第46話 繰り返す過ち
私は、彼女に興味を抱き始めていた。多分、物語の中でしか聞いたことのないような人族だったから。
「あなた、変わってるわね。人族は皆、ただ従うだけの家畜ばかりなのに。……でも、一人だけ、あなたみたいな人族を知っているわ」
私は檻の前にしゃがみ、月明かりに照らされた彼女の顔を覗き込んだ。
「ライト将軍って知ってる?」
「……知りません」
「人族の英雄を知らないなんて。よほど幼い頃から奴隷をしていたのかしら?」
毒気を抜かれたように瞬くあの子が可笑しくて、私はくすっと笑い、語り始めた。
――およそ五十年前。人族の中に、たった一人、亜種族と肩を並べるほどの英雄がいた。
彼は槍を持ち、戦場を駆け、亜種族と戦い、数えきれない戦果を挙げた。亜種族が人族の皇帝を立てて戦争を終わらせたのは、ライトの戦果が一因だった。
戦争が終わった後も、ライトは亜種族にひれ伏すことなく、己の信念を貫いた人族だった。
――少なくとも、お伽話のように謳われる英雄譚では、そういうことになっていた。
「それが、ライト将軍よ」
セレスティアは何か考え込むように、じっと私の話を聞いていた。
「そのライト将軍は……今もご存命なのですか?」
「ええ、今も帝国で軍人をしているわ。人族なのに、どの亜種族よりも強いらしいわよ。もう結構歳だし、最近は引退するなんて噂もあるけど……」
私がそう言うと、セレスティアは、檻の柵に触れて身を乗り出した。何のつもりかと私は爪を構える。
「……わたくし、その方にお会いしたいです。人族が、ただ従うだけの存在ではないと証明した方に……!」
だが、セレスティアの口から出てきたのは予想外の言葉だった。私は目を見開いた。
「亜種族に支配されることを拒み、戦った人族がいた。……それを知れて嬉しいですわ」
彼女の碧い瞳が、暗闇の中でわずかに輝いたような気がした。
「ずっと、亜種族の奴隷にされてきました。人族は搾取されるだけの存在なのかと、思っていました。でも、亜種族に恐れられるような人族の将軍がいたなんて……。あこがれます」
幼さを残した声だったが、その意志だけは確かだった。私は、なんだか妙な気分になった。
「バカね、会えないわよ。私だって会ったことないんだから」
面白くてけらけらと笑ってしまった。私は、あの子をもっと観察してみたくなった。
それが、私とあの子――セレスティアの出会いだった。
**
「……今夜も来たのですか」
静かな声で問いかけるセレスティアに、微笑んで答えたのは、吸血鬼族であり、領主の娘でもあるミアだった。ミアが夜にセレスティアの檻を訪れて会話をするのは二人の日課になっていた。
「セレスティアと話すの、楽しいから」
「わたくしもですよ、ミア様」
ミアが若干紅潮しながら言うと、セレスティアは檻にもたれ、ふっと小さく笑う。
セレスティアは、帝国に反乱を企てた人族の娘だった。名目上は選定奉仕者とされながら、その実は奴隷として、そして見せしめとして北部の吸血鬼族の領地に送られてきた。
人族は亜種族に支配される世界。吸血鬼族に囚われた人族の娘と、純血の吸血鬼がこうして語らうことに、どれほどの意味があるのか。
ミアは、セレスティアを特別扱いしている訳ではない。セレスティアは城の吸血鬼に血を捧げている。首筋や腕にはいくつか噛み跡があった。だが、ミアはそれを気にしてはいなかった。
ミアがセレスティアの下に来ているのは、言葉の通りただ楽しかったからだ。言うなれば、暇つぶし。だから、特別に庇ったりはしない。
――それでも、この時間だけは確かに穏やかだった。
「ミア様、あなたがわたくしを家畜のように扱おうとしていた頃が嘘のようですね。……今はわたくしと毎晩楽しくおしゃべりしに来てくださいますもの」
「まあ、お父様はお忙しいし、人族の他の奴隷はまともに話せないしね」
ミアは少しだけ視線を逸らし、肩をすくめるように言う。それが本音なのか、言い訳なのか、彼女自身にも分からなかった。
もともと、ミアは人族を見下していた。
人族は吸血鬼にとって家畜であり、支配されるべき存在。だが、目の前の人族の少女セレスティアは、ミアの固定観念を覆しつつあった。
「ミア様。今夜はどんな話をしてくれるのですか? また、英雄ライトの話かしら?」
セレスティアがそう問いかけると、ミアは瞳を伏せ、懐かしむように語り始める。
人族も亜種族も魔術を研究したが、人族は亜種族による固有能力と魔術の併用には太刀打ちできなかった。――ライト以外は。
「……ミア様にライト将軍の話をしていただくことだけが、わたくしの生活の救いです」
「そお? うちの城なんて、優しい方だと思うけれど」
微笑んだセレスティアに、ミアは何気なく答える。ミアがセレスティアの檻を訪れるのは、日が登る直前の深夜だけ。他の時間、セレスティアがどんな目に遭っているのか、ミアは知らなかった。
「ミア様……英雄……ライト将軍は、何のために戦ったのでしょう……?」
何かを諦めたような儚い笑みを浮かべて問いかけるセレスティアに、ミアは少し考えた後、答える。
「……誇りのため、かしらね」
その言葉が正しいのかどうか、ミア自身には分からなかった。そもそも、彼女はライトに会ったこともない。
ただ、物語の中の彼が好きだった。
セレスティアもまた、ミアが語る英雄譚が好きだった。それがセレスティアにとっての唯一の希望だった。
五年ほど。檻越しに語り合う夜が続いていた。
――けれど、その穏やかな日々は長くは続かなかった。
ある日、セレスティアは忽然と姿を消した。
古城のどこを探しても、彼女の姿はない。
檻越しに語り合った英雄譚は、突然に終わりを告げた。
どうやって逃げたのか、誰かあの子を逃がしたのか。
――それは、一目瞭然だった。
檻の鍵は壊されておらず、扉は静かに開かれていた。乱暴にこじ開けられた形跡も、外部から力ずくで侵入した痕跡もない。
つまり、誰かが鍵を開けたのだ。
そして、それをできるのは、見張りの兵士たちだけ。
檻の前には、昨夜セレスティアが身に着けていた外套が落ちていた。だが、それは乱れた形で捨てられており、ほのかに酒の匂いが染みついている。
さらに、近くの壁には手の跡が残っていた。小さく、力なく縋るような……。
ミアは顔を上げる。
廊下の奥で、数人の兵士が笑い合っていた。
「……まったく、大人しくしてるかと思ったら……なあ?」
「最初は震えてたくせに、最後は――」
肩を揺らして笑う彼らの姿に、ミアの胸に嫌悪がこみ上げる。
セレスティアが逃げた方法は――。
誇りを持ち続けていたはずのあの子が――。
誇り高いセレスティアは虚像だったのか。ミアの胸に広がるのは、深い落胆だった。
……あの夜、セレスティアは――亜種族の奴隷にされてきた少女は檻の中で、誇りと希望を失っていなかった。そんな彼女なら、何かを変えてくれると思ったのに……!
ミアには、セレスティアの選択が許せなかった。
――やはり、人族など信じるべきではなかった。
セレスティアとの時間は、夢に過ぎなかったのだ。
これでもう迷わない。人族はただの家畜だ。それ以上の感情を持っても仕方がない。
ミアは、そう思っていた。
――セレスティアが居なくなってから十五年余りが過ぎた。ミアの外見は、ほとんど変化していない。
だが、ミアは知ることになった。
フィロンに、自分と似た少女の存在を教えられて。
セレスティアが城を去った理由。それは、彼女が吸血鬼族の男との間に――おそらくはミアの父との間に子を宿したからだったと。
セレスティアが時折、遠くを見るような目をしていたのを思い出す。あの時、彼女はすでに決断していたのかもしれない。裏切りだと思ったセレスティアの行動は、ミアとの絆と、生まれてくる子を守るための決断だった。ミアは、理解してしまった。
セレスティアの命は今、サキへと繋がっている。
――サキという名の少女。
……ミアはずっと、人族を見下し続けてきた。その気持ちは、簡単には消えない。人族の血の混じった半吸血鬼なんて、半端者だ。
『わたくし、亜種族に従うつもりはございませんので』
かつてセレスティアが言った言葉を思い出す。……ミアとセレスティアは、結局は亜種族と人族の関係のままだった。
……ミアは、セレスティアを救おうとはしなかったから。
――でも。今からでも、もう一度セレスティアに会いたい。そして、セレスティアに、もっと自分の話をしてほしい。
そう思い、ミアは腕輪を借りに向かったのだった。
「……セレスティア。あの子の子供が生きているってことは、あの子もどこかで……」
光に包まれて、空間の裂け目に溶け込みながら、ミアは静かに呟いた。
**
「……何だ? 甘い匂いがする」
「え?」
これからの話をしていたとき、ラキが急に警戒を強めて言った。辺りを見渡すと、小屋の隅に青白く光る紋様があった。
「……な、なにあれ?」
紋様からさらに光が溢れ、やがて空間が裂ける。目が眩み、気づいたときには、目の前に一人の少女が立っていた。
その少女はしばらく光に包まれて瞳を閉じていた。光の中で艶めく黒髪が揺れている。やがて彼女は目を開いた。彼女の顔を見た瞬間、私は胸がざわめいた。
「……私に、似ている?」
目の錯覚かと思った。だが、私が最も感じたのは、少女の持つ圧倒的な気配だった。ただ立っているだけなのに、背筋がざわつく。こちらの存在など最初から取るに足らぬものだとでも言わんばかりの、存在感。
――動かなくては。ラキとラナを守らないといけない。即座に、左腕の傷口から血の槍を生成。少女の喉に槍を突き立てた。そして問う。
「何者?」
少女は、大して驚いた様子もなくただわずかに目を細めた。ラキは双剣に手をかけ、身構えて様子を見ている。
「……ああ、もう会えた。あんたが……サキ、なのね」
「私のことを知ってるの?」
少女は口元に微かな笑みを浮かべた。だが、その笑みには冷たさが滲んでいる。
「あんたの母親のことなら、ね」
「母親?」
警戒心に困惑が混じる。母のことを知る者は多くない。それなのに、目の前の少女は確信を持ったように告げた。
「……何が言いたいの?」
「私はミア。あんたの母親――セレスティアは、友達だったのよ。……でも、あの子は私に何も言わずに城から急に居なくなったの」
「母の友達? あんた、私と同い年くらいかと思ったけど、いくつ?」
「……今はそんな話いいわよ。あの子は……セレスティアは、どうなったの?」
ミアと名乗った少女の声は淡々としていた。しかし、その瞳の奥には、消えかけた炎のような感情が揺らめいていた。
私は躊躇した。なぜこの少女が、母のことを聞くのか分からなかった。母の名前なんて知らない。母は、私を村に預けて名乗りもせずに死んでしまった。
答えは、一つしかなかった。
「母は、死んだわ」
その瞬間、ミアの瞳の奥に揺れていた炎は氷のように冷たくなる。それを見て、私は続けた。
「母は生まれたばかりの私を村に預けて、それから……」
その先の言葉は続かなかった。それ以上、語る必要はないと分かっていたからだ。
沈黙。
長い長い沈黙が、夜の森を支配した。
その果てに、少女は小さく息を呑んだ。
「……そう。あの子は死んでしまったのね。……予想していたことではあるのよ」
ミアは俯く。
「私達は所詮、貴族と奴隷という関係だった。だから、あの子は……一人逃げ出したんだと思っていた」
ミアの声は揺らいでいた。その声音から伝わるのは、怒りではなく、ただ冷たい虚無感だけだった。
「でも、あの子が逃げ出した理由が、あんたを、身籠ったからだったと私は知ってしまったから……」
セレスティアは、ミアとの絆を守ろうとした。
セレスティアは、ミアの父の子を身籠り、子を守ろうとしていた。
――ミアは、セレスティアを救おうとはしなかったのに。ミアはセレスティアを理解しようとはしなかったのに。セレスティアのことをもっと知りたいと思ったときには……もう手遅れだった。
突如現れて、取り乱す自分とそっくりな少女の姿にサキは呆然としていた。
ミアは事実を受け入れたくなかった。だが、サキの瞳に宿る光から、セレスティアの死は偽りではないとわかった。
生まれたときから、そして、セレスティアが消えてからのおよそ二十年間。ミアは、ライト以外の人族を見下し続けてきた。
――半吸血鬼の存在を、拒絶しようとする自分がいる。だが、セレスティアを想う自分も確かにいた。
ミアの瞳に映るのは、セレスティアの忘れ形見だった。気づけば、一筋の涙がミアの頬を伝っていた。サキは驚きに目を見開く。
ミアは、涙を拭いもせず、ただ踵を返す。
「……私は、半吸血鬼を認めない」
――ライト将軍以外の人族なんて、認めない。
それは、セレスティアという人族の死を拒みながら、自身の人族を否定した人生を捨てきれていない、悲しい矛盾の言葉だった。




