第65話 ミラクとフィロン
辛うじて剣を握る、立っているのもやっとのフィロン。そして、詰め寄った先で濃い影の修復を纏い、フィロンを見据えるミラク。
もはや互いに秘術に命を食らわせる余力はない。
ミラクは数束の影を操るのが、フィロンは風の剣を象るのがやっとだった。
つまり残された道は、暗殺部隊での日々のように、ただ剣を振るい、相手の命を刈り取る戦いのみだ。
ミラクは既にフィロンの命を奪うことしか頭にない。だが、フィロンは啖呵を切りつつもまだ完全には迷いを拭えていなかった。
――あのまま動けないふりをして、ミラクが去るのを待っていれば良かった。それなのに、なぜ僕は……。
数巡の呼吸の読み合いの中、フィロンは風の剣を構え、ミラクに対して先手を打とうとする。だが、消耗した体は思うように動かない。
フィロンの考えが纏まるより先に、ミラクが動く。
足が地を蹴る音。次の瞬間、視界が揺れた。
「くっ――」
痛みの感覚は鈍かった。蹴り飛ばされたフィロンは石床を転がり、背中を壁に打ち付ける。肺から空気が押し出され、息ができない。
――立て。立たなければ、ここで終わる。
フィロンは壁に手をついて身を起こし、創り出した風の刃を再び構え、ミラクを睨む。だが、その刃は不安定に揺らめいていた。飛天の秘薬で得た力も、失血と消耗で急速に衰えている。
――それでも、ここでミラクに殺されて死ぬのは……。
「ミラク……すべてが狂った元凶は、君なのかもしれないとすら思うよ」
思えば訓練兵のころ、ミラクは暗殺部隊で誰よりも優秀だった。そのことは間違いなく、兄を追い詰めた一因だった。それなのに、ミラクは、初任務の殺しで人が変わったようになり、最終的には暗殺部隊を抜けた。快楽目的での殺人などのために、兄が得られなかったものを、簡単に捨てて――。
そして、あの半吸血鬼達を部隊に連れて来たのは、ミラク追跡の命を与えられたソニア達だ。
「酷い言いがかりだな。……だがまあ、苛立ちの理由は理解できんでもない」
ミラクの声は、どこまでも冷静だった。
――殺したい。人生を肯定するために、すべてを否定するこの男を、ここで殺したい。終わりへ向かっていた人生にも、確かに希望はあったのだと証明したい。
だが同時に、理性が告げる。ユリアナと合流しなければ、反乱は失敗する。
ミラクなど捨て置いて、今すぐ城を出るべきだ。
相反する感情と理性が脳裏でせめぎ合い、視界が揺らぐ。
辛そうな様子のフィロンを、ミラクは嘲笑する。
「ははっ……そうだな。お前も俺も、本来ならばこんなところで殺し合ってる暇はないはずだ」
そう。理性ではそんなことは理解している。
――でも、僕は……。
「それなのに、お前は自分の意思で、今、俺と殺し合うことを選んだ」
ミラクの身体の損傷では影が蠢き、既に修復が始まっている。対照的に、フィロンの傷からは血が流れ続けていた。
秘薬との相性の問題と、フィロンの身体にはまだ飛天の秘薬の材料となった殲獣の血が馴染んでいないことが原因だ。
「さあ、フィロン。その選択の末に俺に殺されるとき、お前はどんな感情を抱く……!? 見せてくれ……!」
ミラクは警戒することも忘れたかのように、両腕を広げる。
だが、その目だけはまるで獲物の末期の足掻きを見届ける獣のように爛々としていた。
――違う。まだ、終わらない。
フィロンは歯を食いしばり、最後の力を振り絞って地を蹴った。風の刃が青白い光の尾を引きながらミラクへと迫る。
――一撃で仕留める。
狙いは、脳だ。奴の影蝕は随分と身体に馴染んでいるようだが、それでも損傷は影により繋がれるだけで、確実に生命力は削られている。脳を狙えば、影により修復される前に隙が生まれる。
だが、その一撃が届く前に、フィロンの足に何かが絡みつく。地面では影が蔦のようにフィロンの足を絡め取っていた。
「――っ!」
体が前のめりに倒れる。左脚の傷が限界を迎えていた。風の糸で縫い止めていた損傷が、激しい動きで再び開く。風の糸の縺れと激痛が全身を駆け抜けた。石床に膝をつき、フィロンは荒い息を吐く。手の中の風の刃は霧散し、消えていった。
「おいおい、茶番かよ!? ……あまり失望させてくれるなッ……!」
ミラクは容赦なく、倒れかけたフィロンの腹を殴り上げるように、短剣を下から突き刺した。
刃がフィロンの腹部に食い込む。内臓が裂ける感覚。フィロンは声も出せずに、口から血が溢れ出る。
「俺と殺し合いをしたいなら、もっと……借り物でないお前自身の顔を見せろ」
ミラクの短剣が、窓に差す月光を受けて鈍く光る。
フィロンは顔を上げ、ミラクを見上げた。その瞳には、もはや抵抗する力は残っていない。
ただ――憎悪だけが、最後まで燃えていた。
――僕自身の、顔……だと?
「……僕自身の顔、か。……ふっ――」
憎悪を湛えたまま、フィロンは一度、息を溢したように笑う。そして。
――あははははははっ
場に似つかわしくない、楽しげだがどこか悲しい笑い声が木霊する。暗殺部隊の砦によく響いていたそれと大差ない、幼子のような笑い声だった。
「その要求、不条理だよ。ミラク。……だってさ、自分の本当の感情が分からないのなんて、君も同じだろ――……っ!!」
「……」
重く叩き込んだミラクの短剣がフィロンの肩を粉砕して、言葉は遮られる。
「……余計な口を開くな。……お前には、俺の感情の理解までは求めていない。俺がそれを望むのは、ただ一人だけだ」
ただでさえ瀕死の身に打ち込まれた追撃。骨が砕ける音が聞こえた気がした。フィロンは声にならない悲鳴を上げ、横倒しに倒れ込んだ。
血が床を濡らし、広がっていく。
ミラクは短剣を引き抜き、血を拭いもせずに鞘に収めた。
「お前は兄の死と同時に、自分自身を失ったんだ。擬態することでしか生きられなくなった……真の感情を持てないことの虚しさは、理解できる」
ミラクは静かに言葉を紡ぎながら、目を伏せる。そして、すぐに顔を上げると、鋭い声で断ち切るように言った。
「――だがな」
再び、フィロンに冷酷な視線が突き刺さる。
「……虫唾が走る。……俺とお前が、同じだと?」
わずかに息を乱しながら、ミラクは続ける。
「お前のように死者だけの影を追い、仮初めの顔を貼り付けて、ただ終わりへ向かう生き方なんか……死ぬためだけに生きることなんか、俺は真っ平ごめんだ」
ミラクが否定した生き方は、少し前までミラク自身が送っていた生き方でも合った。
ミラクが暗殺部隊に帰還したのは、いつまでも感情の深淵を得られない人生に飽き、サリィに殺されてみようと思ったからだ。……もっとも、それは殺したはずのサキと再会するまではの話だが。
フィロンは口を開きかけるが、言葉は出ない。
「お前は、兄にだけは本当の自分を見せられていた。だからこそ、兄に対してだけは、名前のある感情を抱けていたはずだ。家族愛とか、友愛とか、そういう類の感情をな」
ミラクの声は次第に静まり、残酷さを増していく。
「だが、お前は……その唯一の感情を、世界と兄本人に裏切られる形で失った。だからもう、何も信じられないし、元来は得ていたはずの熱も感じられない」
「何を言ってるんだ……僕は……!」
反論しようとしたフィロンが這うように身を起こそうとする。だが、体が動かない。
その瞬間、ミラクは容赦なく彼の背を踏みつけた。フィロンの体が再び石床に叩きつけられる。肋骨が折れる音が響いた。
「心が壊れて、自分がもう誰も好きになれないから……感情を抱けなくなったからって、巻き添えに世界を壊そうってか? その都を彷徨いている浮浪児みたいな発想は、やはり受け付けないな……!」
「……が……はッ」
血が喉に込み上げ、フィロンは咳き込む。
――僕は……僕は、ただ……。
ミラクは足をどけ、しゃがみ込んでフィロンの首を掴んで持ち上げた。そして、短剣をフィロンの胸に突きつける。
「俺は、お前と違って、俺自身のために他人を殺す。それは一人ひとりの死の瞬間に得られる感情があるからだ」
ミラクの唇が歪み、笑みが広がる。
月光が刃に反射し、冷たく光った。
「……戦争で無造作に大勢を殺すのは、俺にとっては至極勿体ない行為なんだよ。……人族の一部を殺してでも戦争を防ぐとかいう暗殺部隊の名目にも、今は賛成しているんだ」
そして、フィロンの首を持つ手に力を込める。
――だから、俺はこうして顔を突き合わせて人を殺す。一滴も取り溢さないように。間近で、感情を弄んだ上で、殺す。そのほうが、死に際に得られるものが奥深いから……。
「お前からも……何か、得られるものがあると思ったんだ」
耳元でそう聞こえたと同時に、フィロンは左胸に熱を感じる。
いや、熱いはずなのに、冷たい――。
「――っ……あ……」
フィロンの目が見開かれる。痛みではなく、何か別の感覚が彼を貫いていた。
――これで……終わるのか……?
短剣が抜かれた瞬間、血が噴き出す。
そして、ミラクが首を離すと、フィロンの身体はずるりと崩れ落ちる。
赤黒い血が喉奥からこぼれ、声を発するたびに泡立つ。
――致命傷だ。
それでもまだ、わずかに胸が上下している。だが、このままでは確実に死に至るだろう。
――胸の奥で、何かが疼いている。それはいつも、抑えられない破壊衝動となって表れていた。
大好きだった兄さん。いつもみんなに慕われていた兄さん。暗殺部隊では落ちぶれていった兄さん。僕を置いて、ひとりで逃げた兄さん――。
……それでも、ずっと、忘れられなかった。
僕が唯一、本当に感じられた感情。それは、兄さんへの愛だった。
確かにミラクの指摘の通り、他の感情の味は分からなくなった。
ただ、この感情だけは、ずっと残っていた。まるで、呪いのように。だから僕は、この呪いに縋るしかなくて――。
「……僕は……真似事を、していただけだった……」
夢見心地の中、フィロンは言葉を繋いでいく。だが、その声は掠れ、途切れがちになる。
「……」
横になると血が溜まるのか、喋りにくそうだった。
一度は離したものの、ミラクはフィロンの体を起こす。そして、その言葉を酔いしれるように聴き入る。
「でも……兄さんみたいに……あんなふうに、眩しく生きることなんて……僕には最後まで……できなかった、な……」
喉の奥が焼けるようだった。兄が死んでから、空っぽの自分に気がついた。それからはずっと兄を真似ていた。笑い方も、戦い方も、何もかも。
兄のようになりたくて、それだけを支えにしてきた。それが、反乱軍を創るという選択にまで繋がったのだ。
「ただ……やっぱり、僕を置いて逃げたのは、眩しかった兄さんとは……何かが、違って……」
一度だけ、ふと考えがよぎる。
――もしかすると、兄は、脱走したあとで自分を助けに来るつもりだったのではないか。
その想像が脳裏をかすめた瞬間、消えかけていた鼓動が高鳴る。大きく息を吸い込んだ。
「ああ……僕は……兄さんとは根本的に……違う人間だったんだな……」
――兄さんは、最後まで誰かのために生きていた。でも僕は……僕は、ただ兄さんの真似をして、自分を失って……。
フィロンの声が、静かに途切れていく。
「ずっと……兄さんの仮面を被っていたのに……そんな簡単な答えにも……辿り着けなかった……」
憎しみが、胸の奥でゆっくりと消えていく。
帝国への憎悪も、ミラクへの憎悪も、自分自身への憎悪も。
すべてが、血と共に流れ出していく。
――もう、何も感じない。ただ、冷たい。この記憶の奔流の中で、眠ってしまいたい――……。
「……自分の、本当の気持ちなんか……もう……受け止め方を……忘れ、て…………――」
言葉は途切れ、フィロンの瞳から光が失われていく。
ミラクは、今度はゆっくりと、フィロンを冷たい石床に下ろした。
そして――。
一瞬、ミラクの表情に満足げな色が浮かぶ。
「……ふ……」
小さく笑みが零れる。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「……この程度、か」
ミラクは短剣を鞘に収めながら、小さく呟いた。
確かに、何かは得られた。フィロンの最期に滲んだ感情――兄への憧憬、自己への失望、そして僅かな諦念。それらは、ミラクの渇きを一時的に潤した。
だが、それだけだった。
「悪くはない……だが、やはり……」
ミラクは血溜まりに倒れたフィロンを一瞥する。
「俺が本当に欲しているのは、こんな薄い感情ではない」
フィロンは終わっていく世界の中で、ミラクの独白を聞いていた。冷たさが体を包んで、波のように寄せては返す記憶が、静かに、静かに薄れていく。
――しかし、静寂は長く続かない。
遠くから、規則正しい足音が石畳に響き始めた。
扉が勢いよく放たれた音に、ミラクは顔を上げる。
「ミラク!? ……っ、フィロン!」
響いたのは、レーシュの声だった。
その声にフィロンは微かに目を見開く。彼女の声が一時的に、フィロンを死の淵から呼び戻した。
――レーシュ……。
乱れた長い白髪を揺らしながらレーシュは部屋に駆け込み、血溜まりの中に倒れているフィロンに駆け寄ろうとする――だが、その動きが一瞬止まる。
ミラクがまだそこにいたからだ。
ミラクは血に染まった手を見つめたまま、レーシュの方を一瞥もしない。まるで取るに足らない存在であるかのように。
「……ミ、ミラク……」
レーシュが震える声で名を呼ぶが、ミラクは答えない。ただ、小さく呟いた。
「俺が求めているのは……もっと深い、もっと濃密な……」
そして、ゆっくりと扉の方へと歩き出す。
「……サキからの、絶望だ」
その声には、渇望と確信が混じっていた。
「あいつを追い詰めて、希望を奪って……最後に見せる絶望の表情。それこそが……」
ミラクの暗い黄色い瞳が、月光を受けて鈍く光る。
「俺が生きる理由だ」
レーシュは何か言おうとしたが、言葉が喉に詰まる。ミラクの纏う空気があまりに冷たく、近づくことすら躊躇われた。
ミラクは扉の前で一度だけ立ち止まり、振り返りもせずに最後の言葉を落とす。
「……お前も、フィロンと同じだ。俺に与える熱は、一時的なものに過ぎない」
――長く遊び過ぎた。
そう言い残し、ミラクは扉を開け、廊下へと消えていった。
重い扉が閉じる音が、静寂の中に響く。
**
「フィロン……! フィロン!」
レーシュが部屋に駆け込んできた時には、すべてが終わっていた。
血溜まりの中に倒れているフィロン。その胸には、深々と刺された痕が残っていた。
そして、レーシュは傷の中で風が渦巻くのを認める。
「嘘……飛天の秘薬を、飲んだの……?」
――風が……まだ、傷を塞ごうとしている。でも、間に合っていない。
「……それなのに、修復が追いついていない。……なぜ?」
レーシュは震える手でフィロンの体を抱き起こす。だが、その体はもう冷たくなり始めていた。
――決して修復不可能な損傷ではないはず。なのに……生命力が足りない? それとも、秘薬の相性が悪かった? ……秘薬の材料となった殲獣と、血が馴染まなかった……?
「フィロン……あたしが、もっと早く来れば……」
涙が頬を伝い、フィロンの顔に落ちる。
「フィロン……。あたしは、ずっと隣にいるよ。もう二度と、何があっても、君のそばを離れないから……」
レーシュの声は震えていた。
「たとえ……君の決意が、間違った選択だったとしても……」
溢れる涙の奥で、レーシュの紫の瞳はフィロンをずっと見つめている。
「帝国を壊すって言って……手を伸ばしてくれたあの日から、ずっと……あたしが生きてきた理由はフィロンだから……」
嗚咽と共に、レーシュはその先の言葉を飲み込む。
フィロンが帝国を壊すと決意して行動に移したその勇気に救われた人は、きっと、たくさんいるはずだった。
――たとえそれが、フィロンの役割だけを崇拝したものだとしても。
レーシュは、自分だけは、本当のフィロンを受け入れるつもりだった。それが、光の見えない道に光を差してくれたフィロンにしてあげられる最大の恩返しだと信じていた。
「……。レーシュ、僕は……」
フィロンが薄く目を開ける。その声は消え入りそうなほどか細い。
「フィロンが……帝国を滅ぼすために、どんな気持ちで、たくさんの人を惑わせてきたのか……あたしは、全部、知ってる。……その上で、言っているの」
「……」
「君が、何を選ぼうとも、あたしだけは……最後まで隣にいるから」
フィロンはレーシュの言葉に何の感情も湧かなかった。
ただ、レーシュがどこまでも自分に寄り添おうとしてくれていることは理解できた。
――僕は……何も感じない。でも、レーシュが、ここにいてくれる。
「それも……悪くないのかもしれないね」
レーシュの言葉で、今、フィロンは世界を少しだけ許せた。
月光が再び雲間から差し込み、二人の影を長く石床に落とす。
レーシュは震える手で、フィロンの傷口を見つめた。風がまだ渦巻いている。まだ、わずかに秘薬の力が残っている。でも、それだけでは足りない。
――このままでは、フィロンは死ぬ。
「フィロン……君を、ここで死なせるくらいなら……」
レーシュの瞳に、決意と恐怖が入り混じった光が宿る。
「……あたしは……」
その言葉を最後に、フィロンの意識は深い闇の中へと沈んでいった。




