第45話 夜の狭間
そこには、よろめく足取りのフィロンがいた。片腕を失い、体の均衡は崩れ、肩を傾かせて荒い息をつく。全身には乾いた血がこびりつき、新たな血がまだ滲んでいた。その血は、返り血だけではなかった。
それでも、フィロンは笑っていた。
「カリド……見つけた」
掠れた声で呟くと、血の滴る剣を肩に担ぎ、よろめきながらも部屋の奥へと足を踏み入れる。
一歩進むたびに、床に新たな血の痕が染みる。
目の前の惨状を見て、カリドの顔が強張る。だが、この状態のフィロンになら勝てる――そう判断したのか、彼と腹心は一斉に飛び掛かった。
だが、フィロンは微かに目を細め、最小限の軌道を見極めて剣を振るった。鈍い音とともに肉が裂け、骨が砕ける。数秒後には、カリドと腹心の死体が転がっていた。
肩で息をし、剣を振るって血を払う。
「……一応は片付いた。……それにしても、ある程度はバレているかと思っていたけど、ガルザがいるとはね。賭けとか言ってたし、もしかしたら他の鋼鬼四天も……」
彼は短く苦笑し、死体を見下ろした。
「僕はしばらくは戦力になれそうにないし……本当に面倒なことをしてくれたな」
彼は剣を鞘に収めると、足を引きずるようにして庭の波耀紋へと向かった。
**
ユリアナとヴェルデは、波耀紋の刻まれた古城の一室にいた。ヴェルデが目覚めてから、ユリアナは計画の前倒しを味方に伝え終え、今はフィロンの帰還を待っている。しかし、時間だけが無情に過ぎていく。
沈黙を破ったのはヴェルデだった。
「ユリアナ様、フィロンからの連絡は?」
ユリアナは腕を組み、険しい表情を浮かべる。
「……そろそろあってもいい頃なのですが」
嫌な予感が胸を騒がす。まさか、何かあったのだろうか。フィロンがいなくなれば、ユリアナが全ての指揮を取ることになる。そして――もしユリアナに何かあれば、次はヴェルデが……。
彼女は不安そうにヴェルデを見る。今のうちに教育を始めるべきかもしれない。だが、ヴェルデはその視線を誤解したようで、わずかに身じろいだ。それにユリアナがため息を溢す――そのときだった。
『ユリアナ……早く……開いて』
かすれた声が、腕輪から響く。
ユリアナとヴェルデの目が見開かれる。ユリアナは即座に波耀を流し込み、次の瞬間、空間が淡く光を帯びて裂けた。
「……フィロン!」
ユリアナの声が震えた。
現れたフィロンの姿は凄惨だった。片腕を失い、衣服は血に染まり、顔には深い疲労が刻まれている。それでも彼は笑みを浮かべる。自嘲とも憎悪とも取れない。
「……ガルザがいたんだ。……でも殺した。帝国軍の戦力も削った。問題ないよ」
囮に使い、自ら刺した右腕をユリアナに差し出した。ユリアナは即座に駆け寄り、波耀を流し込んで修復を試みる。
「……これは酷い。完全には戻らないかもしれませんわよ」
ヴェルデはフィロンを支えようと一歩踏み出したが、彼はその前で力なく膝をついた。
――そのとき、緊迫した空気を破るように無遠慮な声が響く。
「ねー、ユリアナ。都南部の森に行きたいんだけど、腕輪、今使えな――……ッ!?」
言いかけたその瞬間、ミアの表情が凍りついた。扉から姿を現したのは、黒いヴェールを被った吸血鬼族の少女。いつもの刺々しい口調で尋ねようとしたミアだったが、突然、頭を押さえ、ふらつく。
「フィ、フィロン。あんた今帰ったの……? こんなに血の匂いを撒き散らして……よく生きているわね、本当に人族?」
ミアは歩み寄り、フィロンを見下ろす。ミアは眉を寄せた。フィロンは微笑もうとしたが、ただ唇の端から血が滲む。
「……その辺の雑魚と一緒にしないでよ」
「あら、思ったよりは余裕があるみたいね」
ミアは皮肉げに微笑むと、フィロンの前に膝をつく。
「ちょっと、君。何を――」
「誰、あんた。黙ってて」
ヴェルデが止めようとするが、ミアは鋭い視線を向け、ぴしゃりと言い放つ。初対面の少女の毒々しい態度にヴェルデは言葉を詰まらせた。
返り血とフィロン自身の血が混じった濃厚な香り。ヴェールの奥のミアの瞳は、熱を帯びていた。ミアはフィロンの右肩を固く縛る袖をほどく。
「……きゃはっ、良いわね」
楽しげな笑いが漏れる。
露わになった傷口に、ミアの視線が吸い寄せられた。斬り口から滴る血。鉄の香りが鼻をくすぐる。胸の奥が疼いた。
その感覚が堪らなくて、ミアはヴェールを上げて、勢いよく牙を添えた。フィロンの顔は苦痛に歪む。
「何……?」
「吸血鬼族の唾液には止血の効果があるのよ。知ってるくせに、そんな顔しないでよね」
ミアは口元を吊り上げながら、傷口の奥深くへと牙を突き立て、舐る。痛みを伴うが、確かに血は止まっていった。
「……応急処置はこんなものかしら。これでユリアナは修復に集中できるわね?」
ミアがそう言いながら牙を離すと、フィロンはふっと意識を手放した。ヴェルデが慌てて彼を支える。
ミアの視線は、ユリアナが手にするフィロンのボロボロの右腕へと移った。波耀で繋げたとしても、元通りに動くとは思えない。だが、止血により命は繋がっただろう。
「ミアさん、ありがとうございます」
ユリアナが静かに礼を述べると、ミアは肩をすくめる。
「礼はいらないわ。その代わり、お願いがあるの」
そう言って顔を上げ、真っ直ぐにユリアナを見つめた。
「ワープの腕輪、一回だけ使わせて。……行きたいところがあるの」
ユリアナの指が、無意識に自身の腕輪へと触れる。腕輪は、フィロンがつけている分と、ユリアナがつけている分の二つだ。
「……この腕輪は私たちの作戦の要です。使いすぎれば、いざというときに作戦の遂行が不可能になるかもしれません」
ユリアナの言葉には迷いが混じるが、それでも簡単には首を縦に振らない。
「一体何の目的で使うおつもりなのですか?」
ミアはふっと微笑んだ。
「あの子に会うために……サキのところに行くの」
その目はどこか遠くを見つめるようだった。
「……サキ?」
ユリアナとヴェルデは訝しげに目を細めた。そのとき――。
「……ミア嬢、なぜあの半吸血鬼の名前を知っているの? ……というか、何をしに行くの?」
気を失ったと思われたフィロンが、ヴェルデの腕の中でかすかに目を開き、低い声で問いかけた。ユリアナとヴェルデがはっとした視線をフィロンに向ける。
ミアは小さく鼻を鳴らし、不遜に言い放つ。
「私情よ」
一瞬、沈黙が落ちる。
「……は?」
「聞こえなかった? 私情よ。助けた見返りとして、腕輪を貸しなさい」
ミアは当然のことのように言い切った。
「ま、待て。ふざけてるのか?」
ヴェルデが思わず声を荒げる。女の子には基本的に甘い彼だが、さすがにこの要求には納得がいかない。
「ふざけてないわ。私の用事は、あんたたちには関係ない。でも、今フィロンが死にかけてたのを助けたのは私よね?」
ユリアナは言葉を詰まらせる。確かに、ミアがいなければフィロンの出血は止まらず、命を落としていたかもしれない。――だが。
「それを理由にするのですか?」
「理由にするわよ。当然でしょ?」
ミアは腕を組み、ユリアナを傲然と笑む。
「……私が見たサキがいた小屋に、ユリアナの波耀紋が残っていたのを見たのよ。腕輪に波耀を流せば、同じところに行けるはずよね」
ユリアナの手が止まる。……拠点としていた小屋の一つだろうか。
「あなたがフィロンを助けてくれたのは事実です。ですが、それとこれとは話が別ですわ」
迷いながらも譲らないユリアナに、ミアは小さくため息をつき、腕を組む。
「そうね……なら、こうしましょう」
ミアの瞳がユリアナをまっすぐに捉える。
「私が戻ってきたら、あんたのためにもう一度手を貸すわ。回復でも、戦闘でも、情報でもいい。あんたが必要だと思う場面で、私は協力する。……これでどう?」
「待てよ、そんなこと言ってもダメなものはダメだ。お前が助けてくれたのは感謝するけど、だからって――」
会話に割り込んできたヴェルデにミアは肩をすくめる。
「貸すかどうか決めるのはユリアナでしょ?」
ヴェルデは口をつぐむ。正論ではある。だが納得はできない。
「……悪くない取引だな」
ヴェルデは不満げだったが、フィロンがかすれた声で言う。反乱軍の指導者であるフィロンがそう言うなら仕方ない。
ユリアナは慎重に言葉を選ぶ。
「……本当に、何でも協力するのですね?」
「ええ、約束するわ」
ユリアナは息を吐き、逡巡の末に決断する。
「……わかりました。ただし、腕輪の負荷を考えれば、長くは開いていられません。これ以上使えば、作戦の要所で腕輪が使えなくなる可能性もあります。……夜明けまでに戻ってこなければ、道は閉じます」
その言葉を聞くや否や、ミアの唇が満足げに弧を描いた。純血の吸血鬼族である彼女は太陽を好まない。どのみち夜明け前には帰るつもりだった。
「いいわ。ありがと、ユリアナ」
そう言いながら、ワープの腕輪を受け取る。
「じゃ、行ってくるわ」
腕輪をつけたミアが波耀紋に乗り、ユリアナが波耀を流し込んだ。眩い光がミアの体を覆う。
――あの子が今も生きているのか、確かめる。そして、もし生きていたら、あの子を……。
――ミアは、光に包まれながら、二十年の昔を追想していた。
****
およそ二十年前。
生まれ育った古城で、私は一人の少女と出会った。
――私は、あの子のことが気に入らなかった。
そもそも、人族が嫌いだった。
人族なんて、亜種族に従うことしかできない。かの有名なライト将軍の戦果がなければ、とっくに滅びていた存在だ。彼らは家畜も同然。いや、家畜以下だ。
――私はそんな風に思っていた。
あの子は、奴隷として領地に送られてきた人族だった。ただ顔が綺麗だという理由で、数多の奴隷の中から選ばれ、領主であるお父様に献上された。
けれど、城の誰もが、吸血のための家畜が一人増えただけとしか思っていなかった。
――私も、そう思っていた。
だから、私はいつも通り。
「あんたが新しい奴隷ね? 味見してあげにきたわよ。手を出しなさい」
冷たい鉄格子の向こうに、月明かりを浴びたあの子がいた。十五歳ほど。見た目だけなら、私とそんなに変わらない年齢だった。
「……お断りします。わたくし、亜種族に従うつもりはございませんので」
彼女は碧い瞳に涙を浮かべながらも、私を真っ直ぐに見上げた。
ここへ来るまでに、よほど酷い目に遭わされてきたのだろうか。それとも、ただ血を吸われながら生きる日々が、それほどまでに耐えがたいものなのか。
怯えた目で涙を浮かべている。――でも、彼女は私に反抗した。まるで、自分が家畜であることを認めるつもりはないとでもいうように。
「反抗的な人族なんて。面白いわね」
私は笑った。この娘は、他の人族と違うのかもしれないと思った。
「……あなた、名前は?」
あの子はそっぽを向いた。そっちが先に名乗るべきでしょうと言わんばかりに。
いつもだったら、爪であの子の首を切っていたかもしれない。……でも、何かの気紛れで。
「私はミアよ」
私は名乗った。しばしの沈黙のあと、彼女は口を開いた。
「……わたくしは、セレスティアと申します」
私は目を細めた。これまでに会った人族は皆、亜種族の支配を受け入れ、ただ従うだけの存在だった。それが当然だったし、そうしない人族なんて、お伽話のライト将軍しか聞いたことがなかった。
「ねえ、セレスティア。あなた、本当に人族?」
「当たり前です」
檻の向こうの少女は、誇り高い声でそう答えた。怯えているくせに、涙を流しているくせに、その言葉だけは妙に強かった。




