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第66話 レーシュの選択

 ――一年、二年、三年、四年、五年……十年、十五年。

 

 ――いったい、どれくらい、君に捧げたら足りる……?

 君の命を繋ぎ止めるために、あたしの命は……あと、何年分で足りる……?


 薄暗い石壁に囲まれた城の中は、君と時を重ねた砦と大差ない。

 ただ、君は思い出とは違い、呼吸を止めて横たわっている。それを見ていると胸が詰まって息苦しくなるけれど、決意はより強まる。


 ――君を、このまま死なせたりはしない。

 

 床に描いた魔術陣が、淡い紫色に光っている。幻獣型の殲獣の血で描かれた複雑な紋様。その中心で、あたしは自分の生命力をフィロンへと(そそ)ぎ込んでいた。


 かざす両手の先で、フィロンの目は閉じたまま。鼓動も、感じないまま。

 だから、あたしは、(そそ)ぎ続ける。

 

 ――あたしが、フィロンのために研究してきた術。

 暗殺任務を行わず、魔術の研究室に籠もっていた日々。

 洗脳薬の調合も、魔術の解析も、帝国軍から任務として与えられたものもあったけれど、あたしにとっては、すべてはフィロンの役に立つための行為だった。

 

 その中で、万が一のときのために、この術のことを考えていた。

 もし、フィロンが命を失いかけたとき。

 ……そのときは、あたしの命を捧げよう、と。

 

 暗殺部隊の立場は、利用し甲斐のあるものだった。秘匿されていた文献を読み解き、複数の幻獣型殲獣の血を組み合わせ、魔術陣を描いた。

 そして、いずれ皆とは同じように年を重ねられなくなるから嫌いだった――ご先祖さまにたった一人だけ居たらしい、この身に僅かに流れる長耳族の血で、魔術陣を上書きした。

 これは、何年もかけて、構想した術。

 ――だけれど、まさか本当に、フィロンを生かすために使うことになるなんて。

 

 ――二十年、三十年。

 

 捧げた生命力は既に、今まで生きてきた年月を超えた。

 ……でも、あたしはまだ、いくらだってあげられる。


 あたしの生命力が具現化した紫の(もや)が、フィロンの身体を修復していく。傷口が塞がり、骨が繋がり、血が巡り始める。でも、まだ足りない。……もう、もしかするとあたしの命をすべて捧げることになるかもしれない。

 

 ……それでもいい。

 ――そうしたら、あたしはフィロンの一部になって、二度と、離れることはなくなる。

 寿命は、もう、ひと月ほどしか残っていない。

 このまま、フィロンの命の一部になる――……それも良いな、なんて思い始めていた。

 

 だけれど、寿命を使い切る前に、その時はやってきた。

 紫の(もや)の中、フィロンは、微かに目を開けた。

 

「フィロン!」

 

 待ち焦がれた瞬間に、あたしは思わず叫び、顔を寄せる。


「……レーシュ……?」

 

 フィロンの声は掠れていた。

 

「……なぜ、また意識が……? ……君は、何を……」

 

 フィロンの瞳が、あたしを映す。そして、すぐに気づいたようだった。

 あたしの白髪が、以前よりさらに色を失っていることに。肌が、透けるように白くなっていることに。紫の瞳の光が、灰色に近づいていることに。

 

「……まさか、君……自分の命を……」

 

 まだ視界が不安定なのだろう。目を細めたフィロンの視線が、床に描いた魔術陣に向けられる。複雑な紋様を見て、フィロンの表情が歪んだ。

 

「……フィロン、そんな悲しい顔をしないで」


 あたしは、フィロンに悲しんで欲しくはなかった。震える手で、フィロンの頬に触れる。その肌は、少しずつ温もりを取り戻し始めている。

 

「フィロンに、生きていて欲しいの」

 

「……だからと言って、君が、命を差し出す必要はない」


 フィロンの声が、苦しげに震える。

 

「いいの……! あたしは、フィロンがいない世界でなんて、生きてはいけないから――」


 心から溢れた言葉。それは嘘でも誇張でもない。あたしの人生は、フィロンと共にあった。フィロンがいない世界など、想像することすらできない。


 その言葉に、フィロンは黙って小さく首を振った。

 

「聞いて。……いつまで、こうして君と話していられるか分からないから」


 フィロンは静かに言った。その声には、いつもとは違う、何か強い意志が宿っていた。あたしは言葉を飲み込む。


「……なに?」

 

 フィロンは苦しげに息を吐く。

 

「僕は……君に何も返せなかった。君の気持ちに、応えることもできなかった」

 

「……そんなこと、ない」


 あたしは首を横に振る。


「あたしはフィロンが、あたしの近くで生きていてくれただけで充分だった」


 本当にそうだった。フィロンの隣にいられるだけで、あたしは幸せだった。


「それに、あと少しあたしの命を注げば、フィロンは動けるくらいに回復するはず……」


 しかし、フィロンは否定するように、一瞬だけ目を閉じた。

 

「……僕は知っていたよ。君が僕を見る目を。でも、君の想いから目を背け続けていた……」


 ……気づかれていたとは、思っていなかった。報われることのないはずだった想いを言葉にされて、脆くなった心から、弱さが溢れる。

 頬を伝う熱に気づく。涙が一滴、フィロンの頬に落ちた。

 

「……そんなこと……あたしは、ただフィロンの役に立ちたくて……」

 

「ごめん、レーシュ。……君は、ずっと隣にいてくれた。……僕は、そんな君を、利用していた」

 

 フィロンの視線が、窓の外へと向けられる。


「……君の命まで奪うことは、もう僕にはできない」

 

 フィロンの視線の先で、月が、静かに輝いていた。

 ――ああ、そうだ。

 フィロンには月が似合う。青白い月の下にいるとき、フィロンはいつも隣にいない誰かを想っていた。月を見上げながらずっと、誰かと一緒に見上げた月を思い出すようにしていた。

 

 ――それはフィロンのお兄さん。……あたしとは、違う人。

 

 でも、それで良かった。

 あたしは、フィロンが月を見ているのが好きだった。……それは、月を見ている間は、フィロンの考えていることが分かる気がしたから。フィロン自身の気持ちを、よく感じられたから。


 あたしがフィロンが兄を想う時間も大好きだったのは、それがフィロン自身の時間だったからかもしれない。

 

「僕は……ずっと、間違っていた」

 

 月から視線を戻し、フィロンは言う。その声には、深い後悔が滲んでいた。

 

「帝国を壊すために反乱軍を創った。でも……結局、僕がやってきたことは、帝国と同じだった。人を道具のように扱って……」

 

「フィロンは、ただ、帝国を変えるために……」

 

「いいや」


 フィロンは小さく笑う。それは、自嘲の笑みだった。


「僕は自分のために人を道具として扱った。……帝国と同じさ。僕は……兄の真似をしているつもりで、結局は自分を見失っていた。君も、ソニアも、テツも……みんなを巻き込んで」

 

 フィロンの呼吸が、さらに浅くなる。あたしが注ぎ込んだ生命力も、もう限界に近づいている。思わず両手をかざすのをやめていたせいで、魔術陣の光が弱まり始めた。


「フィロン、術を再開するから……!」


 あたしは叫び、再び両手をかざす。

 でも、フィロンはあたしの手を掴んで術の再開を止めた。


「……なん、で?」


「レーシュ。君が僕のために命を捨てることなんて、あってはならない」


 ――フィロンのためなら、命を捨てることも怖くない。

 でも、それをフィロンが望まないというのなら、あたしは、どうしたら……。


 あたしが困惑するのを認めながらも、フィロンはまた口を開く。

 

「……僕は何もかも間違えていた。――でも、レーシュ」


 フィロンの瞳が、まっすぐにあたしを見つめる。手を握る力が、強まる。


「……それでも、帝国は壊さなければいけない」

 

「……」


 あたしは何も言えず、ただフィロンを見つめる。

 

「僕たちの反乱軍は……もう、駄目だろう。僕が死ねば、辛うじて保っていた統率も崩れる。……どうせ、僕が人を惑わせて創った偽物だから」


「……まだ、終わらない……! フィロンを、死なせはしないから……!」


 あたしは叫ぶが、フィロンの瞳はあたしから逸れて、どこか遠くを見つめる。ただ、手は離さない。

 術を再開させてくれるつもりは、ないらしい。

 

「僕も、反乱軍も、もう終わる。……だから、レーシュ……君には、あの半吸血鬼の少女のところへ行ってほしい」

 

 唐突に切り出されたその存在に、あたしは困惑して目を見開く。

 

「……あの子の、ところへ……?」

 

「そう」


 フィロンは当然のように頷く。


「彼女の本当の名前は、サキ……だったよね。……僕たちが『血槍』と呼んで、名前を奪った少女だ」


 その言葉に、あの子達の顔が、脳裏に浮かぶ。虚ろな目で、ただ命令に従っていたあの子達。

 

「彼女は……僕を、僕たちを憎んでいるだろう。当然だ。……でも」


 フィロンの瞳に、わずかな光が宿る。それは憧憬のようにも、諦めのようにも見えた。

 

「彼女には……力がある。本物の、何かがある。僕には永遠に手に入らなかったものを」

 

「でも……あたし達がしたことは、取り返しがつかない。あの子達は、あたし達を憎んでいる。そんな相手に、どうやって……」

 

「君が……謝ってほしい」


 確信を仄めかしながらも、悲しそうにフィロンは言った。あたしは息を呑む。

 

「……え?」

 

「僕の代わりに、謝って……そして、協力してあげてほしい。……帝国を壊すために。せめてもの、償いのために」

 

 どこまでも他者のための発言。

 ……今、フィロンにそんなふうに言って欲しくない。……たとえ間違えていても、利己的でいて欲しい。

 ……そんな、最期みたいなことを言わないで欲しい。

 涙がまた、あたしの頬を伝う。時間経過とともに、魔術陣の光が、一層弱まる。フィロンの命が、またゆっくりと離れていこうとしている。

 

 術を再開しようとしても、フィロンの手は、やはりあたしの手を離そうとしない。

 

「でも……あたしだって、フィロンの手伝いを……あの子達を洗脳した……あの子達が、あたしを受け入れてくれるはずが……」

 

「君は、違う」

 フィロンの声に、わずかな温もりがあった。

 

「君は、僕のためにそうしてくれただけだ。……君自身は、あんなことをしたくなかったはずだ」

 

 その言葉に、あたしは声を詰まらせる。

 ――そうだ。あたしは……。

 ――フィロンのため。そう思えば何でもできた。何だってする覚悟があった。

 でも、あたしは……本当は……。

 夜な夜な、あの子達に暗示をかけるために耳元で囁き続けるたび、胸が痛んだ。魔術の研究を手伝わせると称して、あの「魔女」と呼ばれた少女を部屋に呼ぶたび、罪悪感に苛まれた。

 

「……でもあたしは、自分の意思でフィロンを手伝ったの」


 それでも、あたしは言う。フィロン一人だけに、責任を負わせたくはなかった。

 フィロンの瞳が、優しくあたしを見つめる。


「……それなら、僕のこの頼みを聞くかどうかは、君が決めて欲しい。君自身の意思で……僕と共に破滅へ向かうか、これまでの人生と向き合うのかを、選んで欲しい」


 間を置いて、フィロンは続ける。


「君が、あの子達に謝りたいと思うなら……帝国を変えたいと思うなら……そのために動いて、あの子達に協力するんだ」


 フィロンは言葉を紡いでいく。あたしの手を強く握ったまま、あたしに、フィロン自身の意思を伝えようとしている。


「僕のためじゃなくて……君自身のために、選ぶんだ」


 ――あたし自身のため。

 フィロンは、いつもあたしに何かを頼んでいた。洗脳薬を作って、暗示をかけて、魔術陣を解析して。

 でも今、フィロンは、あたし自身に選ばせようとしている。


 ――フィロンと破滅へと向かうか。それとも、フィロンと生きてきたこれまでの人生と向き合うか。

 

 ……あたしは、どちらを選ぶ?

 あたしは、フィロンの隣にいたい。もう、離れたくはない。

 ……それならば、あたしは、フィロンと破滅へと向かう?

 ……本当に、それでいいの?

 ――どちらが、本当にフィロンに寄り添っている?

 ――どちらが、あたしの意思を反映している?


「……わかった」


 涙で視界が滲む中、あたしは震える声で答える。


「あたしは……自分の意思で、決める。あの子達のところへ行くかどうかも……帝国をどうするかも……すべて、あたし自身が決める」


 そう言って、ふと、あたしは戦慄した。

 強く握られていたフィロンの手から、力が抜けていくのを、感じた。

 

 中断してから時間が経ち過ぎたせいで、魔術陣の光が、完全に消えようとしていた。


「レーシュ……君は、僕のために生きる必要はない。君自身のために……生きてほしい」


「……フィロン」


 あたしは力が抜けたフィロンの手を、強く握り返す。


「……あたしは、自分で決めた。あたしは、行く。あの子達のところへ」

 

 声が震える。でも、この言葉は嘘じゃない。

 あたし自身が選んだ、初めての道。


「……君は、強いね」

 

 フィロンの瞳が、優しくあたしを見つめる。その目は、もう霞み始めている。

 

「……君なら、きっと……――」

 

 フィロンの声が、途切れそうになる。

 

「……伝えてほしい」


 そしてフィロンは、最後の力を振り絞るように言葉を紡ぐ。


「僕は……間違っていた、って。してしまったことは取り返しがつかないけど、でも……せめて、この最後の選択だけは……僕が自分と向き合って選んだものだ、って。勝手だけれど、この償いを繋いで欲しい、って」

 

「あたしは……必ず、あの子のところへ行く」

 

 あたしは震える声で答える。

 

「そして、フィロンの想いを、伝える」

 

「ありがとう、レーシュ」

 

 フィロンの唇が、わずかに笑んだ。


「君が……僕を生かそうとしてくれたから……僕は最後に、自分で選ぶことができた。君がいてくれたから……最後の最後で……少しだけ、人らしくいられた気がする」

 

 魔術陣の光が、完全に消えた。紫の(もや)が薄れ、窓から差す月光だけがあたし達を包む。

 フィロンの手の温もりを、あたしは強く握った。


 

 ――この部屋に近づきつつある存在に、このときのあたしはまったく気がついていなかった。

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