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第56話 城への誘い

 城へ向かうユリアナの背を追う。

 私とラキは屋根を跳ね、ユリアナに悟られないよう、足音を押し殺しながら走っていく。

 

 屋根を伝うたび、私の背中の黒い翼は、ばさりと揺れる。

 大きくなった翼の重さはまだ慣れないけれど、このくらいでは動きに問題はない。


「……サキ、飛ばないのか?」


 風の中、ぽつりと落とされた声。ラキは、顔は前を向きながらも、横目でちらりと私の揺れる翼を見やる。獣耳がフードから溢れ、風を切って揺れている。

 

 一瞬、ラキの問いの意味が分からなかった。私は首を傾げる。


「だって、まだ長く飛ぶのには慣れてないもの」


「……そうか。そうだな」


 ラキはそれ以上は何も言わず、再び前を見た。


「どうして、そんなこと聞くのよ?」


「……別に」


 そっけない返事だ。でも、その声にはどこか引っかかるものがあった。


「……そう」

 

 ふと街へ視線を落とすと、ずいぶん人影が減っている。

 きっと帝国軍も反乱軍も、フィロンやサリィが戦っている北門へ向かっているんだ。


 再び前を向いた視線の先で、ユリアナは白い羽織りをなびかせながら滑るように駆けている。

 優雅で落ち着いた雰囲気からは、まったく想像できない俊敏さだ。

 

「ねえ、ラキ。ユリアナは皇女って聞いてたけれど、意外と動けるのね」


 何気なく言うと、ラキの目は、冷静にユリアナの動きを見る。


「ユリアナは、長耳族の混血らしいからな。あれは多分……精霊術を使っているな」


 なるほど。風と一体になったような彼女の動き。確かに、ただの身のこなしとは違う。


「自然と自身の血を混ぜて世界に干渉する精霊術だ。風に乗って走っているんだ」 


 淡々とした説明が続く。でもやはり、その声には、わずかに焦りのような棘があった。


「……そうなのね」

 

 感情を抑え込もうとするがゆえの、硬さ――それが、棘となって私の耳に引っかかる。


「……ラキ」


 溢れた声に、はっとする。無意識に名前を呼んでしまっていた。

 気づいたときには、ユリアナに視線を向けていたラキがこちらを見返していた。


「どうしたんだ、サキ」


 しかし今度は、鋭くもなく、ただ落ち着いた声で返される。その穏やかさに、私はなぜか、言葉を失った。胸の奥で、理由のわからない罪悪感のようなものが微かに渦巻く。


「……わ、私……」


「……? もし身体が辛いなら、あとは俺が追うから、サキは、一旦は――」


 ラキが眉をひそめて、言葉を詰まらせる私を見る。私の動きが鈍って見えたのだろうか。

 私は慌てて、首を横に振った。


「ぜ、ぜんぜん平気よ。私もユリアナを追って、城に向かうわ!」


 私は嫌な気を振り払うように、勢いよく宣言する。

 

 ――けれど、次の瞬間。

 背中の羽がざわつき、風の流れが変わったことに気づく。

 肌にざらりとした冷たい気配が這い寄り、直感的に体が緊張を強める。


 風に混じって揺れる金属音が届く。


「……」


 ――これは、敵だ。しかも複数。


 見知った人物ではない、複数人の気配があった。おそらくは、ラキと合流する前に戦った亜種族の部隊と同じような、帝国軍の巡回兵だろう。


 ――私たちは、今は、ユリアナを追って城に向かわなければいけない。

 兵士から隠れるためとはいえ、立ち止まれば、ユリアナの姿は見失ってしまうだろう。

 

 ……ただ。

 もし兵士に見つかって相手取るのに手間取れば、ユリアナが城でしようとしている何かが、手遅れになるかもしれない。


 ユリアナの目的地は城だと分かっている。

 ――ならば、今は兵士と戦うよりも身を隠してやり過ごす方がいい。


 そこまで考え、私は、隣を走るラキの口元に手を伸ばす。素早く、無言のまま引き寄せ、突き出た屋根窓の陰へと身を滑り込ませた。


「な……!」


 ラキは驚いたように声を上げかけたが、すぐに耳がぴくりと動き、敵の接近を察知する。

 肘を上げかけた腕を下ろし、大人しく黙り込んだ。


 混ざり合った熱い吐息が、夜の冷たい空気に溶けていく。静寂に包まれて、ラキの鼓動と呼吸が、かすかに腕越しに伝わる。


 私たちは、呼吸を押し殺して、気配を消した。


 屋根瓦を軋ませながら、兵士たちの足音がすぐ頭上を通り過ぎていく。

 私は息をひそめながら、わずかに震えるラキの肩に気づいた。緊張が伝染してくる。


 ――このまま、やり過ごせる。……はず。


 しかし、期待はすぐ裏切られる。


「……おい、今、何か動いたか?」


 鋭い声が夜気を裂いた。ぴたりと足音が止まり、じり……と一人分の気配が、こちらに向かってくる。


 ――まずい。


 私は、反射的にラキの前へと出た。咄嗟の判断だったけれど、体は迷わなかった。

 ラキを傷つけさせない。その思いが、私の体を突き動かしていた。


 次の瞬間。


「――そこか!」


 ――影から飛び出した兵士と目が合う。

 警笛の音が甲高く夜空に響き渡り、静寂が一気に破られた。


 ……もう、隠れる意味はなさそうね。……ユリアナとは、かなり距離が離れてしまったと思うけれど、警笛には気づいたかしら?


「サキッ!」


 ラキの叫びが背後から聞こえる。


 その声に、私は決意を強める。

 敵の注意をすべて自分に引きつける。それが今できる最善――いや、私にしかできない役目。


 変わりつつある状況に、熱い鼓動が脈打ち、血の気が身体中を駆け巡った。


 私は翼を大きく広げ、闇の屋根の上へ飛び出した。夜風を切る羽音が、敵の視線を引き寄せる。


 一斉に、武器を構える音が響いた。刃の冷たさが、視線越しにも突き刺さってくるようだった。


 ――このまま、空へ舞い上がる。

 そう思った次の瞬間。


「おいバカ! 今は飛ぶな!」


 ラキの鋭い声が飛んだ。驚きと焦燥の混じった叫びに、私は一瞬、羽ばたきかけた体勢を崩す。

 

「なっ……飛ぶなって……なんでよ!?」


「弓兵の前では翼を広げるな! 今夜は満月だ、影が映って狙い撃ちされるぞ!」


 言葉と同時に、弓兵たちが弦を引き絞り、一斉に私を狙い定める。

 ――すべてを理解した。そうだ、私の黒い翼は夜空にくっきりと浮かび上がってしまう、格好の的だ。焦燥が胸を焼く。


「……っ!」


 私は慌てて屋根に戻ろうとするが、もう矢が放たれる。


 ――間に合わない!


 しかし、そのとき、視界がわずかにきらめく。

 乾いた風切り音が舞い、鋭い光を描いて双剣が飛ぶ。飛来する矢は、その銀の刃によって軌道を逸らされ、叩き落とされた。


「……ありがとう、ラキッ!」

 

 私はその隙になんとか屋根に着地する。


「ラキ! 兵士は私が引きつけるわ! ラキは先に、城へ――!」


「冗談か? もう離れ離れは御免だって……何度言ったら分かるんだ」


 振り向きざまに、目が合う。ラキの目が真っ直ぐに私を見据えていた。その声は揺るぎなくて、でも温かさも感じる。


 ――ああ、そうだった。

 ラキは、私と一緒にいてくれるんだ。

 その事実が、心の奥にあたたかく灯る。私は、思わず笑顔になっていた。


「……うん。それなら、共闘ね!」


 こんな状況で、胸が高鳴っているのはおかしいかもしれない。だけれど、私はそう感じずにはいられなかった。

 

「私……好きなのかしら、やっぱり。――戦うことが」


 誰かを傷つけることが好きというわけではない。半吸血鬼だけれど、血を見るのが快感というわけでもない。

 ただ、戦っていると、自分のすべてが解放される感じがする。


 強い敵と対峙すると、心が研ぎ澄まされて、余計なことを考えずにいられる。

 どこまで通じ合えるか、どこまで踏み込めるか。

 それを試し合う時間は、きっと、私にとっての対話だったんだと思う。

 

 ――その対話の手段は、人によって、きっと異なる。……例えば……()()()にとっては――……。


 そこまで考えて、私は頭を振る。隣にいるラキの横顔が目に入った。

 

 ……こんなことを考えていては、だめだ。

 ……戦いが始まろうとしている状況だし、何より、今は、ラキといるんだから。

 

 戦いを好きな理由には、昔とは、違うものもある。それは、誰かを守るために――信念を通すために戦う理由があること。そして、隣で志を同じくして戦ってくれる仲間がいること。

 ラキと一緒に戦うことは、私にとって大きな意味がある。


 ――ふたり並んで戦えることが、こんなにも心強いなんて。昔の私は、そんなこと思いもしなかった。


 兵士たちが抜刀する音が、夜風に乾いた金属音を混ぜた。


 ――もはや、問答無用ね。


「ラキ、道を切り開くわ!」


 その一言が合図だったように、兵士たちが一斉に動き出す。

 両側の屋根から二人が飛び出し、中央から弓兵が高く弦を引く。


「サキ!」


 ラキが私を突き飛ばした直後、背後を鋭い矢が掠めた。

 ひやりとした感覚が肌を走る。


「殺意を込めた攻撃ね……そういえば、私たちには懸賞金がかかってるんだったかしら」


 自嘲気味に呟きながら、視線を兵士へと向け直す。


「ねえ、あんた達! ……最後に忠告してあげる! 私はあんた達と違って、無用な殺しをしたいわけではないわ。今、手を引くなら、見逃してあげるわよ」


 私が声を張り上げると、兵士たちに下卑た笑いが起こる。


「おい、お前ら聞いたか?」

「ああ、攻撃が始まった途端に……今までで聞いた中で一番下手な命乞いだな」

「強気で良いじゃないか。なぶり甲斐があるというものだ」


「それに……()()()()()()人族ならまだしも、半亜種族がお楽しみに回ってくることなど、滅多にないからな」


 私は直感的に嫌な予感がした。彼らの目が、凍えるような悪意を放っている。

 

「ああ……じっくり楽しもうじゃないか」


 彼らの目は、まるで獲物を狩るときのものだった。容赦なんて、微塵も感じない。

 その目が、その声が、不快でたまらない。

 

 彼らも元々は帝国の被害者なのかもしれない。だけれど、今は完全に快楽に溺れて、歯車を狂わす側に回っている。


「……お楽しみって、何よ? まさか、人族の市民を無意味に殺したの?」


 私が言う。脳裏に、悲鳴を上げる人々の姿がよぎる。ここ数日、嫌と言うほど目にした光景だ。


「ははは、子供には想像できないか? ……まあ、人族が人族を殺すことも、亜種族をが人族を殺すことも、この帝国ではありふれたことだぜ。……戦争なんかが始まる、ずぅーっと前からな」


 兵士は嘲るように言った。その言葉は、まるで過去の記憶を呼び起こすかのように、ラキの表情を凍りつかせた。


「……チッ。サキに余計なことを聞かせるな、下衆が」


 ラキが忌々し気に舌打ちをする。

 短く、怒りを含んだ音――でも、私の胸に刺さったのは声ではなく、敵意に満ちたラキの目だった。


 その目は、何かを見透かすようで、けれど何かを隠しているようでもあって。

 怒りの奥に、私にはうまく言い表せない、深く冷たい感情が見えた。


 一瞬だけ、ラキは私の顔を見た。

 それから、何かを振り払うように視線を伏せる。――まるで、奥底にあるものを、私に見せたくないとでも言うように。


 私は、気づいてしまった。あの兵士の言葉が、私以上に、ラキを傷つけていた。

 ……きっと、ラキの過去に関わる何かだ。

 人族の中で、半亜種族として生きてきたラキの、簡単には癒えない何か。その痛みが、今、目の前で剥き出しになっている。


 暗い世界の闇に、嫌気がさす。


眩暈(めまい)がしそうになるわ。あんた達は、一体、どれほどの命を弄んだら気が済むのよ……?」

 

 そして、私が声を出した、その刹那。

 敵の中の一人が鋭く号令を飛ばす。


「半吸血鬼を中心に囲め!」


 また警笛の音。遠くで聞こえる足音が増えていく。

 敵は増援を呼んだ。私たちの包囲を強めるために。


 ラキの表情には、怒りとも焦りともつかない、どうしようもない諦念の色があった。


「……大丈夫よ、ラキ」

 

 だけれど私は、もう目を逸らしたくない。残酷な運命に屈するなんてごめんだ。諦めたくなんて、ない。


 ――この帝国の腐敗からも、ラキの過去からも、そして私自身の宿命からも。


 ……もう、目を逸らさないから。


「サキ?」


 目を伏せて黙り込んでいた私に、ラキが不安げに声をかける。

 私は顔を上げた。


「……希望を胸に目指したはずの都は、腐り切っていて……帝国では、数え切れないほどの人が、血と涙を流してきていたわ。たしかに……私は、その事実をずっと知らずにいたけれど――」


 ふと溢れた言葉が、暗い記憶を想起させる。暗殺部隊の砦で聞いた、理不尽に奪われる者の悲鳴が、血が、苦悶の表情が、私の心に焼きついて精神を蝕んでいく。


「……でも、もう知ってしまったから……! この歪んだ世界に抗うために……私は、戦うと決めたわ!」


 負の感情を振り払うように大声を出した。


 私とラキとラナは、半亜種族だ。でも、それだけがこの帝国に……世界に抗う理由ではない。

 

 ……これ以上、失わないために。これ以上、奪われないために。

 ……シャトラント村を旅立った、あの日のように……この世界で、また、希望に満ちて……ラキとラナと、共に生きていたいと、心の底から思うために。


 まだ、目を閉じれば砦での日々が浮かぶこともある。秩序がない、理不尽な搾取。でも、あんな過ちは、もう繰り返してはいけない。ダメなんだ。誰かの命を犠牲に成り立つ、亜種族と人族が歪に共存する世界なんて……。


 ――そんな世界で、前を向いて生きていくことは、私にはできないから……!


 ……だからこそ、私は足掻く。

 光のある世界を求めて――いや、願うだけでは足りない。

 私は、その世界を自分の手で掴み取りたいんだ。


「帝国を、変えなければいけないわ。たとえ、私の命を賭けることになっても……この狂い続ける運命の歯車を、止めなければならない」


 ラキは、驚いたような目を向ける。不安気な視線は咎めるようで、唇が少し震えていた。

 ラキがあんまりにも深刻そうな顔をしているから、私は少し冗談めいて口を開く。


「帝国が建てられたのは、私の親父(ライト)のせいでもあるわけだから、ライトの娘としてもね」


 シャトラント村のさざ波のように揺れる、淡い記憶の中のライト。そして、目の前にいるラキを相手に、首を傾げて微笑んでみる。溢れたのは、どこか、いたずらめいた笑みだった。


「ラキと一緒なら、心にあたたかい勇気が湧いてきて……どんな無茶でも、できる気がするわ。……ここを切り抜けるくらいのことはね、楽勝よ」


 目的地である城を見据えながら、唇の端を上げた。

 

 殺意と怒号に包囲されるなか、私は、確かに笑っていた。



次回、サキ達を城で待ち受けるのは、一体誰か。

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