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第53話 地下牢の会合

 都シュタットの中心にそびえる城は、今夜も戦火に揺れる街を見下ろす。

 

 巨大な城の深部には、鋼鬼四天の根城とされる一室がある。ガルザがフィロンに殺され、イーラとラシュエルが要塞攻めのため留守にしている今、その部屋はカティアの私室のように使われていた。


 建国当時は応接間として使われていた広い部屋。

 五十年前の建国以来、帝国は腐敗は急速に進んだため、応接間は、現在は見る影もないほど色褪せている。

 カティアは謁見席の椅子に腰掛け、深紅のワインをグラスに注ぐ。そして壁に取り付けられた大窓の向こうに浮かぶ満月を首を傾げて見上げた。


 グラスを小さく回して静かに唇をつけた彼女の横顔には、普段の猛々しさはなく、どこか物憂げな空気が漂う。


「満月、か。月といえば、反乱軍にはラシュエルの親戚の吸血鬼族の女のコがいたわよね……要塞にいるって聞いてるけど、城の方を攻めてくれたら良かったのに」

 

 気怠げなため息と共にカティアはふいに立ち上がり、窓際へ歩み寄った。


「……酷い味。城の人手もかなり減ったわねぇ。酒の仕入れも、滞ってるなんて」


 ため息混じりの呟きと共に、カティアはグラスを傾けて残っていた酒を床に流し捨て、最後にグラスを手放した。

 

 落ちていくグラスを捉えるカティアの瞳の奥に何か熱いものが揺れる。

 ――それは、燻った嗜虐心だった。

 

 カティアは、退屈していた。

 

 趣味の一つである拷問を堪能する良い機会として城の警備を買って出たものの、城での時間は彼女が思い描いていたほど充実してはいなかった。

 捕虜として送られてきた反乱軍の兵士達は既に壊してしまい、ソニアやレーシュは長らく薬の影響下にあるためか反応が鈍くなり、以前ほどは彼女の食指をそそらなくなっていた。


 カティアは、鋼鬼四天の任務としては、徹底的な殲滅命令を受けることが多かった。そのため、これまでは、拷問も戦場における蹂躙も、好き放題にしてきた。

 しかし、今回は城の警備という主任務がある。自ら捕虜を捕らえに出向くわけにもいかない。ここ数日の戦況は反乱軍の勢力は衰えていくばかりで、城が攻め込まれる可能性なども考えにくかった。


「本当に退屈……。苦痛だわ。面白い状況になればいいと思っていたけれど、あのフィロンとかいう坊やの反乱は正直、期待外れ。……こんなことなら、城に残らずにサリィかイーラに付いていけば良かったかしら」

 

 カティアの呟きと同時に、グラスが砕ける音が、ぱりん、と石床に軽く響く。

 

 ――ギィッ。

 その軽い音に、扉が軋む低い音が混じっていた。


「……ンー?」

 

 カティアは視線を扉に向けながら、怪訝そうに眉をひそめた。


 ――音がするまで人の気配に気が付かないとは。


 それほどまでに酒に酔うなど考えられない。奇妙なことに、獣族であるカティアの鼻の効きも悪く、相手がどんな人物なのか判別できなかった。

 

 ――間違いなく、何かしらの魔術の影響を受けている。

 刺客、だろうか。しかし刺客だとすれば、完全には気配を絶たなかった理由が分からない。


「何者かしらァ?」


 カティアは得体の知れない存在を、口端を吊り上げた好戦的な笑みで迎える。扉が開き、生温い夜風が露出されたカティアの全身の肌を撫でる。カティアは未だに五感からでは正体を掴めないその人物を警戒し、魔爪と称される爪を構えた。

 

 しかし、現れた人物の姿を目にした途端、彼女の表情は一転してほころんだ。


「……アラ♡」


 扉の向こうに立っていたのは、人族の少女だった。()()()()()()()()()()()()()()に、琥珀の瞳。あどけなさを残した若い顔立ち。歳の頃は二十前後だろうか。

 彼女は胸元で手を組み、不安そうにカティアを見つめている。


 そして、鈴を転がすような心地よい声が夜の城に響いた。


「カティア、様……」


 その姿は戦場となった都には不釣り合いなほど愛らしい。しかし、その装いは平民の娘のものだった。本来なら、都シュタットの皇城に足を踏み入れられるはずがない身分だ。


「急な来訪を、どうかお許しください。カティア様にご用があると言えば、門兵様が通してくださったのです……」

 

 少女は、可憐な仕草で一礼し、震える声で自らの事情を語り出した。

 カティアの瞳が妖しく細められる。警戒と期待が混ざり合い、酒の残り滓を踏みつけ、カティアは少女に近づく。

 

 帝国軍では、カティアに女をあてがうのはもはや慣例のようなもので、彼女自身もそれを望んでいることは周知の事実だ。あからさまに怪しい人物でなければ、門兵が通すのも無理はなかった。


「フフ、そうなの」


 女でありながら、どのような状況下にあっても女を愛でずにはいられない――カティアは自身の病的なまでにとめどない好色を、イーラやサリィから幾度となく「いずれ身を滅ぼす」と警告されてきた。

 

 だが、彼女の欲望の火は一度灯れば、そう簡単には消えるものではない。


 灯った欲の前では、気配の違和感などは、彼女にとってもはや微々たる問題だった。

 彼女が選ぶのは、常に、興味をより強く引く選択肢だ。


 カティアは胸元で震える少女の手に、自身の指を絡める。少女の体躯は細いが、背は比較的高く、体幹はしっかりしていた。


「ねえ、ワタシを夜に訪ねることの意味はわかってる……? 覚悟は決めてきてくれたのかしら?」


 カティアは、甘い響きを声に乗せる。この少女が本当にただの平民の娘なら、その怯えに悦びを感じる。もし刺客ならば、その覚悟を試すことで、退屈な夜を刺激的なものに変えられる。どちらに転んでも、カティアにとっては最高の舞台が用意されるのだ。


「……覚悟? ……はい。もちろんです」


「そう……覚悟を決めて部屋に来てくれた女のコか……ああ、何度見てもたまらない光景だわ。ねえ、アナタは、ワタシのことはどこで知ったの?」


 カティアには、欲の赴くままに生きる自分を手放すつもりなど、最初から更々なかった。サリィには愚か者などと一蹴されてしまうが、欲の満たされない生になど、一体何の意味があるのか、カティアには分からなかった。感情を殺したように生きるのも、欲を制限されるのも、カティアにとっては耐え難い苦痛だ。


 年を重ねるごとに、欲する刺激は増すばかり。

 だが、問題はない。狩場ならば、いくらでもある。

 都ですら、カティアにとっては狩場の一つに過ぎない。ただ欲のままに獲物を狩るだけだ。


 そもそも終戦を目的とするのならば、鋼鬼四天のカティアを標的として狙うのは手間と結果が見合わないだろう。

 ただ、私怨ならば、刺客を差し向けられる心当たりはカティアにはいくらでもあった。帝国内外で積もった殺しや拷問の因果はもちろん、カティアは都に来てからは公には許されていない遊びなどもしてきた。


「……。私の友達が、カティア様の下を訪ねて、食料と武器を分けていただいたと聞いて……お優しいカティア様なら……きっと、戦場となった都から、私を匿ってくださると……」


「この前もアナタと同年代くらいの子が訪ねてきたわ。あの子かしら?」


 緊張しているのか、少女の言葉の選び方はいくらか不自然なほど丁寧だった。

 一方、カティアは慣れた手つきで少女の頬に指を滑らせる。数日前に自身の元を訪れた別の少女のことを思い返した。


「……って、今他のコのことを思い出したらアナタに失礼ね。ねえ、アナタの名前を教えてくれる?」

 

 少女の視線が泳ぐ。一人で夜に城を訪ねる胆力はあるのに、なぜ名前を伝えることを躊躇う必要があるのか。カティアの胸に、また一つ、微かな違和感が積もる。それは、獲物が秘める意外性への期待でもあった。

 

「……。()()()、といいます」


「可愛い名前ね」


 ようやく答えた少女の名前に、カティアは数年前に出会った文官志望の少女を思い出した。赤い髪と琥珀の瞳。その面影が重なる。


「……アナタの赤い髪と顔立ちが、何年か前に都の街で見かけて口説いた文官志望のコに似てるわ……たしか、ミーナとか言ったかしら」


 カティアは、少女の顎を指先で持ち上げ、その顔を覗き込む。


「名前も似ているし、もしかして妹だったりするのかしら」


「……。いえ、他人の空似かと」


 きっぱりとした否定に、カティアは面白そうに口角を上げた。かつて無理やり関係を築いた女に似ている――女に対しては際限なく好意的なカティアは、それだけのことで一目見たときから更に少女の存在を気に入っていた。


「ちょうど、玩具も壊れかけていて、一人で不味い酒を呑むのにも飽きていたところだから大歓迎よ……。ただ、匿ってほしいのなら……誠意を示してもらいたいわ?」


 カティアの言葉に、少女の瞳が一瞬だけ、何かを思案するように揺れた。だが、次の瞬間には、まるで曇り空が晴れるように、にこりと愛らしい微笑みを浮かべた。


「……ありがとうございます。カティア様」


 その表情の変わりように、カティアの胸は高鳴る。まるで手に入れたばかりの新しい玩具を前にした子供のように、彼女は少女の小さな手を取り、部屋の片隅にある、地下へと続く石の階段へと導いた。


 段を一つ下りるごとに、湿った空気が肌を撫で、揺れる蝋燭の炎が床の血痕と拷問具を浮かび上がらせていく。鎖が擦れる音と、呻き声にも似た息遣いが聞こえてくる。そこには、薬で朦朧とする反乱軍の兵士たちの影があり――その中にはソニアたちの姿もあった。カティアはそれらを楽しげに眺め、満ち足りた笑みを浮かべた。


「……あれは……」

 

 少女は声を震わせ、視線を落とす。カティアと目を合わせることもできない様子だ。

 その怯える様に、カティアはくすりと笑った。


「ふふ……そんな顔しなくていいのよ、ニーナ。アナタには痛いことなんてしないから。……もちろん痛くしてほしいなら、別だけどね」


 優しく囁きながら、カティアは柔らかく自身の胸に抱き寄せ、首筋に唇を寄せて、耳に息を吹きかけた。

 少女の身体が、かすかに震えるのが伝わってくる。


「怖くないわ……さあ、力を抜いて」


 少女は頷くでも拒むでもなく、ただ静かに為されるがままにしていた。その不慣れな様子がますます愛おしく思え、カティアは頬を擦り寄せる。


「ねえ……」


 吐息が耳元を撫で、指先が少女の腰骨を這う。その手が腰に触れた瞬間、カティアの顔から、ふと笑みが消えた。表情は一変し、どこか冷めた色が宿る。


「――……やっぱりダメね、いまいち唆られないわ。アンタ、女の匂いがまるでしないからさ」


 その一言が放たれた瞬間、少女の身体がぴたりと動きを止めた。不安げに伏せていた琥珀色の瞳が持ち上がり、カティアをぎろりと見上げる。その目は、もはや怯えなど微塵もない。氷のように冷たく、そして鋭い光を放っていた。


「……本当は、最初から気づいていたんでしょう?」


 少女の眼が変わった。

 揺れる蝋燭に照らされて、澄んだ琥珀色だった瞳が、暗い黄色に染まる。その変化に、カティアの心臓が奇妙な鼓動を刻む。それは恐怖ではない。未知の獲物に対する興味が惹きつけられて止まない――興奮だった。


 本能的な嫌悪感に、カティアの肩が震えた次の瞬間――


 ――ズブリ。


 鋭い刃が左胸を突き破り、骨をかすめて肩へと滑るように抜けていく。

 異様な音と共に、カティアの身体がぎしりと軋む。


「……あら、どこに隠し持ってたの?」


 抱きしめていた少女の小さな手が、いつの間にかナイフを握っている。刃の根本から、カティアの血が滴り、滴が床に小さな音を立てて落ちていく。


「ナイフでワタシの体に傷がつくなんて……一体、何の魔術が仕込んであるのかしら?」


 しかしカティアは微動だにせず、薄く笑みを浮かべていた。

 次の瞬間、カティアは唐突に少女の頬を打った。その一撃は軽く見えたが、少女の体は蝋燭台の下へと勢いよく転がる。


「可愛い顔して、やることが随分と物騒じゃなァい」


 カティアの瞳は、肉体の痛みではなく、身体の奥で燃える嗜虐心に高ぶる血の熱によって潤んでいた。


「……心臓には届かなかった。反射的に筋肉でナイフを固めたのか。流石だな」


 身を伏せたまま少女は呟く。少女――ニーナと名を騙った存在の言葉遣いは、先ほどまでとは明らかに異なっていた。


「くふっ、アンタ、何者なワケ?」


 カティアは、腕をついて身を起こそうとする少女に、愉快そうに語りかける。突如現れた退屈しのぎに、彼女は獰猛な笑みを浮かべて髪を掻き上げた。


「仮に、ほんっとうに女だったとしても、もう優しくなんてしてあげないから。兵士たちと同じように、拷問でたっぷり可愛がってあげる」


 カティアは蝋燭台の下の少女の顔を見る。だが、そこにあったのは、もう少女ではなかった。

 赤髪の少女ニーナの姿を(かたど)っていた存在はゆらりと立ち上がる。


 体の輪郭が揺らぐ。長く伸びていた赤い髪が縮み、黒く染まっていく。頬の柔らかさが消え、身長が伸びる。やがて浮かび上がったのは、口端に血の泡を浮かべた黒髪の青年。


 ――ミラクだった。


「久しぶりだな、カティア。まあ、お前は俺のことなんざ覚えてないだろうが」


 その声も、先ほどまでの鈴のように高く響く少女のものではなかった。硬質で低く、抑揚に乏しいが、どこか凍てついた怒気を孕んでいる。


「ふーん……。男の顔を覚えるのは得意ではないんだケド……どこかで見た顔ね」

 

 これから(いた)ぶり尽くさんとする敵を見据え、妖しく笑うカティア。相手が男なら、遠慮も容赦も要らない。いつの頃からか制御の効かなくなった欲のままに虐げ、嬲り尽くすだけだ。カティアは指を鳴らす。その顔には毒々しい愉悦が滲んだ。

 その様子に、ミラクは苛立たしげに舌打ちし、獣じみた黄色い瞳を冷ややかに細め、カティアの背後にある惨状を見る。


「噂には聞いていたが、お前が入り浸っているというこの地下牢……悪趣味にもほどがあるな。……不愉快だ」


「あら……地下牢にいる誰かに、用があるのかしらァ?」


 カティアは顎に手を当ててミラクを挑発するように笑う。


「答えるつもりはない。今は、そんなことよりも――」


 ミラクはそれを一蹴すると、無造作に腕を伸ばし、床に転がる死体の数々を指差した。そして、磔にされて薬の禁断症状に苦しんでいるソニア達へと視線を移す。その目は、怒りというより、むしろ侮蔑に近い冷たさで染まっていた。


「――なあ、あれは一体なんだ? 人の死に際の感情は、もっと味わうべきものだぜ? 次から次に殺して、勿体無いとは思わないのか」


 ミラクは、自ら手にかけた者に対してしか感情が湧かない。――そこらかしこに転がる軽い死に、かつて送った、感情と呼べるほどの熱が存在しない灰色の人生が思い起こされる。

 彼にとっては、感情のこもらない死が並ぶ地下牢の惨状はあまりに無味であり、吐き気がするほど不快なものだった。


フィロン(あのバカ)が大馬鹿共をそそのかして始めた戦争のせいで、無価値な死が量産されている……」


 ミラクは、喉の奥から、くつくつと笑いを溢す。湧き出るのは、自嘲か、怒りか、狂気か。そのどれとも言い切れない、ひどく異様な笑い声だった。


 蝋燭の火に、ミラクとカティアの影が揺れる。優れた能力を持ちながらも、身体の奥底から湧き出る熱に突き動かされて生きることをやめられない――狂人二人は、逃れられぬ熱に駆られ、今ここで対峙してしまった。

 

 カティアは壊れたように笑い続けるミラクの様子を見て、あらかたの事情を察する。片目を閉じ、呆れた表情を見せた。


「……なるほど、そういうことォ? 死人に焦がれる変態趣味(タナトフィリア)。……アンタ、よくも人の趣味に口を出せるものね」

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