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第69話 要塞から見た朝日 2

 思えば、ミアとは反りが合わなかった。


 初めて会ったのは、吸血鬼族の古城で目覚めたときだった。血まみれのフィロンの腕に噛みついた、黒いヴェールの少女。偉そうで、やたらと棘のある物言いをする。人族を見下す、典型的な亜種族に見えた。


 その後、要塞に配属されてからも変わらなかった。

 監視室で共に、厳しい戦況を何とか繋ぎ止める日々。俺はミアとはどうにもやりにくく、彼女と過ごす時間は普通より長く感じた。一方で、ミアは特に気にしている様子もなく、窓から身を乗り出しては、血で作った矢で帝国兵を射抜きながら笑っていた。


『要塞の中に閉じこもるのは退屈ね。どうせなら外に出て暴れてみたいわ』

『ケーキを切るようなものだもの』


 そう言って、人の命を奪うことに何の躊躇もない。

 俺も自ら反乱軍に身を投じたとはいえ、思わず「むごいな」と呟いた。ミアはそれを聞いて「見なければいいんじゃない?」と涼しげに返した。


 普段は女には優しくする。でもミアには、それができなかった。

 気を遣わず、ほぼ素の状態で話していた。


 それなのに、俺は――いや、だからこそなのか。

 戦場を見下ろすミアの横顔を、何度も盗み見ていた。

 血で弓を形作る指先。月光を吸い込むような純白の肌に、靡く黒髪が映えていた。戦場の喧騒の中で、一人不敵に笑う姿はまるで、物語の中から飛び出してきたようだった。


 ライトの英雄譚が好きだったと、彼女がぽつりと呟いていたことを覚えている。

 いつもの刺々しさが消えて、黒い瞳は虚に夜闇に溶けていた。その瞳は遠い過去を見つめているようでもあり、果てしのない未来を恐れているようにも見えた。


 ふと目が合い、逸らす。


 ……あーあ。

 ほんと、この悪癖には困らされるよ。


 **

 

 ――そして、あの言葉も思い出す。

 監視室で二人で過ごした時間。防戦一方の戦いを、耐え忍んだ時間。眠る間もなく、ずっと気を張っていた。ミアとは違って、吸血鬼族の体力と回復力など持ち合わせない人族の俺は、心身ともに限界に近づいていた。あるとき、そんな俺に、ミアは見かねたようにため息をつき、こう言ったんだ。


「私は、後悔していることがあるの。たった一人の……人生で唯一の友達が私の前から姿を消したとき、何もできなかった」


 いつもの刺々しさが消えた、静かな声。沈むように下ばかり見ていた視線を上げると、ミアは窓枠に身を預けて月を見上げていた。俺は緊張の糸を少し緩ませ、その声に聞き入った。


「でも今は違う。私は、あの子のために行動している。戦っている」


 そして振り返って、ミアは無表情で言った。


「ヴェルデも、そうでしょう? 目指す世界へ変えるために、ここにいる」


「……ああ」


「それなら、お互い……今度は、後悔を残さないようにしたいわね?」


 そう言うとミアは窓の外に視線を戻した。


「……ああ、そうだな」


 耳に流れ込んだ言葉に反射的に返事をしてから、はっとした。

 もしかしたら、これは励ましなのか。……無表情だったから、分かりにくかったが。……いや、そもそも励ましが善意に由来するものなのかは分からないか。

 でもミアは、いつもの毒々しい笑みは浮かべていなかった。

 

 確かに、下ばかり向いていても仕方ない。ミアは大切なものを失って、それでも、前を向いて道を拓こうとしている。


 俺だってそうだ。……そうだったはずだ。

 俺の母は、そうだった。禁止された女神への信仰を捨てず、迫害され、病に倒れても、最後まで祈りを捨てなかった。

 母が死んでから、十五歳だった俺は故郷から逃げるように冒険者になった。


 冒険者となり、警備隊や軍に入るのは、帝国の若者の多くが望む、ありふれた夢だ。

 ――それを叶えながらなぜ、俺はフィロンの誘いに乗り、反乱軍に入った?

 

 **


 要塞の最上階から見下ろした戦場。血の装飾を身に纏い……いや、全身が真っ赤に染まったミアの戦う姿が、遠くに見えた。


 その正面で、ライトの槍が振り上げられる。


 ――ミア。

 ……そうだよ。今なら、苦手だったあいつのことが、よく分かる。呆れるほど真っすぐで、妙に強くて、意地っ張りで。

 ミアは、自分の感情に、正直に生きているんだ。


 ライトに英雄譚への想いをぶつけ、散々に打ちのめされても、まだ立ち上がろうとしている。


 反乱軍のことを考えれば、俺だけでも逃げるべきだ。

 頭ではそう理解している。ここでミアと俺、二人が死んでも、何の意味もない。

 

 そして何より、ユリアナ様のことを考えれば、俺は生き延びるべきだ。

 ――彼女さえいれば、俺はいくらでも立ち直れる。


 ……そう、理解していたはずだった。


「……くそ」


 だが、俺は気づけば冷たい石の階段を駆け下りていた。

 まともな武器も持たずに。もはや有力な戦力はいないとはいえ、誰にも一言もかけずに。

 上着を脱ぎ捨て、心が求めるままにミアの元へと、血生臭い夜の戦場を駆け抜けていた。


「……ダッセぇな、俺」


 ただ、自分の道を貫くミアの姿が、輝かしく見えてしまった。だからだろうか。俺も、感情に真正面から向き合い、正直に生きてみたくなったんだ。


 走りざまに、放置されていた剣を拾う。死んでしまった誰かのものなのか、それとも、反乱軍の負けを悟り、逃げ出した者のものなのか。それは分からないが、俺は迷わずに取った。


 ……あいつが死んで、笑えるか? 俺は。

 自分の心に問う。気持ちに、向き合う。


「俺が求める、世界。帝国を壊そうというフィロンの手を取って、作ろうとした世界は――」


 俺達が十年を費やした反乱は、失敗に終わろうとしている。

 それは受け入れ難いことだ。

 だが、俺は思い出した。ミアを見ていて、記憶が呼び起こされた。

 俺は、自分が自分らしく生きられる世界を求めていたんだ。

 

 母のように――そしてミアのように。信じるものを、曲げずに生きていける世界を。


 ……味方の女の子一人見殺しにして逃げるなんてのは、いくらなんでもダサすぎるだろ。そうだ。こんなのは、俺らしくない。

 

 **


「ミア!」


 走り続けてようやく目に入った、その後ろ姿。俺は無意識に彼女の名前を叫んでいた。

 

「ヴェルデ!?」


 喉に血が絡んだ声が返される。

 その刹那、ライトの槍がミアの腹部を抉る。同時にミアはその出血で反撃。血の刃が光を裂く。しかし、ライトはその巨大な体躯に見合った槍の旋回で血液の結合を砕く。ライトはほとんど無傷といってよかった。対して、ミアは一歩ごとに血を失っていた。防御にも攻撃にも回避にも血を使っており、回復が追いつかない。人族ならばとうに命を失っているほどの失血。

 何とか持ち堪えている。だが、それもいつまで続くか。

 ヴェルデは距離を詰める。


 夜闇の中。月明かりがあるとはいえ、ヴェルデは吸血鬼族であるミアとは違い、視界は利かない。

 だが、ライトの存在を感じた。自身が覆い尽くされ、飲み込まれるような――そんな、圧倒的な気配を……。


 一瞬、その気迫に呑まれる。

 足が、竦む。


 だが、月明かりの中、ミアの横顔が見えた。闘志が宿る光で揺れる、その黒い瞳。

 ヴェルデは正気を取り戻した。

 次の瞬間、ライトの槍が振り下ろされる。

 ――まずい。ミアの反応が遅れた。


 無策に名前を呼んだ自身の愚かさを悔やむと同時に、状況を打開するべく、ヴェルデの目が槍の動きを追う。


 ――……なんだ? ライトのあの槍の軌道は。

 

 そして、違和感を覚える。吸血鬼族を殺すつもりなら、もっと速く、深く頭部を突き込むはずだ。だが、あれは……。

 ……まさか、ライトは、ミアを殺すつもりがない?

 いくらミアの回復力が優れているとはいえ、ライトの攻撃を一人で耐え続けることができるだろうか。

 ライトは俺達を生捕りにでもするつもりなのか……?

 

 確証はない。だが、賭けるしかない。……正直、そう仮定しなければ動きようがない。

 そう決めてから、彼は躊躇しなかった。剣を握りしめ、ミアとライトの間に飛び込んだ。

 金属音。

 剣と槍が激突し、火花が散った。


 衝撃が腕を貫く。骨が軋む音がした。剣を握る手が痺れるより早く、後方への加速を感じる。背中から地面に叩きつけられ、肺から空気が押し出された。


「……ガハッ!?」


 視界が歪む。耳鳴りがする。


 ――くそ、甘く見すぎた。完全な殺意がないだけで、この圧倒的な力の差は……!

 

 ライトが、ゆっくりとこちらを見下ろしていた。その目には、驚きも怒りもない。ただ、静かな疑問だけがあった。


「……お前は」


 低く、重い声。


「なぜ、ここに来た」


 ヴェルデは答えられなかった。呼吸が戻らない。喉が焼けるように痛い。


 ライトの槍が、再び振り上げられる。その切っ先が、ヴェルデの喉元を狙っている。


 感じたのは、絶対的な捕食者への本能的な恐怖。体が勝手に硬直する。視線ひとつで、呼吸の仕方すら忘れそうになる。


 ――だが、やはり。今の一撃でも、俺の命は残っている。ライトなら、一瞬で息の根を止められたはず。

 この男の気分次第で簡単に自分の命など吹き飛ぶという事実は変わらないが、それでも賭けは、まだ続いている。


 そのとき、ライトとヴェルデの間に、赤い閃光が割って入る。血の鞭が、ライトの槍に絡みつく。だが、力が入っていない。鞭はすぐに解けて、地面に落ちた。


「……お前は、もう動けまい」


 忌々し気に顔を顰めて荒く呼吸するミアに、ライトは冷たく告げる。


「この男も、お前を守るには力不足だ。……ここで終わりにしよう」


 ライトの意識がミアに向けられたその一瞬、ヴェルデは、体を起こした。手足が言うことを聞かない。頭が割れるようで、感覚が、ほとんどない。

 それでも、立ち上がった。そして、剣を拾い上げる。


「……おい、ミア様。あんた、すげえな」


 掠れた声で、笑ってみせる。

 ライトに殺意はない。だが、それは気まぐれかもしれない。この男の気分次第で簡単に自分の命など吹き飛ぶという事実は、変わらない。

 少しでも気を抜けば、ヴェルデはすぐにでも逃げ出してしまいそうになった。そんな相手に一人で立ち向かっていたミアに、彼は純粋な敬意を覚えた。


 ライトの目が、今度は確かにヴェルデに向けられた。

 老いた英雄の目は冷たく、だがそこに迷いが混じっていることをヴェルデは見逃さなかった。


 ――やはり、迷いがある。それが何なのかは分からない。だが……そこに付け込めば、微かな勝機が……。

 

 背後に目をやる。ミアの全身からは出血が続いていた。体内の血液の操作すらも覚束なくなっているようで、彼女の肌は蒼白く、唇も血の気を失っていた。


 ヴェルデは奥歯を噛みしめる。

 この状況で、どうすればいい。どうすれば、ミアを逃がせる。


 目の前には、鬼神の如き、英雄ライト。

 ――敵と真正面から対峙するのは、久しぶりだ。


 風が吹く。

 無意識に、ヴェルデは風の流れを読む。今は失くしているが、通常は武器をチャクラムとするゆえ、それはいつのまにか彼の癖になっていた。

 彼が先手必勝の飛び道具、チャクラムで戦うようになった理由は何だったか。それは、いつからだったか。


 ――たしか、冒険者になって間もない頃。正面から敵と向き合うのが怖くて、遠距離から攻撃できる武器を選んだんだ。


「もうずっとチャクラムを使ってたからな。剣で戦うなんてガキの頃以来だ」


 自嘲気味に呟く。


「そう」


 ミアの声が、いつもと違って聞こえた。


「あんたの武器……殲獣製よね。材料は何?」

 

 後ろから投げかけられた唐突な質問に、ヴェルデは一瞬戸惑う。


「……亀型の殲獣の甲殻だ。鋼鉄より軽くて丈夫で、風によく乗る」


 それを聞き、ミアは不敵に笑った。


「それなら……できるかもしれないわ」


 彼女は物陰に目を向けた。そこには、逃げ損ねた帝国兵数名が立ち尽くしていた。


 ミアの妖しい視線に、彼らが息を呑んだ次の瞬間――。


 ミアの腕から血が鞭のように伸び、最も近くにいた兵士の首を絡めとった。


「な――!」


 悲鳴を上げる間もなく、一人の兵士が引き寄せられる。それは若い、鬼族の女だった。

 ミアはその首に鞭を巻きつけ、自分の前に引き据えると血の鞭で宙に吊り上げた。


「動かないでよ、英雄さん」


 ミアは嘲笑う。人質の首に、鋭く尖った血の刃を突きつけ、髪を持ち上げながら。

 奇しくも、その鬼族の女は緑髪だった。


「一歩でも近づけば、この子の喉は開くわ」


 ライトの足が、止まった。

 その表情に、わずかな変化が生まれる。眉が僅かに寄せられ、槍を持つ手に力が入った。

 

「……」


 だが、ライトは動かなかった。

 ヴェルデは息を呑む。

 ――人質作戦。そんなものが、この男に効くのか? 人質を、誰かと重ねでもしているのだろうか……。

 ミアは兵士の首筋に牙を立てた――が、一口啜った瞬間、顔をしかめた。


「……不味い。馴染みが悪いわ」


 小さく舌打ちをすると、兵士の首を解放する。兵士は倒れ込み、そのまま動かなくなった。気絶しただけのようだ。

 

「ミア様、よりにもよって女の子じゃなくても……」


 ヴェルデが口を開くが、ミアの一瞥にすぐに閉ざす。


「血の相性というものがあるのよ。私は、女の血の方が馴染むのだけれど」


 ミアは倒れた兵士に視線を落とす。


「……この娘は、合わないわ」


 ミアによると、相性の悪い血では回復が不十分らしい。ふいにミアはヴェルデの脇腹――槍で裂かれた傷を見つめる。

 二人の目が合う。

 一瞬、ミアは悪戯な笑みを浮かべた。


「……良い香り。あなたの血の方がまだ、私の体に馴染みそう」


「……マジで言ってんのか?」


「冗談を言うような状況に見える? 回復しなければ、私はまともに戦えない」


「それに――」


 ミアがヴェルデの脇腹に手を伸ばす。


「あなたの傷も塞がないと、どうせすぐに倒れるでしょう? 私が吸血すれば、止血するわ」


「っ……」


 冷たい指先が裂けた服の隙間から傷口に触れ、ヴェルデが身を強張らせる。


「そのまま、動かないで」


 普段とは異なる、低い声。そして、ミアは躊躇なく、ヴェルデの脇腹に顔を近づけた。


「……おい、マジで……」


 ヴェルデの声が上ずる。

 そのとき、視界の隅で、槍を構え直す動きが見える。靴底が地面を擦る、わずかな音。

 ライトが一歩、踏み出そうとしている。


「待ちなさい」


 ミアの声が鋭く響く。

 見ると、彼女の血の弓矢が、まだ地面に倒れている人質の女に向けられていた。気絶しているだけで、まだ息はある。


「この子の命が惜しくないなら、どうぞ。でも――英雄様は、そういうことはなさらないでしょう?」


 ライトの足が、再び止まる。

 その目が、冷たく二人を見据えていた。だが、彼は動けない。


 ミアはヴェルデに視線を戻すと、唇だけを動かして囁いた。


「……時間を稼ぐわ。あなたは、動かないで」


 そして、ミアの舌が傷を這った。

 ヴェルデは思わず息を止める。心臓の音だけが、やけに大きく響いた。


 ――何だ、これ。

 敵の英雄を前にして、命のやり取りの最中だというのに――。

 どうして今、こんなことに意識が――。


 視界の端に、ライトの姿が映る。

 動かない。だが、その目はこちらを見ている。まるで、何かを測るように。

 

 槍の穂先が、月光を反射して鈍く光る。あの穂先が、いつこちらを貫いてもおかしくない。

 分かっている。分かっているのに――。

 ミアの舌の感触が、異様なほど鮮明に意識に焼き付いていく。

 麻痺しているのか、痛みは少なく、ただ、熱が奪われていくような、奇妙な感覚があった。


 人質の女に向けられた血の弓矢。それを操るミアの集中力が、今この瞬間も途切れないように維持されている。

 少しでもミアの意識が途切れれば、ライトは動くだろう。

 そして、全てが終わる。


 ヴェルデは、ライトから目を離さないようにした。

 だが、ミアの頬に、うっすらと赤みが差すのが視界の端に映る。その唇がわずかに開き、吐息が漏れた。


 ――集中しろ。ライトを見ていろ。

 自分に言い聞かせる。


 だが、気づけば、ミアの顔を見つめていた。

 黒い瞳が潤み、普段の冷たさが熱に溶けている。血を取り込み身体を潤す吸血鬼の本能が、そこにあった。


 彼女の全身を網のように覆う血の装飾は一層華やかになり、それと溶け合うように傷が、みるみる塞がっていく。


 そして、ミアは顔を上げた。口元に血の痕を残したまま、涼しげに言う。


「……存外、美味だったわ」


 その言葉に、ヴェルデは一瞬呆けた顔をする。


「……は?」


「冗談よ」


 ミアは小さく笑う。

 ヴェルデは自分の脇腹を見下ろした。出血は止まっていた。傷口が、薄い膜のようなもので覆われている。


「あなたの傷も、私が吸血したおかげで塞がっているわ」


 ミアは背を向ける。


「お返し、よ」


 その言葉は、小さく付け加えられた。予想外の言葉に、ヴェルデの口の端が吊り上がる。


「まったく……女神様に感謝すべきかもな」


 ヴェルデはわざと軽い調子で言う。


「女神?」


 ミアが振り返る。その顔には、もういつもの冷たい表情が戻っていた。


「……ああ、皇帝崇拝に統制される前は、ほとんどの人族が崇拝していたっていう……」


 ミアは淡々と言う。その声には、わずかに嘲りが混じっていた。


「あいにく、私は神話の類は信じないことに決めたのよ。……それより――」


 ミアの手のひらから血が溢れ、空中で形を成していく。

 深紅の液体が固まり、輪郭を作り、やがて――円環状の刃へと変わった。


 ヴェルデが愛用していたチャクラムと、ほぼ同じ大きさ、同じ質量。

 血で作られたそれは、月明かりを受けて禍々しく輝く。

 

 ヴェルデは思わず笑みを浮かべた。

 血で作られたチャクラムが、ゆっくりとヴェルデの手元へと浮遊してくる。

 掴んだ感触は、確かに殲獣の甲殻に似ていた。重さも、釣り合いも、完璧だった。


「……驚いたな。こんなことまでできるのか」


「監視室で、あんたのチャクラムの話を何度も聞かされたからね。大きさも、重さも、だいたい分かるわ」


 ミアは肩をすくめる。


「ただし、長くは保たないわよ。私の血で作っているから、集中力が切れたら消える。……それに」


 ミアは自身の体を見下ろす。


「もう、朝が近い。これが最後の援護になるわね」


 その言葉に、ヴェルデは奥歯を噛みしめた。


「……上等だ」


 血のチャクラムを構え、ライトを見据える。


「……自分らしく、悔いのないように生きる。それが、ミア様が反乱軍に入った理由だろ?」


 覚悟を決めた声だった。


「俺もそれ、やってみようと思ってさ」


 ミアは、一瞬だけ目を見開いた。

 そして――静かに、言葉を返す。


「……悪くないわ」


「そうかよ」


 ヴェルデは苦笑する。


「ともかく、俺は来ちまったんだ。……何とか、お前だけは逃がすよ」


「……」


 ミアは目を細めた。そして、小さく笑みを溢して――。


「……悪いけれど、逃げないわ。自分らしく生きるんでしょう? ヴェルデ」


 それは、かつてミアが共に言えなかった言葉。

 真紅の唇が、綺麗に弧を描く。

 その笑みは、毒々しいほどに美しいものだったが、どこか温かみのあるものだった。


 **


 ヴェルデは、血のチャクラムを構えた。

 深呼吸。冷たい夜気が肺に入り込む。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。

 ――いける。いや、いかせる。

 そう自分に言い聞かせ、足裏に力を込める。

 地を蹴る瞬間、ライトとの距離と風向、足場の硬さを計算していた。

 チャクラムは、角度と回転で全てが決まる。

 真正面からでは勝ち目はない。狙うのは、死角。……そのために、まずは正面突破を装う。

 血のチャクラムを投擲する。赤い軌跡が夜を裂き、ライトへと迫る。


 真っ直ぐ飛ぶ一枚は陽動。チャクラムの一つは、大きく弧を描き、ライトの背後に回り込む。

 そして、もう一つはヴェルデの方へと戻ってくる。

 二枚の刃が、異なる軌道で敵を挟み撃つ。これが彼の定石。

 

 ライトの槍が、ほとんど無駄のない動きで振るわれる。

 背後から迫る一枚が弾かれ、地に突き刺さった。

 反応が速すぎる――いや、予測していたんだ。あれは反射じゃない。読みだ。


 ――だが、ここまではこっちも読み通り。今、生まれた隙に!


 ヴェルデは戻ってきたもう一枚を指で絡め取ると、同時に間合いを詰めた。

 ――やはり、殺意は感じられない。だが、その瞬間。


「っ……!」


 ――隙、そんなものは存在しなかった。

 槍が閃き、腹部を狙って突き出される。

 速い。軌道が読めない。

 避けられない、と判断した瞬間――血の鞭が、槍に絡みついた。


「諦めるのが早すぎるわ」


 ミアの声――いつもの刺のある調子が、少し戻っている。

 槍が引かれ、わずかに軌道がずれる。

 ヴェルデは即座に判断を切り替え、身体を横へ。槍先が脇腹を掠め、鮮血が飛ぶ。


「くっ……!」


 痛みを飲み込みながら、ヴェルデは足を滑らせるように体勢を整える。

 その反応速度に、ライトの目がわずかに細まった。

 視線をヴェルデに向けたまま、柄でライトはミアの胴体を薙ぎ払う。

 ――俺を見ている。次は来る。

 槍が振るわれる。避けられない距離。

 ヴェルデは迎撃のために腕を上げかけ――止まった。


 この風。

 ……やはり。空気の流れが、殺すためのものじゃない。


 次の瞬間、槍はヴェルデの眉間からずれる。ヴェルデの頬を掠め、地面に突き立った。静まり返る空気。

 ヴェルデの体は強張り、浅い呼吸が繰り返される。


「……」


 ライトは、静かにヴェルデを見下ろしていた。


「……一つだけ、問おう。お前は、あの娘を守るために来たのか」


 低い声だった。


「……ああ」


 ヴェルデは、震える声で答えた。


「だったら、もういい」


 ライトは槍を引き抜くと、背を向けた。


「お前達のことは、見なかった。……それでいい」


 その言葉に、ヴェルデは息を呑んだ。


「……なんで」


 問いが、漏れる。

 ライトは一瞬だけ、夜空を見上げて言った。


「……お前の選択は……昔の俺には、できなかったことだ」


 その声は、遠くの記憶に向けられていた。


 ――『昔の俺には、できなかった』……。

 その言葉が、ヴェルデの胸に引っかかる。

 戦闘中ずっと感じていた違和感。殺意のない攻撃。何かを試すような槍捌き。

 十年前に隠居したはずの英雄が、なぜ今、都に戻ってきたのか。

 ――この戦いは、彼にとっては義務ではないのかもしれない。もっと他の、何かを彼は求めている。

 ヴェルデはそう思った。


「次に会ったときは、容赦はしない。……それまでに、強くなっておけ」


 ライトは歩き出し、その背中が、闇に消えていく。


 ミアは倒れたまま、何とか身を起こそうとしていた。

 彼女の命があることに安堵の息を吐く。そして、信じられない思いで、ヴェルデは自分の手を見た。……まだ震えている。


 

 戦場の向こう。

 地平線から、目が覚めるような光が溢れ始めているのに、彼らはまだ、気が付かない。

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