第60話 ある一つの結末 後
私の宣言に、ソニアはしばらく何も返さなかった。炎の揺らめきだけが、私たちの間を満たしている。
その翡翠の瞳が――ほんの一瞬だけ、揺れた。それは迷いか、諦めの中に沈んだ光の名残か。
けれど、次の瞬間には、炎がその奥を覆い隠した。
金属の鳴る音。ソニアが剣を握り直す。
私もまた、血槍の形成を整え、握る拳に力を込めた。
**
炎の光が私の感覚を奪い、吸血鬼族としての力も鈍っていく。ソニアとの戦いは未だ長引いていた。
「ぐっ……!」
咄嗟にひねった首の筋から、血飛沫が舞う。
しばらく炎の中にいるせいか、頭がぐらぐらして平衡感覚がまともではない。
炎の中から繰り出される高速の斬撃。容赦なく急所を狙い続けるそれを避けることが、難しくなってきた。
――まずい。かなりまずいわ。もうこれ以上は……血槍の形を保てない……!
炎のせいだけではない。血を流しすぎたことも、かなりまずい。貧血でますます力が入らないだけではなく、血を操る感覚は、まるで泥の中に沈められたようで、血を手繰ることができない。
……絶望的な状況だ。ソニアの炎は、衰える気配がない。
このままでは、私はきっと押し負けてしまう。
……もし、このまま何もしなければ、だけれど。
考えるんだ。
諦めなければ、きっと打つ手はあるはず。
……考え、なくては。
――でも、ダメ……だわ。
思考が途切れて、まとまらない。
身体が重たい。全身が火傷でヒリヒリする。
ただ、それでも、いや、だからこそ、欲求だけが鮮やかに湧き出てくる――ラキの血を飲みたい。
喉の奥に、この身を癒すラキの血を流し込みたい。
ラキ。
ラキの目を思い出す。何もかも見透かしてしまうような鋭さもあるけれど、私を受け止め、背中を押してくれる、温かいまなざし。
言葉はなくても、その視線が「諦めるな」と告げている。
……そうだ。ラキみたいに冷静に考えて、この状況を打開しなくてはいけない。
……そういえば、ラキはここから離れてどこに向かったのだろう?
あの火傷を癒したいはず。……とすると、水のある場所? でも、この城の内部なんてラキは知らないはず……。
……嗅覚や聴覚の優れたラキだからこそ、見つけられる水があるとしたら……。
私は、耳を澄ませる。大きく息を吸って、感覚を研ぎ澄ませた。
――あった!! これは、この水が湧き上がる音は……っ!!
知っている。これはきっと……噴水、とかいうやつだわ。
ライトが「子には、こういう話をしてやるものなのだろう」とかなんとか言って、聞かせてくれた、人族の姫が主人公の昔話の一つに出てきた。後から、その話は村長の入れ知恵だったのだと知ったのだけれど。
とにかく、近くに噴水がある。
偶然入ったのが城の回廊で助かったってわけかしら。
ソニアが、炎を渦巻かせながら突進してくる。剣先は白く輝き、振るうたび空気が裂ける音がした。
私は辛うじて身を捻るが、腕にかすった熱だけで皮膚が爛れる。痛みに顔を歪めながらも、反撃の間合いを詰める。
炎の中での呼吸は、既に限界を超えている。
それでも、私は諦めなかった。
――水場……噴水まで行けば……まだ、戦えるわ。
水音の方向を頭に叩き込み、私はソニアの剣先をかわしながら、じりじりと下がる。
――この音! 水場は、もうすぐ背後にある!
ソニアが低く構え、炎を纏わせた剣で突く。
その動きには迷いがない。あの速度と威力では、防御した瞬間に焼き切られる。
――水場に行くだけでは、まだ足りない。
あと一つ……何か、ソニアの意表を突かなくてはいけないわ。
私は今、一人だ。つまり吸血する相手がおらず、回復手段がない。
普通ならば、利き手ではない左手で防御して、反撃の機会を窺うだろう。そのはずだ。
……だからきっとソニアも、そう思うだろう。
私は剣戟をかわしながら、あえて噴水へと後退する。
ソニアは攻めの手を緩めない。炎を纏った剣閃が、何度も視界を白く裂いた。
――背後の噴水まで、あと数歩の距離。
呼吸はもう限界を超えている。それでも足を止めない。
――……よし。
……何とかだけれど、間に合ったわ。
ついに足を止めた私の前で、ソニアは炎の渦を剣に集めた。
「もう、限界ですか? ……終わりですわね」
その突きを、私は右腕で受ける――同時に、足元を大きく引いた。
剣の衝撃と炎の勢いに押され、私は肉が裂かれるのを感じながら、背中から後方へと倒れ込んでいく。
ソニアが目を見開く。驚愕にわずかに呼吸が乱れている。
――なぜなら、私が利き手を完全に捨てて防御したからだ。
私は今は一人。ラキを吸血して回復することはできない。すぐに回復できない利き手を進んで傷つけるなど、戦いの常識からすれば致命的な愚行。
だからこそ、ソニアは一瞬、私の意図を掴めなかった。
――そして、ソニアにわずかな隙が生まれる。その隙をこそ、私は覚悟して生み出した。
その刹那を、逃さない。
右手首から流れ落ちた血は空中で震え、熱を帯びて刃の形をとる。
炎に焼かれ、力を削られながらも――全てをそこに注ぎ込む。
私は噴水を背に倒れながら、赤い閃光を放った。
血の刃が灼熱を裂き、ソニアの胸元を斜めに穿つ。
布が同時に裂け、鎖骨から胸の上にかけて白い肌が露わになる。そこから熱い血がこぼれ、炎の光を受けて艶めかしく煌めいた。
「……っ……利き手を捨てっ、反撃……なぜそんな選択を……!?」
――同時に、私の身体は噴水に着水する。
どぼん、と水飛沫が舞い上がった。
噴水の冷水が灼けた皮膚を叩き、白い蒸気がもうもうと立ちこめる。
水! ……焼けた皮膚には滲みるけれど、私には問題ない。喉が潤い、熱でクラクラしていた思考が晴れていく。
冷水が体の熱を奪い、焦げ付いていた感覚が少しずつ戻ってくる。私は左手で噴水の縁を掴み、立ち上がった。
「――あぁ……ここは、噴水……そういうこと、ですのね……」
蒸気の向こうで、ソニアの翡翠の瞳が見開かれている。追い詰めていたはずの獲物が、逆に罠へと誘い込んでいたのだと気づいたようだ。
血の刃に裂かれたソニアは剣を取り落とし、ゆっくりと崩れ落ちていった。
ざばんという軽い音の後、水に仰向けに浮かんだソニアは、震える息を吐く。血に濡れたその顔は、炎の光を受けて、かえって儚く見えた。
「このままでは……この出血では、私は……死にますわね」
ソニアは無抵抗に水に浸かったまま呟く。濡れた胸元に滲む赤が、彼女の肌をより白く際立たせていた。
「……地獄のような幼少期を過ごし、唯一の希望だったユリアナ様と袂を分かちたこの城で……幻術に侵された意識のまま、あなたに……殺される」
微笑のようで、泣き顔のようで――その瞳は私だけを見つめていた。
かすれた声が、火の粉のざわめきに紛れて消えそうになる。それでも彼女は、唇を震わせながら続けた。
「これが……裏切り者に相応しい末路……なの、でしょうか」
吐息が熱を帯びていた。
その瞳の奥に宿っていたのは、重くて、深くて、そして悲しい記憶だった。
私たちは、それぞれの地獄を歩いてきた。だからこそ、絶望の炎には、もう負けたくない。
――私が、私でいるために。
「……いいえ。違うわ、ソニア。……あんたをこのまま、死なせはしない」
なんとか言葉を吐き出したものの、全身の力が抜けそうになった。
……まず私が力尽きてしまっては、どうしようもない。
「ラキ。……まだ……ここに、いるんでしょ?」
呼びかけると、水がわずかに揺れ、噴水の裏側からラキが現れた。
「……サキ……お前ならやれると、俺は信じていた」
戦いの間、ラキは水中に潜んでいたのだろう。獣耳と黒髪は金属のような光沢を帯びていた。
「ラキ……。私……全身が火傷と裂傷だらけでしょ? あと……右手が千切れそうなの。悪いんだけれど、少しだけ、血をもらえると助かるわ」
「……ああ。もちろんだ」
水を滴らせながら、ラキが私の前に立った。私たちは噴水の中で向かい合う。濡れた衣服から立ち上る冷気と、血の匂いが混ざり合い、思わず喉が鳴った。
「既に出血しているところでいいわ。……その肌に、新たに噛み跡をつけるのは、さすがに気が引けるから……」
喉が焼けるほどの渇き。
火傷のせいか、それとも目の前の血の匂いのせいか、自分でももう判別がつかない。
……ラキの漂う血の香りが、火の粉に乗って届いて、頭がくらくらする。
「……まわりが、火の海だったからさ」
聞こえる音が、だんだん飽和しているようにぼんやりとしていく。
視界は、二重に揺らぐ。平衡感覚が機能していない。
脚は震えて、もう立っていられない。
……限界なんだ。
……意識が、飛びそうだわ。
「体の表面はもう止血してあるんだ。……だから、出血してるのは……その」
何を言い淀んでいるのか。
早く。
早く教えて。
「なに……? わ……たし、もぅ、げん……かい、なん……」
視界が熱で滲み、熱い雫が零れ落ちる。理性は、今にも剥がれ落ちそうだ。
このままでは、血管の位置など気にせず、ラキの首に噛みついてしまう――。
「……口の中、くらいなんだが」
理性が飛ぶのと、その声が聞こえたのは、同時だった。
吸血衝動なのかさえ分からない欲求に突き動かされ、倒れ込むようにラキに覆い被さる。手の内に入ってしまった焦がれた血に涎が垂れ、麻痺成分が混じる唾液が滴り落ちて、泡立つ噴水の水に溶けていく。
刺すような冷たさと、血の熱の温もりが交わる。
――感じる。私の混濁した意識が揺らぎ、ラキの意識と絡み合っていくのを。
私の口内もいつのまにか切れていたらしい。ラキの血の味に私の血が混ざり、胸の奥に落ちていった。次に、どうしようもなく、胸の奥でどろどろしたものが膨らむような感覚がして――……。
火照った全身は噴水の冷たい水に撫でられていく。水の中で、ラキの頬を両手で覆って、ただ身体の求めるままに血を吸う。吸血の快感と、血の酔いと……もう一つの何かわからない欲求――その境目が、もう分からない。
**
呼吸を弾ませながら、噴水の中にラキと向かい合って座り込んでいた。
……右手、治ってる。
いつのまにか……かなり長い間、吸血をしていたらしい。
……あれは、あの時間は、現実なの?
目が合うと、熱に浮かされたような表情のラキが堪らなさそうに目を逸らした。だから、それが現実であることはわかった。
……わかるのだけれど。
まだ、夢見心地のままだ。
ラキの血の熱が、まだ喉の奥に残っている。舌の裏に張り付いた鉄の味と、胸の奥に沈殿した甘い痺れ。それが脈打つたびに、呼吸が浅くなる。
何とか現状を再認しようと視線を動かすと、すぐそこには、横たわったソニア。
夜空を仰ぎながら、血に濡れた胸元を押さえている。ソニアの周りの水は赤く染まり、長い金髪は水の中でゆらゆらと漂っていた。
――とても、辛そう。
「……あなた方……一体、いつまで座り込んでいるつもりなんですの? 殺すなら、早く殺して――」
立ち上がり、足は自然とソニアのほうへ向かっていた。
水の中にひざまずく。
ソニアの胸元に垂れた、柔らかそうな金髪。指先でそっとそれを払いのけると、淡い香りが鼻をくすぐった。
破れた胸元の服を取り去り、血を拭ってあげると胸元があらわになる。
ソニアの呼吸が少し乱れる。
しかし、私の意図が分かっているのか、ソニアは抵抗しようとはしなかった。
「……辛いでしょう? 今、血……止めてあげるから……」
傷口に顔を近づけると、白磁のような肌の上に――私が作った赤い線だけが、深く、はっきりと刻まれている。
不思議なことに、やはり炎の痕はどこにもない。だけれど、そのあたりの事情を問うのは、この後でいい。
「……無理して、私の止血をする必要なんてないんですのよ……」
答えず、さらに顔を寄せる。
……細い首筋からは確かに華奢な印象を受けるのに、そのすぐ下は、ちょっとした敗北感を覚えるくらい滑らかな曲線を描いていて……。
……。
「……本当に、止血を止めますの?」
「……いえ、その……」
ソニアは訝しそうに、いつのまにか背後に立っていたラキは、不思議そうに私を見ていた。
「あんたの体つきが妙に生々しいっていうか……大人っぽ過ぎるっていうか……」
胸に手を置くと鼓動が伝わる。白い肌は柔らかく、指先で触れるたびに甘く溶けていくようだ。
……あまりにも。
あまりにも、私とは異なる。
「ソニア……あんた年いくつよ?」
「……は? さっきから人の体を撫で回して何なんですか? 私の体に何か文句でもありますの?」
年齢差で自分を納得させようと思い聞いてみたが、ソニアは不愉快そうに眉をひそめる。炎を操るようになったのに、まるで氷のような視線だった。
そして、ラキがこのソニアをどう思っているのか気になってしまい、私はラキへと目を向ける。
「サキ、どうしたんだ? 俺たちにはあまり時間は残されていない」
「……そう。確かに、どうでもいいことよね」
ラキはソニアのことをどうとも思っていないようだ。分かりきっていたことだけれど、なぜか胸の奥がふっと軽くなって、妙に納得した気持ちになった。それなら、もう気にする必要はない。
――……あれ。私、なぜラキがソニアをどう思っているかとか、ソニアの体つきがどうとか、そんなことを気にしているのかしら。
今まで、そんなのどうでもよかったのに。
……だってそんなの、まるで――。……ああ。
……思考がまとまらない。頭の中が、ぐちゃぐちゃに混乱してきた。
ぶんぶんと頭を振って、私は一旦考えを切り替える。
「……まあ、時間もないことだから、今はいいわ」
再びソニアに視線を戻す。金の髪がさらりと揺れ、ソニアの体温と鼓動が私の胸元に伝わってくる――。
そして、舌を這わせる。
ソニアの血の味。
同じ血の温もりでも……ラキとは……何かが、違う。
**
胸の奥に残る熱はまだ消えない。脈打つたびに、さっきまで感じていたラキや、ソニアの鼓動が思い出される。
さっきのは、ただの吸血ではない。命を繋ぐための行為だったはずだ。落ち着くため息を大きく吸って吐くと、噴水の震える水面に映る自分の顔と目が合う。
ソニアの体温と、吐息と、胸の奥のざらつく感覚。それらを押し込めるように、私は視線をソニアの瞳へと向けた。
……ここからは、戦いではなく言葉の番だ。
「……さて。どうして私を死なせてくれませんでしたの?」
落ち着いた声色の奥に、かすかな戸惑いが混じっている。
その問いに答えるには、私自身の心の内を見つめ直す必要があった。
「……時間はないけれど、この話は避けられないわね。憎むべきは、ソニアではないわ」
言葉を探す。胸の奥から、ゆっくりと記憶が浮かび上がってくる。
――私は、闇と絶望に溢れたこの世界に、半吸血鬼として産み落とされた。
……それがどんなことを意味するのか知らずに、私は生きてきた。
でも――今の私は違う。
この世界の残酷さを知り、その上でなお、優しい世界を夢見ている。ラキとラナに出会い、私は生きていたいと思えた。
そして、ソニア。あなたもきっと、かつては同じ光を見ようとしていた。
「さっきも言ったけれど、あんたが絶望して未来を諦めているというのは、私……まったく気に入らないのよ」
探した言葉を声に出して、私なりに伝える。
ソニアだって、帝国の明るい未来を夢見て帝国軍を裏切り、反乱軍に籍を置いていたはずだ。
しかし、ソニアは、帝国軍ではなく、反乱軍すらも裏切った。
ソニアが裏切りに裏切りを重ねる、その理由は――。
「ソニアには、信じる道を貫く強い意志があったのよね」
ソニアは一瞬、瞳を細めた。
その奥に、悲しみと諦めが入り混じっているのがわかる。
「ソニア。お前は、帝国の被害者そのものだ。ずっと帝国に人生を搾取されていた……。幼い頃は皇女の影武者で、影武者として使い捨てられてからは、暗殺者になることを強要された」
ラキが淡々と語る。
「……そう」
ソニアは消え入りそうな声で呟いた。
「私は、ただ道具として使い捨てられるだけでした。だから私は、選んだ。――自分の信じる正義を。けれど結局……何も、守れなかったのです」
……この人は、まだ折れ切ってはいない。だからこそ、届く言葉がある。
ソニアの覚悟と、それが叶わなかった絶望が伝わってきた。
そして、私はそれを継ぎたいと思った。
「ソニア。……私達にしたことは簡単には許せないけれど……私は、ソニアを助けたいと思ったの。……救いようがあると思ったのよ」
その一言で、ソニアの目がわずかに揺れる。
「帝国の兵士たちは、ただ快楽のために人を殺していた。でも、あんたは違うわ」
私は一歩、踏み込む。
私は、ソニアと一緒にいる未来を、想像し得たんだ。
「……剣を向けた私にさえ……あなたの心を幾度も裏切った私にさえ、そんな風に言ってくれますの?」
泣き出しそうな、弱さを押し隠した響き。
気づけば私は、その弱さに釣られるように、自分の中の脆さまで晒してしまっていた。
「私は、夢はあるけれど……気持ちが突っ走るばかりなの。そこを、ラキやラナが……私たちに賛成してくれた民たちが、支えてくれているのだけれど」
こんな話をするつもりではなかった。
でも、それでもいいと思えた。
「ソニアは、たった一人でも、自分の手で、その運命に抗った」
「……サキ……?」
「それがたとえ、『裏切り』という形であっても、あんたは、自分の信じる道を裏切っていない。……あんたは一人でも、ミラクの洗脳にさえ今、抗っているじゃない。……私は、それを尊敬するわ」
炎がはらりと散る。燃え盛る城内で、その一瞬だけ静寂が訪れたように感じた。
「ソニア。あんたにかかっているミラクの幻術は、きっとそう強力なものではないわ。……今のソニアなら、破れるはずよ」
それでも彼女の瞳は揺れている――怒りではなく、泣きそうな光で。
私は踏み出し、手を差し出す。
「……生きて。今度は、自分のために」
ソニアの視線が私の掌へ落ちた。
ソニアの目から、うっすらと膜をはっていた雫がこぼれ落ちる。その反応に、私はソニアと一段階深く繋がれた気がした。
「あなた、本当に生意気で気に入りませんわね」
涙を拭いもしないソニアの声に、怒気はなかった。それは、自分が揺らいだことへの悔しさと、わずかな安堵が入り混じった響きだった。
そして、ソニアはふわりと花が綻ぶように笑う。
同時に、城を覆っていた炎が一気に消え去った。
「生意気で悪かったわね。……でも。やっぱり、あんたにはそういう勝ち気な台詞が似合うわ。ソニア……ミラクの幻術による洗脳は、完全に解けたみたいね」
胸の奥で小さな安堵が膨らむ。けれど、それはまだ形を持たない。
彼女が次に何を選ぶのかは、まだわからないからだ。
「今、もし……自分の意思で、帝国――いえ、私たち自身の未来のために戦うことを選んでくれるというのなら」
炎が消えて暗くなった空間に、ためらいと、何かを振り切る決意が入り混じった気配が伝わる。
「この手を取って。ソニア……!」
ソニアは震える指を伸ばす。弱いけれど、確かに力を込めて、私の手を握った。
次回 第61話『新たな問いと、呪縛の言葉』




