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第63話 因縁が廻る

 北門は、死の気配に沈んでいた。

 息をしている者は、もはやわずかしかいない。


 反乱軍を率いたフィロンは、一時は北門を破滅寸前まで追い詰めていた。だが、そこへユリアナを追って現れた存在が、戦況を一変させた。

 月明かりに浮かび上がるその姿は、長い緑髪と赤い目をした帝国の女将軍――暗殺部隊育成の責任者であるサリィだった。額に生えた一本の角は、彼女が鬼族であることを示す。


 彼女に見つめられると、兄を失った暗い記憶がフィロンの脳裏をよぎる。

 ――もう十年以上前に監禁同然で始まった暗殺部隊での日々。

 ただ、フィロンにとって暗殺部隊は居心地が良いものだった。

 帝国の腐敗した街の片隅でただ飢えを凌いで生きるよりは、実力主義の暗殺部隊の方がずっと生きやすかったのだ。

 

 サリィは暗殺部隊で生きる術から殺す術まで、すべてを教えてくれた。フィロンは幼いながらに彼女を兄と同等に尊敬し、慕っていた。

 ……だが、そのサリィが兄を殺した。

 ……兄はたった一人きりで脱走しようとしていたからだという。


 ――ねえ、サリィ。それを知ったとき、僕はどんな気持ちだったと思う?


 今、フィロンのため、反乱軍の兵士たちは、サリィに捨て身で挑んでいる。

 彼らの多くは、かつて大陸の人々のほとんどが信仰していたアナテイア教の信徒だ。

 亜種族による支配と強制された皇帝崇拝の中で、密かに信仰を抱き続けていた者たちである。

 反乱軍は、アナテイア教への信仰で有名だったユリアナとヴェルデの存在を利用し、アナテイア教の隠れ信徒のほとんどを抱き込んだ。

 反乱軍の、北部吸血鬼族に次ぐ戦力は、アナテイア教徒だ。


 人族本来の信仰を取り戻すため――彼らにとって命を捧げることは、恐怖ではなく、むしろ神聖な行為だった。

 しかし、信念に支えられた勇敢さも、サリィの前では無力に次々と倒れていく。

 

 フィロンは、戦場に散らばる残存した帝国兵たちの間を縫うように走る。フィロンを目で追うことが叶わない彼らの存在を盾にして、サリィから姿をくらませながら、わずかな隙を探っていた。

 

 ――どれほど走ったかもわからない。

 だが、そのごく短い空白はやって来た。

 四方から押し寄せた兵士の斬撃にサリィは応じ、視線は一瞬だけ散る。月は厚い雲に呑まれ、戦場を照らしていた光が弱まる。さらに、フィロンとサリィの間にあった崩れかけの瓦礫が音を立てて崩れ落ち、視界を遮った。

 サリィ自身に隙はないが、ほんの僅かだけフィロンが狙われない瞬間が生まれる。

 フィロンは躊躇なく崩れた石壁を蹴り、上方へ跳んだ。正面からの撃ち合いでは分が悪い。――攻めにくい真上から襲いかかるために。

 

 ――宙に全身が浮く中。

 視線が、ふと重なる。心臓がひとつ、大きく跳ねた。

 サリィの赤い瞳とフィロンの淡い赤が、ほんの一瞬、交わる。

 ――そして、フィロンは悟る。この行為は、逃げ場をなくすだけの愚行だったと。

 瞬間、フィロンは咄嗟の判断で自身の剣を放り投げる。振り抜いた腕の反動を全身に乗せ、身体を後方へと押し飛ばした。背後に風塵を立たせながら、勢いよく地を踏み滑る。


 ……そしてフィロンは、幾度目かの後退を余儀なくされる。

 

 だが、フィロンはまだ諦めてはいなかった。心の奥底で、呪いのような執念の炎が、燻り続けている。

 

 ――フィロンの兄は、フィロンほどではなかったにせよ、確かに優れた能力を持つ人物だった。ただ彼には暗殺部隊よりも都の下町の方が心地よかったらしい。

 ――兄を慕う純粋な気持ち。

 ――兄とは異なり、暗殺部隊やサリィの存在を心地よく思っていた複雑な気持ち。


 フィロンの心の中で、その二つの感情が激しく絡み合い、そして深い闇へと落ちていった。かつての憧憬は一瞬にして、帝国への憎悪に染まった。

 兄を殺した()()()を許さないと決めた。

 人族が人族を殺す――そんな狂気の部隊を作らせた帝国を、壊してやると誓った。


「僕自身の命も、今となってはもう、惜しくはない。……どうせ……僕は、すべてが終われば、元から――……。だけど、反乱だけは、成功させる……必ず……」


 振り返れば、帝国を壊すために唆した反乱軍の兵士たちが瓦礫に埋もれている。

 ユリアナが統治し、アナテイア教が信仰される帝国の実現を夢見た彼らにとって、この反乱は聖戦だった。だが、フィロンにとって彼らは、帝国を壊すのための道具に過ぎない。だが、その道具すら今は失われようとしている。


 何とかユリアナは逃したものの、フィロンは状況を好転できずにいる。

 瓦礫越しに見据える一本角の鬼族――サリィ。その必殺の剣筋の前に、先ほどからまともに攻撃を仕掛けることすらできない。

 崩れた石材や兵士の死体を障害物として利用しながら、隙を窺うだけだ。


 もはや北門を落とすということは不可能なほど、彼ら反乱軍は、サリィただ一人に蹂躙されていた。

 反乱軍の兵たちは次々に地へ崩れ落ち、夜の門は静けさを増していった。

 気づけば、北門を落とすはずが、自分たちが落とされようとしている。


「……サリィ! ……殺そうと思えば、いつでも僕を殺せるはずでしょ? ……何? 僕に、時間稼ぎでもさせてくれているのかな……!?」


 たまらず、フィロンは苛立ちが滲む問いを投げかける。

 兄と同じく、サリィに殺される未来を嫌でも意識させられる状況が続く。

 だが、その一撃すらなかなか下されず、じわじわと精神を削られることが、耐え難かった。


 サリィは一瞬だけ、剣先に小さな揺らぎを見せる。その揺らぎは、彼女自身も自覚していない。

 情けでも哀れみでもない、ただ名もなき影のような空白だ。


「……本来、私に獲物を(いた)ぶる趣味はないのだがな。……今は別だ」


 満ちた月を背に、長い緑髪をなびかせた一本角の鬼族……サリィはフィロンの無惨な様を見下ろすように呟いた。

 ――殺す価値すらない。

 その冷めた赤い目はまるでそう語っているようで、フィロンの脳裏には、いつかのミラクの言葉が過ぎる。

 フィロンが忌々し気に奥歯を噛み鳴らすと、サリィはため息をついた。

 

「……流石にこの様はないだろうと――まだ、何か手があるのだろうと期待してしまう」

 

 その言葉は罵倒にも呆れにも、そして期待にも聞こえ、フィロンの胸中に波を立てる。


「……。……もちろん、このまま終わるつもりは――」


 苦し紛れに、フィロンはサリィ対策として用意しておいた切り札に手を伸ばす。

 (ふところ)で、冷たい銀の小瓶が指先に触れた。


「……」

 

 ――だが、やはり今は、この小瓶の中身を使える状況ではない。

 ここで一度使えば二度と手元に戻らない切り札なのだが、戦闘の最中にサリィへ使うなど、最初から不可能だった。

 この小瓶は、使い所さえ間違えなければ起死回生の一手となり得るが、使えない今は重荷に過ぎない。


 そして、考えを巡らせるわずかな間に、サリィから当たれば必殺の一撃が放たれる。

 ただし、わずかに避けられる余地を残して。フィロンは咄嗟に身を捻り、辛うじて致命傷を免れたものの、左脚に深い傷を負った。

 痛みは鋭いが、命に関わるほどの深手ではなかった。


「……私自身の趣味ではないが、私はカティアと付き合いがあるからな。獲物を精神的に追い詰める狩りの方法は、心得ている」


 その淡々とした声音と圧迫的な赤い視線は、血の匂い漂う瓦礫の戦場を背景に、逃げ場のない檻を思わせた。

 サリィはフィロンを追い詰めることで、何かしらの手を打ってくることを期待しているようだった。

 だが実際には、フィロンはただ追い詰められて後退していくだけだ。


 不意に視線がずれ、サリィは近くに倒れていた反乱兵の死体を片手で掴み上げる。そして、躊躇なくフィロンに投げつけた。剣を手放し、左脚に傷を負ったフィロンには、咄嗟の回避が精一杯だった。

 転がるように身を低くして躱すが、その直後、石塊が飛来する。フィロンは慌てて落ちていた剣を拾い上げ、刃で弾き飛ばした。

 ――だが、石塊を逸らした直後、眼前に気配。

 反射的に剣で防御したときにはもう遅い。それを視認することすらも叶わず、次の瞬間には骨が軋む衝撃と共に、剣が砕け散る。防御を貫通した衝撃で、フィロンの身体は石壁まで吹き飛ばされた。


「……っが!? はっ……! はぁ、はぁ……!」


 全身の感覚は無い。込み上げる血が喉の奥に絡み、吐き気を催す。それでも、フィロンはほぼ無意識に立ち上がっていた。

 視界は霞み、足元の血に濡れた石畳が揺らめいて見える。荒い呼吸を繋ぎながら、フィロンはようやく何が起きたのかを理解した。加減されていたようだが、彼女の蹴りを剣で防いだらしい。

 

 先導していたはずの仲間の兵はほとんどが瓦礫の中に崩れ落ち、血溜まりに沈んでいる光景を、フィロンは改めて絶望的に感じた。


 

 その時、先ほど城に到着したと連絡してきたユリアナの腕輪を通した声が、耳に必死の調子で飛び込んでくる。


『フィロン! これ以上は無理です! あなたまで失えば反乱軍(わたくしたち)は――! 早く――……っ!』


 ユリアナの叫びは轟音に呑まれ、唐突に途切れる。

 城でも何か異常が起きている。

 だがフィロンには、ユリアナの安否を案じる余裕などない。

 サリィの圧迫的な赤い視線が迫る中、脚もほとんど動かない。


「貴様、勝ち筋が見えていないだろう。引き際は教えたはずだが……あるいは、私を油断させて誘導でもしているのか?」


 冷や汗が頬を伝う。フィロンは震える喉を無理に震わせ、声を搾り出した。声を出すこと自体が、かろうじて自分を保つ手段だった。


「まだ……終わって、ない……。()()さえ、発動できれば……まだ……」

 

 それは虚勢か、希望か。自分でも判然としない。

 ただ――心の底には、兄を失った日の呪縛があった。

 帝国を壊すという決意だけが、あの日から自分を生かしている。

 

 そして、彼の奥底には冷静な計算もある――ユリアナが精霊術で描いた波耀紋の上に立てば、転移させられるはずだ。

 ユリアナの長耳族の血筋に由来する精霊術で北門の石床に描かれた波耀紋と、魔術を仕込んだ特製の腕輪。

 それら二つを組み合わせた転移(ワープ)の秘術。

 その使用回数は、もう一度しか残されていない。

 

 ここで転移(ワープ)を使ってしまえば、もう、北部の吸血鬼族と合流することは不可能だろう。

 ……それでも、生きて選ばねばならない。

 転移しなければ、何もかも北門(ここ)で終わってしまう。


 ――城に潜り込み、新たな秘術を手にして戻ってくる。

 そのためには、もっと大きな代償――自分の寿命を削るような危険な代償が必要になるかもしれない。

 もしくは、銀の小瓶を使える場を整えなければ――。


 城でどちらを選ぶにせよ……北門(ここ)での選択肢は、死ぬか、城に転移するかだ。

 ――ならば、ひとまずは転移するしかない。


 サリィは一瞬だけ目を細めた。表情の揺れは微かで、そこに情けはなかった。ただ、冷たい観察と僅かな期待があるだけだった。


「そうか。……ならば、お前の最後の策を……見届けてやろう」


 その言葉に、フィロンの胸の中で小さな光が灯った。だがすぐに気づく。

 サリィの言葉は、慈悲ではない。

 彼女は、方針を変えずに攻め続けてやろう、程度の意味で口にしたに過ぎないのだ。


 実際、サリィの剣はこれまでと同じように繰り出された。必殺の軌道でありながら、致命を外し、わずかに避けられる余地を残して。

 フィロンはそれを新たな傷を増やしながら躱す。


 しかし、その攻防も長くは続かなかった。


 夜の北門は、もはや戦場の形を保っていない。血に濡れた石畳が月光を鈍く反射する。

 呻き声すら絶えた静寂の中、そこに立つのは、生き残った二人のみであった。


「……ここまで近づけば、流石に避けられる位置は存在しないな」


 低く冷たく告げる声とともに、サリィの剣筋は明らかに変わった。今度こそ、完全に逃げ場のない致命的な一撃が放たれると直感する。

 ――このままでは本当に殺される。


 刃が振り下ろされる瞬間、フィロンの足元が不意に淡い光を放った。

 北門の石床に描かれた波耀紋が輝いている。

 たった今踏み込んだその場所に、遠く離れた城からユリアナの精霊術が重なる。


『多少、無理矢理にでも――』


 ユリアナの掠れた声が腕輪を通して耳に届く。


「転移……せざるを得ない……!」


 呻くように呟いた刹那、空間が裂け、眩い白い光が全身を呑み込んだ。波耀紋の残光だけが救いとして目に残る中、背後でサリィの声が最後に届いた。


「波耀紋か。……確かに、ユリアナがこの場にいなければ転移の秘術を妨害する手段は今の私にはない。……しかし、拠点を捨てて逃げるばかりでは、詰むだけだ」


 空間を歪める光の奔流が、その警告めいた言葉を掻き消していく。

 体が引き裂かれるような激しい衝撃と共に、フィロンの世界が完全に反転した。

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