第55話 地下牢の会合 3
腕を振り上げたまま、カティアは唐突に停止した。
何が起こったのか理解できないというように血走った目を見開き、瞳を震わせている。
「……これ、は?」
「残念だが、もう終わりだな」
そう呟くと、ミラクは赤黒い血管が浮き出て脈打つカティアの腕から、身を低くしてずるりと抜け出る。
次いで、カティアの世界が傾く。膝が床を打ち、両手が支えきれず崩れ落ちる。
カティアは信じられないという目で腑抜けた身体を見下ろしていた。
立ち上がろうとする意思に、身体がまるでついてこない。理性は警鐘を鳴らしているのに、筋肉が、神経が、それに従えない。
「っ、は……?」
――頬に触れた指先に、ぬめりとした感触。
カティアの視界に映ったそれは、鮮やかな赤だった。
耳鳴りが膨れ上がり、視界がじわりと滲む。
数十年振りに感じる身体の違和感に、瞳孔が開く。
「まさか、これは――……毒!? なぜ、ワタシに毒、が…………ッ!」
鼻腔を満たす血が垂れる。耳の奥で脈打つ異音。
目から、鼻から、口から、血が溢れる。
臓腑を抉った直後のように、濃い赤黒に染まる指先。
――鋼鬼四天となってからは、常に万全の状態で戦ってきた。
体調が悪いということすら、いつぶりだろうか。
荒野で獲物を飼っていた頃以来の、戦闘における焦燥感。
「……」
死。
――自身の死が脳裏を掠めたのは、何年ぶりだったか。
戦場で、そして都の暗部で、幾度となく見てきたそれが、今、己に訪れつつある。
どくどくと脈打つ鼓動。
血混じりの声が嗚咽のように漏れ出す。
カティアはおぼつかない足取りで立ち上がる。
だがミラクは警戒の色も見せずにたたずみ、カティアの姿を見据えている。
「カティア。……このまま、お前は死ぬことになるだろう」
「――そう……」
――拷問も、虐殺も、戦場も、そこにあったのはすべては他人の死だった。
カティアは絶対的な捕食者であり、彼女には自身が死ぬ未来など存在しなかったのだ。
それなのに。いま、確かに死が、背後から口づけしてくる。
背筋をなぞるのは、冷たい感触。
それは、狂気と熱をないまぜにしたような感覚で、カティアの脳を焼いた。
「ずぅーっと……ワタシは捕食者として死を支配してきた……。悦ぶべきものとして、生を蹂躙し、死をもたらしてきた」
段々と声が高振り、ぞわぞわとした笑いが喉を震わせ、感情が制御不能になる。
「……ふふッ、あはっ、は、ハハハハ!!」
涙と自嘲が同時に込み上げる。
屈辱的だ。この被食者への転落は、確かに屈辱だ。
なのに、どうしようもないこの昂ぶりはなんだ。
久しく忘れていた、この全身を駆け巡る生の実感は。
まるで、真に自分と渡り合える好敵手と巡り合えたかのような、この快楽は。
この矛盾した感情はなんだ。
――この、自分が消える予感に、なぜ心が高鳴る?
「はあ……はあッ……ねぇ……これ……これ、ヤバい……最高じゃない……?」
歯を剥き出しにして笑いながら、血の混じった熱い吐息を何度も吐く。
「この極限の状態で戦って、その末に……ワタシがアンタを殺す……もしくは……アンタに殺されて……ワタシが、ワタシが死ぬのォ? ねェ……ははっ、最高……!」
足がもつれて壁に背を預ける。血の跡がずるずると壁面に残り、嗜虐の快楽に染まった自分の血が、妙に美しく思えた。
「くる……くる、来る……! クるッ、ワタシ、いま、きっと……クる……!」
言葉にならない嗚咽がこぼれ、口からは泡立つような血が垂れた。
――その顔は、もはや戦士でも、貴族でもなかった。
ただ、破滅の底で悦楽に酔いしれる、ひとりの女の顔だった。
「……。だから、お前はダメなんだよ、カティア」
「……ッウルサイわねェ……! ワタシ自身にもたらされる死が……戦いの結果だというのならば……それハっ、まさしく望むところだわァッ……!」
しかし。カティアの熱い様とは対照的に、ミラクの纏う空気はどこまでも冷え切っていく。
「それは、本当に、お前が望んだ結末か?」
ミラクはカティアの前に立ち、もう必要なくなったナイフを軽く放り捨てる。そして、上体がぐらりと傾いたカティアの髪を掴み、その顔を上げさせた。
「食らわれる側になる気分はどうだ? カティア」
正気と虚の狭間で揺れるカティアの瞳を見ながら、ミラクは思い出す。暗殺部隊を抜けた日から、彼が帝国西部を彷徨い続けてきた理由を。
――暗殺部隊を抜けた後。ミラクはただ、死に際の感情を求めて放浪していた。
誰に命じられるでもない、己のための殺人。
――唯一、他人と繋がれる手段。殺した刹那だけ、理解できる感情。そこで湧く熱を求める、止めどない衝動。
ミラクは、殺した際に湧く一時的な熱を求めた。他者と交流し、殺すことでその関係を終わらせる。それを幾度も幾度も繰り返した。
気づけば、魔術を施された武具がいくつか手元に集まっていた。
ミラクは、より鮮烈な死の淵の感情を引き出す手段としてそれらの魔術を身につけた。――殺しの質を高めるための、結果的な副産物として。
「答えないのか? ……酒に仕込んでいた分も含め、即効性のはずなんだがな。動き回ってようやく効いてきたようだ」
「……。フッ、それはフシギねェ。……ユニコーンを食べて耐性を得たこの身体に、効く毒なんてあるハズ――ない……のに……」
語りかけると、虚が混じっていたカティアの瞳の奥に、再び炎が宿る。その様子にミラクは満足そうに笑む。
そして、彼が焦がれ続けている絶望に触れ得る可能性を見出し、カティアをそれに突き落とすために、事実を告げていく。
「ああ。毒ではない。だが、捕食者は、今から死ぬことになる。……それも、食われて、死ぬんだ」
「……は? 食わ、れる? アンタ、人族でしょう? まさか、実は鬼族の血が流れてるってわけでも――」
また、カティアの精神の揺らぎが滲み始める。ミラクが、望んだままに。
「それは違う。……俺がお前に注入したのは、虫の卵だ」
一瞬、カティアは理解できず、虚ろな目でミラクを見た。
意味が、わからない。言葉は届いているはずなのに、内容が脳に届いていない。
それはカティアにとって、あまりにも、現実離れした悪夢だった。
「はぁ……? 虫ィ……?」
だが、ミラクの表情は、戯れではなかった。冷徹で、慈悲も憐れみもない。ただ淡々と、真実を突きつける。
「お前の身体の中には、既に無数の虫がいる。……内臓に、血流に、骨の隙間にまでな。少しずつ成長して、今まさに孵化の時を迎えている」
カティアはふらつきながら立ち上がる。
「あのナイフで……ッ! 仕込んで、いたのね……ッ! なら、この脈動は――ッ」
全身が震えているのは出血のせいだけではない。
その瞳には、怒りとも恐怖ともつかない、名状しがたい感情が渦巻いていた。
通常、死は恐怖だが、つい先刻までのカティアは、死の間際の極限状態を快楽と混同していた。
そこへ、本当の絶望――つまり無抵抗に喰われる屈辱を与えられ、価値観がねじ伏せられたのだ。
「身体の内側で虫が動くのを、感じるだろう?」
「……っ、殺すなら……殺すならアンタが殺しなさぁい……ッ! 虫に食われて死ぬとか、そんなの、ワタシは――!」
牙をむき出して叫ぶ彼女の喉が、ひゅっと空気を吸い損ねる。
その瞬間、腹が不自然に膨れ上がった。
「――ッ、が……ぁ、う、そ……」
腹に這い寄る違和感が、波のように身体の内側を駆け回る。背中が熱い。胸が痛い。喉が、腫れて膨張していく。
顔を覆った指が、爪で頬を引き裂く。血と涙がごちゃ混ぜになって顔面を濡らす。
「なあカティアよ、いくら回復力に優れた鋼鬼四天でも、虫に心臓と脳を同時に食い破られたら……どうしようもないよなぁ?」
ついに、頭が、腕が、胸が、喉元が……ボコ、ボコボコボコッ……と、拳ほどの大きさに膨れ上がり、蠢き始めた。
「っぐ、あ、ぁあああ……ッ!!」
その絶叫は、虚しく地下牢に響いた。少女のような悲鳴。かつて多くの命を嬲ったカティアの、命乞いにも似た哀願。
普段の彼女なら絶対に見せない――取り乱しきった姿がそこにあった。
ミラクは、表情を変えずに彼女を見下ろしていた。感情を揺らすどころか、冷静に――いや、薄らとではあるがある種の期待を滲ませながら、観察している。
「聞かせてくれ。捕食者を自称する鋼鬼四天が、虫けらに食われて死ぬ気分ってのは、どうなんだ?」
「っあ、あぁ……! ……ッ今さら……死ぬのはいいのよ! それがワタシの選択の――狩りの結果なら……! ――だけれど……殺すのは……アンタ自身の手で……ッ!!」
その叫びには、まだカティアの誇りと狂気が滲んでいた。捕食者としての矜持を捨てきれず、せめて最後は自ら選びたいと足掻いていた。
だが、その叫びの余韻が消えるより早く、彼女の身体は異形に呑まれていく。
ミラクは、静かに額をカティアの額に重ねるように近づき――。
「これは良い意味で予想を裏切り――随分と熱そうだ。――俺もその熱が欲しい。早く死んでくれ、カティア」
その瞬間だった。
ボンッ
ビシャッ
風船のように膨れて蠢いていたカティアの腹部が、背中が、胸が、音を立てて破裂した。
「……ぁ」
無数の黒い殲獣――虫型が、カティアの体内から飛び出した。
その瞬間まで見開かれていた瞳は、虚空を睨みつけたまま、ただ静かに凍りついていた。
カティアの体内から噴き出したのは、無数の黒い昆虫の型をしたもの。
皮膚の下で孵化し、内側から臓器を食い破り、骨を砕き、肉を食い破って這い出してきた。
「虫型――知ってるか? 通常は殲獣から生み出される魔術とは逆に、魔術によって生み出された特殊な殲獣だ」
ミラクは語りかけるが、カティアは何も答えない。カティアの瞳は見開かれたまま寸分も動かずに、虚空を睨みつけていた。
「こいつらは、その中でも人の体内で孵化するように調整された、かなり希少な種なんだぜ……。もっとも、体内から出れば数分で死ぬように作られているがな」
群がる虫に埋もれた、生気を失ったカティアの瞳。
その奥に浮かんだ孤独に似た未練に、ミラクの鼓動は微かに高鳴る。
自ら手にかけたものに対してのみ湧く、熱。
それは彼にとっての生の実感で、唯一の世界との繋がりだった。
「何人も殺してきた拷問部屋で、虫に喰い殺される。……その死に際に、絶対的な捕食者として生きてきたお前は、何を思ったのか――」
ミラクはカティアの死の余韻に沈む。彼女を殺して初めて、彼女に向けた感情が芽生えたことに気づいていた。
ミラクは、カティアの過去を調べていた。
彼女はかつて、獣族の重鎮であった祖父に育てられ、辺境の荒野で伸び伸びと生きていた少女だった。
『ここでの狩りも好きだけど……やっぱり、ワタシは祖父さまと一緒にいたい。都では、ワタシは軍人になるわ! そして、祖父さまのために、うーんと出世してあげるから!』
その祖父が皇帝に取り立てられたことで、彼女も都へ呼び出され、軍務に就くことになった。
だが、都で彼女の世界は変わった。
殲獣を食べることは、身体や精神に大きな影響を及ぼす。
カティアは余興として幻獣型の殲獣を食べさせられ、生きるための当然の欲求だったはずの欲望に、変化が生じたのだ。食べるための狩りではなく、快楽として人を狩る楽しさを覚えさせられた。
『ねェ、どうしてかしら、祖父さま……幻獣型は口にしないほうがいいのではなかったのかしら。――ねェ、どうしてかしら、祖父さま……アレを食べてから、ワタシ、おかしいの。――獲物を嬲るのって! こォんなに、楽しかったかしらァ……!』
――狩猟の喜びは、人を嬲る快楽へと変質した。
そしてあるとき。荒野で生きてきたときのように、芽生えた嗜虐心に突き動かされるままに敵を嬲り、蹂躙し、屠ったことで、本能に従って生きる楽しさを思い出した。
『アァ……滾るわァ……! 獲物を狩って、より楽しく、刺激的に生きる……! ずうぅーっと、このまま――!』
高い戦闘能力と家柄に守られながら、カティアは拷問や殺人、色欲に耽溺し、嗜虐のままに動く獣と化した。
――そんな彼女が、育った荒野とも、暴れ回った戦場とも異なる暗い地下牢で、虫に食い破られて最期を迎える。
カティアは、自身の欲の果てに訪れた死の淵で、何を思ったのか。
「欲している絶望には程遠いが……悪くはなかったぜ、カティア」
最後に見せたあの目が、確かに彼女にも何かがあったことを伝えてくる。
本能のままに生き、都の闇に呑まれ、しかしそれでも死に際に一瞬だけ浮かんだ人間らしい感情。少女のように叫び声でもあげそうな、未練に満ちた瞳。
目を背けつつも諦めきれていなかった日々に、縋り付くかのような、あの瞳の奥の感情――。
それが何なのか、殺した今なら、理解できる気がした。
カティアは、本来の感情が分からなくなっていた。だから、刺激的な行為による興奮を感情と思い込み、死からは目を逸らし、他者をただ、虐ぶっていた。
都で本来の自分を失ってからのカティアは、おそらく、ミラクと同じように灰色の世界で生きてきたのだろう。
人を壊すことでしか、自分を確かめられなかったのだ。
だが、その奥に見えるものがミラクとは異なっていた。
ミラクは死に際の感情を唯一の『熱』として欲していたが、カティアはただの興奮しか捉えていなかった。
崩れかけの地下室の拷問部屋に響くのは、ひとつ増えた死体に集る虫型の殲獣の羽音――。
――そして、微かな呻き声。
「……ミ、ァ……ク?」
視線を上げると、薬の副作用に苦しみながらも、正気を取り戻しかけている者がいた。
「意識があったのか。……都合が良い」
ミラクは磔にされたその者に近づく。
普段は高い位置で括られている髪が下ろされ、頬に掛かっていた。ミラクはその髪を払い除け、顎を持ち上げて視線を合わせる。
「かなり辛そうだが……お前にはまだ死なれては困る。俺のためにしてもらいたい仕事があるんでな」
ミラクは小さく吐息をつくと、涎で汚れた口をこじ開け、その中に緩和剤を押し込んだ。
だが、舌が不器用に動き、薬が吐き出されかける。
痺れを切らしたように、ミラクは舌を打った。
そして、カティアとの戦闘で血が流れる口内から血を吐き出すと、切れている自らの唇でその者の口を塞ぐ。
口移しで薬を飲ませようとしているのだ。
「ん、ぅ……ッ」
触れた瞬間、ぬるりとした温もりと震える吐息が伝わる。
閉じかけた口腔に舌を滑り込ませ、薬片を探っていく。
粘りつくような舌の動きを掻い潜り、やがてその下の薬を絡め取る。そして、そのまま喉の奥へと押し込んだ。
薬が落ちていくのを確認して、ミラクはようやく唇を離す。
「は……ぁッ……」
濡れた音が響き、二人が呼吸を整える音が、地下牢に木霊した。
「……少なくとも五日以上はカティアの地下牢に監禁されていたはずだが……まだ俺を睨みつける気力があるとはな。お前にも、中々興が乗る」
――ミラクは、確信していた。
今にも意識が溶けそうな虚な目で、しかしなおも睨みを効かせるその者には、ミラクの誘いを受けるしか選択肢が存在していないことを。
「な、んの……つもり、ですの?」
動くようになった舌で不快そうに絞り出された声を、ミラクは嘲笑した。
そして、耳元に口を寄せ、冷たい声で告げる。
「――お前にしかできない暗殺がある、ソニア。……断ればどうなるかは、言うまでもないことだな」
ソニアは唇を噛み締め、ミラクを翡翠の瞳で睨みつける。やがて、意を決したように口を開いた。
「……その前に、聞かせてください、ミラク」
揺れる声。だが、閉じ、そして開いた瞳に、涙は浮かんでいなかった。
「フィロンは、生きているのですか?」
ソニアの切実な問いに、隣で磔にされているレーシュが、はっと顔を上げる。
「……。俺が最後に見たときは、そこで死にかけているテツよりはマシな状態だったぜ」
男であるが故にカティアに容赦されなかったテツは、意識を完全に失っていた。全身は鞭打ちによるみみず腫れで見る影もなく、幻覚悪夢により磔にされたまま暴れたため、枷で手足の付け根がただれていた。
ただ時折、その肉体だけが苦痛に耐えかねているかのように、痙攣を起こしていた。
――沈黙が流れた刹那。
テツの唇から、何かを呟くような動きが見えた。
それが痛みへの反応なのか、それとも誰かの名を呼んでいるのか、判別はつかない。




