第42話 不穏な城
都シュタットの城の奥深くにある一室。どこからか冷たい風が忍び込み、花を重ねたような帝国の紋章が刺繍された赤黒い幕を揺らした。元々謁見の間の一つとして使われていたが、今では鋼鬼四天の根城のようなものになっている。
その一室で、重厚な椅子に腰掛ける女が二人。サリィと、鋼鬼四天の魔爪と呼ばれる獣族の女。長い紅髪を掻き上げる、しなやかな体躯の殆どを晒した獣族の女の名はカティアだ。
「サリィがライトを呼び戻そうなんて言い出したときは驚いたわぁ。アンタ、嫌ってなかった?」
「封書を送っただけだ。奴が応じるとは思えんがな……ダメ元だ」
低く響くサリィの声には、疲労が滲んでいた。カティアの軽口に動じることなく、サリィは指先で机を叩く。かすかな音が部屋に広がる。
今朝、フクロウ型で送ったばかりであるため翌日にはシャトラント村に届くはずだ。だが、ライトがサキからの手紙を受け取り、既にシャトラント村から発っていることをサリィは知らない。
「あの坊や達の反乱に、ライトなんて本当に必要だと思ってんの?」
机に足を投げ出しながら、カティアが笑みを浮かべていた。その表情は、明らかに楽しげだ。
そんなことは封書を送るに至るまで、サリィは何度も考えた。自分は本当にライトを頼るべきなのか、と。
過去を遡れば、サリィにとってライトは最も頼るべきではない存在だった。かつて慕い、憎しみに変わり、それでもどこかで求めてしまう、最悪の相手。
それでも――今、ライト以外に頼れる者はいない。
フィロン達は帝国軍の末端や冒険者を取り込むだけでなく、辺境の亜種族の有力者にまで手を回していた。それも予想以上の規模で。サリィが裏を取るたび、事態の深刻さが浮き彫りになった。反乱軍はもはや烏合の衆ではなく、帝国を揺るがしかねないほどの勢力になっていた。
軍の内部にすら、どれほどフィロン達の手が迫っているのか分からない。
「やはりユリアナの存在が大きいな」
サリィは事情を説明し終えると冷静に付け加えた。
「……あー、アンタ、この前また放浪してたと思ったら、もしかして裏を取りに行ってたの?」
カティアは肩をすくめる。
「ほんと、不器用よねぇ。その癖、そろそろ直したらどう?」
サリィはため息をついて脚を組み直し、冷たく見返した。
「お前との会話は不快だな」
忌々しげに言い放つ。カティアの軽口をまともに受けるほど余裕がなかった。それが悟られることすらもまた、今はただ苛立たしい。
「ま、そう言わないでよ。……財務大臣のトーガルが行方不明になってるのは知ってんわよね? サリィの監督不行き届きで、こんな事態になってんでしょお?」
カティアはサリィの殺気に動じることなく軽口を返す。
「こんな事態か。カティア、お前は戦争でも始まりかねない状況を楽しんでいると思っていたが?」
「あら。サリィったら、ワタシのこと分かってるわね。そう……ワタシは、面白くなりそうなほうを選ぶだけよ?」
カティアは嬉しそうに笑い、サリィの指摘をあっさりと肯定した。「フィロンの誘いだって、断ったけど黙っておいてあげたんだからぁ」とカティアはさらに続けた。
「……。やはりカティアは知っていたのか。……その上でフィロン達を自由に泳がせていたと明らかになれば、お前は私以上に危うい立場になるだろうな」
「そうかしらぁ? サリィの管理下にあったフィロンは、人族に強く支持されていたユリアナまで連れ去ったわぁ」
大臣達は人族を効率よく支配する駒としてユリアナを重要視していた。そのユリアナを拐かした罪も、大臣達は当然重く見ている。
「……今さらアンタが消されることはないだろうけど、これまで通りの好き勝手はできないわよぉ」
カティアは挑発するような笑みを浮かべながら身を乗り出し、サリィの長い緑髪に手を伸ばす。
「私は己の職務を果たすまでだ」
だが、サリィはカティアの手が触れる前に鬱陶しそうに払いのけた。
「あっそ。果たせてないからこうなってんだけど。……揶揄い甲斐がないわねぇ。……まぁ、アンタのところのコ達は今からワタシが可愛がって来てあげるから……」
カティアは軽く舌打ちをして立ち上がった。そして反応を楽しむようにサリィの顔を覗き込んでから部屋を去る。
「サリィも、気が変わったらいつでもワタシの部屋に来ていいのよ。少なくとも、アンタに子育てを任せるようなバカな大臣共よりは上手に、掌で転がしてあげるから」
――熱い視線を送っている片目を閉じ、意味深い言葉を残して。
「くだらんな」
カティアは大臣直属の鋼鬼四天でありながら随分な口を聞くものだ。サリィは一瞬だけ瞳を細めたが、それ以上何も言わなかった。
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冷たい石造りの部屋に、湿った空気が満ちていた。城の地下に広がる牢獄。壁には無数の鎖や枷が取り付けられ、奥からは汗が滴り落ちる音が微かに響いている。
そこに囚われていたのは、ソニア、テツ、レーシュの三人。彼らは四肢を拘束され、壁に磔にされていた。苦しそうに荒い呼吸をしている。
会話はなかった。
地上に通じる小さな格子窓から差し込む日光が、彼らの顔に淡い影を落としていた。
長い静寂の末、不意にテツが口を開く。
「……ヴェルデの処刑はどうなったんだろうな」
虚ろな目でじっと宙を見つめながら言った。
「……そう、ね」
レーシュが答えた。
「あたしたちは自分の命を優先した。フィロンたちとは違う道を選んだけど……結局、ヴェルデを見捨てた……」
震えながら、レーシュは荒い息を吐いていた。拘束具に身を委ね、力なくうつむいている。頬を涙が伝うのが見えた。
「……レーシュ、意識をしっかり持て。自白剤の効果に呑まれるぞ」
テツの忠告にレーシュは震えるまま、かすかに瞬きをした。
ソニアは黙っていた。うつむいたまま、目を閉じ、何かを考えているようだった。
再び沈黙が流れる。牢の中には、もはや彼らの浅い呼吸音だけが漂っていた。
「ヴェルデは……もう処刑されてしまったのでしょうか。私達はサリィが言ったとおり生かされていますが、ヴェルデは……見せしめと言われていましたわよね……」
やがてソニアがぽつりと呟く。
「さぁな……」
テツが吐き捨てるように言った。
そのとき――。
「……血の匂いが足りないわねぇ? 自傷の一つもしていないなんて。おクスリは効いていないのかしらぁ?」
甘ったるい声が響いた。牢の扉の向こうに立っていたのは、鋼鬼四天の魔爪カティアだ。彼女は楽しげに笑みを浮かべ、鋭い爪をカチカチと鳴らしている。
「アンタらのことは、ワタシがし〜っかり尋問してあげるからね〜」
茶化すような口調にテツは舌打ちをする。
「クソが……」
レーシュは無言で顔を背け、ソニアはまっすぐにカティアを見つめていた。
カティアはゆっくりと歩を進めると、ソニアの前で立ち止まる。
「……懐かしいわねえ。ソニアだったっけ?」
カティアは鋭い爪をソニアの顎に添えて持ち上げ、顔を覗き込む。彼女の口元は歪み、牙がのぞいた。
「あら、覚えてくださっていましたの?」
ソニアは冷ややかに微笑んだ。
「ええ。アンタ、昔はよくユリアナの後ろに隠れてたわよねェ……。ワタシもたまに遊びに混ぜてもらったけど、楽しかったわ」
カティアはくすくすと笑う。
「そうでしたかしら。私はサリィと部隊で過ごした時間のほうが、いくらかマシでしたわね」
「それは残念。でもねぇ、アンタらのせいでサリィはお怒りだったわよお?」
カティアはソニアの顎を放し、鋭い爪を鳴らしながら愉快そうに笑う。彼女は囚われの三人をじっと見下ろす。
「……息が荒いし、目も血走ってるわね。ずいぶん苦しそうじゃないの」
「白々しい。あなたが薬を飲ませたせいでしょう」
「暗殺部隊が使っているのに比べたら、可愛らしいおクスリよぉ。……でも、さすがに耐性はあるみたいね。思ったより効きが悪いわ」
彼女は愉快そうに指先を舐めながら言う。
「ワタシとしてはぁ、おしゃべりを長く楽しめそうで嬉しいけどね」
「尋問のつもりなら、具体的な質問をしてくださらない?」
ソニアが睨んで言うと、カティアはソニアの首を掴む。
「……フィロンの協力者と、アンタらの計画。どうせ大臣の行方不明事件に関わってるんでしょ。どこの地域のどの部族が協力しているのか、そして次は何をスルつもりなのか……吐きなさぁい」
カティアの爪が黙ったままのソニアの首元を掻いた。浅い傷ができ、滲んだ血が一筋、肌を伝う。
「ほら、すぐに答えないからァ……」
表情を崩さなかったソニアに、カティアがふっと笑う。
「そんな可愛い顔で睨まれても、ねぇ。もしかして、ワタシを惑わそうとしているのかしら?」
あり得ない言い掛かりにソニアは眉をひそめるが、その様子にカティアは深い笑みを浮かべた。
「……でもアンタら、サリィには武力による暗殺しか教わっていないでしょお? 色香を使う暗殺の訓練なんて受けていないわよねぇ?」
爪をねっとりと喉元に這わせながら、カティアは耳元に口を寄せる。
「それじゃ、ワタシを満足させることはできないから、無駄な期待は捨ててね。たっぷり、お話しましょうねぇ?」
「……お話しというなら、一つお聞きしても?」
ソニアが静かに言った。
「ヴェルデは、どうなりましたか?」
その声には抑揚はなく、ただ事実を確かめるかのように淡々としていた。カティアは目を細め、喉の奥でくつくつと笑う。
「ヴェルデ? ……誰だったかしら。男の名前を覚えるのは得意じゃないのよねぇ」
カティアは楽しげな声音でわざとらしく首を傾げる。
ソニアはカティアの目をじっと見つめた。表情は変えない。だが、カティアはその瞳の奥に潜む光を感じ取る。くすっと笑って、品定めをするようにソニアの頬を爪でなぞった。
「……思い出したわ。ワタシも、処刑の準備がされてるのは聞いてたわァ。でもねぇ、その後、彼がどうなったのかまでは知らないの」
カティアはゆっくりと歩きながら、軽い口調で続ける。
「なぜなら、ヴェルデは処刑される直前にいなくなったからよぉ」
その一言に、三人の空気が変わった。
「……いなくなった?」
テツは僅かに顔を上げた。
「そうよォ? フィロンが連れ去ったの」
カティアは唇を吊り上げ、まるで面白い話でもするように言った。
誰もすぐには言葉を発せなかった。テツは困惑と安堵の入り混じった表情でカティアを睨む。レーシュは僅かに肩の力を抜き、次に思索を巡らせるように目を伏せた。
ソニア達もユリアナの私室で見た、ワープの魔術。あれは長耳族の精霊術と魔術を組み合わせた秘術だ。殲獣が百年前に現れ、人族や他の種族が魔術を覚えるより遥か昔から、彼らは精霊の力を操ってきた。ワープの魔術は、魔術に近いが異なる精霊術を操る長耳族が干渉することで扱える。
「……使用回数は限られているはず……。それを……フィロンが、ヴェルデを救うために使ったなんて……」
「フィロンも温存したいはずだが、俺達が抜けた分をヴェルデと秘術で補わなければ計画は実行不可能だろうな」
レーシュは困惑して言葉を溢すが、テツは冷静に分析した。
「派手にやるって聞いてたから、ワタシ的には処刑の瞬間を見たかったんだけどぉ、まさかの展開だったわねぇ」
カティアの高笑いが響く。やがて笑いは収まり、その瞳に冷たい光が宿った。
「まあ、どっちにしろアンタらには関係ない話でしょ? だって、もう何もできないんだから」
テツは歯を食いしばり、カティアを睨みつける。彼女はそんな反応を楽しむように笑み、次にソニアへと視線を向けた。
「それともォ? まだ何か、できるとでも思ってるのかしら?」
「……さあ、どうかしら」
そう呟いたソニアの目には、かすかに光が灯っていた。カティアは目を細める。その光を見て、内側から疼くものを感じた。――消してしまいたい。
「心配しなくても、ユリアナも、フィロンも、ヴェルデも……じきに、他の鋼鬼四天が地下牢に連れてくるわよぉ」
フィロンたちが城や大臣宅に直接侵入するのは、もう不可能だ。すでに対策は済んでいる。だが、もしソニアたちが解放され、合流を許せば――事態は手に負えなくなる。
戦争は楽しい。でも、帝国が滅びるのは困る。せっかく手に入れた鋼鬼四天の地位も、無意味になる。
「女のコは戦争に片が付いた後に囲うつもりだから、使い物にならなくなると困るんだけど……爪くらいは剥がしておきましょうか」
カティアは笑う。万が一自由になったところで、武器を握れなければ意味がない。




