第47話 半吸血鬼の選択
「……くだらないわね」
ミアは波耀紋の上に乗り、そっと目を閉じた。サキは槍を突き立てていたが、涙を流したミアの様子に呆然として動けずにいた。
セレスティアがミアの下を去って十五年が過ぎている。現在、帝国は崩れつつある。都での大臣の行方不明事件、殺傷事件。それだけではない。反乱軍の息がかかった辺境の有力者たちが各地で蜂起し、戦乱が広がっていた。
その反乱の首謀者――フィロンを、ミアは匿っている。
帝国を壊し、新たな世界を実現するために。人族も亜種族も、多くの血を流すことになるだろう。
だが、それがどうした。
ミアは選んだのだ。
『反乱軍は帝国を壊す。――その後は、好きなようにすると良い』
フィロンの使者が渡した手紙に記された、短くも魅惑的な言葉。
その言葉は、種族の枠を超えて多くの者を狂わせた。
ミアもまた、その手を取ったのだ。
――退屈で閉ざされた北部の領主の娘であることに飽きた。
――物語の中の英雄たちが闊歩する世界を望んだ。
だから、ミアは父である領主に反乱軍を紹介し、戦乱の片棒を担ぐことを決めたのだ。
だが、心の奥底に棘のように引っかかる存在がある。
――セレスティア。
波耀紋でやって来たフィロンが、自分に似た半吸血鬼の少女の存在を口にするまで、ミアは彼女の記憶を心の奥底に封じ込めていた。
……なぜ、今になって。
サキの存在は、ミアにとって何よりも認めたくないものだった。
槍を構えるサキ。血を操り生み出したその槍の形が、なぜか英雄ライトを思わせる。
――なぜ。なぜ、半吸血鬼のような存在に、今さら……!
……あの子の形見など、関係ないはずなのに。
なのに、どうしてこんなにも心を掻き乱されるの……?
ミアは、フィロンと共に帝国を壊し、新たな世界を築くと決めた。それなのに、この期に及んで過去の英雄の影に苛まれるとは……。
彼女は唇を噛み、サキを睨みつけた。
「……半吸血鬼は、私が望む世界で、生き残れるかしらね?」
渦巻く胸中を秘め、ミアが吐き捨てたのはたったそれだけだった。
そして、腕輪にそっと囁くと、波耀紋が光を帯びる。
やがて淡い輝きに包まれながら、ミアは空間の裂け目へと消えていった。
残されたのは、微かな光の波紋と、深まる静寂だけだった。
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私はしばらく動揺し、呆然としていた。
母の友人を名乗る少女。自分と似た顔。貴族と奴隷の関係。――突きつけられた事実が多すぎて、頭がぐらりと揺れる。
「……な、何だったの?」
ミアと名乗った少女は決して友好的ではなかったが、私たちに攻撃してこようとはしなかった。だから、槍を突き立てはしたが、私も攻撃しなかった。それもある。
だが、それよりも――彼女の涙を見て、とてもじゃないが攻撃する気にはなれなかった。
棒立ちのままの私をよそに、ラキがミアの消えた紋章へと近づく。
「……これは、波耀紋か?」
それが長耳族の精霊術の一種だと、ラキが教えてくれる。精霊術――長耳族だけが持つ固有の力。波耀とは、水と血を混ぜて生み出す流動体らしい。
仕組みはわからないが、ミアは波耀紋の力を利用して小屋にワープしてきたのではないかという話だった。
「……もう、ただでさえ混乱してるのに、余計にややこしくなるじゃない」
髪をくしゃくしゃにして頭を抱える私を見て、ラキが気の毒そうに眉を寄せる。
「大丈夫か?」
問いかけられても、すぐには答えられなかった。
「……わからない」
ラキはため息をつき、口を開く。
「さっきの吸血鬼族の話だと、お前の母は吸血鬼族の奴隷だった。……そして、あの吸血鬼族と友達だったらしい。それは分かるだろ?」
「……そうね。ただ、あのミアって名乗った奴、私を認めないって言ったわ。それって……どういう意味なの? 母と友達だったからって、なんで私があいつにそんな風に言われないといけないのよ?」
母の血がどうとか、父が誰だとか、そんなものはよく分からない。本当の親がどんな人だったのかは知らない。
私はシャトラント村のみんなと、ライトに育てられた。それ以上でも、それ以下でもない。
……そう思いたいのに。
ミアの言葉が、涙が、棘のように心に引っかかる。
貴族と奴隷。そして、友達。――それが、母とミアの関係だったのなら。
ミアは、何を思って私を「認めない」と言ったのだろう?
不快感? 嫌悪? それとも、別の何か……?
「……何なのよ、もう……」
苛立って、髪をかき上げる。
ラキは腕を組み、難しい顔をしたまま黙り込む。普段ならすぐに結論を口にしそうなのに、何か言いにくそうにしている。
「……さっきのミアって奴、サキと顔が似ていたな」
「……ええ、そうね」
「で、お前は、人族の母親に人族の村に預けられてライト将軍に育てられたんだよな」
「……そうだけど?」
「そして、奴の話だと、お前の母は吸血鬼族の奴隷だった……」
ラキは何かを確かめるように私を見る。何やら言い淀んでいるようだった。鋭く切り込むラキにしては珍しい。
ラキが黙っている間に、私も色々考えてみる。
母が奴隷だった――それ自体に衝撃はなかった。昔、村長に母のことを聞いたことがある。そのときは、村長はあやふやにしか答えてくれず、私もあまり興味がなかったから、深く考えなかった。
でも、今なら理解できる。人族である母が吸血鬼族の城にいたのなら、奴隷という立場だった可能性は十分ある。
でも、ならばどうして。
「……何で母は、吸血鬼族の城から逃げて私を産むことになったのかしら?」
疑問が漏れる。ただの奴隷なら、そんな危険を冒す意味がない。ミアは母と友達だったと言っていた。母は、ミアには知らせず自分の意思で逃げ出した。なら、その理由は?
「……チッ」
深まっていた思考はラキが舌打ちで途切れた。
ラキは忌々しそうにミアの消えた波耀紋を鋭く睨んでいたが、その目の奥には単なる苛立ちとは違う、重たい何かが滲んでいた。
ラキは沈黙のまま、少しだけ目を伏せる。そして、深く息を吐いた。
それは、知りたくなかった事実に気づいてしまったかのような――そんな仕草だった。ラキは言葉を選ぶように口をもごもごさせていた。
「何にせよ、ミアはサキのことを認めたくなかった。でも、それでも攻撃しなかった……ってことは、あいつの中にも割り切れない何かがあるってことだろ」
そう締めくくると、ラキは私をまっすぐに見た。その瞳には、妙な躊躇いがあった。
ラキは私の気づいていない何かに気がついているはずだ。
いつもなら、鋭く切り込んでくるくせに。
私は眉をひそめたが、ラキはそれ以上何も言わず、波耀紋を足で擦り潰して消した。
まるで、これ以上この話はしたくないと言っているように見えた。
「……サキ。お前はどうしたい?」
ラキの低い声が、私を現実に引き戻す。私はその本質的な問いかけにはっとした。
今、私が本当に向き合うべきは、ミアや母ではない。
……帝国の闇だ。
……うじうじしていてはだめね。
深く息を吐き、私は無理やり思考を切り替えた。
今は、ミアの言葉に囚われている場合じゃない。
「……今は、私の実の母のことなんて考えている場合じゃないわ」
自分に言い聞かせるように呟くと、ラキが短く「そうだな」と返す。
「でもな、サキ。……さっきも言ったが、俺はフィロン達のやり方が正しいとは思えない」
「私もよ。だからって、反乱軍の思い通りにも、帝国軍や暗殺部隊の思い通りにもさせるつもりはないけれどね」
強く言い切ると、ラキがわずかに目を細めた。きっと、私に共感して、次の言葉を待っている。
「……ライトを呼んだのは、サリィに会わせるためだけど、それだけじゃない。ラナを元に戻すために、そして帝国を変えるために戦況を掻き乱すの」
自分の言葉に、自分で確信を深めるように、拳を握りしめる。
「戦況を掻き乱す、か。フィロン達の計画に横槍を入れるにしても、まだ問題はある」
ラキが腕を組み、慎重な声で言った。私の考えを冷静に受け止めてくれているのだと分かった。
「英雄ライトが都に着くまで、どれだけ急いでもひと月はかかる。……よほど特殊な殲獣でも使わない限りな。……その間はどうするんだ?」
「……そうね」
ラキの言う通り、私たちが迷っている間にも、帝国の状況は刻一刻と変化している。
反乱軍と帝国軍の戦い、フィロンやサリィの動向。
世界はすでに大きく動き出している。そして、私たちもまた、その渦の中にいる。
帝国は、変わろうとしている。
……でも、それは私が望む方向にではない。
帝国軍が勝利すれば、より人族を抑圧する国へ、反乱軍が勝利すれば、フィロンや彼に手を貸す者達がより混沌とした地獄を作り出すだろう。
このままでは、過ちが繰り返されるだけだ。そんな国で、ただ生きていくなんてことは、私にはできない。
……帝国は、戦争を終わらせてできた国なのに。なぜ、誰かの不幸の上にしか成り立たないのかしら。そんな疑問が浮かぶ。
「……ねえ、ラキ。帝国は、誰のために変わるべきだと思う?」
「どういう意味だ?」
「帝国は、人族だけを抑圧し続けてる。でも、反乱軍のやり方もどうなの? 帝国を壊すために、多くのものを犠牲にした血塗られた道を往く……そんなやり方で革命を成したとしても、皆が納得する国ができるとは思えないわ」
ふと、思い出す。
都シュタットで暮らす人々の姿を。
フィロンの言葉に惑わされて反乱軍に入ってしまったばかりに、暗殺部隊で殺された人族の嘆きを。
彼らは、ただ戦いに巻き込まれ、翻弄されているだけだ。
「……結局、今の帝国でも、戦争が起きたとしても、苦しむのは普通の人たちよね」
呟くと、ラキが少し考え込むように黙る。
「……そうだな。民衆の多くは、反乱軍にも帝国にもつきたくないだろうな。……だが、現状は他に選択肢がない」
「だったら……」
ラキの冷静な分析は、いつも私の道標になってくれる。……私はラキが隣にいてくれることに、本当に感謝しなければいけないわね。私は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「もし……反乱軍でも帝国でもない選択肢があったら?」
ラキはじっと私の目を見ている。私はさらに続ける。
「戦乱に巻き込まれる民を守りながら、彼らを味方につけることができたら……?」
自分で言っていて、それがどれだけ難しいことかは分かっていた。理想論に過ぎないかもしれない。でも、何もしなければ何も変わらない。
ラキはふっと息を吐いた。
「……面倒な道を選んだな。だが、それがサキらしい選択だと思う。お前は、一度自分に引き込もうとすれば頑固だからな」
「最初から楽な道なんてないのよ。……でも、私は、私の信じる道を行く」
言葉にすることで、迷いが消えていく。心の中にあったわずかな靄が晴れ、確かな覚悟に変わった。ラキは満足そうに笑った。
「当然、俺も付き合うぜ。俺は、とっくにお前に引き込まれているからな」
「ありがとう、ラキ。……本当に、私と来てくれてありがとう」
ラキの言葉に目頭が熱くなるのを感じる。私は、ミラクに裏切られて、ラキに助けられて、……そして、ラキの血のおかげで生きながらえた。
今は、ラキが隣にいてくれるだけで私はもっと強くなれる。勇気を持てる。
「いやそれは俺が――。いや、なんていうかその礼はいいんだ。俺はサキと出会えただけで有り余る価値があるというか……とにかく、サキこそ……俺と出会ってくれて、狭っかった俺の世界に光をくれて……ありがとう」
「ふふ、なに、それ」
急に慌て出したラキが可笑しくて、私は溢れた涙を指で拭いながら言う。ラキは、泣き出しそうな顔で笑みを浮かべた。
しばらく、私たちは、顔を見合わせて笑い合った。
私はラキのことが、これまで会った誰よりも愛おしく思えた。
……でも、これは束の間の休息。
――立ち止まっている暇なんて、どこにもない。
ひとしきり笑うと、私は静かに息を吸い込み、前を向いた。
進もう。戦乱の渦に翻弄されるのではなく、私たちの手で未来を掴むために。
小屋には、木々の隙間から太陽の光が降り注いでいた。
――長い夜が、ついに明けようとしていた。




