第64話 黒闇の渦中にて
フィロンはシュタット城深部にいくつかある波耀紋のうちの一つの上に、息も絶え絶えに横たわっていた。
「ハアッ……ハッ……ハッ……」
――転移が一瞬でも遅ければ、サリィの最後の一撃で死んでいた。
彼女は殺す気で剣を振り下ろしていた。
だがその直前、空間の裂け目が閉じ、何とか北門から城に逃げ延びたのだ。
石畳の冷たさが、流血し続ける傷口から伝わり、全身に染み渡っていく。
北門で拾った剣は既に砕け、もはや武器らしい武器もない。脳裏に焼き付くのは、サリィの冷たい眼差しと完膚なきまでの敗北だった。
――……ユリアナ、は……?
転移先にあるはずのユリアナの姿が見当たらないことに疑念を抱く。だが、北門で彼女の腕輪から轟音と共に声が途切れたことを思い出し、転移に狂いが生じた可能性を考える。サリィの妨害か、あるいは城で何らかの異常が起きているのか。
「……まあ、いい。……今、は……」
フィロンには時間も体力も、そして精神的な余裕も残されていなかった。
身を起こしながら、震える手で懐から銀の小瓶を取り出す。
「飛天の秘薬――……」
その名を苦々しく呟く。
本来は、サリィを無力化するために手に入れた秘薬だった。
酒に酔わない鬼族すら酔わせるこの秘薬を、万が一にでもサリィに飲ませることができれば、勝機はあったはずだ。
しかし――戦闘中にそんな可能性など、皆無だった。
そして今、フィロンは本来の目的とは全く違う用途で、この切り札を使おうとしている。
――それは、自分自身の命を繋ぐためだ。
この秘薬を人族が口にすれば、殲獣の風の力を身に纏うことができる。欠損を風で補い、攻撃に風の魔術を使えるようになる。
もっとも、風の魔術程度ではサリィとの戦いで決定打にはならないが、この秘薬により体を修復し、何とか生を繋ぐしかない。
――多少、寿命を削ることになることなど、構わない。今これを飲んで命を繋げなければ、反乱は確実に失敗する……。
熱い血に濡れた指先に、銀の冷たさが染みる。小瓶の蓋を外し、フィロンは一気に口へ運んだ。
喉を焼くような痛みと共に、熱い風が体内を駆け巡る。全身の裂傷が内側から塞がり、風が糸を通すように肉や骨を繋げていく。
荒れていた鼓動は、風が胸を抜けていく感覚と共に落ち着いた。
損傷の大きい左脚はじわじわと痺れが広がり、風の糸により縫い上げられる。
完全に回復したとはとても言い難いが、フィロンはかろうじて立ち上がった。
そして、薬の効果で鈍っていた嗅覚が戻り、違和感を覚える。
「……焦げ臭い? これは……火事の跡?」
薄暗い部屋を見回せば、壁という壁に黒い焦げ跡が刻まれている。まるでつい先程まで激しい炎に包まれていたかのような有様だ。
「さっきユリアナの腕輪から聞こえた轟音は、炎……?」
しかし奇妙なことに、消火活動の痕跡は一切ない。
焦げ跡だけを残して、炎は跡形もなく消え去っている。
そのことから、フィロンはこれが何らかの魔術によるものだと理解した。
――……城が火攻めを受けていたということか?
だが、カティアが警備を担当しているはずの城が、これほど奥深くまで攻め込まれることなど、あり得るのか。
「誰が、何の目的で、城の奥まで火をつけ、そして消した……?」
フィロンは訝しげに呟く。
その刹那、窓から差し込んでいた月明かりに薄い雲が重なった。淡い光を失った部屋は黒闇に呑み込まれ、色彩を失う。
そして、フィロンが何者かの気配を察知するのと同時に、彼の疑問に答えるように、背後から声が降る。
「教えてやろうか?」
背筋が粟立つ声だった。
「……は?」
反射的に振り向けば、石柱の陰からゆっくりと姿を現したのは、黒髪に黄色い瞳の男――ミラクだった。
「……お前がよく知っている人物の仕業だ、フィロン」
草臥れた冒険者の装いに満身創痍の身体。それでも悠然と立ち、不気味に笑う姿は、まるで何かを手に入れたような満足げな響きを含み、得体の知れない危険な気配を纏う。
「……ミラク……なぜ、君が城にいる?」
フィロンは声を低くしてミラクに向き直る。
「……それは俺の台詞だ。……フィロン、お前は北門にいたはずだ」
フィロンに歩み寄りながら、ミラクは大量の血に塗れた波耀紋を見下ろす。
「波耀紋の上に突っ立っているということは……逃げてきたのか?」
城に来た事情を的確に言い当てられ、フィロンは苛立ちを覚える。
「君の質問になんか、答えてやる義理はない」
「そうか。……まあ、俺にはどうでもいいことだな」
そう言うと、ミラクはくつくつと笑う。
「……随分、機嫌が良いみたいだね。楽しいことでもあったの?」
「まあな。俺には未来に望みがある。それを叶えるために生きている……。……お前には、分からないだろう?」
その声からは、まるで長い迷いから抜け出したような清々しさを感じる。
「……未来、か。君は、僕が帝国を壊した未来で、何を望むって言うのさ?」
フィロンは眉をひそめる。この男がこれほど前向きな言葉を使うことに違和感を覚えた。
どこか感傷的な気分に浸りながら、探るように問いかける。
「……説明しようとも、お前には理解できない領域だ。そもそも、俺は帝国の崩壊など望んでいない。俺にとっては、案外居心地の良い仕組みなんでな」
ミラクが告げたのは、紛れもない本音だった。
はっきりと示された否定と拒絶の態度が、フィロンの苛立ちをさらに募らせる。
「ミラク……その傷……カティアにやられたんだろう? お得意の幻術で、辛くも命拾いしたってところかな」
――魔術に頼っていては、いざという時に足元を掬われる。
それはサリィによって叩き込まれた暗殺部隊の共通認識を持ち出した挑発だった。
しかし、その言葉を口にした瞬間、フィロンは自身が飛天の秘薬という魔術に頼っている皮肉を思い出す。
「……」
「……ああ、これか? ……まあ、術に頼っているのは否定しないさ」
一瞬の沈黙が流れた後、ミラクは自身の傷を一瞥し、無関心そうに答える。
「これでも、かなり馴染んで、修復が進んだんだがな」
彼の身体から立ち上る黒い影が傷口の周りで蠢いている。だが暗い部屋の中では、フィロンはまだそれに気づかない。
「……何にせよ、結果は変わらない」
ミラクの瞳に冷たい確信が宿る。
「――お前は、俺に負ける」
「……」
まるで既に勝負の結果が決まっているかのような、絶対的な自信を感じ、フィロンは思わず息を呑んだ。
「……ふ、聞いていて滑稽だね、ミラク。僕が君に負ける道理は、一つだって無い」
持ち直し、虚勢とともに返すが、声に微かな震えが混じるのを隠しきれない。
本当はフィロンは理解していた。今の自分には武器もない。あるのは先ほど身に付けたばかりの秘薬による魔術だけだ。勝負を長引かせれば不利になる。
それでも口を閉ざしたら、その時点でこの男に呑まれると直感していた。
「……敗北の理由を教えてやろうか? ……それは、お前は、何のためにも生きていないからだ」
断罪は、淡々と告げられていく。
「僕は……」
フィロンの喉が詰まる。
自分でも薄々感じていた空虚感を、憎いこの男に的確に言い当てられる。
それが、彼にとっては何より堪えた。
しかし、フィロンは必死に言葉を絞り出す。これまでの人生を辿り、自分が何のために生きてきたのかを、証明するために。
やがてその反芻は確信へと変わり、フィロンは口を開く。
「……僕が生きているのは、帝国を壊すためだ。……そう。僕は、帝国を壊すと誓った。その邪魔をしようというのなら容赦はしない」
「……そうか」
ミラクは面倒臭そうにため息をついた。まるで駄々をこねる子供を諌めるような、呆れた表情を見せる。
彼の足元では、黒い影が床を這い、広がっていた。
「勝手にくたばりそうなら、見逃してやってもよかったんだがな」
再び、ミラクはゆっくりとフィロンに向かって歩き始めた。一歩、また一歩と、確実に距離を詰めてくる。その足音が石床に響くたび、フィロンの鼓動は速まる。
「ただ、反乱軍が帝国を壊す可能性がまだ少しでもあるというなら――今ここで、お前を無力化しておく」
ミラクの声はあくまで静かだった。
だが、その言葉の奥に、怒りに近い何かが滲んでいるのをフィロンは聞き逃さなかった。
「……いいね。僕としても、君をこの手で確実に仕留める機会ができたことは――」
「フィロン」
二人の距離は極限まで詰まった。
一触即発の空気の中、フィロンの応答を遮り、ミラクは彼の名前を呼んだ。その声にはより一層の冷たさが宿る。
「……感謝しろよ。俺にとって、お前は殺す価値すらない存在だ。だが……邪魔だから消す。お前を殺しても得られるものは何もないだろうが、結果的に殺すことになるだろう」
身勝手で残酷な断罪。フィロンの存在を根底から否定する言葉だった。
それは、フィロンの内部で何かを砕いた。
無策にも見える余裕さで距離を詰めてきたことにも腹が立つ。
「……やはり君のことは、僕が、殺してあげるよ!」
叫びながら、フィロンは慣れない異能を操り、風の剣を創造する。
他にも使いようはあるのかもしれないが、慣れない今は普段の戦闘方法に近づけたほうがいい。
飛天の秘薬の効果でわずかながら風の魔術が使えるようになっていたが、まだ制御は不安定だ。
手の中で揺らめく青白い光のような不恰好な風の剣を、フィロンは最短距離で突き出した。狙いは迷わず頸部に定められている。
「――お前のほうは殺すまでもない。既に死んでいるも同然だからな」
フィロンが本調子でなかったこともあり、ミラクは軽く身をひねるだけで刃を避けた。刃はミラクの首筋をかすめて過ぎる。
フィロンは咄嗟に追撃を試みるが、やはりまだ制御が不安定で、風の刃は分散してしまう。
ミラクは冷めた視線をフィロンに向ける。まるで既に死んでいる者を見るような、無関心な眼差しだ。
フィロンは得体の知れない恐怖を感じ、一旦ミラクから距離を取り、苦笑に近い冷笑を浮かべる。
「……なんだって? ……僕が、死んでいるも同然?」
確かに、フィロン自身は破壊した先の世界に具体的な希望を抱いているわけではない。ただ帝国を壊したいという破壊衝動に突き動かされてきただけだ。
「僕は……帝国の破壊を望んでいる多くの人々の気持ちを汲んで、実行した……! 生きながら、誰よりも行動してきた……!」
「……それは、すべてを終わらせるためだろう?」
ミラクの揶揄に、フィロンの目が怒りで揺らめく。
自分が背負ってきた意志を、こんな奴に、こんな冷めた言葉で軽々しく一蹴されることに、胸の奥が耐えきれずざわついた。
「……君には、生きる理由があるっていうのか。殺人狂め」
「あるさ」
即答したミラクの表情に、一瞬だけ穏やかさが灯る。まるで大切な何かを思い浮かべているような光だ。
――生きているだけで感情を分かち合える存在がいる。殺人でしか得られなかった感情を、今は共有することができる。
他人から見れば些細な関係かもしれない。
だが空虚だった彼の人生においては、それは特別だった。
その表情を見て、フィロンの心に嫉妬に似た感情が走る。自分だけを過去に置き去りにして、勝手に進んでいく世界。
――自分と同じで置き去りにされていたと思っていたミラクが、なぜ……なぜ、こんなにも楽しげに笑う……?
「君……さっきから……何で、そんなに楽しそうなの? 君も所詮、他の雑魚と同じ……ただ、この無味な世界で、くだらない他人のために生きるのが……そんなに、楽しいっていうのか……?」
会話でわずかに時間を稼いだフィロンは、手の中で再び風の剣を模る。
フィロンの目は焦りに追い立てられ、ミラクを追う。
このとき既に、フィロンはミラクの纏う影に気づいていた。
影は彼の全身を覆っていたが、胴のあたりだけが異様に濃く渦巻いてる。訓練で叩き込まれた観察眼と直感が、ここを断てと告げている。
狙いを定め、フィロンはミラクが対応しきれない速さで迫る。
――だが、フィロンは冷静さを失っていた。
振り下ろされた風の剣が胴を裂かんとした瞬間、ミラクの影はうねり、身体を押し流すように逸らす。
フィロンの乱れと自身の異能を冷静に見極めた一瞬の判断。
刃は空を裂き、読み切ったはずの一撃は空振りに終わる。
対照的な二人の呼吸が交錯し、ミラクは乾いた笑いを一つ溢した。
「フィロン……さっきからお前は一体、何の話をしている?」
次第に、ミラクは肩を震わせながら声を張り上げて笑い出した。その異質さに、フィロンは唖然として固まる。
ミラクの笑いは底冷えするような冷酷さを孕んでいた。一頻り笑って満足したミラクは、呆然とするフィロンを見下ろして口を開く。
「……ああ、そうか。……ずっと何を言っているのかと思ったら……お前には世界に色が付いて見えないのか」
「……は?」
戸惑うフィロンに、ミラクは冷ややかに続ける。
「お前は自分の人生がつまらないから……色のある世界を生きている奴らが羨ましいんだろう?」
フィロンの内側で、何か熱いものが堰を切ったように溢れ出す。それは、彼が自覚していなかった嫉妬だった。彼はもう、理性を保つことができなかった。
「……これ以上は、君のくだらない話に付き合う気はない!」
フィロンは飛天の秘薬で得た風の力を手に集め、空気を圧縮する。不慣れな魔術だが、暗殺者として培った技術で補えばいい。
風の刃を三方向から放ち、ミラクの動きを制限する。正面、左右から同時に襲いかかる軌道。
「……手堅いな」
ミラクは軽く舌打ちしながら、身体を低く沈める。
だが彼の足元に這う黒い影は床を滑り、風の刃と接触した瞬間――音もなく呑み込む。
「……っ!?」
フィロンの目が驚愕に見開かれる。風の魔術が、まるで何もなかったかのように消失した。
「……その影……君も秘薬に手を出したとは思っていたが、まさか影蝕とはね……」
――だが、フィロンの狙い通り、ミラクに隙はできた。
フィロンは血に濡れた指先で起爆符を取り出す。それは風の魔術と合わせることで絶大な効果を発揮する。
万が一、フィロン自身が飛天の秘薬を飲むことになった場合にサリィに使うはずの切り札だった。
「……癪だけど、君に使ってあげるよ!」
殲獣製の爆薬が唸りを上げ、風に煽られて一気に火花を散らした。轟音とともに爆炎が石壁を裂き、砕けた石粒が飛び散る。
熱波が広まり、部屋全体が炎に包まれた。
だが、ミラクは爆炎の中、まるで何も起こっていないかのように、瞬時に前に出る。彼の身体から伸びた黒い蔓のようなものが絡み合い、炎を呑み込むようにうねっている。
「な、なんで……!? なんで正面から――!?」
フィロンの声は驚愕と恐怖に裏返った。
――爆薬は確かに炸裂したはずなのに。
「悪いが、俺はこの秘薬とかなり相性が良かったみたいでな」
ミラクの足元で、影の範囲が徐々に拡大していく。
石床を這い、壁を登り、やがて天井にまで達した黒い領域。
爆薬の熱は周囲を焼いたが、ミラクは悠然と立っていた。
ミラクが口にした影蝕の秘薬による黒い闇の領域――その中では、あらゆる魔術が絡みとられ、無効化される。
フィロンは息を呑む。これは単純な攻防戦ではない。影に支配されれば、風の魔術は一切使えなくなる。
「なるほど……だから君は正面から来た。魔術を封じれば、武器を持たない僕に勝ち目はないと踏んだわけだ」
「……理解が早くて助かる」
ミラクは影の領域の端に立ち、フィロンを見据える。
「さあ、選択肢は二つだ。この領域に入ってお前だけ素手で戦うか――」
彼は懐から短剣を取り出し、指先で軽く弄ぶ。
「――それとも、そこで立ち尽くして影に喰われるか」
実際、フィロンの足元にも黒い蔦のような影が伸び始めていた。それは確実に、彼を中央の領域へと追い込んでいく。
だが――。
「……僕を甘く見すぎだね、ミラク」
フィロンは風の力で浮遊する。
「影蝕の代償は、君自身の生命力だろう……? 秘薬の効果が切れる前に……君に限界が来るはずだ。どちらが先に力尽きるか――」
ミラクの影の領域の外側、ぎりぎりの距離を保ちながらフィロンは言葉を紡ぐ。
「賭けてみようか」
だが、ミラクは冷たく笑う。
「賭け? そんな悠長なことをしている時間はない」
突然、影の領域が爆発的に拡大した。フィロンが浮遊していた空間すら黒い闇に呑み込まれる。
「なっ――!?」
風の力を失ったフィロンは石床に墜落する。咄嗟に受け身を取ろうとするが、影の領域内では魔術が一切使えない。
風の糸で縫い止められていた損傷が爆ぜる。硬い石に背中を打ち付け、息が止まった。
その隙を逃すミラクではない。
彼は素早く間合いを詰め、倒れたフィロンの右腕を踏みつける。
「――っ!」
骨が軋む音と共に、鋭い痛みが走る。だがそれ以上に恐ろしいのは、踏みつけられた腕から這い上がってくる影だった。
影は皮膚に潜り込み、神経を麻痺させていく。風の剣を握っていた手が、徐々に感覚を失っていく。
フィロンは必死に左手でミラクの足を払おうとするが、影蝕の秘薬で強化された彼の身体は微動だにしない。
やがて右腕は完全に動かなくなり、フィロンは呻き声を漏らしながら石床に横たわった。
ミラクが纏う影はさらに濃くなり、フィロンの腕の肉を黒ずませていく。死なせずとも戦う力を奪う。
それがミラクの算段だった。
「お前には、世界を壊す資格どころか、殺される資格すらない。……その事実を、独り朽ちゆく中で噛み締めているといい」
ミラクの瞳には、無関心に近い嫌悪のみがちらつく。
身体はまだ修復中だが、影蝕の力は確かに機能した。フィロンを再起不能にし、異能の力を試した。
それだけで十分だった。ミラクは立ち去ろうと足を向ける。
殺しても良かったが、フィロンを殺す気などはとても湧かなかった。
「僕には……未来が無かったわけではない」
不意に耳に届いた言葉に、ミラクは足を止める。
振り返ると、影の蔦に絡め取られながらも、フィロンは左手で新たな風の剣を創造し――……背中から、ミラクの胴に貫通させていた。
「……これが、僕の未来の終着点だっただけなんだ……」
その顔には、まだ一縷の狂気と希望が混じる。
影に蝕まれ、右腕を失いながらも、まだ諦めていない強い意志の光が瞳に宿っていた。
――まだ見ぬ明日を、大切な誰かと共に生きる。
そんな、ささやかな未来さえ、奪われたのならば。
呪われたような決意を胸に刻みながら、フィロンはミラクから剣を引き抜く。
「……」
同時に、ミラクの生命力を対価とした影の領域は消失する。
勝利は一転し、フィロンには傾いたかのように見えた。
……しかし、不幸なことに――。
ミラクは、自身が痛みを感じなくなった事実と、代償とする生命力が削り取られたことによって黒闇の領域が閉じた戦況を受け入れながら……フィロンのその表情に、ある価値を見出した。
フィロンは過去に囚われており、未来への希望も何かを失う絶望もなかった。ミラクに言わせれば、それはもはや人ではない。殺した瞬間に理解し合える感情が元から存在しなければ、それはただの破壊に過ぎない。
――だが今、フィロンの目には希望が浮かんでいた。少なくとも、ミラクの目にはそう映った。
初めて、フィロンが殺しに足る何かを持っているように見えた。
「ク……ククク……まさか、お前がそんな顔をするとは……」
ミラクの中で、あの衝動が蠢き始める。彼を殺人鬼たらしめた、焦がれるような渇望が。
――希望を、絶望に染めて……殺してやりたい。
それは、どこまで行こうとも変わらない彼の本性だ。
ミラクの表情は変わった。無関心だった黄色い瞳に、獲物を前にした捕食者のような飢えが宿る。
「何者でもないお前を殺しても……『感情』は生まれないと思っていたが――……」
殺伐と繰り広げられていた会話に、楽しげな響きが混じる。ミラクの口元に、陶酔した笑みが浮かぶ。
「……あぁ……困ったものだな。……今のお前からは、何かを得られそうだ」
フィロンが秘薬を飲む前に流した大量の血の匂いに混じって、狂気の熱が城内に滲む。
影の領域は消失したはずなのに、部屋の空気が重くなり、フィロンはまるで悪夢の中にいるような錯覚を覚えた。
「……長く遊んでいる暇はないと、頭では理解している。……だが、一度、欲しいと思ってしまったなら」
ミラクはフィロンの方へと歩き始める。――獲物を追い詰める捕食者のように。
――殊、殺人……いや、感情に関しては。
彼の声が低く、危うく震える。
「俺は、その欲に抗えないんだ」
フィロンの風の刃が青白く輝く。最後の力を振り絞って、彼は応える。
「そう。殺人狂め」
声には、もはや恐怖よりも諦めに似た静けさがあった。
「とりあえず、さっき僕を殺さなかったことを、死ぬほど後悔するといい」
狂気の願望と呪われた決意がぶつかり合い、夜の城の静寂に溶けていく。
月光が再び雲間から差し込み、二人の影を長く石床に落とした。




