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第58話 ある一つの結末へ向かう

 揺らめく炎をうっすらと纏うソニアを見つめると、私の胸に疑問が湧く。

 ……そう。湧くのは、疑問だった。


 ――ソニアに対して明確な怒りが湧かないのは、一体なぜなのだろう。


 彼女は、自業自得な面があるとはいえ、私たちを無理やり暗殺部隊に引き込んだ存在だ。砦で過ごした、あの地獄のような日々を、そう簡単に許せるはずがない。

 それなのに――心の底では、なぜかソニアのことを案じてすらいる自分がいる。


 ……一体どうして?


 ――いや。きっと私はもう、その理由に気づいている。


 ソニアには、見過ごせない、明らかな違和感があるからだ。炎の能力と、拷問を受けたかのような服装――それらだけではない。


 ……あの剣は、いつもソニアが背負っていた両手剣ではない。

 ソニアは、片手剣を右手で持っている。鋭く、正確で、冷静な剣の使い手だったはずの彼女が、その手でぎこちなく剣を振るおうとしている。


 ソニアが軽く腕を振るう。吹き上がる熱風が、屋根の上を駆ける私たちの視界をかすませる。赤く焼けた瓦が、ぱらぱらと街に崩れ落ちる音が響く。その中で、ソニアは足元の瓦の一枚を踏み砕いて進んできた。

 その行動には、まるで外界との繋がりを確かめるかのような荒々しさがあった。


「……サキ。あなたが帝国の何かを変えてくれそうだと思ったのは、間違いではなかった」


 ソニアははっきりと、だがどこか脱力しているように言う。


「……なにを言っているのよ、ソニア……今さら――!」


 ソニアがいきなり何を言い出すのか、分からなかった。まずソニアは話せるほど意識がはっきりしているとは思えなかったし、何より言葉の内容もよく分からなかった。


「普通に話すことはできるみたいだな。それならば聞くが、その炎の能力と奇妙な格好はどうした?」


 いまいち状況を掴めない私に代わって、ラキが問う。的確な質問だと思い、私はソニアの返答を待つ。


「……その質問には答えません。ただ、一言だけ言っておきますと……私達はどうあっても殺し合う運命にあるようですわ」


 しかしソニアは、冷たい、感情の剥がれた声でそれだけ言った。

 ソニアの変化は、ただの姿の変化ではない。まるで、精神が削り取られているかのようだった。

 会話はできるといえども、やはり違和感は拭えない。


「……ソニア。今ここで、私とラキと、戦ろうっていうの?」


 しかし会話はできるのならばと、私はソニアに最後の確認を取る。


 ソニアは何故か炎の能力を身につけている。

 その炎が吸血鬼の能力に目覚めた私に、戦闘でどれほどの影響を与えるのかは、まだ吸血鬼族の能力による戦闘経験が浅いため、分からない。


「こっちは、私とラキの二人。しかも、今は夜よ――太陽なんか昇っていないわ。……その炎の仕組みはよく分からないけれど……本当にあんたに勝機があると思う?」


 砦で吸血鬼族の力を目覚めさせた直後の私に、ソニアは一度敗北している。それなのに、勝負を挑んできたということは、それほどの自信があるということだろうか。


「私は、二人ともを殺すつもりはありませんわよ」


 ソニアの視線は、ラキへと動く。彼女の中で、何かがもう決定していることを、直感で感じ取った。


「……ソニア。最初の火球といい……狙いは俺というわけか?」


 ラキが落ち着いた声で問いかける。炎に照らされたその横顔には、怒りも驚きもない。ただ、事実を一つ一つ確認していく、冷静な観察者の眼差し。


 ソニアは気怠げに目を伏せた。

 

 こんな儚げな表情をソニアが私たちに見せるだなんて……。つんと張り詰めた空気を纏っているか、勝ち気に笑っていることが多かったソニアではないようだ。ユリアナと見違えてしまいそうになる。

 

「ええ……私の標的は、ラキのほうですわ。()が望んでいるのは、(わたくし)の手によってサキが死ぬ光景ではありませんもの」


 彼、とは誰か――それを口にすることを避けるように、ソニアは視線を逸らした。

 私とラキはソニアが示唆した人物の正体を察して、思わず沈黙する。


 ……そうすると、ソニアの言葉が意味するのは、彼――つまり、ミラクが……?

 

 風が屋根の上を駆け抜け、焦げた瓦の欠片がひとつ、カランと落ちる音がした。ラキがおもむろに口を開く。


「……そうか。俺には、何となくだが事情が分かってきた」


 ラキは、思案をまとめるようにゆっくりと言葉を紡いでいく。その言葉選びは、誰に向けたというより、自分自身の中にある答えを探しているようでもあり、同時に私に伝えようとしているようにも聞こえた。


「ソニア、お前は砦での俺たちと同様、ミラクに幻術の類をかけられたようだな」


 私は息を呑む。


 ……ソニアの様子がおかしい原因が、ミラクだというのならば――。ミラクがソニアに幻術をかけ、その結果、ソニアがミラクの望みを叶えるために、今ここで私たちの前に現れたというのならば――。


「――ミラクが……この近くに本当にいるって言うの?」


 砦以降、ミラクの行方は私たちには分かっていない。だけれど、ミラクも私たちと同じように、都で暗躍しているのだとしたら。……北門や街で感じたミラクの気配は、私の気のせいではなかったのかもしれない。


「……そうだ。ミラクは、恐らく何らかの方法で俺たちの行動を把握し、ここでソニアと俺たちを遭遇させた。そう考えていいだろう」


 ラキの言葉に、私の胸の奥が冷たくなる。

 私とラキは、ラナの洗脳を解く手がかりを得るため、そして、反乱軍もしくは帝国軍の動向を探るために城に来たのに――……ミラクがその場に居合わせている。その事実に、心の底で不安が揺らめく。

 

 ……私は、ミラクを前にしても、自分を見失わずにいられるのか。

 

「……だが」


 ラキは、わずかに間を置いてから続ける。


「俺たちがまず目指すべきことは、城の内部に進むことだ。ソニアがその障壁となると言うならば、俺たちは排除するしかない」


 静かな口調の中に、決意があった。

 ――そうだ。私たちには、目指すべき確かな道がある。私が道を見失いそうになったときは、隣にいるラキがいつも道を示してくれる。……不安になる必要なんか、ないわ。

 

「……そうね。……ミラク――……あいつの名前が出た以上、このままでは、何かが手遅れになってしまうような気がしてならない。急ごう、ラキ」


 足元の瓦が熱に歪む音がした。

 火の粉がふわりと舞い、空は闇の中に赤い光を帯びていた。


「……あなた達が何を考えようと、これから起こる出来事は変わりません」

 

「さっきから、随分と丁寧に事情を説明してくれるのね。でも、これ以上、会話をしている時間はないの……!」


 私は叫ぶと同時に、火花の中へと踏み込んだ。

 ソニアは不気味なほど落ち着いた目で、私を迎えた。


「――ッ!」


 ――次の瞬間。

 彼女の体が火柱のように眩しく発光する。


「ええ。もう会話は終わりで結構ですわ」


 ソニアが低く告げた瞬間、彼女の体を覆っていた炎が、爆ぜた。

 耳をつんざく破裂音とともに、一際赤い閃光が夜を切り裂く。

 

 **


 炎の勢いが増し、爆ぜる。熱波が渦を巻き、皮膚を焼く。

 血が沸き立つような熱さに顔を覆いながら、私は叫ぶ。


「……何……この威力はッ!」


 ソニアが使っているこれは、魔術――つまり、殲獣の魔法じみた力を引き出して利用する術だ。それは知っている。だけれど……ここまで強力な魔術など、私は知らない。見たことがない。


 ――魔術を扱っていたラナがここにいてくれたなら、その仕組みも分かったのかもしれないけれど。


「……チッ。ソニアの方が上手(うわて)だったな。サキ、火傷はもう平気か?」


 隣のラキが低く舌打ちした。


「最初にソニアが全身から放った炎の火傷なら……ラキのおかげでもう大丈夫よ。……だけれど、驚いたわ。火球を放ったり炎を操るだけではなく、ソニアの身体はまったく炎の影響を受けないようになっているだなんて……」


 ラキはいつのまにかフードを被り直している。炎の中で、嗅覚や聴覚を保護するためだろう。だが、鋭く状況を見極めるその声には、焦燥がにじんでいた。


「さっき、ソニアは炎の力が充足するまで時間稼ぎをしていたらしいな。時間を許すってことは……炎を練る時間を与えるのと同じだ」


「……なるほどね」


 ソニアはお喋りで時間を潰していたわけじゃない。

 発散した炎の力が、再び満ちるまで待っていたんだ。


「……サキ! その炎が一際大きく揺れているところ……! ソニアがいるぞ……!」


 ラキの叫び。視線を送ると、熱波が時計塔の真下だけ渦を巻くように揺れていた。

 炎が赤く脈打つ奥で時を刻む針が、まるで獲物を仕留める瞬間を待っているかのようだ。


「……そこ! もう炎を練る時間は与えない……!」


 私は瓦を蹴り、火花の渦へ踏み込む。踏み出した瞬間、靴底越しに瓦の熱が歯の根を軋ませるほど伝わってきた。


「飛び込んできましたか……吸血鬼族のあなたには、炎はラキよりも辛いでしょうに」


 ソニアの声が炎の中から響く。その言葉を切り裂くように、私の血槍と、ソニアの剣が交わった。周囲は燃え盛る屋根――傾いた瓦は狭く、不安定で、いつ崩れ落ちてもおかしくない。


 ソニアの炎が爆ぜるように吹き上がり、焼けた瓦が火を帯びて弾け飛ぶ。

 瓦が砕け、足元から滑り落ちていく。跳ね、転がり、踏み外しながらも、私たちは止まらない。次第に戦場を移していく。


 ――気づけば、私たちはシュタット城の城壁すぐそばまで移動していた。……いや、癪だけれど、追い詰められていたといったほうが正しいかもしれない。


「ソニアは、どこ!?」


 浅い呼吸を乱しながら、私は叫ぶ。炎に囲まれて、またもやソニアを見失っていた。


 この灼熱の中では、私の視覚はもちろん、ラキの嗅覚も満足に機能していないらしい。

 だが、突如、ラキがはっとして私のほうを見る。


「サキ、左だッ!」


 ラキの叫びに反応し、私は黒い翼を広げて宙へ飛ぶ。

 不自然な火柱が、直前まで私がいた場所を焼いていた。


 ソニアは、火柱が飛び出してきた位置にいるということだろうか。私はそこに向かって飛ぶ。焼けた空気が皮膚を焼くように熱い。だけれど、飛ばなければ追いつけない。


「……何度も同じような注意になるが、飛ぶな! 血を纏うのも控えろ!」

 

 炎の唸り声に負けじと、ラキが鋭く叫ぶ。視線は一瞬もソニアから外さず、それでいて私の動きまで監視している。

 

「敵はお前の飛行や血の操作を、わざと誘うような攻撃をしてくると……考えれば、分かるはずだ!」


 熱気が、じわじわと肌を焼く。熱波が肺に刺さり、息を吸うだけで胸が痛む。


「くっ……分かってるわ! ……ただ、それでも飛ばざるを得なかったのよ!」


 吐き出した息が熱く、瞬時に頬に返ってくる。


「火は上昇する。血のような液体は、空気よりも熱を伝えやすいんだ……!」


 ……火の性質。つまり、血を纏ったり飛んだりすると、私は真っ先に焼かれていくということらしい。

 考えれば考えるほど、私にとっては致命的な条件ばかりだ。


「改めて聞くと……私と相性、最悪じゃない……!」

 

 汗が首筋を伝い、背中へ落ちていく感覚がやけに重い。


「……だけれど、まあ、平気よ」


 わざと軽く言い捨てる。炎のゆらめきが、私の言葉を試すように揺れた。


「光と熱の影響で力が出ないけれど……血槍なら、かろうじて出せるわ。槍が一本だけでも出せるなら……昔と同じように戦って、勝てばいいってだけのことよ……!」


 拳を握った瞬間、指先まで血が沸き立つような熱が走る。皮膚の内側で、吸血鬼族の血がざわめく。負傷と能力の酷使のせいか、隣にいるラキにすら噛みつきたい衝動が湧く。

 その本能を必死に押さえ込み、空中に散っていた血を集めて槍の形へと固める。


 血槍は、一番使い慣れた、旅立ちの日に持っていたドラゴンの牙槍と同じ形を取る。

 

「愚かな強がりですわね」


 姿は見えないソニアの声が、炎の轟きの中でやけに遠く聞こえる。私の意識が飛びかけているせいだろうか。どこか夢の中で話しているような、淡く冷たい調子に聞こえた。


「わ……私は(ハーフ)よ。こ、これくらいの火なんて、どうってことないから!」


 喉の奥が砂を詰められたみたいに乾ききっている。それでも、口角を上げてみせた。笑えているかどうかは、自分でも分からない。


()によれば、反乱軍にとどまった戦力は、吸血鬼族が殆どらしいですから……どのみち、そうですね」


 ソニアは言葉だけを静かに投げてくる。その声は、炎のような熱さというよりも、むしろ冷えた諦めを湛えていた。


「この夜が明ける頃には、帝国軍と反乱軍の決着はつきますわよ……。いえ……私達の人生を狂わせ、私達が人生を賭けて変えようとした――……すべての決着が、つくでしょう」


「……。そう。……夜が明ける頃、ね」


 ――夜明け。

 その言葉に、私の思考は一瞬、戦いから逸れる。


 かつて、私は夜明けが好きだった。眠れない夜に一人で夜空を見上げまでいると、寂しい気持ちになってしまうから。ライトや、シャトラント村のみんなと一緒に過ごす日中が純粋に好きだった。


 でも、今の私にとって、夜明けとは複雑な言葉だ。吸血鬼族の血を目覚めさせたこの身は、どうあっても太陽を嫌う。


 ……でも。

 それでもなお、私の意思は、帝国に夜明けを導こうとしている。


「サキ!! 意識をしっかり持て……!!」


 ラキの声に瞼を閉じる。

 堕ちそうになっても、ラキ達との未来への思い――それが眩いほどの切なさをはらんだ願いとなって、刹那の光を眼前に灯してくれる。それに私は、勇気をもらえる。


 そして、目を開く。

 炎の中から姿を現したソニアと、目が合った。


「……え? ソニア……?」


 思わず、私は呆けた声を出した。

 ……ソニアの顔が、今にも泣き出しそうな顔に見えたからだ。


 ……なぜ? 無表情なはずなのに。


 ソニアはシュタット城を背に、炎の中にいる。その光景に、ソニアの過去を追想せずにはいられなかった。

 ……ソニアは、城で皇女ユリアナの影武者として育てられ、暗殺部隊に送られた。帝国の闇そのものとも言えるような半生。その中で、ソニアは数えきれないほどの絶望を味わってきたはずだ。

 それなのに、ソニアは反乱軍に身を置いていた。つまり……ソニアは――ソニアだって、つい数日前まで、希望を捨てていなかった。……この帝国を諦めていなかったのだ。


 でも今は、ソニアは諦めに身を委ねている。少なくとも、私の目にはそう見えた。


 それが私には、無性に気に障った。


「……っソニア!! 夜明けまでにすべてが終わるというのならば、それまでに、私は何かしら手を打つわ……! なぜなら、私は……私たちはソニアと違って、この帝国を変えることを、まだ諦めていないからよ!!」


 私は心から叫んだ。その言葉が、今のソニアに届くかどうかは、分からないけれど。

 ――帝国の闇の連鎖を終わらせたい。

 私は、そう覚悟させられるほどの帝国の闇を嫌というほど体験した。

 

 挫けそうになっても、ライトとの思い出や、ラキとラナとの出会いのおかげで私は立ち上がることができた。そして、また未来に、希望を見出した。決意が全身を駆け巡るのを感じる。人々が平穏に暮らして、未来へと希望を持って生きる世界へ導く決意が……。


 そこで、ふと、気づきを得る。


 ――その未来に、ソニアや、暗殺部隊の人たち……そして、サリィやミラクは、どうやって存在すれば……。


 視界で煌めくものに、はっとする。距離を詰めたソニアの剣が私の喉元へ迫っていた。

 寸前で身を引き、首筋をかすめる鋭い風を感じる。皮膚がほんのりと熱を帯びる。


「くっ……!」


 咄嗟に血槍を数十の刃に細かく分けて飛ばす。

 ソニアは軽く飛び上がり、城の石壁の窪みに着地した。


「ソニア、やはり……今のあんたは気に入らないわ」


 言いながら見上げると、ソニアの目の影が若干闇を増したように感じた。


「やけに強気で、どんな目に遭っても心の奥の希望を完全に失いはせず、信じる道を切り拓こうとする……。今のサキを見ていると、まるで、かつての自分を見ているような気分になって――」


 燃え立つ石の城壁に囲まれ、彫刻のような冷たい美貌が際立つ。しかしソニアは、やはり彼女らしくはない呪うような視線で、私を見下ろしていた。


「――嫌気がさしますわ」

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