第67話 城から見た朝日
ミラクの足音だけが響く、城の冷たい廊下。
幼少の頃に仕込まれた気配を消す術を使うこともなく、ただ思考を馳せながらミラクは歩いていた。
「フィロン……俺に対する怒りと憎しみは、お前自身の感情ではなかったのか?」
先の見えない長い廊下に目を細めながら、ミラクはぶつぶつと独りごちる。
晴れない胸中で、彼は自分自身に終わりのない問いかけを繰り返していた。
――今はもう、フィロンの気持ちを理解できない。
明らかな感情を持ちながらも、煽りに乗って自身に感情が無いと思い込んだフィロンが、今のミラクにとってはただ神経に障る。
――感情と呼べるほどの熱を、生まれながらに持っていた者。
兄を想い、仲間を想い、そして仲間に想われていたフィロン。
兄への唯一の感情に囚われ、他者の感情を操り、自分の感情に溺れて死に行くどうしようもない愚か者。
――だが、それでも。
フィロンには、元々あったのだ。
人を愛する力が。人に怒る力が。人を憎む力が。
――元々持っていたが失った者と、初めから持っていなかったが得てしまった者は、似ているようでその実は何もかも異なる。
「……」
ミラクはフィロンを刺した短剣を抜き、見つめる。そして、フィロンの死が仄めく短剣に、意識を委ねてみる。
……やはり、己の内側から湧き上がるものはない。そこにあるのは空虚のみだ。
フィロンから得られるものは、もう何もない。奴はただ、失ったものを求め、残り滓に縋っていた……。……俺は……。
そこまで考えてミラクは目を閉じる。
感情と呼べるほどの熱を生まれながらに持っていた者には、理解できないのだろう。
ミラクは足を止め、目を開く。そして廊下の窓から外を見た。
サキ達が都の街を駆けていた頃には高く昇っていた月が、今は沈もうとしている。
――やはり遊び過ぎた。もう、時間が残されていない。
「……どうしようもない愚かさは、俺も同じか」
ミラクは短剣を影の中へと消し、思考に切りをつけ、歩みを速める。
すべては、そう――生きたまま感情を得ることのできる唯一の存在、サキとの関係を複雑にし、その感情を愉しみ尽くすために。その果てに、絶望という極上の感情を味わうために。
――だが、その時。
城全体で繋がった影――彼の支配下となった影が、異質な存在を捉える。
ミラクは足を止め、城の奥を振り返る。近づいてくる気配。濃密な殺気を纏った、強い存在。
「……厄介なのが来たな」
この気配の主は、サリィだ。
間違いなく、フィロンを殺しに来たのだろう。
仕方なく、ミラクは開放していた殺気と殺意を押し殺す。息苦しさを覚える。
だが、それさえも抑え込み、また呼吸をする。
「何が起こるのか興味深くはあるが……俺の出る幕ではないな」
ミラクは肩をすくめ、彼女と遭遇しない方向へと踵を返す。
影が廊下に溶け込み、ミラクの姿が闇に消えていく。
廊下には、静寂だけが残った。
**
月が沈みかけ、薄い光が城の壁を染め始めた頃。
重厚な扉が、軋む音を立てて開かれる。
レーシュはフィロンを腕に抱いたまま、はっとして振り向く。
レーシュは息を呑む。扉から現れた人物の目的を、理解してしまったからだ。
「フィロン……」
その声の主は、サリィだった。サリィはフィロンの名前だけを呼び、ただ歩みを進めた。サリィの肩にはカティアの死体があった。体を内側から食い破られて無惨に死んでいるカティアの遺体を、躊躇なく抱き上げていた。
「……レーシュもいたのか」
サリィの声が、静かに響く。
「地下牢にあったのはカティアの死体だけで、お前もソニアもテツも地下牢にいないから、どうしたのかと思っていた」
レーシュは何も答えられず、ただフィロンを抱きしめる。
――サリィが来た。来てしまった。……フィロンを、殺しに。
それは、分かっていた。反乱を起こした以上、彼女と敵対するのは避けられない結末だった。
「城で何があった?」
サリィが尋ねる。
「……ミラク、が……こうしたの」
レーシュは息を吐くように言った。
「……そうか。アレも、いよいよ引き返しがつかないな」
足を止め、サリィは静かにカティアの亡骸を床に横たえる。そして、殺気の揺蕩う赤い瞳でフィロンを見下ろした。
レーシュの腕はカタカタと震える。
――やめて。お願い。まだ……。
だが、その願いは口にできなかった。
――その時。
フィロンの胸がかすかに動いた。乾いた息が漏れ、薄く目が開く。だが、虚な目に浮かぶ意識は頼りない。
「……レー、シュ……?」
もう目を覚まさないと思われたフィロンの声。
フィロンの瞳は、レーシュとサリィ、二人の間を朧げに彷徨う。
「生きていたのか、フィロン……。……お前のことは……私が殺してやらねばと思っていた」
サリィが告げた言葉に、レーシュの唇がわずかに震える。だが、声は出なかった。
フィロンは小さく笑う。その笑みには力がなかった。
「……そっか。そうなんだ。……はは」
「……何がおかしい?」
「ううん……ただ、サリィって……やっぱり不器用だけど、優しいんだなって思ってね」
フィロンは目を閉じかけながら、小さく呟く。
「……レーシュやソニアが懐くのも、わかる気がするな」
過去の記憶に身を委ねているせいか、普段よりも幼い言葉遣いだった。
「……僕もね。思い返せば、そうだったんだ」
フィロンの声が、遠くなっていく。
「遅すぎたけれど……ようやく気づいたよ……僕、暗殺部隊のことも、あなたのことも……嫌いではなかった。でも、兄の影と復讐に囚われて、ずっと自分の気持ちから、逃げてばかりだった……」
サリィは黙って聞いていた。
帝国内で、人族が正当に扱われる場は、稀だ。
暗殺部隊は、能力がすべてを決める場所だった。それは、フィロンやソニアのような能力に恵まれた人族にとって、ある意味で救いでもあった。
「……フィロン。お前を殺すという決定は、もう覆らない。私も……帝国が勝った未来の方が、まだましだと思っている」
レーシュは、フィロンを抱く腕に力を込める。
それ以外に何もできなかった。
無力だからというよりも、フィロンがすべてを選び取ってサリィと会話していることを、尊重したかったからだ。
「……ねえ、サリィ。最後にひとつだけ……お願い、してもいいかな」
フィロンが震える手をゆっくりと伸ばす。サリィはその手を取らなかったが、身を屈めてフィロンと視線を合わした。
「何だ?」
「――あなたの手で、僕を殺してほしいんだ。……僕はそれで、兄さんと同じになれる」
静かに、まっすぐに向けられた願い。
「……兄から解放されたのではなかったのか?」
サリィは一瞬、困惑を滲ませた。
だが、フィロンの濁りかけた瞳の奥に映るのは、確かな意思だった。もう言葉を交わすことすら怪しいほどに朽ちかけた命の奥に、わずかな輝きが残っていた。
「……分かった。……ずっと、お前のこともそうしてあげるべきだったのかもしれないと思っていた」
――ああ、ようやく……終わる。
「……ありがとう。サリィ……」
フィロンの唇が、かすかに笑んだ。サリィはフィロンの顔を見つめたまま、ほんの一瞬だけ瞼を伏せた。
レーシュは、目を閉じる。
――ああ、止められない。
――サリィは、育てた子供達に、自分が得られなかった愛を与えようとしてきた人だ。不器用だけれど、その想いは二十年という時間が証明している。
音はほとんどなかった。ただ、肉を断ち、骨を裂く手応えがあった。
血飛沫は床を染めていった。
サリィは剣を引き、短く息を吐く。血染めの床に転がる頭部を抱き上げ、頬を両手で撫でた。
その目は揺れていなかった。だが、何かを噛み殺すような沈黙が彼女を包んでいた。
血の匂いの中で、サリィは言葉を紡ぐ。
「……二十年。お前たちと過ごした時間は、思っていた以上に長かった。フィロン……この戦争を起こしたことは……明らかな間違いだったな」
事切れたフィロンの耳元で、囁いていく。
そして、最後に。
「誰にでも取り返しのつかない過ちを犯すことはある。……だが、フィロン……お前の死を以て、私はお前を赦す」
そう呟いて、サリィは背後から差してきた光の中で、もう何も写さなくなったフィロンの目を撫でて閉じた。
サリィは、自分が得られなかったものを子供達に与える――。
取り返しのつかないことをした時に殺してもらうことも、その上での赦しも、かつて彼女が望んだことだった。
「早く……この馬鹿げた戦いを、終わらせよう」
窓のそばへと歩み寄ったサリィは、城の外を見下ろす。
――なあ……ライト。お前ならばそれが可能だろう?
サリィは窓の柵を握りしめる。暁の空のように優しく、そして仄暗い赤の瞳の向こうでは、同じ色をした朝日が昇ろうとしていた。
「……フィロン達が、こんなことを引き起こしたのは……誰の責任なんだろうな。あいつを育てた私か。暗殺部隊を生み出した大臣共か。……それとも、帝国の建国を導き、すべての運命を捻じ曲げた――お前か。……ライト」
幼い頃、母と二人で暮らしていた秘境。母の面影を求めて辿り着いた都で出会ってしまった、ライト。帝国の将軍として粛々と任務をこなす中、引き受けた暗殺部隊の育成で出会った人族の子供たち――。
――私が得られなかったものを、あの子達には与えたい。そんな独善的な願いは、叶わない――……。
過ぎ去った時が、風のように身を流れる。
――今はただ……懐かしい記憶の中で、静かに眠りたい。
そんな気分だった。
**
サリィは窓から視線を戻し、命を失ったフィロンの身体の傍らに座り込むレーシュを見下ろした。
レーシュは顔を上げない。ただ、フィロンの手を握り続けている。
「レーシュ」
サリィの声が、静かに響く。
「お前も、フィロンの反乱に加担した。……同罪だ」
「……わかってる」
レーシュの返答に、サリィは剣の柄に手をかける。金属が軽く鳴る音が、静寂を裂いた。
だが、剣の切先を向けられてもレーシュは動じない。ただ、フィロンの手を握ったまま、静かに言葉を紡ぐ。
「……あたしのことも、このまま殺す? サリィは、そうするべきだと思うかもしれない」
レーシュは一度息を吸い込む。血の匂いが、フィロンの死の実感と共にまた鼻腔をくすぐった。
「……でもね、サリィ……結果的にだけれど、あたしのおかげで……あなたはフィロンを殺せたの」
サリィの手が止まる。剣に纏っていた殺気が乱れるのを肌で感じながら、レーシュはサリィへと視線を移す。二人の視線が交わる。
「……どういう意味だ?」
「フィロンは、ミラクに……既に殺されていたの」
サリィに視線を捉えられたレーシュの声が震える。
「……でも、あたしが……命を分けて、生き返らせた」
「命を分けた……?」
サリィの声に、わずかな動揺が滲む。レーシュは頷き、フィロンの手を強く握った。
「何年も前から準備していた術。あたしの寿命を、フィロンに注ぎ込む術……」
窓から差し込む光が、レーシュの白い髪を照らす。乳白色に近かった白髪は、さらに色を失い、真っ白になっている。
「あたしは……フィロンを、完全に生き返らせるつもりだった。あたしの命をすべて捧げてでも……」
サリィは黙って聞いていた。サリィの視線はいつのまにか、レーシュとフィロンの繋がれた手に注がれている。
「でも……フィロンは、それを拒んだの」
レーシュの声が途切れかける。交わっていた視線は伏せられ、溢れた涙が、フィロンの手に落ちた。
「あたしに、自分の意思で生きろって……そして、最後に自分で選んだ想いを、あの子達に、伝えて欲しいって……」
「あの子達、か」
サリィが短く呟く。その声には、複雑な感情が滲んでいた。
レーシュは顔を上げ、サリィを見つめる。涙に濡れた瞳が、窓から差す光を反射している。
「だから……結果的に、あたしがフィロンを生かしたから……あなたが来るまで、フィロンは生きていられた。あなたの手で、フィロンは逝けた……」
レーシュは震える息を吐き出す。
レーシュが命を捧げたこと。フィロンが短い間だが命を繋いだこと。そして、サリィの手でフィロンが逝けたこと。それらの事実を噛み締めながら、交渉の言葉を紡いでいく。
「あたしの寿命は、もう……ひと月ほどしか残ってない。フィロンに、あたしのほとんどを注ぎ込んだから」
部屋に、沈黙が降りる。
血の匂いと、朝の光。死と、生の狭間のような空間で、二人は向き合っていた。
サリィは剣を鞘に戻し、深く息を吐いた。
「……そうか」
しばらくの沈黙の後、サリィは静かに言った。
「レーシュ。お前を今ここで殺すことはしない」
レーシュは戸惑うように目を見開く。
レーシュはサキ達のところに向かわなければならない。
ここでサリィに殺されるわけにはいかないから、サリィを説得した。
――望んでいた答えのはずなのに。
心のどこかで死を受け入れていた自分がいた。
「でも……あたしは、フィロンの反乱に加担した……」
レーシュの吐露に、サリィはフィロンの遺体を見下ろす。
「お前はもう、自分で罰を受けている。……そして、罪と真正面から向き合おうとしている」
頭部と身体が離れたフィロンの姿が、朝日に照らされている。
「……お前の行為の意図がどうであれ、結果として、私はフィロンと向き合うことができた。あいつの最後の願いを聞き、赦すことができた」
サリィは窓の方を向く。外では、夜明けの空が広がっていた。
「お前は……フィロンの言葉を受けて、自分の意思で選んだのだろう? フィロンと破滅へ向かうのではなく、これまでの人生と向き合うことを」
レーシュは息を呑む。
「……なんで、それを……」
サリィは振り返り、レーシュを見た。
「お前の目を見れば分かる。……変わったな」
レーシュの瞳は涙に濡れながらも、ただ無心にフィロンを見つめていた時とは違っていた。誰かのためではなく、自分自身で選んだ者の目だった。
「お前には、まだやるべきことがある。フィロンが最後に託した想いを、ソニアやテツに、そしてサキ達に伝えること」
サリィは扉へと歩み始める。
「……お前自身が選んだ道を、最後まで歩け」
「……サリィ」
「ひと月しかないなら、無駄にするな。……お前が自分で選んで乗り越えたのなら、その先を生きろ」
そう言って、サリィは扉を開く。廊下にも、薄い朝の光が差し込み始めていた。
「……要塞の方も、既に片はついた頃だろうな」
その言葉を残して、サリィは部屋を出ていく。扉が閉まる音が、重々しく響いた。
レーシュはフィロンの体の傍らに膝をつき、ただその手を握っていた。もう彼の肉体からは温もりは失われつつある。それでも、レーシュはその手を離さなかった。
彼女は、頭部のないフィロンの身体に、誓っていた。
「……必ず、あの子達に伝える。……君の想いと、あたし達の罪に、向き合うために」
血に濡れた床に手をついて、レーシュは立ち上がる。息を大きく吸い込むと、血と石の匂いが混ざった重い空気が喉を刺した。気持ちがいっぱいいっぱいのせいか、それだけで悲しみや弱さが溢れてしまいそうになる。
――でも。悲しみに浸っていようとも、時は流れる。
彼女は進むことを選んだ。いつまでも泣いているわけにはいかない。
レーシュは眩しげに細めた目を、窓の外へと向ける。
夜明けの光が、部屋を満たし始めていた。
次回「要塞から見た朝日」




