第57話 城の影にて
気づけば、兵士の数は倍近くに膨れ上がっていた。
彼らは私を狙い撃ちしてくる。
……私が吸血したから治りかけているとはいえ、半吸血鬼である私と違って、ラキはまだ傷が完全には癒えていない。だから、ラキが狙われないのは良いこと。……なのだけれど――。
「あんた達……私ばかりを狙うのね……! もし舐めてるんだったら、思い知らせてあげるわよ!」
剣撃を避けながら、焦燥と苛立ちが、喉の奥から湧き上がる。
私は兵士と距離を詰めようとするが、動きを封じるように、三本の矢が同時に飛来する――仰向けに身を捩り、次いで大きく飛翔し、それらをなんとか躱す。
だが、着地の瞬間。足元に仕掛けてあったらしい、魔術の罠が反応する。生き物の棘のようなものが勢いよく噴射された。
「くっ……!」
反射的に血槍の一部を操作して針を叩き落とすが、爆ぜた針と風に、私は夜空へ吹き飛ばされた。満月を背に、宙を舞う。
視線を下げれば、またも構えられた無数の弓。格好の的というわけだ。
「……面白いじゃない!」
――無数の矢が、迫り来る中。
ふと溢れた強がりにも似た言葉に背中を押されて、一瞬の判断で、私は反撃を選ぶ。
重力に抗うように翼を羽ばたいて宙に舞ったまま、掌をかざす。残りの血槍を一時的に分解して血を練り上げ、空中で三本の赤い槍を生成する。狙いは――弓兵だ。
先んじて放たれた二本の矢が、脇腹と左の太腿を抉る。
「……ッ!」
吸血鬼族の血が強まりつつあるせいか、痛みはあまり感じない。空中に浮く血の槍の狙いはズレないのだけれど、次の瞬間、魔術で不自然な軌道を描いた矢が眼前に迫る。
だが、私はそれを避けるつもりはなかった。
「お前ら、俺のことは忘れているのか!?」
ラキが、兵士たちの注意を私から逸らすように大きく叫び、再び双剣を飛去来器のように投げ放つ。
双剣が月光を反射しながら宙を裂き、弧を描いて舞った。
飛翔する剣が、次々と矢を弾き返していく。鋼と鋼がぶつかる音が空を裂き、破片と火花が散る。
まるで円を描く刃の舞――それが、私の前に防壁を作っていた。
「ラキ!」
その光景に、私は胸の内で小さく笑みをこぼす。
私の矢も、弓兵に命中した。もう飛び道具を使う兵士はいないようだ。私はラキが作ってくれた隙に急降下し、ラキの背後に軽く着地する。
「ラキって、援護が上手よね。私は思い切り攻撃したい派だから、私たちって、相性がいいわ!」
「……」
「なんで黙るの? 褒めたのよ?」
こちらを沈黙で見続けるラキの顔を、首を傾げて覗き込む。
「……なあ、サキ。今の矢は、避けられる軌道だったはずだ。お前、わざと避けなかっただろう」
ラキは不満気に指摘した。
「よく分かったわね」
何よそんなこと、と思いながら私が肩をすくめるようにして返す。
ラキはほんの一拍、沈黙した。
その沈黙の中に、言葉以上の思いが詰まっている気がして、私は目を伏せる。誤魔化しでは通じそうにない。真摯につたえなくてはだめだ。
「……ラキなら、矢を双剣で叩き落としてくれると思ったのよ。だから防御は一旦忘れて、反撃に集中していたわ」
それは本音だった。甘えたのは確か。でも、それは信じていたからこそだ。
ラキは、短くため息をついた。
「……必要ならいくらでも手は貸す。だが、あまり油断しすぎないでくれよ」
その言葉は冷たくも、突き放すものでもない。
責めるようでいて、ちゃんと背中を守る覚悟がこもっていた。
「わかった。次からは、気をつけるわ」
私が真っ直ぐに目を合わせて言うと、ラキは冗談混じりに笑った。
「珍しく、やけに物分かりがいいな……本当にわかっているのか?」
「もう、あんまり馬鹿にしないでよね。私の方が年上なのよ」
ふっと、短い笑いが重なる。次に、私たちは視線を合わせ、頷き合う。
そして、ぴたりと動きを合わせるように跳ねた。私はラキの背から飛び上がり、左右に入れ替わるようにして敵陣へと踏み込んだ。
鋭い着地の衝撃と共に、足元の瓦が砕け散る。金属音が夜に弾け、剣と剣が激しく交錯する。
戦闘しながらも、目指す方向は、ただ一つ。
この敵の群れを突破した先――城へと続く道だ。
屋根の上に、短い静寂が降りた。剣撃の音が遠ざかり、足音も聞こえなくなっていた。
夜風が吹き抜け、舞い上がった瓦礫の欠片が転がる。
空を見上げれば、月が一瞬、雲に覆われる。
闇が濃くなり、吐息が白く浮かんだ。
最後の一太刀が振り抜かれてから、どれくらいが経っただろう。
瓦礫が散らばる屋根の上で、私とラキは背中を合わせる。慎重に辺りを見渡していた。
夜の空気はまだ緊張を孕んでいたが、追っ手の気配は感じられない。
しばらく獣耳に手を当てて耳を澄ませていたラキが、小さく息を吐く。
「……音がしないな。気配も消えた。どうやら、本当に――」
「撒いた……かしら?」
私は警戒を解き切れないまま、そっと問い返す。
心臓の鼓動がようやく落ち着きを取り戻し始める。重ねた背中越しに、ラキの鼓動も、ほんの少しだけ静かになっていた。
けれど、ラキの息は少し乱れていて、見ると顔色も悪いような気がした。
「いつのまにか、城は、すぐそこね」
巨大な城の頂上を見上げ切れないほどにまで、城に近づいていたことに気がつく。城の内部は不気味なほどに静まり返っているように感じる。
「……あ、ああ。そうだな」
「……?」
城を観察していると、ラキが遅れて返事をした。……これくらいのことで、ラキがまだ息を切らしているのは、どこか、不自然な気がするわ。
「ラキ、もしかして体調が悪いの?」
「……いや。別に。ただ――……何か、嫌な予感が」
ラキが気分が悪そうに口を押さえて下を向いた、そのとき。
私の背筋に、冷たい気配が走った。胸が気持ち悪くて、息が詰まりそうになる。
重たく冷たい水に沈んでいくような感覚。
この感覚は、そう……まるで初めて大河を渡った夜、みたいな――。
「……」
――これは……。
心臓が跳ねた。憎く、背筋が粟立つ、でも、忘れられないあの気配。頭では否定しているのに、心が名を思い出してしまった。
「――ミ、ラク?」
喉の奥で詰まって、声に出ているかどうか、怪しかったと思う。
私はその名前を小さく呟いた。
「……は?」
だけれど、背中を合わせているラキには、聞こえていたらしい。
露骨に不機嫌そうなラキの声に、はっと顔を上げる。
「サキさ、北門でも呼んでたよな。……あいつの名前を」
ラキは私から背中を離して、正面に周り、目を合わせる。
もう我慢の限界だと訴えるような視線。静かに、けれど確かに責めるような声音。
私は喉の奥が詰まったようになりながら、反射的に答えてしまう。
「……。……あいつって、ミラ――」
ラキの肩が、ぴくりと震えた。その仕草に、私は手遅れながらも、触れてはいけない地雷を踏んだのだと悟る。
「呼ぶな!!」
ラキの怒声が、夜を裂いた。
私は一瞬、心臓を握られたような気分になり、言葉を飲み込んだ。
「……サキ、お前……俺と共に戦ってるときにも、あいつを思い浮かべてるのかよ」
ラキの瞳には、怒りよりも深いものが宿っていた。
裏切られた、というほどではない。だけれど、間違いなく――傷ついていた。
私の隣で戦っているのに、心が別の誰かに向いている。それが、どれほど残酷なことなのか。
ラキの言葉は、胸の奥に突き刺さった。
咄嗟に否定の言葉が喉まで上がったけれど、それを押しとどめる自分がいた。
今は、ラキとラナの方がずっと私の心の奥に入っている。
だけれど――たしかに、私の心の片隅には、常にミラクの影がある。
ラキの鋭く刺すような視線に射抜かれる。
その目。
その目だけは……やはり、あいつに似ている。……今でも、そんなことを考えてしまう。
でも、私は、理解した。どうして、ユリアナを追いながら、ラキが不機嫌そうだったのかを。
――北門で、私は、なぜかミラクの闇を感じ取って、その名を口に出してしまった。
それを、ラキは聞いていたんだ。
「……ラキ。私が、悪かったわ」
取り繕うように返す。私の瞳の奥を見定めるかのように見るラキの視線は、冷たくも、痛いほどにまっすぐだった。
「……ラキ」
私は、ラキの頬へと手を伸ばす。
謝罪と、「どうすれば、少しでも心が晴れる?」という静かな問いかけを込めて。
しばらくの沈黙のあと、ラキは、目を伏せて、口を開く。
「……なあ、サキ。言わなくても、分かるだろう?」
ラキは視線を彷徨わせてから私の目を見ると、切なく消えるように言った。
拳を胸の前で握って、私に縋り付くように……言った。
ラキのことが、まるで幼い子供のように見える。
……確かに、ラキはまだ、十四歳だけれど。
ラキはずっと、双子の姉であるラナと二人きりで生きてきた。ラナを守るため、大人の仮面を被っていた。
……いつも大人ぶっていても、ラキは私より一歳年下だ。まだ幼い面もかなり残る。ラキには甘える相手だって必要だ。
それなのに、その仮面の奥で煌めいた涙の跡を、いつも……いつも隠させてしまっていた。
「私……ラキが隣に居てくれることに、甘えきっていた」
不安に突き動かされて、思わず、ラキに腕を伸ばしていた。
いつもなら、どんな危機でも冷静に切り抜けてしまうラキが――今だけは、純粋に私の手を求めていた。
その表情は、まるで助けを求める子供みたいだった。それなのに、その不器用な鋭さを持つ目だけは――。
「……。ねぇ……でも……ラキは、私を置いて行かないわよね……?」
溢れた言葉にはっとする。
私は、いつからこんな弱気な発言ばかりするようになってしまったのかしら。
ラキの前では、何もかも見透かされているような気がして、甘さが出てしまう。
ライトにも、こんなに甘えたことなんて……たーまに……多分、三年に一度くらい……本当にごくたまにしかないのに。
物思いに耽っていると、うっすらと瞳が潤むのを感じた。そこで、ラキが口を開く。
「ああ。……俺は、サキを裏切ったり一人にしたりなんか、絶対にしない。……約束するよ」
二人の間の僅かな距離を超えて、私たちがどちらともなく手を取り合おうとした――そのとき。
「……」
かすかな敵意と……吸血鬼族の力に目覚めてから日中に感じる心地悪さを感じ取り、私は手を止める。
見ると、ラキの背後から――巨大な城の一室から、何かが飛んで来る。
光を放つそれが、ラキに迫る。
「ラキ!!」
――夜闇を切り裂き、眩い光を放つあれは――火球だ。
何者かが、魔術による攻撃を仕掛けている。
私の声と共に、ラキは後ろを振り向く。
「……あの距離から魔術――火球だと!?」
だが、ラキは双剣には手を掛けておらず、反応が間に合っていない。
私は、感情の奔流とともに羽ばたく。
翼の重たい一振りにより風が爆ぜ、火球の軌道が逸れる。
私やラキの代わりに、城の間近にある重厚な建物の石屋根が焦げた。
私は、地面に滑り降り立つ。乱暴に勢いよく降りた私を、ラキが腕を伸ばして受け止めてくれる。
熱く流れる血潮のような想いが、込み上げる。その想いを胸に、瞼を閉じた。
――確かに、私には忘れられない相手がいる。でも。
「勝手かもしれないけれど、私は、ラキとラナに出会えたから、こんな世界でも……生きていたいって……前に進みたいって思えたのよ……!!」
――多分、ラキが思っているよりも、ずっと、私は……。
瞼は閉じたままだけれど、重ね、絡み合う手に込める力を強めながら、叫んだ。心が、叫んでいた。私は、ラキと共にある――そう、強く。
「……」
……私の声が、夜風に溶けた――その次の瞬間だった。
夜の大河を思わせるような、やけに冷たい夜風が、翼を撫でる。
――息が、詰まる。
足元から這い上がるような不気味な気配。それが、私とラキの全身を貫いていた。
おそらくは、火球を放った人物の気配だろう。
「この、気配は……」
辛うじて声が出る。圧倒的な邪悪に、汗が、頬を滴り落ちるのを感じた。
「……し、城に、何か……いるわ」
ラキの表情を見る。大きく目を見開いて、その顔には恐怖と、しかしそれ以上の強い決意が宿っていた。
私たちの視線の先には、闇を纏った城が、静かに、威圧的に聳え立つ。
――そして、そのときだった。
城の高窓が爆ぜるように開き、火の粉が舞い散る。
闇を割って舞い降りたのは、炎を纏った剣を持つ、金髪の女だった。彼女は軍服を纏っている。
「……何者だ!?」
ラキが瞬時に双剣を抜き、声を上げる。
女は項垂れていて、乱れた長い金髪で隠れているため、顔は見えない。
ゆらり、と彼女が足を一歩踏み出すたびに、足元から熱が立ち上る。
女は、まるで拷問でも受けていたかのようで、彼女の軍服は、焼け焦げ、裂け、黒ずんでいた。
……それなのに、どうしてなのだろう。
彼女の肌は一切の汚れもなく、血も、火傷も、傷跡すらない。
絹のような金髪は、まるで魔法でもかけられたように艶やかで……。
――何、この違和感……?
軍服は焼け焦げているのに、肌や髪は一切傷ついていないのだ。明らかに、不自然なんだ。
「あんた、一体……」
彼女は、ゆっくりと近づいてくる。
彼女が顔を上げ、その顔が月明かりに照らされる。翡翠の瞳と目が合い、私の全身から血の気が引いた。
その顔――。
私は息を呑んだ。
忘れられるはずがない、あの瞳。
「お前……まさか……」
ラキからも動揺が伝わる。
翡翠色の、まっすぐで、強くて……でも、今はどこか、空っぽで、何かが壊れている。……先ほどまで追っていた人物――ユリアナとよく似ている、その顔は――。
「し……信じられないわ……あんた、何でこんな……」
その人物が持っているはずのない炎の能力に、声にならない声が漏れる。
喉の奥が焼けるように熱いのに、身体は氷のように冷たくなっていく。
金髪。翡翠の瞳。凛とした顔立ち。
大河での出会い。そして、剣を掲げるこの姿――忘れるはずなんて、なかった。
「……ソニア!」
……まさか、今ここで、あんたに出会うことになるだなんて。
――あんたと対峙したからには、殺り合う覚悟を決めなければならないのかしら。
胸に渦巻く複雑な感情と拭えない違和感の前に、私はソニアと対峙した。
**
城の上階から夜の街を見下ろす。
風に靡く炎と、戦場と成り果てた都シュタットに漂う血の匂いが、俺を包む。
これから巻き起こる更なる惨劇を、昂りに打ち震える身にせいぜい焼き付けておけとでも言わんばかりだ。
人々は道化師が作り上げた虚しい舞台の上で、無様に、滑稽に、そして愚かに踊らされている。
――そして。
今しがた向かわせたソニアと対峙し、取り乱している半吸血鬼の少女を、視線に捉える。
……ああ、そうだ。
サキもまた、そこにいる。
ソニアを見たせいか、酷い取り乱しようだな。自覚があるのかは怪しいが、先程まで兵士共と嬉々として戦っていたのが、嘘のようだ。
人の世界に生まれた以上、他者との「対話」は避けられない。
言葉でも、沈黙でも、触れ合いでもなく――サキは戦うことで、それを成す。
ならば俺も、俺なりのやり方で応じよう。
俺にとっての対話とは、「殺し」だ。
血を流させ、命を奪い、その刹那の表情に触れて、ようやくその者を知る。
殺さなければ、人を……その人物の感情を――そして、俺自身がその人物に対して抱いていた感情を、理解できない。
殺して得られる感情を、本能的な何かに突き動かされるままに欲する。――その快楽とも呼べるほど熱いものに従って生きると決めた。それが、俺だ。
かつては、その信条に従い、サキを殺したはずだった。
あいつとの関わりは、それで全てが終わるはずだった。
……だが。俺は、殺したはずのあいつに再会した。
サキ。
お前は、初めて「生きている人間」で、俺に感情を起こさせた存在だった。
それは戸惑いであり、高揚であり――興味だった。
お前にとって戦いが「対話」なのだとすれば、俺にとってはお前だけが、生きたまま、俺と対話できる唯一の人間だ。
他の誰でもない、お前だけが。
人は、誰かと心を通わせたとき、「この人に会うために生まれてきた」と言うらしいな。
俺にとって、お前がその人物なのかは、まだわからない。
だが――もしそうならば。
俺はきっと、お前との対話の果てに、お前を手にかけることになるのだろう。
お前の全てを知ったその時――。
その時こそ、俺はようやく、この空虚な世界で、真に『絶望』を味わうことができるのかもしれない。世界への、感情への、理解が完成する。
それを、心から望んでいる自分がいる。
……だから、まだ、お前は生きていろ。
……この残酷な世界で、最悪の運命に翻弄されながら生きて、『絶望』し――…………俺に殺される、その時まで。
「ははは……」
いつからか淡く響いている笑い声。それが己のものであることに気がつく。同時に、先の戦いで負ったいくつかの致命傷と全身の裂傷による痛みを知覚し、俺は自嘲せざるを得なかった。




