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第70話 要塞から見た朝日 3

 何が起こったのか、理解できない。

 ライトが去った――脈動に乗って全身に広がる痛みと共に、ただそれだけは確かな事実としてこの身に染み込んでくる。

 

 だが、その理由を飲み込めている者などは、きっと誰一人としていない。

 静寂が流れ、耳鳴りの中で荒い呼吸と鼓動だけが響く。それは段々と落ち着きを取り戻していき、やがて全身の力が糸を切られた人形のように抜けるのを感じた。

 

「……助かった、のか……?」


 まだ轟く鼓動の中、信じられない思いで呟く。

 ただ分かるのは、ライトはなぜか俺とミアを生かしたということだけ。

 

 しかし、安堵に浸る間などはない。改めて周囲を見渡すと、状況は決して好転していないことを思い知る。

 操作を失った血溜まりで倒れたままのミア。そして、闇の向こうから徐々に増えていく帝国の兵士達。松明の明かりが次々と近づいてくる。


 霞む視界の中で、思考は次第に混濁し、要塞の司令室からここに来るまでに見た惨状が、脳裏に蘇る。


 ――元々、ここを繋ぎ止めておくというのは無理な作戦だった。もう、反乱軍の戦力はほぼ残っていない。

 まともな医術を扱えるものはいなかった。希少な殲獣の部位を大量に使用する魔術と、あらかじめユリアナ様が作ってくれていた波耀だけでは、すぐに立ち行かなくなった。治療が追いつかず、負傷者は増える一方だった。

 食料も不足し、周囲の殲獣を狩ることでなんとか賄っていた。だが、それも限界に近かった。兵士たちの顔には疲労と諦めが滲み、ミアの存在でなんとか保たれていたものの、士気は明らかに低迷していた。


 それでも、帝国を壊し、その先の世界を作るという狂気に身を委ねたミアと、一部の勇士たちによって、何とか戦線は保たれていた。

 ひたむきに理想を目指すミアには、不思議な力があった。絶望の中でも、まだ希望があると信じさせる何かが。

 ――だがそれも、ライトが参入したことで、すべて崩れた。


 

「奴らを捕らえろ!」


 怒号とともに、背後から複数の足音が迫る。束の間の思考は途切れ、咄嗟に振り向く。霞んだ視界に映ったのは五人――いや、六人の帝国兵だ。俺も帝国軍にいた身。捕縛に慣れた編成だと、否応でも分かる。俺を確実に捉えるつもりらしい。

 いつのまにか帝国兵達は包囲を完成させていた。先頭の兵士が剣を横薙ぎに振るう。

 俺は反射的に身を引く。刃が頬を掠め、鋭く空を裂く。

 だが、それは陽動だった。

 次の瞬間、左右から二人が飛び込んでくる。片方が右腕を掴み、もう片方が脚に組みついた。


「くそっ……!」


 ――せめて、体がまともに動けば……!

 ミアが作ってくれたチャクラムは、とっくに血痕と化していた。

 武器は――地面に落ちた剣を……。

 視線だけがそこへ向かうが、三歩先。遠い。

 纏わり付かせたまま、勢いよく滑り込むように手を伸ばす。


「ぐ、あ……!」


 だが、鈍い衝撃。

 誰かが俺の手首を踏みつけた。見上げると、体格のいい獣族。

 なんとか体を立て直そうとするが、胴に蹴りが入る。傷口に直撃し、肺から空気が押し出される。


 痛みで視界が白む。

 その隙に、両腕が背中に回される。縄が食い込む。抵抗する力は、もう残っていない。


 激しく動いたせいか脇腹の傷から、再び血が溢れ出す。

 温かい液体が身体を伝い、地面に滴り落ちる。

 土が赤黒く染まっていくのを、俺は見つめていた。

 ――いや、だめだ。……下を向いていては、いけない。


 勢いよく顔を上げた。ぼやけた視界が、揺れる。


「……っ、ミア、逃げろ!」


 意識を失う前にと、叫びながら彼女に視線を向けた。

 

 ミアは膝をついたまま、右手を掲げていた。

 彼女の指先から、細い血の糸が数本――いや、十数本、蜘蛛の巣のように空中に張り巡らされている。迫る兵士たちの足が、糸に触れた瞬間、弾ける。

 

「ぐあっ!」

 

 先頭の男が足首を切り裂かれ、倒れ込む。


 ――だが、それだけだった。


 次の瞬間、血の糸が震える。ミアの手が力なく垂れ下がった。


「……っ、はぁ、はぁ……」


 ミアの荒い吐息がかすかに聞こえる。


「……動くな!」


 兵士たちが一斉に飛びかかる。

 ミアは反応できなかった――いや、分かっていても体が動かないのだ。……無理もない。いくら吸血鬼族の回復力が優れているとはいえ、短時間であれだけの回復を繰り返した。しかもライト相手では、精神的にも肉体的にももう限界だろう。

 複数の手が彼女の肩、腕、髪を掴む。

 

「離し、なさ――」

 

 抵抗の声は、地面に押し倒される衝撃にかき消された。血の糸が空中で霧散し、彼女は力尽きたように兵士たちに埋もれる。

 

 覆い被さるような兵士達の中で、微かな叫びを繰り返しているのが分かった。


「……逃げられない、わ」


 やがて騒ぎの中、絶望が滲んだ彼女の声がぽつりと聞こえた。


 それは、俺の中のわずかな希望を削ぐには、十分すぎるもので。

 ――これで、終わりか。

 四肢を押さえつけられ、もう身動きが取れない。


 まるで深い水の中に沈んでいくように、意識が、遠のいていく。

 視界が暗く、狭くなっていく。


 もう抗えない――。


「……待て」


 その時、低く、静かな男の声が響いた。


 その声には不思議な威圧感があり、周囲の喧騒が一瞬で止んだ。取り押さえていた兵士たちの力が緩む。

 その変化を感じ取り、俺は薄れかけていた意識を必死に引き戻した。何が起きているのか。

 兵士たちが動きを止めている。誰もが、声の主を見る。


 闇の中から、一人の男が姿を現す。夜に溶けるような黒翼。吸血鬼族特有の蒼白い肌。松明に照らされる、感情の見えない漆黒の双眸。


 ――こいつは。

 その人物には見覚えがあった。

 帝国軍の警備隊にいた頃、何度か目にしている。

 この男は血影ラシュエル。

 大臣直属の精鋭、鋼鬼四天の一角にして……ミアの叔父に当たる人物だ。


 ――鋼鬼四天……容赦のない人物だったはずだ。裏切り者の俺たちをどう扱うのか……。

 固唾を飲む。だが、彼の冷たい視線が俺に向けられることはなかった。彼はずっとミアの方を見ていた。


「ラシュエル様……!」


 兵士達が、敬礼する。

 闇の中から現れたラシュエルは、ゆっくりと俺達へ歩み寄る。足音一つ立てず、まるで影が動いているかのように。

 表情は無機質だった。

 だが、その沈黙の奥に凍りついた何かを感じる。


 ラシュエルの置かれた状況から、俺はその意味を察する。


 血影ラシュエルは軍に従順な男だった。

 ――だが、ラシュエルが都で仕えている間に、一族は反乱軍に加担した。

 兄たちも、親類も、皆。ラシュエル以外の北部吸血鬼族の殆どが、帝国に刃を向けた。


 ――ただラシュエルだけが、帝国に残り、命令に従っている。


 ラシュエルは、倒れたミアを見下ろす。

 その表情は、やはり冷たく、感情は読み取れない。俺はこの男について詳しく知っているわけではない。だが、これだけは分かる。彼は……いや、彼も、ミアに対して何かしら思うところがあるのだろう。


 ――ラシュエル。

 お前は、ミアにどんな夢を見ていたんだ……?


 **

 

 一族から除け者にされた立場こそが、ラシュエルにとって最大の引け目であり、唯一の誇りでもあった。

 ラシュエルの兄達は、いつも集まって酒を酌み交わしていた。父は、彼らの話には耳を傾けた。だが、軍に入った末弟には、一度も杯を勧めなかった。

 ――お前は、もう一族の者ではない。

 誰も口には出さなかった。だが、ラシュエルに対してのみ向けられるあの沈黙はそう語っていた。

 

 ――ならば、いい。俺は軍に生きる。お前たちが捨てたこの道で、お前たちより高く昇ってやる。

 そうやって、ラシュエルは感情を殺してきた。


 だがそれでも、一族に対する執着心が消え去ることはなかった。

 なぜなら軍に従うことは、ただ一族から与えられた役割を果たしているに過ぎなかったのだから……。


 

 ――ミア。

 ラシュエルは横たわる姪を冷たく見据える。

 ミアは、反乱軍の主力。

 ここで捕らえれば、帝国軍の功績になる。

 反乱軍は崩壊し、北部吸血鬼一族の責任はラシュエル以外の一族全員にのしかかるだろう。


 本来なら――それが正しい。


 いつも通り、命令に従えばいいだけだ。

 何も考えずに生きてきたように。


 だが、北部の城で共に暮らしていた頃の姿が、脳裏をよぎる。

 生意気で、棘のある少女。父の末弟である自分を「軍の操り人形のようだ」と嘲った、あの姪。

 あの言葉を聞いた時、ラシュエルは何も言い返せなかった。なぜなら、それは――……。

 

 あの古城の中で、ミアだけは違った。家の重圧に押しつぶされそうな空気の中で、ただ一人、感情のままに動き、誰よりも自由に夢を見ていた。

 兄たちが一族のためと呪文のように唱える中、ミアは彼女自身のために生きていた。

 ――なぜ、お前にはそれができる?

 ――なぜ、俺には、それができなかった?

 憎しみと羨望が胸を妬いた。その感情に名前をつけることすら、ラシュエルは長い間、拒んできた。

 帝国に忠誠を誓い、命令に従い、生きてきた。

 それが、自分の人生だと思っていた。


 しかし、ずっとミアは、自分の意思で生きようとしていた。

 一族に与えられた役割を果たすどころか、首謀者フィロンの助力もあったとはいえ、一族全体を反乱軍への加担にまで唆した。帝国の歪な秩序に抗い、反乱軍に身を投じた。


 それは、愚かなことかもしれない。

 だが、ミアは、俺が持てなかったものを持っている。ラシュエルはそれを痛感せざるを得なかった。


「……ミア」


 ラシュエルが静かに呼んだ名前に、取り押さえられたミアはゆっくりと顔を上げた。

 叔父の顔を見つめ、何かを言おうとして――言葉が出てこなかった。


 ラシュエルは、しばらく沈黙していた。


「……」

 

 ――ここでミアを捕らえれば、一族全員が処刑される。兄たちも、父も。……そしてミアも。

 ――それこそが、軍人として生きることを選んだ……いや甘んじて受け入れた自分の正しい選択だ。

 ――そして、俺を除け者にした一族への、最高の復讐になる。

 

 ――だが、ミアまで、殺したくはない。

 

 その感情が、どこから来るのか。ラシュエルには分からない。家族愛でも、情けでもない。

 ただ、胸の奥で何かが軋み、凍りついていた感情の檻に、小さな亀裂が走るのを感じた。


 ――これは、一族の役割ではない。

 ――軍の命令でもない。

 ――これは……俺自身の、選択だ。


 ラシュエルは、長く息を吐いた。


「……男のほうを捕らえろ。吸血鬼族の娘は、見なかったことにする」


「し、しかし! こいつは反乱軍の……!」


「命令だ」


 兵士たちがざわめき、困惑する。


「ラシュエル様、それは――」


「命令だ」


 繰り返されたその一言だけは、軍人の声だった。

 だが、心の中では血が流れるような熱があった。


 これを選んだ瞬間、ラシュエルは帝国にも、一族にも背いたのだ。


 ミアの瞳に驚きが浮かぶ。

 視線がぶつかった瞬間、ラシュエルの呼吸は微かに乱れる。


 ――情けをかけたわけではない。ただ、今だけは、自分の命令ではなく自分の意志で選びたかった。


「ライト将軍は、『見なかった』とおっしゃった。ならば、我々も吸血鬼族の娘は見なかったことにする。だが、男のほう――元警備隊、帝国軍の裏切り者ヴェルデは捕える。……それで良いな?」


 兵士達は、顔を見合わせた。

 これ以上、ラシュエルの命令に逆らうことはできない。


「……了解しました」


 兵士達は、ミアを解放する。ヴェルデは、取り押さえられたままだ。


「ミア……! 早く、行くんだ……!」


 ヴェルデが叫ぶ。


 だが、ミアは動けなかった。

 跪いたまま、ただ呆然とラシュエルを見つめていた。


「……叔父様……」


 かすれた声が漏れる。


 ラシュエルは、ミアに背を向けた。


「……二度と、私の前に現れるな、ミア」


 溢れた声は、冷たかった。


 ――これは一度きりだ。次に会ったときは、俺は命令に従う。

 ――今、この瞬間だけは、俺の意志で行動を選んだ。

 ――だが、もう二度と――この感情に、名前をつけることはない。


 だから――。


「次に会ったときは、容赦はしない」


 ――だから、もう目の前に現れてくれるな。

 ――俺が、また軍の……否、一族の操り人形に戻る前に。


「……立ち去れ」


 ラシュエルの言葉が、ミアの中で何かを動かした。彼女は奥歯を鳴らし、自らの手首を噛み切り、流れ出る血を口に含む。


 松明の光が揺蕩う中、ラシュエルの背が闇に溶ける。ほんの一瞬、後ろ髪を引かれるように、彼の黒い翼が揺れた。

 だが、彼は、振り返ってミアを見ることはなかった。


 **


 そのあまりに言葉足らずなやり取りの真意を、俺は完全には汲み取ることはできなかった。だが、兵士達の手が再び自分を掴み上げた時――世界が現実の重みを取り戻す。

 

 腕を掴まれ、引きずられるように歩かされる。足が地面を擦り、痛みが全身を駆け巡る。


 視界が揺れ、血の匂いが鼻を刺した、その時だった。


「……待て。こいつは反乱軍の……!」


 一人の兵士が、よろめくミアに向かって剣を振り上げた。ラシュエルの命令に納得がいかないのか、あるいは功を焦ったのか。


「お、おい……!」

「ラシュエル様の命令を……!」


 兵士たちが動揺する。

 だが、誰も追おうとはしなかった。

 吸血鬼族(ミア)の本性を目の当たりにした恐怖か、それともラシュエルの命令への畏怖か。


 刃が、ミアの肩口へと迫る。


 だが――。

 次の瞬間、鈍い音とともに、兵士の体が崩れ落ちた。


 ミアの手が、男の腕を掴んでいた。

 彼女の牙が、深々と食い込んでいる。


 ゴクリ、ゴクリと。

 生々しい嚥下音が、静寂の中に響く。


 吸い上げた血の残り滓を吐き捨てると、ミアはふらつきながらも身を翻した。

 闇に沈んでいた彼女の瞳は、今は炎のような光が宿っている。


 走り去る直前、一瞬だけ、ミアが振り返った。それが何を意味するのか、俺には、分からなかった。

 彼女は闇の奥へと駆けていく。

 足取りは覚束ない。だが、それでも迷いはなかった。

 

「……ミア様……そうだ」


 そう、小さく呟いた。


 ――逃げてくれ。生き延びてくれ。


 その想いだけを込めて。もう声は届かないと分かっていても、心の中で何度も繰り返した。

 戦場の跡地には、焦げ臭い煙と、種族の入り乱れた血の匂いが漂う。


 ――あぁ……。


 

 その情景を最後に、俺の意識は深い闇の中に沈んでいった。

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