぱい。
見たくなかった。
何もかも。
この世界の全部を、視界から締め出してしまいたかった。
そうしたら──。
昏い瞼の裏に、何かが光った。
なんだかチカチカしている。ちかちか、きらきら。
なんだかお星様みたいだなぁって思った。少しだけ青い、きれいなきれいなお星さま。
もっと強く瞑る。
そうしたらお星様が増えた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
数えきれないほどの光が、きらきらと光っている。
きれいだ、と思った。
この世界で初めて、きれいだと思えるものを見つけた気がした。
◇
それからわたしは、辛いことがあるたびに目を瞑るようになった。
靴を隠されたとき。
髪を引っ張られたとき。
「生きてる価値ないよね」と囁かれたとき。
ぎゅっと目を閉じればこの世界から、ほんの少しだけ逃げられる。
◇
ある朝のことだった。
家を出て、学校への道を歩き始める。
足が重い。
心はもっと重い。
今日もまた、あの教室に行かなきゃいけない。
あいつらの顔を見なきゃいけない。
──嫌だな。
──無理だよ。
──見たくないよ。
気がつくと、目を閉じていた。
歩きながら。ぎゅっと強く、強く。
そうしてあるく。きれいなきらきらだけを見ながら。
一歩、また一歩──暗い中を進んでいく。
◇
なんだか音がする。車の、なんだっけ。あの音だ。ぶぶーっていう奴。ブザー?
そしたらすぐに何かがわたしの身体にぶつかった。
ああ、車だ。
凄く痛い。苦しい。冷たい地面の、ざらざらする感触が頬にあたる。
私はずっと目を瞑ったままでいた。
開ければきっと、私は見たくないものを見ちゃうだろうから。
痛くて痛くて、神様たすけてくださいって頭の中でお願いをしていたら──でもだんだんとふわふわしてきた。
私がどんどん上にあがっていく。
ふわふわが強くなる。きらきらが強くなる。
そうしたらね、なんだかシロがむこうで待っていてくれる気がしたの。
ねえ、シロ。
わたし、やっと行けるのかも。
きらきらの向こう側に。
誰もわたしを傷つけない場所に。
誰もわたしを「死ね」と言わない場所に。
わたしは勇気をだして目をあけた。もう大丈夫だとおもったから。そうしたら、やっぱり大丈夫だった。
きらきらはもう目をあけていても見える。
お星様じゃなかった。光だった。
温かくて、優しくて、わたしを包み込んでくれる。
最後に見えたのは、尻尾を振る白い影。
──シロ。
わたしは笑った。
たぶん生まれて初めて、心から。
(了)




