第59話 ある一つの結末 前
ソニアは城の石壁の窪みから、その落下の勢いを乗せた火炎の剣で、真っ直ぐ私へ斬りかかってきた。
私は空へ舞い上がり、迎え撃つ位置を取る。炎は上昇する性質がある――だから上は危険だ。だけれど、街の屋根よりも、ソニアが先ほどまで立っていた石壁の周辺は、炎の勢いがまだ弱い。そこなら多少は動きやすいはずだった。
火花と衝撃が腕を這い上がるように伝う。
「熱いけれど……軽いわ、ソニア! 以前のあんたの剣に比べたら、炎で誤魔化しているだけじゃない……!」
「無駄口を叩いている余裕があるのですか?」
炎の熱気が力を奪っていく。受けきれずに体勢を崩した私の目の前で、ソニアは再び炎を生み、剣に纏わせた。
片手剣になった分、ソニアの剣撃自体が軽いのは事実。しかし、むしろ速度は増しているようでソニアが生み出す爆炎は威力を補って余りあっている。
何よりソニアの位置関係なく前後左右から迫る炎熱への対処が――!
身に纏った血で背中を押し、辛うじて火柱を避けた瞬間。いつの間に回り込んでいたのか、飛び上がった私の下から抉るような蹴りが入る。
「……がはっ!?」
次の瞬間、私は反動に押されて、城壁の下方――城下の屋根よりは高い位置にある窓へと吹き飛ばされ、そのまま硝子を突き破る。背中が石床に叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出される。
転がり込んだ先は、重厚な柱が何本もそびえる城の回廊だった。
「くっ……」
――相変わらずだけれど、なぜこの業火の中でソニアはあんな動きができるのよ……!
何とか体勢を直した私の視界に、割れた窓硝子を越えて飛び込んでくる影。
炎の尾を引きながら降り立ったソニアが、迷いのない足取りで迫ってくる。
私は城の奥へ後退せざるを得なかった。
崩れかけた天井から、ぱらぱらと火の粉が降り、黒煙が肺を満たしていく。
喉の奥が焼けるように熱い。呼吸は浅く、耳鳴りがして、世界がかすむ――それでも、私たちは止まらなかった。
一閃。もう一閃。
炎の剣が振るわれるたび、壁や柱に焼け焦げた裂け目が走る。城への炎が際限なく広がっていく。
このままでは城が焼け落ちてしまう。そうなれば、洗脳薬に関する何かしらの秘密も失われてしまうかもしれない。
いつのまにか、ラキとも離れてしまった。
――ラキは、今どこに……!?
もしラキも私たちを追い、城の中に入っているのならば、このまま城が焼け落ちるのは、やはりまずい。
何か、ソニアが炎を抑えるようなことを言わなくては。
「……ソニア! ユリアナが、城に来ているってことは知っているの!?」
高速の剣を受けながら、というか何とか急所のみを庇い、その他の箇所は無数に切り裂かれながらも、私は声を張り上げた。
「ユリアナ様が……ここに……?」
その名を聞いた瞬間、ソニアの眉間に僅かに皺がよる。
けれどソニアは、すぐに視線を逸らした。次の瞬間には炎が爆ぜた。轟音が回廊を震わせ、熱気が押し寄せる。
「っ……!」
――来る!
空気そのものが焼け、周囲の壁石が赤く染まり始める。
炎の奔流が一点へと絞られ、剣先で白く閃いた。空気が爆ぜ、床石が焼けて崩れ落ちる。回廊全体が赤熱し、肺の奥まで焼けるような息苦しさが襲う。
これは、先ほどまでの斬撃とは比べ物にならない。
それでも……私は退けない。
――受け止められる。いや、受け止めてみせる……!
目の前の世界が、炎で赤く塗りつぶされる刹那。
死角から影が飛び込んできた。
――この踏み込み……何度も見たことがある動きだ。
しかし、それが誰なのか理解するよりほんの僅かに先に、熱波の衝撃が全身を貫いた。
視界が白く塗りつぶされる。空気が爆ぜて鼓膜を圧迫すし、耳の奥で空気が破裂する音が遅れて届く。
霞む視界の奥で、影が石壁に叩きつけられる。
「まさかっ……ラキッ!?」
その事実を知覚した瞬間、足が勝手に動いていた。駆け寄り、その体を抱き起こす。
まだ息はある――けれど、その呼吸は浅く、熱に炙られた胸がわずかに上下しているだけだった。皮膚のあちこちが赤黒く焼け、焦げた匂いが鼻を刺す。指先で触れるのもためらわれるほど、脆くなってしまった肉体。
「サ……キ……無事ならば、俺には……構うな……行け……」
言葉が、熱気の中でひどく遠く聞こえる。耳鳴りが心臓の鼓動と混ざり、世界が滲む。
怒りか、それともラキを失う恐怖か――胸の奥で何かが膨らみ、吐き出せずに詰まっていく。
「なんで……なんで前に出たのよ……! 私なら、後から血を吸えばいくらでも回復できたのに……っ!」
声が、自分でも驚くほど震えていた。
――嘘。
これは、嘘だ。……この怪我はきっと、見た目よりも酷いものではないはずだ。きっと、少し休めば回復するくらいの傷のはずだ。……だって、ラキはいつまでも私の隣にいてくれると……そう、言ってくれたから。
置き去りにされたような寂しさが、嗚咽となる。
ラキはそんな私を見て、口角をわずかに引き上げる。笑みと呼ぶにはあまりにも弱々しい、けれど確かに安心させようとする表情だった。
「……今の炎……もしまともに喰らえば、お前は……」
途切れ途切れの声。焼けた空気の中で、その息は重く、熱に押しつぶされるようだった。それでもラキは、今言うべきことは別だと言わんばかりに首を振る。
「ラキ……」
その動きすら痛みに満ちていて、見ている私の胸が軋む。
「……いいかサキ。俺は、お前を守ると言ったはずだ。それは、俺がそうしたいからという理由だけではない。……今、お前にしかできないことがあるからだ」
熱気の中で、その言葉だけが異様に冷たく、澄んで響く。
私の中で、まだ形を持たない何かがざわめいた。
「私にしか、できないこと……」
「ああ。お前がするべきことだ。お前はソニアを……あいつをどうしたい?」
問いかけられ、答えはすぐに浮かんだ。
迷うはずがない。
「私は――ソニアを倒さなくてはならないわ」
「俺も……つい先ほどまではそう思っていたんだがな。サキ……ソニアと戦うお前のことが……俺には、辛そうに見えた」
思いがけない言葉に、一瞬思考が止まる。
「……辛そう? 私が?」
何を言っているのか――そう思いながらも、胸の奥に小さな波紋が広がる。
ソニアとのやり取りが脳裏に蘇る。あの目、あの声。
今の彼女は、私の知るソニアと違う。後ろ向きで、残酷で、機械的だ。
その姿が――どうしようもなく気に入らない。
ソニアが敵であることは変わらない。だが、今の彼女は偽物だ。
ならば、戦いつつでも構わない。あの鎖を断ち切り、本来のソニアを取り戻させる。
それが、私の心の命じることだ。
「……そうだ。心に従って戦え。お前の選び取った道が、お前が真に望む未来を導くんだ」
低く、掠れた声。
炎の明かりに照らされたラキの顔は――こんなに暑いはずなのに、青白く、汗で濡れていた。
血の滲む袖口を押さえながらも、彼は私から視線を逸らさない。
「その未来こそが……人々が希望を持って、生きられる世界だ」
言葉を吐くたびに、わずかに肩が震える。それでもラキの目は揺らがなかった。
「……わかった。ラキ」
ラキが信じてくれるなら、これ以上は泣いている情けない姿をを見せてはいけない。……今はラキに甘えているときではない。
覚悟を決めると、涙はいつの間にか乾いていた。極限まで感情が昂ぶると、心は冷たく研ぎ澄まされる。
――戦うしかない。だが、それはソニアを殺すためではない。
今、ソニアが敵であることは変わらないけれど、私の心に従い、ソニアの洗脳を解くために戦うんだ。
「……立てる?」
ラキは床に片手をつき、もう片方の腕で傷をかばいながら、ゆっくりと体を起こす。
その動きはぎこちなく、痛みを押し殺す息遣いが耳に届いた。
「……後は私に任せて。ここから離れて……どこかで、休んでいて」
ラキは一度、唇を引き結んだ。言いたいことはまだありそうだったが、何かを飲み込むように目を伏せる。
壁に手をつき、体を引きずるようにして後退する。炎の明かりから遠ざかるにつれ、ラキの姿は赤から影へと沈んでいき――最後に見えたのは、こちらを振り返らずに奥歯を噛み締める横顔だった。
……どこか、目指す当てはあるみたいね。
ラキは、ソニアの操作範囲外へと出た。
それを確認して私は立ち上がり、近くで揺れる炎の向こうを睨んだ。戦いのうちで慣れたため、この揺れ方の後ろにはソニアがいるとわかる。
「ソニア。ここは通さないわ」
「私に与えられた命令はラキの始末。……しかしながら、あなたを殺すなとは明確に命令されてはいないのです。あなたがラキを逃して立ちはだかるというのならば、私にはあなたを攻撃しない理由はありませんわ」
ソニアは一歩、炎の奥からこちらへ進み出る。影と光が交互に頬をかすめ、唇の形だけが静かに動く。
「サキ……私達は殺し合う運命にあるようですわね」
ソニアの唇に浮かぶのは、微笑みに似た形。だがその奥に、どこか悲しげな影が見えた気がした。
彼女のこれまでの言葉や動きが脳裏でつながっていく。
攻撃の合間に見せた迷い。ユリアナの名に反応した、ほんの一瞬の表情のゆらぎ……。
それが、私にとって戦う理由を決定づけるには十分だ。
「……ねえ、ソニア。ミラクの幻術による洗脳っていうのは、あんたの言動をどのくらい縛っているものなのかしら?」
時間稼ぎのつもりで問いかける。ちらりと目だけで振り向くと、ラキが炎の明かりの外で体を壁に預け、何かを見据えながら荒い息を吐いているのが見えた。
……今、ソニアがラキを傷つけたことに対して、怒りを感じるのも本心だ。
胸の奥で怒りが膨らんでいく。どんなに私が炎に不利だったとしても……あんな姿を見せられて……退く理由は、もうない。
ラキを傷つけられた怒りだけでなく、ソニアが諦めに身を委ねていることにも変わらず腹が立つ。
彼女は腐ってはいない。ただ、利用され、搾取され、傷つけられてきただけ。
それでもかつては、自分の信じる道を貫く希望を持って生きていたはずだ。
……だからこそ、完全には憎めなかった。
けれど――彼女は洗脳下にあるとはいえ、すべてを諦めているように見える。
ソニアと目が合う。
今はミラクの支配下にあるはずの翡翠の瞳。それは確かに虚で、光は灯っていないけれども、微かな覚悟を感じさせる。
やはり、ソニアは……完全に操られているわけではない。それなのに、諦めに身を委ねている。
……それが心底むかつくわ。
「……ソニア」
私は一歩、踏み出した。
「ミラクの洗脳って……本当に解けないの?」
ソニアはわずかに眉をひそめる。
「洗脳と言っても……あんたは、私たちみたいに洗脳薬を飲まされたわけじゃないんでしょう? 幻術だけで……そこまで強く縛れるものなの?」
ソニアは小さく息を吐き、かすかに笑う。
「そうですわね……。私も、こんなに自由に話せるとは思っていませんでした。地下牢にいた頃より、身体はむしろ楽なほどです」
そして視線を落とし、淡々と続ける。
「……彼も、カティアとの戦いで相当な重傷を負っていましたから。本調子ではなかったのかもしれませんわ」
その声音には、自嘲と、どこか言い訳のような響きがあった。
「……そう。命令は与えられていても、意識ははっきりしているってところかしら」
……ソニアはソニアなりの覚悟をもとにここに立っているのかもしれない。
私は改めてそう思った。洗脳されているだけではない。そこには、彼女が選び取った覚悟も混ざっている。
「それならば、ソニア……! ミラクの洗脳から抜け出して!」
ラキが遠ざかるまでの時間稼ぎという目的も忘れ、私は心から叫んでいた。――ミラクのせいで絶望して、未来を諦めている姿――昔の自分を、奮い立たせるように。
短い沈黙。
ソニアの翡翠色の瞳が、かすかに陰を帯びた。
「……抜け出して、何になると言うのです? 私は、反乱軍に取っても帝国軍にとっても裏切り者。居場所など……もうどこにもありませんわ」
その目に映っているのは、諦めだけ。
私は胸の奥で苛立ちが膨らむのを感じた。
そして同時に、ソニアの中でも別の苛立ちが芽生えているように見えた。何度も自分の諦めを突き崩そうとする、この半吸血鬼の存在が、気に食わないと、その瞳が語っていた。
――孤独。
今、ソニアは孤独なんだ。
感じている絶望に寄り添ってくれる人がいない。その冷たさを、私は知っている。
炎の中でも変わらないその冷たさを。
「……居場所、ね。……確かに、私は目指す未来に、あんた達のことは考えていなかったわ」
脳裏に、彼女の歩んできた道が浮かぶ。影武者からの追放に、暗殺部隊への配属。波乱の連続だったはずだ。
……それでも。ソニアは信じる道を見つけて、覚悟を持って反乱軍の一翼を担っていたのだろう。
「帝国の闇の中で、あんたは絶望せずに生きてきた。そんなあんたが、今さら裏切り者として絶望し、未来を見出せないというのは……私としては、面白くもない話だわ」
怒りがまた一段、熱を増す。今の帝国では、やはり私は前を向いて生きていけない。
――いや、私だけではない。ラキやラナ、そしてソニア達。多くの人にとって、帝国は生き地獄だ。……誰かが、帝国に夜明けを導かなくては、いけない。今、その思いが鮮烈に胸を焦がす。
「改めて思った……! やはり私は、ここであんたに勝たなくてはいけないわ!」
――そして、すべてが終わった後、もしあり得るのならば、本来のソニアとまた戦いたい。
その果てに、もしも分かり合うことができたら……。絶望を分かち合い、笑い合うことができたなら……。
――そんな未来も、私は望んでしまう。
今のソニアとの戦い。これは、ある一つの運命との決着だ。
過去に何も取り残さず、未来では心から希望を信じられるように――私は、ここで前に進む。




