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第62話 新たな問いと、呪縛の言葉 後

 しばらく黙って思考を巡らせていた。

 ミラクは無言を貫き、俺かサキの次の言葉を待っている。

 気分が悪くなるほどの血と、奴自身の匂い。

 禍々しい圧力に押されながらも、ミラクの状態を冷静に見極め、やがて俺は口を開く。


「……取引きのつもりか? その死に体で、有利な条件で話を進められるとでも……?」


 低く問う。油断なく、縫い付けるようにミラクを射抜く。

 ミラクは今にも死にそうな傷だ。

 なぜ平然と動けているのか。なぜこれほどの重傷で、余裕を装っているのか。

 その理由すらも分からない。

 もしかすると、ソニアに与えたような秘術の能力で、奴は既に人ならざる者に成り果てているのかもしれない。


 緊張に、頬に汗が伝う。

 様々な言葉が脳裏を駆け巡った。――ラナ、サキ、幻術、罠の可能性、宝物庫にある秘薬――ミラクを殺す決意。

 全部が同時に、俺を動かそうとした。

 ……油断はならない。

 ――だが、下手に出る道理は……ない!


「……なぜソニアに与えたような秘術で癒さなかった!?」


 望みは薄いが、ミラクが口を滑らせることを期待して鎌をかける。


 死にかけの相手を斬ることへの躊躇いを、ミラクに対してすらそれを感じてしまう苛立ちとともに、俺は右手の双剣を投げ放つ。左の剣を振るって攻め込みながら言葉をたたみかける。

 ミラクは投擲された刃を辛うじて躱すが、すぐさま俺本体の追撃を受けることになる。

 そこで気づく。

 ――こいつ、武器を持っていない!?

 

「殲獣を喰らう原始的な魔術は強力な代わりに欠点があってな。……相性が悪ければ即死するんだ」


 そんなことも知らないのか、とでもいうようにミラクは余裕を装いながら答える。

 その声音に、食いしばった奥歯が鳴る。


「死にたくないなら、なぜ俺たちの前に易々(やすやす)と姿を現した!?」


 飛去来器(ブーメラン)のように戻ってきた双剣が迫り、ついに丸腰のミラクは受けきれず、仰向けに倒れる。

 立て直す隙は与えない。

 両足で腕を踏みつけ、首に刃を突きつける。勢い余って多少刃が食い込む。だが奴の有様から見るに、これしきの傷は今更だろう。


「……自信の根拠が分からないな。その痩せ我慢をいつまで続けるつもりだ?」


 吐き捨てるように問うと、ミラクは笑った。目は俺を通り越して、サキだけを見ている。

 

「はは……()()()と、逆の立場だ。……なあ、サキ?」


 その言葉に、俺は寒気を覚えた。

 ……そうか。

 こいつはずっと、サキの反応を楽しんでいたんだ。

 

 その意味は、拒否しようとしても伝わってくる。

 サキが何か言いかけているが、それを遮るように俺はミラクにかける体重を増す。


「余計な口は聞くな。お前の目的がなんだろうと、誰がラナをお前なんかに会わせるか」


 苛立ちを隠すことなどはせずに問いただす。

 だが、ミラクは何もかも己の掌で進めているかのような余裕を、俺とサキを前にひけらかしている。……演じているのかもしれないが、それすら心底腹立たしい。


「殺す気ならば最初の一撃で済んだだろう? ……出来もしないことを(わめ)くな。俺を殺せば、お前の片割れは永遠に人形のままだ。……それを、分かっているんだろう?」


 その問いかけは、俺の心を惑わせる。


「……お前が、ラナを治せるって言うのか?」


 ラナの名が、切なく心に響く。隣にいた彼女の優しさが、ふと懐かしく胸を突く。


「俺の幻術の能力で、お前の片割れの洗脳は解ける。お前らの洗脳を解いたのも、俺だ」

 

「ラナを治して、お前に何の得がある?」


 ラナを取り戻したい気持ちは、誰よりも強い。なのに、その可能性がミラクの口から出るだけで、嫌な冷たさが背筋を伝う。


「……俺にとってもこの戦争が都合が悪いんだ。だから、終わらせたい。ラナを解放すれば、この戦争は止められる。俺には、そのための策がある」


 ミラクは淡々と続けた。

 俺は剣を握り直しながら、答えを出しかねて微かに震える自分の手を見つめた。ラナを取り戻す一手が、本当にミラクの掌の中にあるのか。


 おそらく、ミラクは、もはや廃城と成り果てたシュタット城のこの宝物庫にある秘術や秘薬の類、そして大河で集めた数多の魔術を掌握している。


 ――そのミラクが、ラナを利用して戦争を止められるだと?


 正直、俺にはその方法は見当もつかない。

 ……だが、もし本当ならば。これ以上ない話だ。

 

 ――だが、ミラクの思惑の裏に潜むものはきっと、ただの合理では終わらない。

 サキにラナを取り戻すという救いを与え、その後にさらなる戦乱の渦へ突き落とす。

 ミラクの望む歪んだ愉悦は、多分そんなところだろう。

 ……俺には、ミラクの考えが理解できてしまう。


 だからこそ、ミラクはこの場に現れた。

 死にかけの身体であっても、取引を持ちかけ、価値を示すことはできる。


 **


 ラキとミラクの会話の後、重たい沈黙が流れる。


「……ミラク。あんたなら、本当に……ラナを助けられるっていうの……?」


 次に口を開いたのは、私だった。

 ――戦争を終わらせたい。

 その利害だけを見れば、たしかに一致している。

 ラナが戻り、戦いが終わる。……もしそれが叶うなら、ミラクの手を取ることが最善なのだろうか?


 ラキに目をやる。

 ラキは揺れている。ミラクを殺すと宣言したにも関わらずだ。


 ラキは頭が良い。ラナをミラクに会わせることの危うさを理解しているはずだ。

 だけれど、それでも……ラキは揺れている。ラキは、ミラクの手を借りることがラナを治す確実な方法だと思っているからだろう。

 

 ラキが正しいと思うなら……きっと、それが最善の選択なんだ。


「……わかった。あんたがラナを治せるというなら……すべてが終わるまで、あんたの命は奪わないであげるわ」


 告げると、ミラクは一瞬、目を細めて沈黙した。

 

()()()が終わるまで、か……。サキ。すべてが終わった後、お前はどうする?」


 視線をそらせない。言葉のひとつひとつが重く、胸に刺さる。

 私は答えを探しながら、圧迫感に耐えるように唇を噛んだ。


「平凡でつまらない人生を望むのか? まさかその先に望むものもなく戦いを止めたいとは思っていないよな?」


 その問いに、言葉が出ない。心の奥がざわめき、体が勝手に硬直する。


「……先に望むものがないのではフィロンと同等――いや、奴以下の間抜けだ」


 黙り込む私を前に、ミラクはまるで楽しむかのように語り続ける。


「俺には、望む未来がある」


「……私にだって、あるわ」


 言葉に力を込めて返す。震える心を無理やり押さえつけ、目の前の現実に立ち向かう覚悟を自分に問う。


「ならばそれを具体的に話し、実現してみろ。それだけの力と決意が、本当にあるのならばな」


 ミラクの言葉の一つひとつが、刃となって心を抉る。

 ラキがミラクに何か問いただしていたが、私の耳には届いていなかった。


 ――本当に、ここでミラクに頼ってもいいのだろうか?


 ――今の、この結果は、誰のせいだ?

 ……選んだのは、連れ出したのは、旅に出たのは、共に旅をすることを願ったのは、一緒に日々を過ごしたいと望んだのは……私だ。

 紛れもない、私自身なんだ。

 決断するのは、ラキじゃない。

 ――私、なんだ。


 視線をまっすぐに据え、握りしめた拳に力を込める。


「ミラク。私は、心に誓ったの。もう、この帝国で、奪われるしか選択肢のないまま生きたりはしない。自分の手で、守りたいものを守り抜く――それを、ここで、あんたに見せるわ」


 **


「……ラキ。私はもう平気よ。一人で戦わせて、悪かったわ。今からは、私が戦うから」


 普段なら、その言葉を聞いて胸がふっと軽くなる。だがミラクが視界の端にいるだけで、何かが違った。サキの心が乱れているのが、目に見える。


 ……だが、懐かしいな。サキのこの感じ。

 戦うことを楽しむような光――澄んだ火種が、今も彼女の内側で確かに燃えている。だが、今のそれは無邪気さではなく、何かを抱えた成熟した気迫だ。


「立ちなさい、ミラク。そんなに私に協力したいなら、まずはあんたに、私のすべてをぶつけてあげるわ。その代わり、あんたもすべてを私にぶつければいい。最後にあんたが生きていたら……好きにするといいわ」


 俺は無意識に息を飲んだ。拳に力を込める彼女の手が、小刻みに震えているのが見えたからだ。震えは恐れか昂りか、それとも決意の余波か――判断はつかない。ただ、そこにある熱量が俺の胸を締め付ける。


「……そうすれば、少しは分かり合えるのかもしれないわね」


 サキは寂しげに笑う。いつもとは違い、ひどく大人びて見える。

 ――ミラクの前では、俺でもサキの全てを読みきることはできない。


 倒れたままのミラクが、ゆっくりと口を開いた。


「……今は武器を持っていないんだ。このまま、俺の過去を聞いてくれるか? 俺の言葉で直接伝えたいことがある」

 

 その言葉が、空気に小さな亀裂を作る。腹の底から自然に湧いた声が溢れた。

 

「ふざけるな……!」


 だが、サキは冷静だった。

 

「……いいわ、ミラク。そのまま続けて。……ただし、条件があるの」


 彼女の目には、死にゆく人間を憐れむ色も混ざっていた。サキはミラクがこのまま死ぬとは思っていないだろうが、そうなってもおかしくはないと考えているのだろう。


「ミラク。ソニアにあんな力を与えたくらいだもの。……どうせ、回復できる手段があるんでしょう? やはり、あんたとの戦いは譲れないの。……あんたが傷を治し次第、私との決闘に応じてくれると言うのなら、話していいわ」


 だが。

 ――俺には分かる。

 ……ミラクにはこのまま死ぬつもりなんか、まして、サキの思い通りにさせるつもりなんか、さらさら無い。

 ――癪だが、俺にはミラクの思考が理解できてしまう。

 サキが俺とミラクが似ていると言ったのは、外見についてだけではない。

 

 **


 ――理解。それは救いだ。

 感情という熱に初めて浮かされた日――初めて人を殺した日から、俺は人々の非合理の意味を理解できた。

 

 人間の非合理。

 暗殺部隊の砦から脱走していく連中のことを、ずっと理解できずにいた。

 命を奪われる結末を知りながら、なぜ涙を流し、怒りに震え、愛に縋るのか?

 なぜ得ることができないものを求め、命を捨てる行動に出るのか?


 物心ついた頃から感情というものが理解できなかった俺には、わからなかった。

 ――だが、俺は知ってしまった。

 初めて人を殺し、その無秩序な熱――『感情』が沸いた瞬間から、俺の世界は色を帯びた。

 ――しかし。


「……それから始まった死者とのみ感情を共有する生活もまだ……つまらないものだった」


 俺が感情を共有できたのは、命を奪う瞬間の死者だけだ。

 色づいた世界を享楽的に過ごす一方で、感情を知ったからこそ味わう苦悩があった。

 だから俺は、任務としての殺しを楽しんでいた。部隊において高い評価を得るという合理には、もはや意味を見出せなかった。ただただ、刹那的な熱を求めて殺した。


 殺すことでしか、無意味を避けられない。ならば、一時的な熱を求め、殺すことも悪くない。

 暗殺部隊で命令のままに殺す日々を、ずっと――。


 ……そう考えていたときに出会ったのが、『絶望』だった。


 善なる者が憎しみに染まり、希望が潰えて堕ちていく様を見た。

 ……それは酷く魅惑的で、俺を惹きつけてやまなかった。


 絶望が、最も純度の高い感情だと思った。

 同時に、絶望こそが、他者からの共感ではなく、俺自身の真の感情を理解する鍵だと気づいた。……だから、焦がれているんだろうな。


 より深く俺自身に入り込む『絶望』を求めて、俺は部隊を抜けた。思うままに殺す道を選んだ。

 大河の流域で人と交わり、仲を深め、そして殺した。

 それこそが、その日々の果てにいつか得られる結果こそが、この世界を生きる意味だと信じていた。

 ……だが、何も変わらなかった。


 空虚だった。


 渇きを一時的に満たす――大河での殺人を繰り返すだけの日々が十年ほど続き、俺は自殺まがいの行動に出た。

 脱走した暗殺部隊の本拠地――都シュタットの城壁に組み込まれた砦に、帰還したのだ。


 

 ――そこで、(そこ)で出会ってしまった。

 ――殺したはずの、サキに。

 殺したはずの少女が生きていて、自分を真っ直ぐに見据えてくる。

 その瞬間、初めて「生者」と感情を共有できる可能性を知った。

 絶望に沈みながらも立ち上がるその姿は、死ではなく生きて交わす「理解」を示していた。

 

 

 ――そして、今。


 俺は、感情に従って生きることこそが、生の意味であると感じる。

 では、感情とは何か。生存本能の副産物か? あるいはただの欲望か?

 ……いや、違う。

 感情を得るということが示す意味。

 今ならば、分かる。それは他者に共感することだ。他者と孤独な人生を共有するということだ。

 一人ではただの『感情』で終わってしまうものが、共有することで『絆』に昇華される。

 結局のところ、感情を抱くだけでは不完全だ。

 それを共にする相手がいなければ、待っているのは灰色の、無意味な日々。


 そして。

 『感情』の繋がりを断ち、すべてを奪い、裏切ること。

 その末期に湧く感情――『絶望』を共有すること。

 それが、『殺す』ということだ。


 

 ――なぜ、俺は『絶望』を感情の深淵であると思ったのか。

 ――なぜ、俺は殺し続ける未来が約束された部隊を抜けてまで、大河流域で殺人の日々を送ると決意したのか。

 ――……なぜ、『絶望』を得るためには、わざわざ仲を深めてから殺すことを重要であると思ったのか。

 

 その答えが、人生を懸けて求め続けたものが、今なら完璧に理解できる。


「……なあ、分かるか? 今お前にこの話を聞かせているだけで、俺は……」


 語りながら、思わず溢れた本音に口をつぐむ。

 ……今はだめだ。

 今はまだ、揺さぶるだけだ。

 こんな話、どうせサキにはすぐには飲み込めないだろう。俺がサキのすべてを感じるのみではなく、サキが俺のすべてを得る、そのときは、まだ――。


「話は終わりだ。俺はただ、感情に突き動かされた非合理のためにここにいる」


「……っ、そんなの、納得できないわ!」


 彼女の声が、宝物庫の空気を引き裂く。


「……いつか分かるさ。……すべてな」

 

 サキに波乱の人生を送らせ、希望を失っていく感情を分かち合い、いつか『絶望』をも共有する。

 ――歪な共生の形。

 だが、それでいい。

 

 そうしたとき、俺の本当の人生は始まる。


「今言えるのは、ここまでだ」


 ――だからこそ、俺は願う。

 サキと互いに最大の理解者であることを。

 彼女の絶望も、喜びも、怒りも。そのすべてを、自分だけが受け止めることを。

 

()()()がくれば、お前のすべてを……どれほど醜い想いでも受け止めよう。真の意味でお前に共感し得るのは……俺()()だ」


 平穏に、誰かと寄り添い生きる日々さえ――サキとならば悪くないのかもしれない。


 ――それでも。

 今は、より熱い感情を求めてしまう。

 より酷く黒く燃えるような激情に焦がれてしまう。

 ……嗚呼、感情とはなんという、非合理なものか。


「……ミラク! あんた、今の自分の立場がわかっていないのではないかしら?」


 サキが言う。その手をかざす先では血が渦巻き、槍の形が生成されている。


「俺が望むのは、平穏な未来なんかではない。()()だ。何を捨ててでも、望むものを手に入れる」


「……何言ってんのよ? 結局、戦いから逃げるの?」


 挑発しているつもりなのだろう。

 共に旅をしていた頃ならば、疎ましく思っただけだった。

 だが――今となっては、違う。

 その言葉を紡ぐまでに潜んでいる恐れも、迷いも、それでも立ち向かう意志も。

 サキの全身全霊が、俺の心を揺らす。


「お前が俺と最上の戦闘(コミュニケーション)を望むというのならば、応えよう――」


 サキという唯一の存在を噛み締めながら、俺は口を開いた。


「――……ただし、然るべき時にな」


 サキの闇に溶けるような黒い瞳は、真っ直ぐに俺を睨み返していた。

 ――良いな……その顔。

 憎悪も、恐怖も、決意も、すべてを抱えてなお俺を見据えるその目。

 ……一先ずは、これで満足してやるとしよう。


「……サキ。今は、俺の手を取れ。ラナのところへ連れて行け」


 ……ここまでだ。これ以上は、まだ言うわけにはいかない。

 俺の言葉はそこで途切れ、空気の隙間へと溶けていく。そして、俺はおもむろに手を伸ばした。


 **


 ミラクの言葉は私の心を掻き回す。私の中の弱さを、甘く甘美に弄ぶように響く。


「――っ、ミラク……」


 怒りでも、哀しみでもない、複雑な感情が胸を灼く。ラキの声が背後で震えていることはわかる。たった今、ラキが前に出て、必死に止めようとしていることも見える。だが、私はそのすべてを遮るかのように、自分の内部の声を探していた。


「俺は必ずミラクを殺すと決めた! ……ラナのことなら、この宝物庫にある薬できっとどうにかなる! 元々、そのつもりでここに来ただろう!? 俺が何でもして治してみせる!」


 ラナを取り戻したい。――その望みだけは、揺るがない。 


 ――でも。


「……だから! ミラクの手なんかを取るな!」

  

 ラキの命乞いのような声が、私の耳をかすめる。


「サキ……頼む。やはり……あいつの手は取るべきではない。……いや、あいつの手なんか、借りたくない……!」

 

 ミラクに伸ばしかけた手を、私はゆっくりと下ろした。


「……やっぱり取らないわ、ミラク」


 その選択を言葉にした瞬間、ミラクは愉快そうに肩を震わせた。だがその笑みの直後、彼は懐から小瓶を取り出す。赤みを帯びた液体が、淡く光っていた。


「これは……ラナの洗脳を緩和する可能性がある秘薬だ。完全な治療薬ではないが、方向性は示せる」


 私の目は、その瓶に釘づけになる。光が、血の色を帯びて揺れていた。ラキが無言で手を伸ばし、秘薬を掴むのを、私はただ見ていた。指先が震えているのを感じる――それは恐怖か、希望か、どちらとも言えないものだった。


「――今はこれで良い。だがいずれ、答えを変える時が来る」


 最後に低く、私の心を縛る呪いのように囁いた。


「……また会おう、サキ」


 闇に溶けるように霞んでいく言葉。

 ミラクの鈍い瞳に影が揺れ、次の瞬間にはその姿が掻き消えていた。

 血の匂いだけを残し、声も気配も、すべてが虚空に溶けた。


 ――晴れつつあった私の心に、またミラクの呪縛の(つた)が絡みつく。

 旅立ったときに出会った、刺激的で興味を惹いたあの影も。帝国西部の若者の希望を運ぶ大河を渡ったときも。私の興味のほとんどはミラクに向いていた。

 そして、今も、また……。


「匂いも消えた……。あの剣がないのに、これほど高度な幻術……やはり、奴はもう、ただの人間では――」

 

 考え込む私をよそに、ラキが何やらぶつぶつ言っていた。

 たしかに、ラキの言う通り、ミラクは幻術の魔術が施されているようなあの剣を持っていなかった。

 それなのに、幻術を使った。

 ……まさか、ミラクもソニアと同じように秘術で人間を辞めている……?

 だとしたら、消える直前、ミラクの黄色い目に揺れた影は……。

 

 ――ミラク。……あんたは一体、どんな未来を望んでいるっていうのよ?

 ――さっき言っていた、然るべき時……私が答えを変える時って、なんなの……?

 

 静寂の中、私は自分の震える指先を見つめていた。

 ラキの背中だけが、現実に繋ぎとめる唯一の楔のように感じられた。

 残されたのは、赤く揺れる秘薬と、深い静寂だった。

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