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第44話 フィロン 対 鋼鬼四天ガルザ

 フィロンは剣を抜く。寸前までガルザを引きつけ、低く身を逸らして仰向けになる。そして、体格の大きなガルザの攻撃が空を切った瞬間、喉を狙った。

 ――だが、その刹那。ガルザはにやっと笑みを浮かべ、フィロンを見下ろす。ガルザは鬼族特有の牙でフィロンの突きを受け止めていた。


 迷わず剣を捨て、フィロンはガルザの下から転がるように脱出する。彼が居た場所は大地を震わすような轟音と共にガルザによって踏み砕かれていた。


「……チッ」


 ――もし剣を捨てる判断が一瞬でも遅れていたら、今ごろ肉片になっていた。フィロンは怒りと苛立ちで舌打ちを漏らしながら飛び退く。周囲を見渡せば、すでに他の兵士が取り囲んでいた。


 視界の端に、フィロンは屋敷に侵入してきたばかりの鬼族の若い兵士を捉える。血気盛んな様子で剣を構えようとするが、大きく振りかぶった隙に彼の背後に潜り込み、右腕を捻り上げ、握っていた剣を強引に奪い取る。そして、もがく兵士の喉元へ迷いなく刃を突き立てる。兵士は血飛沫を上げると呻き声も無く崩れ落ちた。

 

 すぐさま周囲の状況を確認する。敵の数は多いが、今のところ致命的な不利はない。フィロンは一度深く息を吐き、正面に立つ男へと視線を移した。


 鬼族の大男――ガルザが、不敵な笑みを浮かべてこちらを見据えている。


「あーあ、もう全員殺すしかないかな」


「よく言いやがる」


 その瞬間、兵士達が一斉に襲いかかる。


 フィロンは屈み込み、剣を滑らせるように振るう。迫る刃を紙一重で避けた。同時に、急所を狙い、目にも止まらない乱撃。胸、喉、頭――振るわれる剣が次々と敵を屠る。瞬く間に周囲の兵士は地に伏し、血の臭いが空気を満たした。


 その様子を見ていたガルザは、大きく拳を鳴らしながら低く笑う。


「その剣には何の魔術も施されていないぞ。殲獣製で頑丈ではあるが……たかが剣一本で、俺とやり合うってか」


 サリィの真似かよとガルザは笑う。その挑発に、フィロンは何も返さない。ただ静かに踏み込んだ。迷いのない一撃がガルザの頭を狙う。しかし、それを待っていたかのように、ガルザは巨躯を揺らし、大斧を振るって受け止めた。刃と刃がぶつかり合い、火花が散る。


 次の瞬間、ガルザの重い蹴りがフィロンの腹部を狙った。フィロンは咄嗟に右手を犠牲にして受け止める。フィロンの右腕は大きく軋む。

 吹き飛ばされたフィロンは、階段の手すりにゆらりと着地。血の滴る右手を握り締め、再び剣を構え直す。だが、息をつく間もなくガルザの斧が飛来する。


 フィロンが手すりを蹴り、跳ぶ。ガルザもまた、迎え撃つように踏み込んだ。


 ほんの一瞬の静寂。

 ――すれ違いざま、閃光のような交差。


 フィロンの剣がガルザの胴を斬り裂いた――はずだった。


 しかし、胴を裂くはずだった刃は、なぜか火花を散らして弾かれる。フィロンは驚愕に目を見開く。

 噂では聞いたことがある。鋼鬼四天のガルザは鬼族特有の硬い肉体を持つだけでなく、幼少の頃より摂取し続けた幻獣種型の殲獣、鋼鱗獣(こうりんじゅう)の心臓と適合したことにより肉体の強度を自在に操る能力を得たと。


「へぇ、これが噂の硬化能力か……! ――……ッ!?」


 驚嘆した瞬間、異変に気づく。


 肉の裂ける鋭い痛みに、剣を落とした。

 そして、右腕が引っ張られるような感覚。

 視線を向けた瞬間、血が噴き出した。


「……」


 宙ぶらりんの右腕。


 フィロンの右腕は、ガルザの顎に深く食い破られていた。関節の肉と骨を噛み砕かれた腕は辛うじて繋がり、だらんとぶら下がっている。指先は痙攣し、腕の感覚はじわじわと薄れていく。


「……あ゙〜、あァ……くそ。男の肉は……不味いなァ」


 背後から響く、咀嚼音。


 噛み砕かれる骨の音が、鼓膜から入り込んで頭蓋の内側で反響する。腹の底が冷え、喉の奥が震えた。怒りが、不快感が、脳を焼く。

 

 ――だが、激昂は、激痛によって強制的に抑え込まれる。


 全身の力が抜けそうになる。文字通りに身を裂かれる痛みとは裏腹に、思考は冷えていく。腕が取れかけていては戦えない。フィロンは左腕で剣を拾い、握り直した。迷う暇などない。右腕はもう使えない。ならば、不要だ。――死にたくなければ、捨てるしかない。


「――ッ!」


 フィロンは関節が噛みちぎられている右腕を切り落とした。刃が肉を裂き、骨を砕く。他人のならば数え切れぬほど斬ったが自身の腕を斬り落とすというのは初めての経験だ。

 ガルザの口の中に残っていたフィロンの右腕の断片は、吐き出された。フィロンの視界は肩から噴き上がる血により赤く染められている。


 意識が灼かれる――が、フィロンは歯を食いしばり、踏みとどまる。視界が揺れ、足元が定まらない。それでも、膝をつけば死ぬ。――それも……おそらくはガルザに喰われて。ガルザの噂は硬化能力だけではない。ガルザは人喰いを好む鬼族として知られる。

 その一点だけが、彼を立たせていた。


 右腕を失い、腕力は半減した。左腕は利き腕でもない。……逃げて標的であるカリドを狙うべきか。――いや、ガルザの追撃を受けながらカリドを殺すのは難しく、逃走も困難になる。


 それに――ガルザをこのまま生かしておくのか……? 


 目に入るのは、切り捨てた右腕と、吐き捨てられたその断片。どうせ戦争になれば、戦うことになる相手だ。


 ――ならば今、殺そう。


 決めた瞬間、思索を巡らせる。硬化するガルザを狙うとしたらどこか。……一度失敗しているが、やはり狙うべき箇所は――……。


「……魔術に頼るのは、好きじゃないんだけど。流石に仕方ないよね」


 フィロンは苦々しく呟くと、小袋から小型の煙玉を取り出した。握る指先に力を込め、そのまま地面へ叩きつける。


 瞬間、爆ぜる音と共に紫がかった煙が渦を巻きながら広がった。熱を帯びた靄が視界を覆う。


「小細工かよ」


 ガルザは、サリィと同様に剣一本で戦うという奇妙な暗殺者に興味と好感を持っていたが、その期待を裏切られ、舌打ちした。


 ――視界は奪われたが、嗅覚は生きている。

 

 血の匂いが強まる。

 フィロンのものだ。


 ――俺から逃げてカリドを殺しにに行くかと思ったが。あの小僧、右腕を失ってなお向かってくるか……。いいぜ。迎え撃ってやる。


 煙の向こうから疾駆する気配。まっすぐ突っ込んでくる。ガルザはにやりと笑う。


 ――そして、突き出される腕。


 嘲笑せざるを得ない。もはや剣も持てなかったのか。なんという悪あがきだ。残された唯一の腕――左腕も噛み砕いてやれば終わる。


 ガルザは迷いなく牙を突き立てた――が。

 異変に気づいたのは、牙が食い込む感触を得た時だった。軽い。ぬるい。力が入っていない。まるで――すでに死んだ肉を噛みちぎっているような。


「――なっ」


 違う。これは左腕じゃない。――すでに切り捨てられた右腕だ。


 ガルザが悟るよりも早く、煙の中から閃光が走った。


 フィロンの剣を握った左腕。そして、その剣が――噛みついた右腕ごとガルザの喉を貫いた。


「――ッ、が……は……」


 喉から血が噴き出す。刃が肉を裂き、貫通する。


 硬化能力を発動していない部位。口を開いた一瞬の隙に、喉を狙った一撃だった。ガルザは息を吸おうとするが、肺に届くはずの空気は鉄臭い血に変わり、喉からゴボリと熱い液体が噴き出す。


 喉を動かすたび、剣は肉を深く抉る。呼吸ができない。ガルザは震える手で喉元を押さえたが、無駄だった。血が指の隙間から溢れ、滴り落ちるだけだ。


「っ……ま゙さか……」


 フィロンは切り落とされた右腕を餌にして、そして喰らい付いたガルザの喉を、右腕ごと貫く作戦を考えて煙幕を張ったのか。――なんという狂気。ガルザは自らの愚かさを痛感するが、手遅れだ。

 

 ――何も見えない。力が抜ける。呼吸ができない、喉が……熱い。


「もう、口を開くな雑魚」


 フィロンが低く囁く。剣をさらに押し込みながら、ガルザの濁っていく目を真っ直ぐに見ていた。

 ガルザの目は最後に大きく見開かれ、体は硬直した。フィロンは容赦なく剣を引き抜き、さらにもう一撃――今度は、硬化が解けた脳天に突き刺した。


 血飛沫が舞う。

 ガルザの体が崩れ落ちると同時に、屋敷に静寂が戻った。フィロンは、血の滲む右肩を押さえながら、倒れたガルザを見下ろす。


「表面がなまじ堅いと、内側を刻むしかなくなる……。恨むなら、自分の防御力を恨みなよ」


 荒い呼吸で吐き捨てると、剣を振り、滴る血を払った。


 煙が晴れていく。


 血に塗れた剣を手に、フィロンはなお立ち続けていた。右肩から血は噴き出し続けて、視界は赤く染まったまま――。


 フィロンは服を縛って止血すると、ふと手にしていた鬼族の兵士から奪った剣を見下ろし、つまらなそうにそれを捨てた。代わりに、ガルザに噛まれて手放した剣を拾い上げた。手に馴染む重み。

 フィロンは、わずかに目を伏せる。


「今回みたいに剣を手放すことだって起こり得るから、普段は魔術はあえて使わないことにしていたんだ。……魔術に頼って地力が落ちれば、結局それで死ぬからね」


 虚な表情をして、自分自身に言い訳するように何やらぶつぶつと呟く。魔術は殲獣の身体を利用してその魔法じみた力を引き出したもの。あくまで道具に過ぎない。奥の手として温存しておくという考え方もある。


「……だけど、死んでは元も子もない。もう、いいか――」


 ぼそりと吐き捨てるように言った直後、兵士達の叫びが耳を打つ。


「ガ、ガルザ殿は敗れたが……奴は片腕を失っている!」


 恐れの拭えない声音にフィロンはふっと笑った。剣先がわずかに揺れる。


「……いや。雑魚(こいつら)相手に魔術なんて使うまでもないか。剣だけで十分だ」


 その言葉は、ここで死ぬ気はないという決意の表明だった。


「さっさと片付けて、カリドを殺しに行こう」


 いつもの楽しげな抑揚の声。狂気を灯したフィロンの眼には、一点の迷いもなかった。



 **


 

「いやあ、楽しみですなぁ。ガルザが、フィロンの首を取ってきてくれるらしいですぞ」


「それにしても、よりにもよってガルザが配置されたカリド様の御屋敷を選ぶとは、フィロンも運が悪い」


 カリドと腹心達が笑い合う中、不意に足音が響いた。廊下の奥からゆっくりと近づいてくる足音は、一つだけ。だが、それは妙に不規則だった。


「……ん?」


 腹心の一人が眉をひそめる。足音の主は、まるで体を支えるのに苦労しているかのように、時折ふらつきながらも前へと進んでいた。


 やがて、扉が静かに押し開かれる――。

 

 

 **


 ミアは、机の上に並べられた小瓶を見下ろしていた。


 一つは彼女自身の血。深紅に近い鮮やかな色をしている。もう一つは人族の奴隷達から搾った血。ややくすんだ赤黒い液体が、瓶の内側にねっとりと張り付いていた。


 ミアはその二つを慎重に混ぜ合わせ、細い銀の針を取り出す。


「さあ……これで見えるかしら?」


 ミアは針先を混ぜ合わせた液体に浸し、黒曜石のように艶めく壺へとかざした。壺の中では、水が静かに揺れている。彼女はそっと血を垂らす。血がゆっくりと水に落ち、まるで生き物のように絡み合いながら沈んでいく。


 すると、水の表面に波紋が広がり、ぼんやりと淡い光が灯る。揺れる水面の中に、ミアに似た長い黒髪の少女の姿が浮かび上がっていた。


「……あら、似ているわね」


 ミアの唇がかすかに歪んだ。微笑とも嘲笑ともつかない表情。黒髪の少女。ミアが似ていると言ったのは、自身と似ているという意味ではない。サキの顔立ちと、記憶の片隅に沈んでいた人族の奴隷の女の影が重なっていた。



フィロンはミラクが絡んで調子崩されたりしないとこんな感じ、のはず…

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